「彩樹、こっちよ。早く」
 前を歩く翠が手招きをして、森の中の小径へと入っていく。彩樹も素直にその後に続いた。
「どこまで行くんだ、翠?」
 いつしか彩樹は、姉のことを名前で呼んでいた。いや、それで正しいはずだ。「お姉ちゃん」なんて呼び方をしていたのは、小学生の頃の話。朝はきっと、子供の頃の夢を見ていたから間違えたのだ。
「いいところ。この間、森の中で素敵な場所を見つけたの」
 翠は軽やかな足取りで、小径を進んでいく。外は陽射しが強かったが、森の中に入ると空気はひんやりとしていた。
「彩樹だけに教えてあげる。二人だけの、秘密の場所」
 人差し指を唇に当てて、翠は無邪気に笑う。もう大学生になのに、いつまでも子供っぽい姉だ。一緒にいると、彩樹の方が年上に見られることが多い。
 だけど彩樹は、そんな姉のことが好きだった。



「近くに、います」
 早苗と一緒に行動していたメルアが、かろうじて聞こえる程度にささやいた。早苗の足が止まる。
 メルアは魔術師としての能力も持っていて、夢魔の気配を追っていたのだ。
 奏珠別公園に着いた一行は、二手に分かれて森に入っていた。早苗とメルア、アリアーナと一姫とスピカという組み合わせだ。要するに、夢魔の気配を追う魔力を持った者と戦闘能力に秀でた者、ということである。
「どこに?」
 同じように微かな声で訊き返す。薄暗い森の中、早苗も視力には自信があるが、それらしき姿は見つけられない。
 メルアは無言で前方を指差した。肉眼では樹々と下草の茂みしか見えないので、ライフルを構えてスコープを覗く。
 いた。
 百メートル以上離れている。十倍のスコープでもほんの小さくしか見えない。
 眠っているのか、樹の根元で丸くなっていた。右手百メートルくらいのところを進んでいたアリアーナたち三人に、止まれと手で合図を送る。
 早苗は地面に膝を着き、前にあった倒木の上に銃を乗せた。身体を小刻みに動かして、もっとも安定する姿勢を探す。
「この距離で当たりますか、サナエさん?」
「大丈夫。それと、今はウチのことをボブって呼んで」
「は?」
 意味不明の台詞首を傾げるメルアを無視し、スティーブン・ハンターの小説に登場する凄腕のスナイパー、ボブ・リー・スワガーになりきって、早苗は小さな魔物を狙う。
 距離はおよそ百五メートルと推測した。照準は八十メートルで調整してある。普通の銃なら目標のやや上を狙うところだが、重力の影響を受けない魔光銃では逆になる。
 早苗はスコープの十字線を、夢魔と地面の境界線に合わせた。スワガーが「一時溶接」と表現する、固定された姿勢を取る。構えた銃は微動だにしない。
 風はほとんどない。これは幸いだった。魔法エネルギー弾は風の影響もほとんど受けないが、下草や枝が揺れて射線を遮る可能性もある。
 撃て、と脳が命令を発する。早苗の指は一定の速度で動き、銃爪に触れ、そのままのペースを変えずに引いた。
 丸く切り取られた視界の中に、一瞬、黄色い光が走る。
 甲高い叫び声。
 小さな獣の身体が跳ね上がり、そして地面に落ちた。
 それで、終わりだった。
 積もった落ち葉の上に横たわった獣は、ぴくりとも動かない。
 早苗はふぅっと息を吐き出すと、のろのろと立ち上がった。小さく伸びをして、固まった関節をほぐす。
「いい腕ですね、サ……いえ、ボブさん」
「……ありがと」
 事が終わったことを悟ったアリアーナたちが、死体の回収に向かっている。早苗たちもそれに倣った。
 早苗の狙撃は完璧で、夢魔の身体の中心を貫いていた。周囲の地面に、紅い斑点が散らばっている。
 しかし早苗は、どこか浮かない表情だった。
「……なんかヤだな。こーゆーの」
「早苗さん?」
 初めてだった。銃で、生き物を殺したのは。休日の安眠を妨害する窓の外のカラスを狙撃したことはあるが、エアソフトガンでは追い払う程度の威力しかない。
「……だから、彩ちゃんを呼べばよかったんだ」
 泣きそうな顔で、ぽつりとつぶやいた。
 彩樹なら、こんな思いはしないだろう。それがいいことかどうかはともかく、その必要があれば生き物の生命を奪うことについて、彩樹はなんの躊躇いもない。
 早苗は迷彩服の袖で、ぐいっと顔を拭う。
「さあ、残るは二匹。行こう」
 無理に笑顔を浮かべて、また歩き出した。


 その時。
「きゃああっ!」
 一姫が悲鳴を上げた。樹の上から突然、夢魔が襲いかかってきたのだ。小さくとも肉食獣、その牙は鋭い。
 一姫の悲鳴に、獣の絶叫が重なった。夢魔の牙は、一姫には届かなかった。
「……え?」
 恐る恐る顔を上げると、目の前に、不適な笑みを浮かべた人物が立っていた。その足元に、小さな獣が横たわっている。
「大丈夫か、一姫」
「……さ、彩樹さん!」
 いつの間に現れたのか、彩樹がそこにいた。一姫に飛びかかろうとした夢魔を、手刀で打ち落としたのだろう。
「彩樹さん!」
 一姫は思わず、彩樹にしがみついた。彩樹は笑いながら、一姫の頭をぽんぽんと叩く。
「なんだお前、あんなコトで泣いてンのか?」
「な、泣いてなんかいませんわ」
 目に涙を浮かべながら、一姫は強がりを言う。
「ただ、ちょっとびっくりして……」
 そのまま、彩樹の胸に顔を埋めた。
「……ありがとうございました。彩樹さん」
「いいってことさ。お礼は今夜、ベッドの中でな」
 相変わらずの台詞とともに抱きしめられて、一姫は真っ赤になった。激しい鼓動は、きっと彩樹にも伝わっているだろう。
「いっちゃん、危ない!」
 突然、魔光銃のくぐもった銃声が響いた。
 獣の叫び声がその後に続く。
「……え?」
 一姫の目の前に、スピカが立っていた。手には抜き身の短剣を持っていて、刃に血が付いていた。
「え? あれ?」
 そして、自分を抱きしめていたはずの彩樹の姿は、どこにもない。
「油断したようだな、イツキ。相手は一匹じゃないぞ」
「え?」
「サナエさんが夢魔を仕留めた時に気が緩んだのでしょう。結界に綻びができてました」
 一姫の足元に転がる二匹目の夢魔の死体を拾い上げ、袋に詰めながらスピカが言った。
「彩ちゃんの名前を呼んでたね? ダメだよ、同じ手に二度も引っかかっちゃ」
 早苗も苦笑している。一姫は一人、きょとんとした顔で周囲を見回していた。
「……夢? 今のも、夢?」
 どこからが夢だったのだろう。まったくわからなかった。現実と区別が付かない。一姫が思っていた以上に、この夢魔は恐ろしい魔物であるようだった。
「さて、残るは一匹だな」
 相変わらず抑揚のない声で、アリアーナがつぶやく。主席宮廷魔術師すら上回る力を持つ彼女は、夢魔の最後の一匹の気配を感じ取っていた。



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