終章


 数日後――

 都は花を手にして病院を訪れた。
 楡の性格を考えたら食べ物の方がよかったのかもしれないが、なにしろ病気で入院しているのだから、食事制限とかがあるかもしれない。
 ゴール直後に倒れた楡は、そのまま救急車で近くの病院に運ばれ、二日後、札幌の大きな病院へと移ってきた。
 その後、精密検査などがあって、ようやく面会できるようになったのが今日だ。
 都の表情は険しい。不機嫌そうに、大股で病院の廊下を早足に歩いていく。
「……ったく」
 心臓に障害があることを、楡は井口にも話していなかった。当然だろう。知っていたら、井口も楡をレースに出させたりはしなかったはずだ。
 だから楡は「引っ越しをきっかけに自転車から遠ざかっていた」と嘘をついていたらしい。
「…………」
 病室のドアの前に立つ。
 ノックしようと上げた手が止まる。
 中学時代の楡は、トップクラスのクライマーだったという。富士山で開催される数千人が参加する大きなヒルクライムレースで、高校生、大学生を差し置いて、十代でもっともいい成績を出した選手に与えられる賞を獲得したこともあるというのだから、その実績は都よりもよほど上だ。
 なのにレースから遠ざかっていたのは、心臓に障害が見つかったから。日常生活には問題ないが、激しい運動をすると発作を起こす可能性があったらしい。
 当然、今回のレースに参加することはもちろん、またロードバイクに乗りはじめたことも親には内緒にしていたという。
 生命の危険を顧みず、都を勝たせるためにあんな無茶をしたのだ。
「……、くそっ!」
 ドアを殴りつけるようにノックする。
 中から、明るい声が返ってくる。
 ドアを開けると、ベッドに横になっている楡の姿が視界に入った。
 点滴の管と心電図のコードがつながれているが、表情は明るい。
「待ってたよー、都」
 予想していたよりもはるかに、いや、普段となんら変わらない元気な声と笑顔が都を迎える。
 その笑みが無性に癇に障る。
「……バカじゃないの、あんた」
 口を開けば、出てくるのは憎まれ口だ。
「えー、どうしてー? 約束通り、都を勝たせてあげたじゃない。ほめてくれてもバチは当たらないよ?」
「あんなことされても嬉しくないっつーの! わかってんの? ひとつ間違えば死ぬトコだったんだよ?」
「いやー、まさかホントに発作起こすなんて思わなかった」
 悪びれずにへらへらと笑っている。
「障害っつってもこれまで発作なんか起こしたことなくて、健康診断で心電図とった時にたまたまた見つかっただけなんだよ? そりゃあ、激しい運動は禁止といわれてたけどさ。その直前に富士山登ったって平気だったんだから」
 だから今回も大丈夫だろう……なんて、まさに素人考えだ。
「だからバカだっつーんだ」
 楡がしてくれたことには、いくら感謝してもし足りない。
 勝てたことはもちろん嬉しいし、それ以上に、強力なアシストと力を合わせて走る楽しさを経験させてもらった。
 だけど。
 こんなの、喜べない。
 素直に感謝することなどできない。
 ひとつ間違えば、今日、こうして楡と会うこともできなかったのかもしれないのだ。
 都としては、怒るしかない。
 怒っていなければ、泣き出してしまいそうだった。
「……この…………バカ…………」
 だめだ。
 目が潤んできてしまう。
 本格的に泣き出しそうになるのを必死に堪える。
「……都、ごめん」
 楡も、神妙な表情になる。
 儚げな笑みを浮かべて言う。
「しばらく、会えなくなる」
「……」
 せっかく、あんなに素晴らしい、あんなに楽しいレースができたのに、あの一度きりでもう一緒に走ることはできない。
 それを考えると、さらに涙が込み上げてくる。
「あたし……手術、受けることに決めた。だから……しばらく、会えなくなる」
「え……?」
「心臓の障害が見つかった時、あたし、手術するのが怖くて……激しい運動をしなければ、薬飲んで時々検査受けるだけで普通の生活を送れるって言われたから、じゃあそれでいいや……って」
「……でも、レースであれだけ実績残してたんでしょ?」
 それだけの力がありながら、走ることを簡単に諦められたのだろうか。
 完全に治してもう一度……とは考えなかったのだろうか。
「富士山でいい結果を出して、いちばん調子に乗っていたそのピークで、いきなり走ることを取り上げられちゃったんだよ? ……なんか、ヤケになっちゃって、もういいやって。……富士で使ったフレームも捨てちゃった」
 まだ乗れるフレームを捨てる。それも、愛着と想い出があるものを。
 そのことから、楡が受けたショックの大きさがうかがえる。
 メーカーから毎年新フレームを供給されるプロ選手ならともかく、アマチュアの市民レーサーにできることではない。井口の店には、二十代の頃に北海道選手権や実業団のレースで優勝した時のフレームが今も記念に飾ってある。
「……それに、限界も感じ始めてたんだ。ヒルクライムじゃ無敵だったけど、あたし、ヒルクライムしか走れないから。スプリントなんてめちゃめちゃ遅いから。ヒルクライムレースだけのアマレーサーも多いけど、あたしの理想は違うんだよね。登りだけとか、下りだけとかじゃなくて、登りだろうと下りだろうと、道路が続く限り走る。それがロードバイクってものだと思う。だけど理想は理想。登りじゃない限りあたしは勝てないし、ヒルクライムレース以外で、本格的な山岳コースのレースなんて日本にはないし」
 そうだ。
 ロードレースが文化として根づいているヨーロッパとは違い、日本では公道を利用した本格的なレースは少なく、多くが公園や河川敷などを利用したサーキットレースだ。当然、ヒルクライムレース以外では本格的な山岳コースなどほとんどない。市民レースでは、大滝ほどのコースも皆無だろう。
「だから……もういいや、って思ってた。でも……、都と出会って、もう一度レースしてみたくなった。都とだったら……都のためだったら、自分が勝てなくても、アシストとしてエースを勝たせることに専念してもいい、都を勝たせるために尽くしてみたいって、思った」
「楡……」
「あのレース、楽しかったよ。自分が優勝した中学時代のヒルクライムレースよりもずっと。……都と一緒に走ることが楽しかった。都が勝って、本当に嬉しかった」
 清々しくて、どこか儚い笑みを浮かべて言う。
 今まで楡が見せたことのない表情だ。
「だから、手術することにした。どのくらいかかるかわからないけど、ちゃんと運動のできる、完全に健康な身体になりたいって思った」
「……うん」
「そして、都と……」
「……うん」
 都もうなずく。
 また、一緒に走ろう。
 また、一緒にレースしよう。
 そう言いかけたのだけれど。

 そこで、楡の表情が変化する。
 笑顔であることは変わらないが、いかがわしいオーラをまとったにんまりとした笑みに。
「……そして、うんと激しくエッチしようね? それまで『賭け』の賞品はおあずけで」
「――――っっ!」
 反射的に蹴りを入れそうになった脚をなんとか抑えたのが、都の、病人に対する精一杯の思いやりだった。


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