「アユミ」
冷たい声に名前を呼ばれて、のろのろと立ち上がった。
「出番だよ。さっさとしな」
これから闘いの場に向かう者に対する気遣いなど、微塵も含まれていない乾いた声。
「……はい」
応える自分の声も、砂漠の砂のように乾ききっていた。
顔を上げると、案内人である見慣れた中年女の顔が目に入る。薄暗いランプの灯りのせいもあるのかもしれないが、濁った目をしている。だけどそれは、自分も、ここにうずくまっている他の闘奴たちも同じなのだろう。
足を踏み出すと、両足首をつないでいる太い鎖ががちゃりと音を立てた。
手首ももう少し細い鎖でつながれていて、ずっしりと重い。
ばかばかしい演出……表情には出さずに、心の中でつぶやいた。
こんなことをせずとも、闘奴は逃げ出したりはしない。少なくとも、まともな思考能力があるのであれば。
ほとんどの闘奴は、普段は鎖も足枷もつけられてはいない。アユミのように大人しくて従順な者であればなおさらだ。
こんな、見た目だけの鎖など必要ない。闘奴を縛る目に見えない鎖は、もっと太く、重く、そして残酷なのだ。
魔法、という名の見えない鎖。
魔術師と呼ばれるほんの一握りの者たち以外、断ち切ることのできない鎖。
一度だけ、見たことがある――無理やり見せられた、というのが正しい。逃亡を企てた闘奴の処刑を。
二度と思い出したくない光景だった。一瞬のうちに、紅い肉片と化す人間の姿など。
あれを見れば、逃亡しようなどと考えるのは自殺志願者だけになる。それに自殺するのであれば、もっと綺麗な死に方はいくらもあるのだ。
この鎖はあくまでも、観客向けの演出だった。試合の前、控室に連れてこられた時に付けられる。鎖でつながれた可憐な少女――そんなシチュエーションが、観客には受けるのだそうだ。
(……ふぅ)
前を歩く案内人に聞こえないように、溜め息をつく。
いつものことながら、心が重い。
この場から逃げ出してしまいたい。
重い鎖を引きずりながら、闘技場へ続く暗い通路をゆっくりと歩いていく。その一歩ごとに、足取りはさらに重くなってゆく。
裸足の足に、冷たく固い石の感触が伝わってくる。微かな足音は、鎖の音にかき消されていた。
「……今日の相手は、どんな方ですか?」
案内人の背中に向かって訊く。前を歩く女は振り返ることもなく、事務的な素っ気ない声が返ってきた。
「ランドン闘技団所属のマイラ……あまり聞かない名だね」
「そう……ですか」
アユミも聞いたことのない名だった。強い闘奴や人気のある闘奴であれば、その名は嫌でも耳に入ってくる。まったく聞き覚えのない名前ということは、人気も実力も大したことがないのか、あるいはまだ評価の定まっていない新人だろうか。いずれにしても、相手に対する予備知識がまったくないというのは不安なことだった。
「怖いのかい?」
女が訊く。アユミは応えなかった。
応えるまでもない。当たり前のことだ。
闘うのは怖い。
脚が震えているのがわかる。
控室を出る前に水を口に含んだはずなのに、喉がからからだった。
怖い。
ここから逃げ出したい。
だけど、逃げることはできない。
自分は闘奴なのだ。
闘技場で闘うことだけが存在意義。その立場から逃げ出す方法は「死」だけだ。
生きていたければ、闘い続けるしかない。
闘って、勝つしかない。
他の選択肢は存在しない。
それが、闘奴だった。
「あんたの対戦相手、先刻ちらっと見かけたけどね。体格がよくて、力だけは結構ありそうだったよ。でも、あんまり素速そうじゃなかったね」
あまりにも不安げな表情をしているので不憫に思ったのか、女はそう付け加える。アユミは無言で小さくうなずいた。
相手の方が大きくて、力も強い。
あまり役に立つアドバイスとも思えなかった。それはいつものことだ。相手が大きいのではない。アユミの方が、いくら女とはいえ闘奴としては小さすぎるのだ。
闘いの場ではひどく頼りないこの華奢な身体が、しかし彼女のたった一つの財産であり武器でもあった。小柄で華奢なアユミが勝つからこそ、観客は盛りあがる。だから、短い戦歴の割には人気がある。
人気があるのはいいことだ。
意識の片隅でそう考える。半ば、諦めに似た思いではあるが。
闘奴よりも惨めな身分があるとしたら、それは「人気のない闘奴」だろう。人気と実力があって、かつ主人にいくらかの良心があれば、奴隷としてはかなりましな生活を送ることもできるし、十分な実績を残して引退した後は、自由の身になることもできるという。それだけが、唯一の希望だった。
「あんたなら勝てるでしょ。頑張んなさい」
女がからかうような笑みを浮かべる。一応は励ましているつもりなのかもしれない。
アユミも微笑もうとしたが、口の端が不器用に引きつっただけに終わった。闘いの前に、笑うことなんてできなかった。
突然、視界が明るくなる。
歓声が響き渡る。
直径が十数メートルの、円形の広場。固い土の上に、薄く砂が敷かれている。
そこが闘いの場だった。
周囲には、段差をつけた観客席が設けられている。ここに立つと、いつも大きなすり鉢の底にいるような気になった。
観客席に、空席はほとんど見当たらない。西の空が朱く染まっている。そろそろ混んでくる頃だろう。もっと早い、新人の試合ばかりが組まれる時間帯だと、それなりに空席もあるのだが。
闘技は、この国で一番の娯楽だった。希に、人間と猛獣を闘わせる異色の試合もあるらしいが、人間同士の格闘の方が人気がある。特に、ビキニの水着にも似た露出の多い衣装で闘う女闘奴の試合となればなおさらだった。
闘技は他の国でも広く行われているが、女闘奴の試合を常時開催しているのはこの闘技場だけだ、と聞いたことがある。しかしアユミはもちろん、他の国など行ったことがない。
ゆっくりと、観客席を見渡した。ずいぶん盛り上がっているようだ。前の試合は熱戦だったのだろうか。
いったい、どちらがいいのだろう。ちらりと、そんなことを考えた。
闘奴の試合は、所詮「見せ物」だ。それなのにろくに見る者もいないところで闘う虚しさと、これだけ大勢の前でさらし者になる惨めさと。
小さく溜息をつく。
いずれにしても救いのない話だが、ここでそのことを嘆いていても仕方がない。
いま与えられている選択肢は、目の前の相手を倒すか、惨めに負けるかの二つしかないのだ。
(だったら……)
負けるよりは、勝つ方がいい。欲を言えば、あまり痛い思いをせずに楽に勝てればいい。叶う可能性の低い願いではあるが。
対戦相手に目を向ける。
背が高い。百七十センチは超えているだろう。アユミの身長は相手の肩を少し超えるくらいしかない。
がっしりした体格で、全体的に骨太な印象だ。体力的にはアユミよりもずっと上に違いない。
顔やスタイルは、お世辞にも美しいとか、女性として魅力的とは言い難い。なるほど、これではさほど人気が出ないのもうなずける。
当然、強くて美しいければ一番人気が出るのであるが、強くて醜い者と美しくて弱い者では、一般に後者の方が人気が高い。それが男の闘奴との大きな違いだ。
アユミも決して目を見張るような美少女というわけではないが、顔はそこそこ整っているし、なによりこの場でアユミの小柄で線の細い身体は、観客の目には実際以上に華奢で可憐に映る。
それでいて試合では新人としては悪くない成績を上げているのだから、人気が出てくるのも当然といえた。
観客は、アユミを応援しているものが圧倒的に多い。そんな観客を、対戦相手――名前はマイラとかいっただろうか――が威嚇する。
向こうは、アユミを舐めている様子がありありと見て取れた。いつものことだ。実際にアユミを目にすれば、その外見だけで客に受けていると思われても無理はない。ずいぶんと自信ありげな態度だ。
アユミも余裕のある表情を見せたかったが、とても無理だった。どうしても怯えたような、不安げな顔になってしまう。意識してやっているわけではないそんな表情が客には喜ばれているというのだから、心境は複雑だ。
審判が、二人の鎖を外す。
続いて、武器を持っていないことを確認する。
考えてみれば、これも無意味なことだった。胸と局部を最小限に隠しているだけの格好で、どこに凶器を隠せるというのだろう。
今日、何十回目かの溜息をついた。
それでも、どんなに心が重くても、闘わなければならない。
試合開始の合図である鐘が鳴らされる。
観客席全体が呻りを上げる。
アユミは両拳を軽く握って、顔の前に構えた。
マイラが近付いてくる。腕力を誇示するような格好で拳を握りしめ、薄笑いを浮かべている。
アユミは慎重に間合いを読んだ。
リーチは相手の方が遙かに長い。間合いを読み間違えたら、リーチが短くて体力的に劣るアユミに勝ち目はない。
相手の視線、構え、足運び。
ひとつひとつを観察する。
それほど優れた技術を持っているようには思えない。腕力にものをいわせて、力任せに殴りつける戦法だろう。
確かに、並の相手であればそれで充分勝てるのかもしれない。上腕の筋肉は、女性としてはかなり太い。
マイラの拳が届く間合いに入る瞬間、アユミは自分から前に出た。タイミングをずらされた相手が、一瞬ぎこちない動きを見せる。
同時に、低い姿勢から脚を蹴り上げた。
つま先が、鳩尾に突き刺さる。マイラの身体がくの字に曲がる。
前屈みの体勢になったことで、顔がちょうど攻撃しやすい高さに来た。顎を狙って、左右の掌打を続けざまに叩き込む。
マイラはふらついて、焦点の合わない目で二、三歩下がった。
そこを追撃する。
大きく前に踏み出すと同時に、身体を独楽のように回転させる。
上段の後ろ回し蹴りが、相手のこめかみにヒットした。マイラはそのまま、砂煙を上げて倒れる。
周囲から、割れるような歓声が上がった。いきなりの大技に沸き立っている。
誰よりも速く、鋭い蹴り。この華麗な技も、アユミの人気の秘密だった。
アユミは、倒れている相手に慎重に近付いていった。
まだ、審判はアユミの勝利を宣言していない。相手が立ち上がってくる余力があるかどうかを確かめ、とどめを刺さなければならなかった。
マイラは意識を失っている……ように見えたのだが、近付いたところでいきなり足首を掴まれた。
あっ、と思った時にはもう遅い。アユミは地面に引き倒されていた。
相手が背後に回り込む。
固い筋肉をまとった太い腕がアユミの細い首に回され、力ずくで締め上げてくる。
マイラはそのまま立ち上がった。軽いアユミの身体を吊り上げるような格好で、まともに気管を締めている。本来は反則なのだが、凶器の使用や目への攻撃と違って、よほど悪質なものでない限り審判は見逃すのが普通だった。
もしかしたら、審判や主催者による演出なのかもしれない。最初にアユミが大技を決めたのだから、ここは相手が反撃した方が盛り上がる、と。
アユミはもがきながら、首を締め上げている腕を掴んだ。太く固い腕は、アユミの握力くらいではびくともしない。
「さあ、今度はこっちの番だよ。といっても、二度とあんたの番は来ないけどね」
背後でマイラがつぶやいた。
同時にアユミの身体が振り回される。
「――っ!」
そのまま、試合場の柵に叩きつけられた。あまりの衝撃に、悲鳴すら出なかった。
それでもまだ、マイラの腕はアユミを放さない。
もう一度引き起こし、また叩きつける。
さらにもう一度。
アユミの顔が苦痛に歪む。
観客はさらに盛り上がっている。攻められている時のアユミの表情には、見ている者ををそそるものがある、と言われたことがあった。
「ほら、もっと客を喜ばせてやりな!」
三度、柵に叩きつけられた後、マイラは動きを止めてさらに腕に力を込めた。
呼吸が苦しい。
脳への酸素の供給が滞り始める。
視界が暗くなっていく。
意識が朦朧としてくる。
このままでは、失神してしまう。
このままでは、負けてしまう。
このままでは……。
「……っ」
無意識のうちに、足が動いた。マイラの足の甲を踵で踏みつける。
苦しそうな声が上がる。もう一回。
首を絞めている腕の力が緩んだ。身体を左右に振って動く余裕を作り、肘を真後ろへ振る。
手応えがあった。声にならない短い悲鳴と共に、腕が解ける。
アユミは振り向きざま、左の中段回し蹴りを叩き込んだ。まともに脇腹に決まる。
左脚が地面に着くと同時に、右足が跳ね上がる。回し蹴りをもう一発。
マイラの顔が、苦悶のあまり醜く歪んだ。少なくとも、肋骨にひびは入ったはずだ。
それでもアユミは動きを止めなかった。地面に着きかけた右足を、そのままもう一度蹴り上げる。今度は、喉を狙った前蹴りだ。爪先でまともに蹴り込む。
相手の身体は大きくぐらついた。防御の構えをとることもできずに、ふらふらと下がっていく。
観客は、今度こそ倒れるのかと思ったことだろう。しかしその前に、アユミが跳んでいた。
短い助走をつけて高く跳び、前方宙返り。最高点で一瞬身体を丸め、そこから一気に伸び上がる背筋の力に重力加速度を加え、真上から踵を叩きつける。
蹴りが当たる寸前に相手がよろけたため、わずかに狙いが外れた。体重の乗った踵は、脳天ではなく肩のあたりに命中する。
鎖骨が折れる感触が伝わってきた。
マイラの身体が、その場に崩れ落ちる。今度こそ、ぴくりとも動かなかった。
鐘が鳴らされる。
審判が片手を上げ、アユミの勝利を告げる。
その声はかなり大きなもののはずだったが、それ以上の大歓声にかき消され、アユミの耳には届かなかった。
声援がアユミを包み込む。
大技の連発に熱狂した観客たちが、アユミの名前を連呼している。
しかし、そんなことはどうでもいいことだった。
肩で息をしながら、アユミは言いようのない疲労感に包まれていた。柵に叩きつけられた時に打った肋骨が、今さらのように痛み始めている。
疲れた。
実際に闘っていた時間以上に消耗しているようだ。
今はただ、ゆっくりと眠りたかった。
この後は、少なくとも数日はアユミの試合はないはずだ。
だから、ゆっくりと眠りたかった。
眠っている間だけは。
夢の中でだけは。
自由でいられるから。
しかしその夜は、望んでいた休息は与えられなかった。
アユミは全裸で手足を縛られ、大きなベッドの上で大の字にされていた。
「今日の試合は良かったわよ、アユミ。久々に興奮したわ」
美しい女性がアユミの顔を覗き込む。
口元に、サディスティックな笑みが浮かんでいた。
顔が、ゆっくりと近付いてくる。
唇が重ねられる。
それを拒む自由はない。
「今夜はご褒美に、うんとお前を可愛がってあげる」
「――っ!」
アユミは声にならない悲鳴を上げた。
胎内に入ってくる異物。
女として成熟しきっていない身体が受け入れるには大きすぎる、男性器を模したグロテスクな器具が深くねじ込まれる。
「いっいやぁっ! あぁぁっっ!」
「相変わらず、いい声で泣くわね」
女の手の動きが激しさを増す。悲鳴のオクターブが上がる。
アユミが顔中くしゃくしゃにして泣き叫ぶほどに、女は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「お前たちも可愛がってあげなさい。もっといい声を出せるように」
「はい」
傍にいた二人の女性が、左右に分かれてアユミの小さな乳房を愛撫する。
手で、舌で、未成熟なアユミの身体を弄ぶ。
二人は先輩の闘奴だった。同じ主人に所有されている、キャリア、実力共にトップクラスの闘奴たちだ。
そして、脚の間でアユミの女の部分を責め立てているのがアユミたちの主人、マレイア伯爵夫人――通称レディ・マレイア――だった。
父親から受け継いだ莫大な財産でなにひとつ不自由のない生活を送り、二十人を越える女闘奴を所有する闘技マニアだ。同性愛者であり、毎夜のようにこうしてお気に入りの闘奴を凌辱するのが趣味でもある。
もっともそれは、レディ・マレイアに限った話ではない。女闘奴の多くは、また、性奴でもある。主人が自分の闘奴に手を出すことなど当たり前のことだし、中には、闘技で人気の出た闘奴に客を取らせて商売にしている者もいるという。
それに比べれば、レディ・マレイアの闘奴たちは幸せな方かもしれない。彼女は自分の趣味で自分の好みに合った闘奴を集めているのだから、間違っても客を取らされることなどない。主人と、先輩の闘奴の言うことさえ聞いていればいいのだ。
だからといって、それが救いになるわけでもない。ここまで来たら、もう何があっても同じではないか。
アユミは泣きながら、レディ・マレイアが満足して、早く自分を解放してくれることだけを祈っていた。
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.