月曜日――
「おはよう、都」
教室に入った都を、そんな声が出迎えた。
聞き覚えのある声。
昨日も聞いた声。
若干の違和感を覚える。
これまで、たまたま朝の教室の入口で顔を合わせでもしない限り、聞くことなどなかった声。
しかし今日は、自分の席で友達と話していた楡が、教室に入った都の姿に気づいてわざわざ声をかけてきたのだ。
違和感の原因はそれだけではない。
今、楡は「都」と呼んだ。
名前を呼び捨てにされるような、親しい間柄ではない。昨日だって「大崎」と名字で呼んでいたはずなのに。
「……おはよ」
さすがに教室内で挨拶されたのを無視するわけにもいかず、小さな声でそれだけを答えた。
楡もそれ以上話しかけてくることもなく、友達との会話に戻る。その友達もこちらに注意を払わないところを見ると、話題は昨日のことではないらしい。
それならいい。
自分には関係ない。
そう考えて、都は自分の席に着いた。
初夏のこの季節、都は、天気がいい日の昼休みは校庭に出て、木陰で昼食を摂ることが多い。
教室と違って、人目を気にせずに食事ができるのがいい――そう思っていたのだけれど、今日は事情が違った。
「いつも教室で見かけないと思ったら、こんなところでゴハン食べてたんだ?」
聞き覚えのある声に、箸を動かす手が止まる。
顔を上げると、にこにこ……というよりも「にやにや」という表現が相応しい表情を浮かべている楡の姿が視界に入った。その視線は都の顔ではなく、手の中の弁当に向けられている。
「……そっかー。都って、スマートなのにすごい大食いだと思ってたら、自転車レースなんてやってるせいなんだ? 実は体育会系なんだね? 運動神経いいのに部活もなにもやってないのが不思議だったけど、ウチの学校に自転車部なんてないもんね」
心の中で舌打ちをする。
嫌な奴に観られた。
いや、誰に見られたって嫌だ。
都の昼食は、ダイエットに気を遣う者が多い女子高生にはあるまじきサイズの弁当プラス購買で買ったサンドイッチ。
毎日そんな食事をしていても太らないのだから本人としてはまったく問題ないのだけれど、体重を気にして食べたいのを我慢しているクラスメイトの隣で、カロリーが軽く四桁に達するメニューを平然と平らげられるほどず太い神経はしていない。
友達の誰よりも多く食べていて、なのに羨まれるほどに細身なのだ。
平日の練習でも毎日百km近くは走る身体が必要とするカロリーは、大抵の運動部員を凌駕する。しかもロードバイクによるトレーニングは消費カロリーに占める脂肪の割合が高く、かつ筋肉は太くなりにくい。必然的に、陸上の長距離選手同様にスリムな体型になる。
それはなにも特別なことではなく、ロードレーサーにとっては必然のこと。ただ好きなだけ食べてスリムな体型を保っているわけでもない。それだけのカロリーを摂らなければスタミナを維持できないのだ。
しかし、それをいちいち説明するのも面倒だった。こちらの苦労も知らず「そんなに食べてるのに細くていいねー」なんて見当はずれの反応が返ってくるのが常だ。
だから、楡のことも無視していた。もっとも、楡は都に劣らず細身だから、妬まれることはないだろう。
「なんで、こんなとこでひとりでゴハン食べてるの?」
「……ひとりが好きだから」
「ふぅん」
小さくうなずきながら、隣に腰をおろす。
遠回しに「あっちいけ」と言ったつもりなのだが通じていない。平然と、持っていた菓子パンとコーヒー牛乳で昼食を始めた。
食べながら、都の弁当について、自分で作っているのかとか、どのおかずが美味しそうとか、都にとってはどうでもいいような話題を振ってくる。
それに対して気のない返事を返す。
どちらかといえば、楡は苦手なタイプだった。
人懐っこくて、必要以上に明るくて、おしゃべり。
無口で、静かに過ごすのが好きな都とは合わない。機関銃のようなおしゃべりは苦手だ。こちらが言葉を返す前に話題が変わってしまっていることもある。
もっとも、返事を強要せず、無視してもひとりで勝手にしゃべっている楡は、考えようによっては楽な相手なのかもしれない。少々……いや、かなり、耳障りではあるけれど。
「昨日のレース、惜しかったねー。もうちょっとで勝てそうだったのに」
いちばん触れられたくなかった話題。
箸を持っていた手がぴくりと震える。
そのまま、無視して食事を続ける。
「でも、カッコよかったよ?」
にこにこと無邪気に笑っている楡。その表情が癇に障る。
馬鹿にされているように感じるのは被害妄想、考えすぎだろうか。
「…………どこが。負けたのに」
「でも、二位だってすごいじゃん。それに、負けたっていってもほんのちょっとの差だったし」
確かに、平岸との差は五十cmもなかったろう。
しかし、
「……あんたは知らないだろうけど、ゴールスプリント勝負では、差なんて意味ないの。差が一センチだろうと一メートルだろうと負けは負け」
たとえばこれが陸上競技であれば、僅差で敗れてもタイムがよければ収穫にはなるだろう。しかし自転車ロードレースにおいては、ただライバルよりも速いか遅いかだけが問題で、大きな差がつかない限り、タイムの良し悪しは基本的に問題にならない。マラソンなどと違い、問題になるのは勝ったか負けたかだけで「どのくらいのタイムで」にはなんの意味もない。
これは他の競争と違い、多少の力の差があっても平地であれば遅れずについていくことが容易で、しかも後ろを走る方が空力的に有利で、同一集団でゴールすればその先頭でも末尾でも同タイム扱いとなるロードレースの特徴だ。
しかし、それを楡に説明したところで簡単には理解されないだろう。
自転車ロードレースは、ヨーロッパではテレビで生中継されるほどの人気スポーツなのだが、日本ではドがつくほどのマイナー競技だ。
『自転車=ママチャリ』
『自転車競技=競輪』
という構図が定着しているこの国でロードレースなんて、知らない人に説明しようとしても変わり者のレッテルを貼られるだけだ。
相手が男子ならともかく、女子ではなおさらのこと。
もう、同世代の女の子に理解してもらうことは諦めている。だから、距離をおく。
流行のファッション、アイドル、ドラマ、そして恋愛。そんな話題ばかりの会話の輪に入っていく気も起きない。もともとそうしたことに対する興味は薄いし、練習にかなりの時間を費やすロードレースをやっていると、それ以外のことに使える時間の余裕も少ない。
「……でもさ、やっぱりカッコよかったよ? うん。思わずひと目惚れしちゃうくらい」
「…………はぁ?」
唐突な台詞に、驚いて楡の顔を見る。
にこにこにこにこ。
相変わらずの無邪気な笑顔。
本気なのか、ふざけているのか、からかっているのか、表情からは判断がつかない。
「……なに寝言いってんのよ」
「あー、うん、確かに寝不足だけどね。昨夜はなかなか眠れなかったもんなー。都の勇姿を思い出すたびにドキドキして目が冴えちゃって」
「バカじゃないの」
ふざけた口調に、やっぱりからかわれているのだと判断する。
なにがひと目惚れだ。女同士で。
自転車に関することをからかわれるのは好きじゃない。
相手にしない方がいい。
やっぱり苦手だ、このタイプは。
小さな頃から、あまり人付き合いの上手な方ではなかった。まずなにより『おしゃべり』が不得手だ。
多分、楡とは正反対。
「ちょっと、こっち向いてよ」
無視して箸を動かしていると、顔を掴まれて強引に横に向けられた。
「あたし、都にひと目惚れしたの。あたしと付き合ってよ」
「…………あんたの冗談の相手するほど暇じゃないんだけど?」
「冗談じゃないよ、真剣」
そう言いつつも、顔は相変わらずの笑みを浮かべている。あまり『真剣』という雰囲気はない。
ふざけている、からかっている、ようにしか見えない。
「…………あんたって、レズ?」
「うん!」
即答する楡。
そのにこやかな表情は、やっぱり真剣なカミングアウトには見えない。
「……私はそーゆー趣味はないから。はい、この話は終わり」
しかし楡は手を離さない。
「男か女かなんて些細な問題でしょ」
「…………、それ以上大きな問題がある?」
常識人の都にしてみれば『相手が異性であること』が恋愛の大前提だと思うのだけれど。
「性別なんかより、ちゃんとあたしを見てよ。真木楡っていう人間を」
「……わかった、言い直す。あんたは、私の趣味じゃない」
はっきり言ってもやっぱり堪えていない。他の表情はできないのか、というくらいに相変わらずの笑顔だ。
「じゃあ、どんなタイプが好み?」
「…………」
少し、考える。
付き合っている相手はもちろん、特に恋愛感情を持っている異性がいるわけではない。そもそも、女子高生としては恋愛などに対する興味が薄いと自覚している。
「……ランス・アームストロング」
「ふぅん」
意外なことに「誰それ?」という反応は返ってこなかった。
もっとも、癌からの生還後にツール・ド・フランス七連覇という前人未到の偉業を成し遂げたロードレーサーはかなりの有名人だ。日本でも一般紙のスポーツ欄に記事が載ることはあったから、名前くらいは知っているのかもしれない。あるいは楡がシェリル・クロウのファンだった可能性もある。
ここでイヴァン・バッソとかロビー・マキュアンとかトム・ボーネンとか答えたら、きっとクエスチョンマークが返ってきたことだろう。
「……他の男の名前を出されるよりはマシかもね」
「なんでよ」
その台詞の意味をよく考えていれば、後の展開は変わっていたのかもしれない。
しかし昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、楡との会話はそこで打ち切られた。
放課後――
学校の駐輪場から都が乗っていくのは愛用のロードレーサーではなく、ごくありきたりなママチャリだった。
目立ちたくない、という理由がひとつ。この学校に、五十万円近い自転車で通学してくる生徒などいない。駐輪場には百台以上の自転車が停めてあるが、五十万円どころか五万円、いや三万円の自転車すら皆無だろう。
ふたつめの理由は、ミニスカートの制服はロードバイクに乗るには向かないこと。
そしてみっつめは、かごのついた自転車の方が通学には都合がいいという、純粋に実用的な理由だ。
校門を出ても、まっすぐ自宅には向かわない。家までは十km近くあり、帰宅してから練習に出るのでは時間の無駄だ。
都が向かったのは、学校から二kmと離れていないところにある小さな自転車店だった。『サイクルイグチ』という看板が掲げられたその店には、都が乗ってきたようなシティサイクルは一台も置かれていない。スポーツバイクのみを扱う、いわゆるプロショップだ。
店に入ると、三十代後半くらいの、うっすらと無精ひげを生やした男性が声をかけてくる。この店の店長、井口裕也だ。
今は一線を退いているが、二十代の頃は実業団レーサーだった。都は現役時代を知らないが、北海道ではトップクラスの選手で、ツール・ド・北海道の北海道選抜チームの代表選手に何度も選ばれていた。
小学生の頃から、都の自転車はすべて井口の手によるものだった。女子選手の多くがそうであるように、都も機材のことにはあまり詳しくない。整備も、自分でやるのはごく日常的な清掃、注油、空気圧チェックくらいのもので、購入時の組み立てはもちろん、その後のメンテナンスもパーツ交換も、ほとんどが井口に頼っている。
機材以外にも、トレーニング法やレースのテクニックについても、井口には世話になっている。そしていま現在の、日々の練習についても。
本来はウェアの試着のための更衣室を借りて、制服からサイクルジャージとレーサーパンツに着替える。ヘルメットやアイウェアは店に預けてある。
愛用のロードレーサーも、昨日のレースの後、店に預けておいた。レースを走り終えた愛車は井口の手で整備され、すぐに走り出せる状態で店の前に置かれている。
学校からここまでママチャリで来て、着替えてロード練習に出て、帰りにまた店に寄ってママチャリで帰宅するのが平日の日課だった。
「今日は早いな。昨日の今日だから練習は休むのかと思ったけど」
「昨日の今日、だからよ」
ご自由にお飲みください、と書かれたミネラルウォーターのサーバーからボトルに水を詰め、粉末のスポーツドリンクを溶かす。
「負けたのが悔しい、か」
その問いに対しては沈黙を返す。当たり前のことを訊くな――と。
井口は、不躾ともいえる都のこうした態度をスルーしてくれる。愛想を振りまくのが苦手な都にとってはそれが気に入っている点なのだが、考えてみれば、そんな性格は楡と似ているかもしれない。
「まあ、モエレの平坦コースじゃ仕方ないよな。四対一じゃあ牽引のことを抜きにしても、位置どりだけで不利だ。大崎ちゃんにも、せめて一人でもアシストがいれば違うんだろうけど」
プロのレースでは、アシスト選手がエースの前を走って空気抵抗を軽減することで、エースは体力を温存したままトップスピードまで加速することが出来る。同時に、アシストを含めたチームの人数が多ければ、ゴールスプリントで有利な位置を取るにも都合がいい。
三人のアシストを従えた平岸亜依子と、チームメイトのいない都。その差は簡単に埋められるものではない。一対一のスプリント勝負で平岸にひけを取るとは思わないが、四対一の不利を覆せるほどの力の差はない。
「でも、ゴール前のアシストなしでも勝つ選手はいるじゃん。マキュアンとかフレイレとかさ」
「だったら、孤高を気取ってないでライバルを利用する狡さを身につけるべきだな」
確かに、ライバルチームをうまく利用したり、駆け引きに長けたプロ選手と違い、都のレース運びはクリーンすぎるといえなくもない。
「悔しいのはわかるけど、今日は強度は上げるなよ。トップを目指すなら、休息もトレーニングのうちだから」
「……わかってる」
実業団で走っていたこともある井口は、都にとってはコーチ役でもある。技術面はもちろん、トレーニングに関してもそのアドバイスは貴重だ。素直にうなずいて店を出る。
愛車にまたがって走り出そうとしたところで、
「……都?」
背後から、聞き覚えのある……というか、聞きたくない声。
苦虫を噛みつぶしたような顔で振り返る。
そこにいたのはいうまでもなく、ママチャリにまたがった下校途中の楡。
都の姿と、店の看板を交互に見て「なるほど」という表情を浮かべる。
「こんなところで会うなんて、これはもう運命だね」
相変わらずの脳天気な台詞。頭痛がする。
「……偶然でしょ、バカ」
そう言い捨てて走り出した。
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