それから数日は、比較的平穏に過ぎたといってもいい。
 日曜のレースの疲労も回復し、次のレースに向けて徐々にトレーニングの強度を上げていく。幸いなことに、天候は晴れ続きだった。
 学校では、休み時間に楡がちょくちょく話しかけてくるが、まともに相手はしていない。しかしめげた様子もなく、相変わらずにこにこと笑みを浮かべてつきまとってくる。
 それも、日常の一部になりはじめていた。
 
 そして、次の週末――
 
 いつものように、早めに朝食をすませてロード練習に出かけた。
 ロードレースのトレーニングは『短時間で効率的に』すませる方法など存在しない。レースで長距離を走れる身体を作るためには、練習でそれ以上の距離を、時間を、走らなければならない。
 だから、まる一日を練習に費やせる休日は貴重だ。いい天気でよかった。
 次のレースまで一ヶ月ちょっと、しっかり鍛えなければならない。
 ほとんど高低差のない平坦コースだった先週のレースと違い、次は嶮しいアップダウンが続く山岳コースだ。北海道ではもっとも厳しいレースで、距離の長い男子エリートクラスなど、完走率が半分にも満たないというサバイバルレースになる。
 ロードレースにおいて、平地が得意な選手と山岳の登りが得意な選手ははっきり分かれる。そして都は前者だった。山岳コースはそれほど得意ではない。平地のスプリントこそが都の戦場だ。
 しかし、それ故のチャンスもある。
 厳しいコース故に、白岩学園のアシスト陣も途中でちぎれてしまうだろう。前回のように四対一の圧倒的不利なスプリント勝負にはならない。都が登りで遅れずにくらいつければ、最後は平岸と一対一の勝負に持ち込むことも不可能ではない。
 今度こそ、と気合いも入る。
 いま現在、登りが得意ではないということは、まだ伸びしろがあると考えることもできる。しばらくは登りの練習に力を入れるべきだろう。
 地元の山岳コースといえば、真っ先に浮かぶのは手稲山か小林峠。少し遠出すれば朝里峠、毛無峠、支笏湖など。
 今日はどこを走ろうかと考えていると、
「おはよ、都」
 この一週間、聞かなかった日はなかった声が耳に入ってくる。
 まさか、休日にまで聞かされるとは思わなかった。
 家にまで押しかけてきたのか……と忌々しげに振り向いて、しかし、そこで固まってしまった。
 視界に入った楡が、あまりにも予想外の姿をしていたから。
「あ……あんた、その格好……?」
 ロードバイクを携えて、身に着けているのはサイクルジャージにレーサーパンツ、ヘルメットやサングラス、グローブまで。
 それはまさしく、自転車雑誌に載っていそうなくらいに完全無欠の新米ローディ姿だった。
「えへへ、買っちゃった。乗り方教えて?」
「買っちゃった、って……」
「だって、こうすれば都と学校以外でも一緒にいられるでしょ?」
 あっけらかんと答える楡に、開いた口がふさがらない。
 驚くというか、呆れるというか。
 そんな、気軽に言う台詞だろうか。
 楡が携えているロードバイクを見る。
 いかにも組み上げたばかりの、ぴかぴかの新品だ。フレームはもちろん、チェーンやギア板にもほとんど汚れがないところを見ると、本当に今日初めて乗るのかもしれない。
 米国の有名メーカー、キャノンデール製の軽量アルミフレームに、主要コンポーネントはコストパフォーマンスのいいシマノ105とアルテグラの混成、走行性能に与える影響が大きいホイールは張り込んでデュラエース。
 本格的なレースで使うのにも充分な性能を持ちつつ、価格を抑えた構成だ。それでもおそらく三十万円くらいになるのではないだろうか。
 普通の女子高生が気軽に買える価格はない。『自転車』イコール『ホームセンターで一万円前後で買えるママチャリ』という常識が定着している日本で三十万円の自転車なんて、普通の人に言ったら呆れられるだろう。
 しかも楡の姿を見れば、自転車本体以外にウェアやシューズ、ヘルメットなど、合計数万円がかかっているはずだ。
「……あんたって、実はイイトコのお嬢様? それとも援交でもしてンの?」
「どっちだと思う?」
 意味深な笑みが返ってくる。
 艶っぽいその表情に、まさか……と思う。
 本当に、援交?
 確かに、楡は可愛らしい顔立ちをしている。胸は小ぶりだけれどスタイルも悪くない。需要はいくらでもあるだろう。
 だけど、まさか、本当に?
「なぁに、その顔。ホントに援交してるとでも思った?」
 都の引きつった表情に、楡がけらけらと笑う。
 その態度で、からかわれたのだとわかった。
「ンなわけないじゃない。あたし、オトコは対象外だもの」
「え……? あ、そっか……そうだよね」
 そういえば、同性愛者だと言っていた。
 あまりにもあっさりと言われたので、それも冗談かと思っていたのだけれど。
 どういうわけかほっとしている自分に気づいて、少し不愉快になる。
「さらに言うと、親は普通のサラリーマン。これは、去年貯めておいたバイト代とかお年玉とかの貯金をはたいたの」
「な……」
「お店に行って『これだけの予算でレースに勝てる自転車ください』って」
「だ……だからって……どこのショップよ。シロウトの女子高生にこんな高いバイク売りつけて……」
 三十万円という金額、レース仕様のロードバイクとしてはけっして高い部類ではないが、普通の女子高生の金銭感覚からすればとんでもない大金だろう。社会人だって、自転車に興味のない人であれば驚く金額だ。
 高校生の、しかも初心者に勧める価格ではない。入門者向けの廉価バイクなら、レースに使えるものでも十万円台からある。
 シートチューブの下端に貼られている小さなステッカーを見て、都は目を丸くした。
『サイクルイグチ』と。
「なっ、なに考えてンのよ、あのおっさん!」
 商売人というよりも単なる自転車好きで、初心者の相談にも親身に対応する人だと思っていたのに。
「あんたもよ。井口さんに言われなかった? レースに出るだけならこの半額のバイクでも十分だって」
「出るだけ、じゃ十分じゃないもの」
「え?」
「都をアシストして、勝たせられるバイクじゃないと」
「――っ!」
 大きな目が、正面から都を見据えていた。
「ちょうど、スカパー!でレースやってたんで見てみたんだけど、ロードレースって、個人での成績を競うのに、実はチーム競技なんだってね?」
 そう。
 それが自転車ロードレースの特殊性、他の競技との大きな違いだ。
 普通、団体競技は球技であれ競走であれ『チーム』で成績を競い、勝ったチームが表彰される。
 対して個人競技は自分以外の全員がライバルだ。F1でも露骨なチームオーダーはルール違反になっている。
 しかし自転車ロードレースは違う。
 レースによってはチーム成績も表彰対象となるが、どのレースでも一番の栄誉は個人優勝、先頭でゴールすることだ。
 しかし、レースはチームの力で闘う。チームの中から優勝者を出すために、一致団結して協力する。
 本格的なレースでは、チームは優勝を狙うエースと、それを援護するアシスト選手で構成される。アシストはエースの風よけとなり、ペースメーカーとして牽引し、補給食やドリンクを運び、あるいはライバルチームを牽制する。
 そうして援護されたエースの仕事は、勝負所まで力を温存し、最後にライバルチームのエースを蹴散らして優勝することだ。
 本場ヨーロッパのプロではそうした役割分担が徹底しており、それをわかっているファンは目立たないアシスト選手にも熱い声援を送る。そしてエースが獲得した賞金は、アシスト選手はもちろん、スタッフも含めたチーム全体に分配される。
「だから、あたしが都をアシストしてあげる。四対一であれだけいい勝負ができるなら、四対二でも十分に勝ち目はあるでしょ? そして都は献身的なアシスト選手を愛するようになってめでたしめでたし、みんな幸せハッピーエンド……という筋書き」
「な……」
 本当に、開いた口がふさがらない。
 そんなふざけた理由で三十万円以上の衝動買いなんて、ありえない。
「ば、バカバカしい、話になんないね」
 わざときつい口調で言う。しかし楡は相変わらずの無邪気な笑みを浮かべたままだ。
「もー、照れちゃって。都ってばツンデレ?」
 人差し指で頬をつつかれる。
 小さく溜息。
 こいつには、なにを言っても無駄という気がする。
 だから、無視することに決めた。
「バカ」
 それだけ言うと、バイクにまたがって走り出す。
「あー、待ってよ都」
 楡も慌ててバイクに乗った。
 いかにも初心者らしいぎこちない動作で、ふらつきながらシューズをペダルに嵌めている。専用シューズとペダルを固定するビンディングペダルなど、初めての経験だろう。
 あたふたしている楡を無視して、軽いギアのまま回転数を上げて加速する。
「もー、待ってってばー!」
 シフトアップして、重いギアを必死に踏んでいる。
 やっぱり素人だ。
 スピードを出す時にはシフトアップ――それは確かに基本だが、ただ闇雲に重いギアを使えばいいというものではない。ロードレーサーのトップギアなんて、プロやトップアマを除けば下り以外で使う機会などない代物だ。それがたとえ、ジュニア用の軽いギアであっても。
 ロードバイクでまず必要なのは、重いギアを力まかせに踏むことではなく、高回転を維持すること。
 そんなことも知らないなんて、やっぱりまったくの素人だ。
 最初は頑張ってついてきていたが、案の定、すぐに力尽きて遅れていく。
 もちろん待ってやったりはしない。楡に構わず、都は自分のペースで走り続ける。
 しょせん、こんなものだろう。学校の体力測定でも、楡が目立った成績を残していた記憶はない。
 都をアシストして勝たせる、だなんて。
 口先だけ。単なる思いつき。
 簡単にできると思っているなら、ロードレースを舐めている。
「……バッカみたい」
 口の中でつぶやいて、都は走り続けた。



 百二十kmほどのロード練習を終えて戻ってきた都は、まっすぐ家には帰らず、そのまま井口の店に向かった。
 一言、文句を言ってやらなければ気がすまない。
「井口さんってば、なに考えてンのよ!?」
 開口一番、店に入ると同時に叫ぶ。
「おや、都ちゃん。練習帰り?」
 のほほんとした声が返ってくる。
 店内に他のお客さんの姿はない。井口はダウンヒル用のマウンテンバイクを組み立てながら、テレビでのんびりと先日のジロ・デ・イタリア――三週間かけてイタリアを一周する、世界三大ステージレースのひとつ――の録画を観ていた。
「……で、なにをそんなに怒ってるんだ?」
「わかってンでしょ!」
「真木ちゃん?」
「他になにが?」
 ジト目で睨む。
「なによあれ? シロートにあんな高いバイク売りつけて!」
「これこれの予算で登りに強いレース向きのバイクが欲しいというから、その通りに組んであげたんだけど? 無駄に高いパーツを使わず、コスパ重視のいい選択だろ?」
「高校生の、しかも初心者にいきなり三十万のバイク? レースだって二十万以下のバイクで十分じゃん」
「三十万円相当の戦闘力を求めているお客さんに十五万のバイクを売るのもおかしな話だろ。フレームはジャイアントとキャノンデールのどっちにするか悩んだけど、都ちゃんのSix‐13に合わせてCAAD9にシマノコンポにしたんだ。ちょっとイイだろ、エースとアシストでメーカーを揃えてるってのも、プロみたいで」
 楽しそうに語る井口。自転車屋などやっているだけあって、走ることはもちろん、自転車そのものが大好きなのだ。機材について語りはじめると止まらない。
「アシストって……」
「本人もやる気あるみたいだし、次のレースはアシスト付きで走れるんじゃないか? チーム白岩に雪辱するチャンスだな」
「じょーだん。あのド素人がモノになるのに何年かかるって。次のレースは大滝だよ。シロウトが走れるわけないじゃん」
 ありえない、と都は首を左右に振った。
 ロードレース向きの身体を作ることは、一朝一夕にできることではない。小手先の技術ではどうにもならない、基礎体力の問題なのだ。
 持久競技のための心肺機能と、自転車向きの筋肉。そのふたつを手に入れるために要する時間は少ないものではない。
「そうか? けっこうものになりそうな気もするけど」
 そう言われて、一瞬、考える。
 確かに楡は、手脚は長くて贅肉は少なく、ロードレース向きの体型ではある。
 ……いや、ありえない。
 だからといって、すぐに高いレベルで走れるわけではない。
 そもそも、すぐに諦めるに決まっている。
 都はもう一度首を振った。



 その後も楡はトレーニング時にちょくちょく姿を現した。
 もちろん、都はまともに相手などしない。すぐに置き去りにして走り去る。都が本気を出せば、そのスピードについて来られる女子などほとんどいない。
 それでも楡は諦めない。
 毎週末、同じことを繰り返す。休日のロード練習で都が家を出るのは早い時刻なのに、きっちりと家の前に現れる。置き去りにされた後も、一応ひとりで練習しているらしい。
 これだけ邪険にされればいいかげん脈なしだと気がつきそうなものだが、めげる様子もない。
 当然、今朝も例外ではなかった。
「おはよ、都。今日も相変わらずカッコイイね」
 語尾にハートマークが飛んでいるような口調。明るい笑顔。
 初日からまったく変わらない。
 都はこれ見よがしに大きな溜息をついた。
「……ったく、これじゃストーカーじゃん」
「人聞きの悪い。せめて追っかけっていってよ」
 まったく悪びれない態度が癇に障る。
 不愉快、だった。
 この、めげない性格。
 陽気で。
 人懐っこくて。
 どこまでが本当かはわからないが、同性愛者というマイノリティでありながら、隠す素振りも見せず、拒絶されても前向きなところ。
 嫌い、なのではない。
 妬ましい。
 悔しい。
 自分にないものを持っている楡が。
 楡のようになれない自分が。
 都も、あまり『普通の女子高生』ではない。そして、そのことに後ろめたさを覚えている。
 他人に理解されないこと、受け入れられないことが怖い。楡のように、他者から拒絶されても平然としていられない。
 だから、あまり他人と関わらないように生きてきた。
 楡はその真逆だ。
 異質な存在のはずなのに、他人をまったく怖れていない。自分を変えず、なのに他人との関わりも否定せずに生きている。
 悔しい。
 妬ましい。
 だから、楡の存在は目障りだった。
「いい加減にしてよ! あんたみたいなレズの変態と関わる気はないよ! 気持ち悪い!」
 大きな声を上げる。
 自分で意図した以上に強い口調になった。
 楡が目を見開く。
 いつもの、へらへらとした笑みが消える。
 口を真一文字に結んで、都の顔を見つめていた。
 さすがに怒ったのだろうか。
 それとも、泣きそうなのを堪えているのだろうか。
 それを確認する勇気はなくて、都は視線を逸らした。
 言い過ぎた、という自覚はある。これは楡よりも都の側の問題なのだ。
 だから、これ以上楡の前にいることはできなかった。
 顔を背け、自転車にまたがって走り出した。



 翌日から、休み時間に楡が寄ってくることはなくなった。
 次の休日のロード練習にも姿を現さなかった。
 どうやら、今度こそ見限られたらしい。

 ――それでいい。
 
 以前の状態に戻っただけ。
 余計なことに煩わされずにすむ。
 次のレースも近いのだから、楡のことになど気を取られずに練習に集中できるのはいいことだ。
 そう、自分に言い聞かせる。
 楡に対する後ろめたさから目を逸らして。


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