いよいよ最終周回。
 スタート&フィニッシュ地点となる本部テント前を通過する時に、残り一周を知らせる鐘が打ち鳴らされる。
 六人は協力して前を追っている。都にとってはまったく予想外のことだったが、楡もここまで遅れずについてきていた。
 前を行く四人の背中が近づいてくる。
 最後の登りが始まると、一気に差が縮まった。目標を射程に捉えたことで追う側は気合いが入る。対して前の四人は逃げを諦め、追走集団とひとつになって仕切り直そうとペースを落とす。
 先頭が十人の集団になる。これで勝負はふりだしに戻った。
 ここからが本当の勝負。この登りでふるい落としが行われ、そこを耐え抜いた数名が優勝を争うことになるだろう――誰もがそう思った。
 しかし――
 ただひとり、例外がいた。
 逃げと追走がひとつになってペースが落ち着きかけた集団の中から、楡だけが力を緩めることなく、むしろ加速して飛び出していった。
 まったく予想外の行動だった。楡を知っている都にとっては特にそうだ。
 初心者の楡に、この厳しいコースで、レース終盤になってまだ加速する力が残っているなんて。
 確かに、その行動はある意味正しい。
 ロードレースにおけるアタックは、ライバルが予想していないところか、あるいは嫌がるところで仕掛けるものだ。
 しかし誰もそれをする余力と勇気がなかった状態で、まさか楡が飛び出すとは。
 初心者だからこそ、かもしれない。残り距離と、それを走りきるのに必要な体力がどれほどのものか、わかっていない可能性がある。
 限界まで疲労が蓄積した脚は、どんなに頑張っても思うように動いてくれなくなる。そうなったら、余力を残した選手との速度差は歴然だ。勝負にならない。
「……あの、バカっ」
 口の中でつぶやく。
 それが聞こえたわけではあるまいが、楡がちらりとこちらを振り返った。
 一瞬、目が合う。
 単に、後ろの反応を確認するための行動ではない。まっすぐ都に向けられた視線。「ついてこないの?」とその目が言っている。都を誘い、そして挑発している。
 躊躇したのは一瞬だった。
 サドルに下ろした腰をまた上げる。
 ハンドルをしっかりと握り、体重をかけてペダルを踏み込む。右手の中指が動き、変速機のリリースレバーを押し込む。
 ギアをシフトアップして加速。一瞬、全力を絞り出して、先行した楡との十m差を詰める。たちまち、後ろの八人との差が開いていく。
 他の選手たちの反応は遅れた。
 逃げを潰したところでカウンターアタック――プロや上級者のレースではよくある話だが、誰もが疲れているこの状況で仕掛けるとは思わなかったのだろう。
 楡を除けばみんな顔見知りだ。その力も、レースでの走り方も、お互いに知り尽くしている。その知識の中には、この局面で仕掛ける無謀な選手はいないはずだった。
 この集団にただひとり紛れ込んだ異邦人、楡が前を行く。その動きに反応したのは、彼女のことを多少なりとも知っている都だけだった。
 後ろの集団は反応しない。白岩学園の平岸や白石にとって、登りでの勝負なら都は敵ではない。他のメンバーにしても、この登りでマークすべき相手は平岸と白石であり、平岸と白石にとっては山崎や斉藤だ。都が脅威となるのはゴールスプリント勝負になった時のこと。
 だから、見逃した。この登りで都がひとりで飛び出しても、集団に決定的な差はつけられないという判断だ。
 都はひとりで楡を追う。
 予想以上に速い。
 本気で加速したのに、わずかに先行しただけの楡に追いつくのに多少の時間を必要とした。
 呼吸が荒くなる。しかし力を緩めるわけにはいかない。アタックをかけた以上、後ろが簡単に追いついてこられないだけの差をつけるまでは必死に踏み続けるしかない。
 無茶だ――そう思う。
 こんなペース、頂上までもつわけがない。
 頂上を越えたとしても、その先は下りと平坦。ゴールまでは距離がある。
 無茶だ。
 ここまで予想以上にいい走りをしてきたが、やっぱり楡は初心者だ。ロードレースのペース配分というものがわかっていない。同じ持久系種目でも、マラソンとは違う。持久力の限界まで走った上で、最後に全力の短距離走をしなければならない競技――それがロードレースだ。
 楡に追いついたところで怒鳴る。
「バカっ! こんなペースで最後までもつはずないっしょ!」
「……都、もう限界?」
 にぃっと笑う楡。
「な……っ」
「あたしはまだまだ軽いよ?」
 挑発的な口調。
 しかし口を大きく開けて荒い呼吸をし、汗が滝のように滴り落ちている。とても「まだまだ軽い」などという表情ではない。
 口だけの強がりだ。それでも、この状況でまだ強がれることは評価に値する。
 本当に脚が動かなくなるその瞬間まで、ヒルクライムは我慢比べだ。どんなに苦しくても頑張り続けられる者が勝者になる。
「っなめんな! このシロウトがっ!」
 初心者には負けられない。都だって人一倍の負けず嫌いだ。だからこそロードレースなんてやっていられる。
 のんびり走っている限り、自転車は地球上でもっともエネルギー効率のいい、すなわち『楽な』移動手段だ。その自転車が、こうした厳しい山岳コースのレースではなによりも苦しい乗物に変わる。それでもレースをやっていられるのはよほどの物好きだけだ。
 力を振り絞り、楡を追う。
 楡は速度を緩めない。都でもついていくのが苦しいペースだ。
 北海道の女子選手としてはトップクラスの力を持つ都だが、登りはけっして得意ではない。登りでは必死に耐えて前の選手についていき、最後のスプリントで勝負するのが都のスタイルだ。
 この登りのスピードは、明らかにオーバーペースだった。あとどれだけ、このペースを続けられるだろう。都単独だったら――楡が前にいなければ――維持できる速度ではない。
 そのペースで楡は走り続けている。
 都が登りのエキスパートではないとはいえ、それは純クライマーの白石や、最強のオールラウンダー平岸と比べての話で、北海道の女子選手の中で上位に位置することは間違いない。
 なのに、ロードバイクに乗りはじめたばかりのはずの楡が都の前を走っている。
 この短い期間で、いったいどれほどの練習を積んできたのだろう。
 もともと優れた持久力を持っていたとしても、それだけでは無理だ。自転車に乗るための筋肉は、自転車でしか鍛えられない。優れた心肺機能と強靱な筋肉が揃わなければ、きついヒルクライムはこなせない。
 楡も苦しくないわけがない。
 荒い呼吸。滴る汗。
 ボトルを手に取り、口に含む。さらに頭から水をかぶり、脚にもかける。
「……はぁっ!」
 ボトルを戻し、大きく息を吐き出す。
 ロードレースに限らず、すべての持久系競技において呼吸は重要だ。
 筋肉は、ATP――アデノシン三リン酸をエネルギー源とする。ATPは体内に蓄えられた糖類から生成されるが、そのサイクルには酸素が必要だ。
 短距離走のような無酸素運動と、マラソンやロードレースのような有酸素運動では、同じ量の糖から生成されるATP量が十倍以上違い、酸素なしでは筋肉はすぐにガス欠で動かなくなってしまう。長いロードレースを走り抜くには、大量の酸素を取り込んで体内のエネルギー源を効率よく使わなければならない。
 無酸素運動になるほどの負荷を筋肉にかけず、しっかりと呼吸をすること。それがなによりも重要だ。苦しい局面では呼吸もおざなりになりがちだが、そのツケは後で必ず払わなければならなくなる。苦しい時ほど、呼吸を意識しなければならない。
 運動中の呼吸で重要なことは、力強く吐くことだ。酸素を取り込まなければ……と吸うことばかり意識するのはむしろ逆効果で、重量挙げや投擲種目の選手が雄叫びをあげるように、人間は吸う時よりも吐く時の方が力を出しやすいのだ。それに肺は、しっかりと吐き出せば自然と新鮮な空気を取り込むようにできている。
 ペダルを踏み込むタイミングに合わせて息を吐く楡は、そのことがわかっているのだろう。もちろん都も同様だ。
 限界ぎりぎりの走り。
 それでも楡は力を緩めない。このままのペースで走りきろうとしている。
 できるわけがない。
 人間の力には限りがある。
 素人の楡にはそれがわからないのだ。
「あ……あんた、どうして、こんな……無茶なこと。どうして、できるのよっ」
 どうして。
 なんのために。
 こんなに、苦しいことを。
 レースに慣れた都だって、毎回、苦しい局面では自問せずにいられない疑問。
 楡が振り返る。苦しげな表情だが、しかし口元には笑みが浮かんでいた。
「都に、振り向いて、もらいたいから。あたしを、見て、もらいたい、から」
 激しく呼吸しながら、途切れ途切れに答える。
 呆れてしまう。まだそんなことを言っているのか。
「あんた、いったい、どこまで、本気なのよ」
「まるまる、本気」
 いつもの、無邪気な笑み。
 その表情に裏があるようには見えない。
 だからといって、簡単に納得できるものでもない。
「ひと目惚れ、とか言って。あんな、短い時間で、なにがわかるって」
「時間なんか、関係ない、でしょ。あの、ゴールスプリントの一瞬に、都のすべてが、凝縮されてる」
「……っ!」
「それで、都のことが、好きになった。なにか、問題、ある?」
「…………」
 なにも、反論できなかった。
「だから今度は、あたしの、すべてを、見てもらう。このレースで、あたしのすべてを、出し尽くす。……このまま、都を、ゴールまで牽いてく」
 その言葉通り、力強く、しかし滑らかに、ペダルを踏み続けている。

 ……まずい。

 今の一言、かなり効いた。
 どれだけ長い距離のレースだろうと、スプリンターの都にとっては、ゴール前、最後の二百mがすべてなのだ。
 何十kmのレースも、その前の何千kmの練習も、ゴール前二百mで自分のすべてを出し尽くすために走っている。
 なにも飾らない、本当の自分をさらけ出す一瞬。
 楡は、そんな都をわかってくれているのかもしれない。これまで、同世代の女友達にはけっして理解されなかったことを。
 伝わってくる。
 前を走る背中から伝わってくる、楡の『本気』が。
 本気でなければ、こんな走りはできない。
 ただ、教室でクラスメイトと騒いでいるだけではない、これまで知らなかった楡の姿。
 こんなにも熱く、こんなにも真摯な想いを秘めていたなんて。
 単なるクラスメイトとして三ヶ月過ごしてもわからなかったことが、このレースを、いや、この最後の登りの数kmを一緒に走っただけで伝わってくる。
 本当に、人を理解するのに、必ずしも時間は必要ないのだ。
 力を振り絞って登り続ける楡。
 都の前を、一定のペースで走り続けている。
 シッティングでもダンシングでも、速度を変えない。そして一瞬たりとも都の後ろに下がろうとしない。宣言通り、都を牽いてゴールまで連れていこうとしている。
 時速二十kmにも満たないヒルクライムでは、空気抵抗は大きな問題にはならない。それでもアシスト選手は必ずエースの前を走る。
 物理的、肉体的にはなんの違いもないはずなのに、前にペースメーカーがいると明らかに楽になる。人間は、目に見える目標を追う時、ひとりの時よりも力が湧いてくるものだ。
 対して、きつい登りをひとり先頭で走ることは本当に苦しい。前でも後ろでも肉体的な負担は同じはずなのに、精神的にはまったく違う。
 それに耐えられるのは、本物のクライマーだけだ。
 平地を得意とする都にとって、登りは、ゴールにたどり着くために耐えなければならない苦しみでしかない。
 しかし、坂の存在そのものを楽しめる者がいる。
 坂を登ることがなによりも楽しい。
 坂が続く限り、いつまででも登り続けられる。
 登りが苦しければ苦しいほど、心が高揚し闘志が湧いてくる。
 苦しい登りを征服することに至上の悦びを覚える。
 ペースメーカーなど必要としない、目の前に続く登り坂そのものが、追うべき目標に見える。
 そんな人間。
 それが本物のクライマーだ。白岩学園の白石佳織がそんなタイプで、坂はいつでも嬉々として登っていた。

 そして、都の前を行く楡――

 一瞬たりとも力を抜かずに走り続けている。
 ハンドルを握る手も、ペダルを踏む脚も、筋肉が浮き出て小さく痙攣している。
 もう、限界のはず。苦しくて、脚が動かなくなる寸前のはず。
 それなのに、ときおり振り返る楡の口元には笑みすら浮かんでいる。
 肉体的には苦しくてたまらないはずのこの登りを、楽しんでいる。
 これは、本物のクライマーだ。
 まさか、楡が?
 この初心者が?
 これだけ疲れて、力尽きかけているのに、それでもフォームは崩れていない。
 目の前の背中に不安感は微塵も感じられない。
 その線の細い背中には、ランス・アームストロングのような『王者の貫禄』はない。しかしまるで往年のリシャール・ヴィランクや、二○○八年のジロ・デ・イタリアで活躍したエマヌエーレ・セッラのような、どんな坂にも怯まない力強さがある。
 違う。
 これは、違う。
 これは、山岳スペシャリストのヒルクライムだ。
「……あ、あんたっ!」
 そのことに気づいた瞬間、都は思わず叫んでいた。
「……っあんた、シロウト、じゃ、ないっしょ?」
 できっこない。
 たとえ元々の心肺機能がどれほど優れていたとしても、付け焼き刃ではこんなヒルクライムができるわけがない。強靱な心肺機能と、傾斜に負けない筋肉を合わせ持ち、どんなに疲れていても滑らかにペダルを回し続けられるフォームを身体に覚え込ませなければならないのだ。
 恵まれた才能と不断の努力、そのふたつを併せ持つ者だけが真のクライマーとなれる。どんなに持久力があっても、筋力があっても、この限界下で、綺麗なフォームとリズムを維持して走り続けるなんて、ひと月やそこらで身に付くものではない。
 素質のある人間が、何ヶ月も、何年も、坂を走り続けてようやくできることだ。
「あたしは、自分が、素人なんて、一言も、言ってないよ?」
 楡がにんまりと笑う。
「あっ……あのっ、最初の、ド下手な、ペダリングは、なんなのよっ?」
「……相手の、気を惹く、ための、ちょっとした、演技なんて、恋愛には、つきものでしょ?」
 悪びれた様子など微塵もなく、ぺろっと舌を出す。
「あ、あんた……」
「えるむって、呼んでよ。この名前、気に入って、るんだから」
「……やかましいっ!」
 怒気をはらんだ声で叫ぶ。
 その怒りの半分は、自分に向けられたものだ。
 迂闊だった。
 楡の走りを見ていながら、ここまで気づかなかったなんて。
 嬉々として坂に立ち向かう姿を見ていながら、素人という先入観が邪魔をしていた。
「……ホントは、レース、やめてたんだ。だから、これは、奥の手。これを、やらなきゃ、都に、振り向いて、もらえないから」
 もう頂上は目前だ。
 楡は苦しそうな呼吸を繰り返しながらも、スピードは緩めない。
 頂上に達したところで、後ろを振り返った。その視線は都ではなく、もっと下に向けられていた。
 口元に、これまでとは違う種類の笑みが浮かぶ。
 都もつられて振り返った。
 九十九折りの登り坂。木々の隙間から二人がいま登ってきた道を見おろせる。そして、そこを懸命に登ってくるふたつの人影があった。
「これで、二対二だよ」
 楡が笑う。
 追ってくる二人は、白岩学園の平岸と白石だった。他の選手の姿はない。二人だけでペースを上げ、他の六人を置き去りにしてきたらしい。
 白石は登りのスペシャリストだ。本気を出した彼女が、最強のオールラウンダー平岸を牽いている。
 都たちが飛び出した直後は、おそらく集団で追おうと考えたのだろう。しかし楡のペースが予想以上に速いために、逃げ切られる可能性を無視できなくなったに違いない。
 もうレース終盤で、みんな疲労しきっている。人数が多くても前半のようにペースは上がらない。むしろいくらか力の劣る円山や本橋のペースに合わせるとなると、集団は逆に足手まといだ。
 それに、集団の中に優勝候補筆頭の平岸がいては、どうしても牽制が入ってしまう。ゴールまでの残り距離が少なくなった状況では、前半の六人の追走のように、完全に損得抜きで協力することはできない。
 だから平岸は、集団を切り捨てることにしたのだろう。右腕ともいうべき白石だけを連れて、二対二の真っ向勝負を挑んできた。
「さあ、ここからが本番」
 強力な二人の追撃。差は一時よりも詰まっているだろう。
 しかし楡の表情は明るい。
 都にもわかった。これが、楡の望んでいた展開なのだ。
 北海道の女子では最高のオールラウンダー平岸亜依子、そして最強のクライマー白石佳織。その二人に宮沢、円山という献身的なアシストが加わることで、白岩学園自転車部は最強のチームとなっていた。
 しかし今、そのチーム体制は崩れている。
 向こうは二人。
 こちらも二人。
 二対二。条件は五分。
 これまで四対一の戦いを強いられていたことに比べたら、これはなんと恵まれた状況なのだろう。
 互角の条件でゴールスプリントに持ち込めたら、都は平岸に負けない。総合力ではともかく、ゴール前二百mの都は最速だ。
 その都を、ゴールまで牽いていってくれるアシストがいたら?
 そのアシスト選手が、平岸をアシストする白石と互角か、それ以上の力を持っていたら?
 勝てる、のだろうか。
 五分の条件でゴールスプリントに持ち込める――それだけでも都にとっては信じられない幸運だ。
 本当に? いやいや、そううまい話はあるまい。
 都は気持ちを引き締める。
 楡が素人ではなく、相当な力を持っていることはわかったが、それでも今のヒルクライムは無茶だった。
 呼吸は乱れ、脚は震えている。もう力はほとんど使い果たしたはずだ。このまま都をゴールまで牽いていく脚は残っていまい。
 登りの間はずっと楡が前を牽いていたが、ここは先頭を替わるべきだろう。そう考え、頂上を越えたところで前に出ようとした。
 しかし、掌をこちらに向けた楡の腕が、押しとどめるように都の進路を塞いだ。
「前に、出なくて、いいから」
 喘ぐように言うと、下りに向けてギアをシフトアップする。
 見るからに苦しそうなのに、前を牽くことをやめようとしない。
 このままゴールまで都を引っ張っていくつもりなのだろうか。いくらなんでもそれは無謀だ。
 細身で、見るからにクライマー体型の楡。このタイプはえてして下りや平地は速くない。登りでは軽量が武器になるが、それ故に、スピード勝負に必要な絶対的な筋肉量が足りないのだ。
「……無理だって、ゴール前に追いつかれるって」
「いいんだよ、それで」
 苦しそうではあるが、それでも楡の口調に暗さはない。
「五分の条件なら、都はスプリントで勝てるんでしょ?」
 その言葉にはっとして後ろを振り返る。
 いま越えてきたばかりの頂上。追ってくる二人の姿はまだ視界に入らない。
 まだ、差はある。
 この差があれば……
 楡の言う通りだ。
 確かに、力を使い果たした楡が牽き続けていたら、ゴール前に追いつかれるかもしれない。最強を誇る平岸と白石のコンビの力はだてではない。
 しかし、それでも構わないのだ。
 今の登りで、差はかなり開いている。そのために楡が支払った代償は少なくなく、この先の下りや平坦区間では充分な速度は出せないかもしれない。先頭を交代しようにも、都だってこの登りのダメージは相当なものだ。
 それでも、これだけ開いた差を詰めるのは簡単なことではない。追いつくためには、平岸と白石は全力で先頭交代しなければならないだろう。平岸を温存して白石ひとりで牽いていては、ゴールまでに追いつけまい。純クライマーの常として、白石も下りや平地では特筆するほどの速さはない。追撃のためにはどうしても平岸の力が必要だ。
 逆にいえば、平岸が先頭交代に加わればぎりぎり追いつける。しかしその代償として、平岸は脚を消耗する。
 それに対して、楡が前を牽いている間、都は休むことができる。登りで消耗しきった脚も、最後のスプリントができる程度には回復するだろう。
 まったくの五分でもスプリントでは都が有利。しかしこのままいけば、五分以上の条件で勝負できるのだ。
 最後の下り区間、楡が前を行く。
 予想していたよりもペースは速い。体型的には下り向きではないし、もう脚も残っていないはずだが、テクニックでその不利を補っている。
 ハンドル中央部を握り、顔をハンドルぎりぎりまで下げ、脇と膝を締めて脚を止めた姿勢。スキーのダウンヒル競技に似た、空気抵抗を最小限に減らすポジション。いわゆるアメリカンダウンヒルスタイルだ。
 下り坂では、姿勢による空気抵抗の差だけでも目に見えて速度が変わる。逆に全力でペダルを漕いだところで、急な下り坂では脚が回りきってしまうだけで速度アップにはほとんど寄与しない場合もある。成長期にある高校生以下は、脚を痛めないために一定以上重いギアの使用が禁止されているからなおさらだ。むしろがむしゃらにもがくことで、空気抵抗が増すデメリットもある。
 都はぴったりと楡の後ろにつく。
 楡のおかげで空気抵抗が軽減されるので、極端なダウンヒル姿勢を取らなくても同じ速度が出せる。負荷をかけずに脚を回して血行を良くし、疲労回復に努める。
 これまでのところ、楡の下りはなかなかのものだ。何度もこのレースを走っている都と違い、このコースは初めてのはずなのに、コーナーリングに迷いがない。体重移動がスムーズでライン取りも的確だ。
 これは天性の勘だろうか。マウンテンバイクのレースと違い、ロードレースでは下りのテクニックで勝負がつくことは少ないが、それでも稀に、下りで天才的な才能を発揮する選手がいる。楡はここまで、下り向きではない体格をテクニックで充分にカバーしていた。
 下り区間が終わる。
 ゴールまで、残すは数kmの平坦区間のみ。ここで速度を維持できるかどうかが勝負の分かれ目だ。
 楡は相変わらず、ハンドル中央部に手を乗せて、身体を小さく丸めていた。普通、平地の高速巡航ではハンドル下部やブラケット部分を握るポジションを取ることが多いが、空気抵抗だけを考えれば楡の体勢は悪くない。山岳区間よりもややサドルの前の方に座り、タイムトライアル用バイクに近い姿勢を取っている。平地でハイペースを維持するには最適の走り方だ。
 それでも、楡は本当に苦しそうだ。
 荒い呼吸の音が、後ろを走っている都の耳にも届く。
 血管が浮き出た脚の筋肉が不自然に強張っている。
 脚の動きに合わせて、上半身が小刻みに上下している。
 本来、ロードレースでは上半身を固定して体幹がぶれない姿勢が理想とされている。この動きは、もう本当に脚が残っていなくて、全身から最後の力を絞り出そうとしている証だ。
 ちらり、と背後を振り返る。
 来た。
 平坦な直線に入って、追ってくる二人の姿が視界に入ってきた。
 短い間隔で先頭交代を繰り返し、必死にペースを上げてじわじわと差を詰めてくる。
 楡も後ろを振り返る。
 脚にさらに力を込めたようだが、もうペースは上がらない。
 楡はもうほとんど力尽きかけているし、そうでなくても二対一、平地では向こうの方が早い。
 徐々に追いついてくる。
 コース脇に掲げられた残り距離の数字が減っていく。
 あと一km。
 後ろの二人が近づいてくる。前を行く標的を射程に捉えて気合いが入っているのだろう。
 白岩学園の二人はまだ先頭交代を繰り返している。やはり白石が牽いている時のペースはそれほど速くない。だとすると、この追い上げは平岸の脚をかなり消耗させていることだろう。
 計算通りだ。
 追いつかれても、勝機はこちらにある。
 残り五百m。
 二人が迫ってくる。もう、すぐ後ろに気配を感じる。
 それでも、都の後ろについて風よけにしようとはしていない。王者のプライドだろうか。あるいは、これまで白岩学園の列車を利用せずに真っ向勝負を挑み続けてきた都に対して敬意を表しているのかもしれない。
 都はスパートをかけるタイミングを計る。
 残り距離。
 後ろとの差。
 そして、楡の限界。
 本来のゴールスプリントは残り二百m以下でダッシュするが、楡の脚はそこまで保つまい。そこまで引っ張ったら平岸に前に出られてしまう。
 やはり、もっと手前からロングスプリントを仕掛けるしかない。
 ハンドルを握りなおし、右のシフトレバーに中指をかける。
 左後ろから白石が追いついてくる。都の隣に並びかける。
「……楡っ!」
 都が叫ぶ。
 腰を上げる。
 シフトアップする。
 楡が左に進路を変える。
 それらの動作がほぼ同時だった。
 ペダルを踏みしめて加速する都。
 楡が前を横切る形になったため、白石と平岸の反応はわずかに遅れた。
 その隙に速度を上げ、差を広げる。
 一瞬遅れて白石が腰を上げる。スプリントはさほど速くない選手だが、それでも自分の限界速度まで平岸を引っ張るつもりらしい。山岳アシストをこなした後で、さらにゴールスプリントの発射台になろうとしている。献身的なアシストだ。
 しかし、平地のスピードでは白石は都の敵ではない。
「……亜依!」
 残り二百m、白石が進路を空ける。平岸が最後の加速を始める。
 トップスピードに乗るまで白石に牽かれていた平岸の一瞬の加速は、都のスピードを凌駕した。先にスプリントを始めたことで稼いだアドバンテージが失われていく。
 都は三百mを超えるロングスプリントを仕掛けたため、まだ全力は出せずにいる。人間が本当に全力を出せるのはほんの数秒だ。陸上の百m走に要する十秒弱の時間ですら、百パーセントの力を出し続けることはできない。
 追い上げてくる平岸の気配を感じながら、最後の力を絞り出すタイミングを計る。
 大丈夫、勝てる。
 自分に言い聞かせる。
 ここまで楡に牽かれてきた都と、白石に牽かれてきた平岸。
 条件は互角。
 ならば、負けるわけがない。
 負けるわけにはいかない。
 勝利こそが、献身的なアシストに対する最大にして唯一の謝辞なのだ。
 残り距離はもう五十m弱。
 平岸が横に並びかける。
 その瞬間、ギアをトップに入れる。
 この時のために大切にとっておいた最後の燃料を爆発させる。
 スプリンター大崎都の、本当の姿を露わにする一瞬。
 ほんの数秒間。このわずかな時間のために、何百km、何千kmという距離を走ってきた。
 力いっぱいにハンドルを引く。全身の力でペダルを踏み込む。
 最後の、加速。
 それが、楡の想いに対する都の答えだった。



「な、俺の言った通りだろう?」
 フィニッシュラインを越えた都を迎えたのは、井口の、いまいちしまりのない笑顔だった。
「……真木ちゃんがいれば白岩学園に勝てるって」
 自転車を停めた都は、震える脚で立ち、差し出されたボトルを受け取って浴びるように飲んだ。
 激しい呼吸を繰り返すばかりで、すぐには声が出せない。
「…………井口、さん……知ってたんでしょ? 楡が、シロウトじゃ、ないって」
「俺が、なにも知らない素人の女子高生に三十万円のバイクを売るような人間だと思ってた?」
 にやにやとからかうような笑み。これは、楡とぐるだったと考えるべきだろう。きっと楡は自分の正体を話した上で、都には内緒にさせたのだ。
「……聞いて、たんだ?」
「当然。もっとも、一目見てわかったけどね。経験者だって」
「え?」
「真木ちゃんの脚、クラスメイトなのに気づかなかった? あれはロードかクロカンやってた人間の脚だよ」
「……つまり、井口さんは女子高生の脚ばかり見てるんだ?」
「……」
 否定の言葉が返ってこないところが微妙に怖い。
「……ったく、二人して、私のこと騙して……あんたも同罪だよ、楡」
 すぐ後ろでゴールしたはずの楡を振り返る。

 ……と。

 都の目に映ったのは、左胸を押さえて苦しそうにうずくまる楡の姿だった。


<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2008 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.