伊達市、大滝地区――
緑に包まれた山の中を流れる渓流と、並行して走る国道。その沿線にぽつりぽつりと建物が散在し、小さな温泉街があるだけの田舎町。幹線道路を一歩離れれば、山と畑しかないような土地だ。
その一角にある運動公園。普段は閑散としているであろう駐車場が、年に一度、車と自転車と人で一杯になる日がある。
チャレンジ・ツール・ド・北海道――
北海道のロードレースとしてはもっとも過酷なコースを走る重要なレースだ。
一周約十三kmのコースはほとんど登りと下りしかない。それを十周する男子エリートクラスなど、相当な実力がなければ完走すらおぼつかない。
しかし、だからこそ参加者も多い。
特に、エリートクラスの有力選手たちは真剣な表情だ。なにしろこのレース、ツール・ド・北海道国際大会に出場する北海道選抜チームの選考も兼ねている。
女子にとっても、みちのくステージレースinいわての北海道代表選考レースだ。
しかしそうしたことを抜きにしても、運やまぐれでは勝てない、本当に強い者が勝つレースとして、選手たちのモチベーションは高い。
もちろん、都も例外ではない。
前回のレースの雪辱戦でもある。なんとしても勝ちたい。そのためのトレーニングは積んできたはずだ。
受付をすませ、ゆっくりとコースを一周してウォーミングアップする。
スタート前に軽く補給食を摂る。
すべての準備を終えたところで、出走サインをしに行く。ロードレースの出場選手は、全員、スタート地点で自筆のサインをしなければならない。プロでもアマチュアでも、そのルールは変わらない。
しかし、歩き出した脚が不意に止まった。
目の前に、見知った顔があった。
こんなところで見るはずのない顔が。
「……なにしに来たの?」
その姿を見ただけで訊くまでもない質問だったが、それでも訊かずにはいられなかった。
返ってきたのは挑発的な笑み。
「この格好で散歩に来たように見える?」
サイクルジャージにレーサーパンツ姿の楡。ヘルメットには、ゼッケンつきのカバーが被せてある。
つまり、このレースの参加者ということだ。一足先に出走サインをすませて戻ってきたところらしい。
「……まさか、出る気?」
「もちろん」
「ここは、あんたみたいな素人がまともに走れるコースじゃないよ?」
「でも、こうしないとまともに話も聞いてもらえないみたいだから」
以前の、甘えるような態度とはどこか違う。目つきも鋭い。
楡がヘルメットを脱ぐと、中で束ねられていた髪がこぼれ落ちた。
思わず息を呑む。
背中まであった長い髪が、肩にかからない長さに切りそろえられていた。
「な……なに考えてンのよ、あんた」
「ね、賭けをしない?」
都の問いを無視して、挑発的な口調で言う。
「賭け?」
「このレース、あたしが都をアシストして、勝たせてあげる。その代わり……」
「はぁ? なに寝言いってンの。アシストどころか、一周だってついてこられるわけがないじゃない」
平地なら、よほどの力の差がない限り序盤から簡単に差はつかないのがロードレースというものだ。しかしこのコースは、スタート直後に本格的な登りが始まる。初心者ではまともに登り切ることすら難しいような長くきつい登りが。
高いレベルで力が拮抗する男子のエリートクラスならともかく、選手間の力の差が大きい中級クラス以下や女子、中学生などは、最初の登りである程度勝負が決まってしまう。優勝争いができる上位数名と、その他大勢に振り分けられてしまうのだ。
「試してみなきゃわかんないよ?」
「わかるって」
「だったら、賭けに乗ってもいいよね? 都が負けるわけないんだから」
楡は妙に自信ありげだ。
都の前に姿を見せなくなってからも、密かに練習していたのだろうか。それにしても、自転車に乗りはじめてひと月ちょっとでまともなレースができるわけがない。
「で、賭けって?」
「あたしがアシストして都を勝たせてあげる。その代わり……」
「その代わり?」
「あたしとデートして」
「はぁ?」
「もちろん、お泊まりアリのデート、ね」
にんまりと下心ありありの笑みを浮かべる楡と、顔中真っ赤になる都。こうした話題にはあまり免疫がない。
「な、なに言ってんのよ、バカ!」
吐き捨てるようにそれだけ言って顔を背け、そのまま出走サインをしに行く。今の顔を見られたくない。この程度の冗談で赤面するなんて、うぶなところを見られるのもいやだ。
あんな冗談につきあっていられない。都にとっては真剣勝負なのだ。
「約束だからねー!」
背後で楡が叫んでいた。
レースが始まる。
最初に、ショートコースを使う小学生のレース。
それが終わると、正規のコースを走るレースが始まる。ペースが速く周回数の多い上位クラスから、五分間隔でスタートしていく。
そして、いよいよ女子のスタートだ。
男子と違い、人数の少ない女子はクラス分けがされていない。小中学生を除き、高校生以上は全員が同じクラスでのスタートだ。
号砲が鳴る。
ゆっくりと走り出す。慌てて飛び出す者などいない。
スタートダッシュがその後の展開に大きく影響するクロスカントリーや短距離のタイムトライアルなどと違い、集団で走るロードレースではそれが普通だ。後ろを走る方が有利で、勝負所まで無駄な動きは極力しないのがロードレースである。
このレースは特にそうだ。スタート後すぐにきつい登りが五km近く続くから、まずはお互いの顔色をうかがいながら様子見となる。
ひとりでがむしゃらに飛び出したところで、よほどの実力差がなければ最後まで体力がもつわけもない。優勝を狙える選手ほど、序盤は無駄な体力を浪費せず、勝負所まで脚を温存するものだ。
登りをこなすうちに徐々に選手がふるいにかけられ、残った者たちで最後の一周が本当の勝負、と都は思っていたし、他の有力選手も同様だろう。
ところが。
登りが始まると同時に、ひとりの選手が集団から飛び出した。
白岩学園の二年生、円山留依のアタックだ。
他の選手たちが、一瞬、驚きの表情を見せる。予想外の展開だった。
しかし誰も円山を追わず、このアタックは見逃された。
円山は、白岩学園の主力四人の中ではやや力が劣る。序盤から飛び出したところで、最後までひとりで逃げきる力はない。円山がどんなに頑張ったところで、集団が普通のペースで走ればいずれは追いつける。
彼女はおそらく、他の選手を攪乱するためのダミー、囮のアタックだ。
あまりにも見え透いてるな、と思う。「こいつを放置したらやばい」という選手でなければ、単独アタックは脅威にならない。
北海道の女子選手など、人数もたかがしれている。ほぼ全員が顔見知りだ。実力も、レースでの走り方も、お互いによくわかっている。そして円山は、他の優勝候補にとっては脅威になる選手ではない。
慌てることはない。
今のところ、白岩学園のエース平岸亜依子と、彼女の右腕で登りにめっぽう強い白石佳織は動きを見せていない。ならばこちらも動く必要はない。
他の選手たちも同じ判断を下したようだ。とりあえず円山をひとりで逃がして、エースは終盤まで集団内で体力を温存するのが白岩学園の作戦だろう。あるいはライバルが円山を追って消耗することを期待しているのだろう、と。
円山が飛び出したことで、逆に集団内は落ち着いた様子だった。優勝候補の平岸と都が動かなかったことで、他の選手もここは体力温存に専念すべきと考えたのだろう。
集団内の思惑が一致した、絶妙なタイミングだった。
一瞬の隙。
白岩学園の残った三人、平岸、白石、宮沢が同時に加速する。他の選手は完全に虚をつかれた形になった。
有力選手が様子見のために集団内での位置を後ろに下げていたタイミングを見計らったかのような、三人のアタック。
あれよあれよという間に、一気に距離を空けられてしまった。
都をはじめ、他の選手たちはなにも反応できなかった。
まったく予想外の動きだ。まさか、一周目の序盤からチーム全体で仕掛けてくるなんて。
集団に取り残された選手たちが、お互いの顔色を窺う。
このアタックは単なる牽制なのか、それとも本気なのか。
このまま見逃すのか、それとも追うのか。
追うとしたら、誰が最初に飛び出すのか。
このレースで『チーム』と呼べる人数と実力を備えているのは白岩学園だけだ。他の有力選手はみんな違うチームでの単独参加で、損得抜きで協力することはできない。どうしても「自分を有利に、ライバルを不利に」という牽制が入ってしまい、お互いに足を引っ張り合う結果になってしまう。
これはまずい展開だった。
ロードレースにおいて、アタックがかかった時に迷うのは致命的だ。勝負を決める決定的なアタックに乗り損ねたら、それで勝敗は決してしまう。しかし囮のアタックを無理に追っても、無駄脚を使って消耗するだけだ。
迷っている間に差は広がる。コースは九十九折りの登り、前を行く三人の姿はすぐに視界から消えてしまった。
どうしよう。
都は迷う。
無理を承知で、単独で追うべきか。
しかし、今から追っても頂上までに追いつけるだろうか。
登り終われば、その先は下って、その後少し平坦区間が続く。そうなると四人いる白岩学園の方が有利だ。ひとりで無理に追うのはリスクが大きすぎる。追いついたとしても、四対一の勝負では前回と同じ展開だ。
それならばこのまま集団で体力を温存して、終盤に勝負をかけた方がいい。
しかし、このまま決定的な差をつけられてしまうかもしれない。長い直線の少ないこの山岳コースでは、前との差を正確に把握することも難しい。
追うのも賭け、集団にとどまるのも賭け。
どうする?
どうすればいい?
平岸は三人のアシストを使って、限界まで牽かせることができる。
それをひとりで追えるのだろうか。追いついたとしても、最後のスプリント勝負を挑む力は残っているだろうか。このコースのゴール前はわずかに登りになっている。力を必要とするスプリントだ。
正攻法でも圧倒的有利なはずの白岩学園が、こんなに早くにチーム全体で勝負を仕掛けてくるなんて予想外だった。しかも、そのアタックがこんなにうまく決まってしまうなんて。
予定外の展開に、自分がどう動くべきか決められない。
へたに動けば自爆。
しかし、なにもせずにいるのもジリ貧。
ダメ元で追うべきか……とシフトレバーに指をかけたところで、
「追うよ、みんな協力して」
都の斜め前にいた楡が、周囲に声をかけた。
「五、六人いれば追えるよ。最終周回の登りはじめまでに追いつけばいいんだから」
素人のくせに、それと感じさせない堂々とした物言いだ。隣を走っていた選手が不思議そうな表情を見せる。女子選手なんてみんな顔見知りの中で、楡だけが初めて見る顔なのだ。
しかし、楡の言っていることは間違いではない。前を行く白岩学園は四人。集団に残った選手のうち力のある五、六人でうまく協力して追えば、終盤までに追いつくことは不可能ではない。駆け引きなしで協力できれば、という但し書きがつくが。
「いつもいつも白岩学園に勝たせてたら、面白くないでしょ?」
お馴染みの、愛想のいい可愛らしい表情。周囲に対して親しげに笑みを浮かべ、ウィンクする。
戸惑いの表情を浮かべていた周囲の選手の口元もほころぶ。
「そうだね」
「やるか」
数人が腰を上げ、ペースを上げはじめる。
楡が都を振り返る。
「なにやってンの、都。ここであんたが行かなくてどうすンの」
「……わかってるよ!」
一気に二速のシフトアップ。
ダンシングで楡を追い越し、集団の前に出る。楡がすぐ後ろについてくる。
ちらりと振り返って、ついてきた選手の顔ぶれを確認した。
大学生では双璧の実力者、山崎萌と斉藤沙也加。社会人のベテラン高木曉子。新鋭の高校一年生、本橋花南。いずれも、レースでは常に上位を占める実力者たちだ。
そして都と楡。楡はともかく、牽制なしで協力できれば白岩学園に対抗できる脚の持ち主が揃った。
残りの選手は遅れている。都たちを見送ったのではなく、ペースアップした六人を追うだけの脚がないのだろう。
前を追う力と意志のある選手がここにいる。
クラスメイトの都と楡を除けば、全員が違う学校、違うチームの所属で利害が衝突するため、普段はどうしても牽制が入ってしまう。だから、統一された意思の元に動いている白岩学園には勝てない。
しかし今日は違う。
楡の一言で、六人の意志があっさりと統一された。
白岩学園の四人にあまりにも簡単に逃げを決められてしまったせいもあるだろう。とにかく、最後の登りまでに追いつくこと――そのひとつの目的のために、協調体制ができあがった。
前に追いつき、もう一度勝負をふりだしに戻す。その後かけひきや牽制が行われようとも、それは追いついてからの問題。それまでは、この追走集団内でのかけひきはおあずけ。
そんな暗黙の了解ができあがった。
いい状況だ。
不安要素といえば楡だけだ。しかし残り半分が遅れているこのペースに、楡はしっかりとついてきていた。初めて都の練習についてこようとした時の、素人丸出しのぎこちないペダリングではなく、きれいに脚が回っている。登りでペースアップしているのに、楽なダンシングではなく、サドルに腰を下ろしたままで速度を維持できている。
(……って、きれいすぎる?)
ふと気がついた。
速度の割に、楡の脚の回転が速すぎる。
ロードバイクを駆る際に重要なことのひとつに、脚の回転数――ケイデンスの維持がある。
一般人が街中で乗っている自転車のケイデンスは毎分四十〜六十回転程度だが、ロードレースでは平地で百回転以上、ケイデンスが落ちる登りでも七十〜九十回転を保つのが最近の主流だ。高速で長時間走り続けるためには、重いギアを力まかせに踏むのではなく、軽いギアを速く回し続けなければならない。
高ケイデンスでの走行に慣れることが、ロードバイク入門の第一歩だ。楡も最初はひどいもので、都のスピードについて来ようとして、重いギアを五十回転くらいで回していた。しかししばらく見ないうちに、脚の回転が滑らかに、かつ速くなっている。
不思議に思って、楡の足元に注目する。
(……コンパクトドライブ?)
以前見た時には気に留めなかったが、フロントに通常よりも小さいギアを付けていた。ギア比が小さくなり、坂をより軽い力で登ることができるため、脚力のない初心者や女性、スピードを追求しないツーリング派のサイクリストに人気のあるパーツだ。最近はヨーロッパのプロ選手でも、きつい山岳コースでは使う場合がある。
重いギアを踏んで負荷をかけると、脚の筋肉はすぐに疲労してしまう。そして回復のためには十分な休息が必要だ。
しかし軽いギアを高回転で回すと、重いギアで同じ速度を出す場合に比べて、筋肉にかかる負荷が小さい。代わりに心肺機能に負担がかかるのだが、心臓も肺も、腕や脚と違って疲労せずに長時間働き続けられる器官だ。激しい運動で息が上がっても、わずかな休息ですぐに回復する。一度疲労した筋肉が、元の力を出せるようになるまでに長時間の休息が必要なのとは違う。
筋肉を酷使しない走り方をすることで、わずかな時間しか全力を出せない筋肉を、最後の勝負所まで温存することができる。
もちろん、いいことばかりではない。ギア比が軽い分、同じ回転数では速度が落ちる。レースのペースで走るためには登りでも高ケイデンスを維持しなければならないのだが、それが初心者にはなかなか難しい。
しかしそれができるのであれば、登りがきつくて距離が長いこのレースで通常よりも軽いギアを使うのはいい選択だ。井口の入れ知恵だろうか。
コンパクトドライブの威力か、あるいはこの短期間で相当な練習をしてきたのか、楡は予想に反して遅れることなくついてきている。
たいしたものだ。ロードバイクに乗りはじめて二ヶ月と経っていない素人が容易にできることではない。もともと持久力が高かったのだろうか。
六人は登りをいいペースでこなし、下りに入る。道幅が狭くテクニカルなコーナーが続く下りが終わると、コース終盤の平坦区間。ここでは六人という人数の優位性を活用する。
ロードレースにおいて、最大の敵は空気抵抗だ。
街中を走る時の時速十数kmではほとんど気にならない空気抵抗も、速度の二乗に比例して強くなり、時速三十kmを超えたあたりから目に見えない壁となりはじめる。ロードレースではアマチュアでも巡航時で時速四十km以上を出すが、この速度域ではペダルを漕ぐ力の大半は空気抵抗と戦うために使われることになる。
そして空気抵抗は、どの位置を走っているかで大きく変わる。
先頭を走る選手が受ける空気抵抗を百とすると、その直後を走る選手は八十以下、さらにその後ろでは七十以下だ。つまり先頭の選手が全力で走っていても、後ろの選手は七割以下の力で同じ速度を出せることになる。
そのためロードレースでは、速度の上がる平地を走る際、選手が縦一直線に並んで空気抵抗を減らす。
それだけでは先頭の選手が不利になるので、十秒〜二十秒間隔で先頭を交代していく。二番目を走っていた選手が先頭に出て、先頭の選手は列の後ろに下がって脚を休める。違うチームでも、見知らぬ者同士でも、勝負所以外では均等に先頭を負担するのがロードレースの暗黙のルールだ。
六人で十五秒交代のローテーションを組めば、先頭で十五秒間頑張った後は、七十五秒間休むことができる。回復するには十分な時間で、これを繰り返している限り疲労はさほど溜まらない。
当然、前を行く白岩学園の四人のローテーションよりも、六人のローテーションの方がひとりあたりの負担が少なくて有利だ。ましてや向こうはエース平岸を温存するために、主に三人で先頭交代をしているはず。六人が均等に先頭交代しているこちらの方がペースは速い。
初心者の楡もちゃんと先頭交代に加わっていて、動きにぎこちなさはない。
順調に二周目に入る。
伴走のオートバイが、前の四人とのタイム差を伝えてくる。一時は二分近く開いていた差が詰まりはじめていた。
都は残り距離とタイム差をざっと計算する。
いける。
このペースを維持していけば、最終周回の登りが始まるあたりで前を捉えられる。
無理なペースアップは必要ない。この追走集団から脱落者が出たり、協調体制が崩れたら終わりだ。確実に、最終周回で追いつけばいい。
他の選手も同じ考えなのだろう。全員、やる気がみなぎっているようだった。
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