それは、何年前の記憶だったろう。
まだ、彩樹が小学生だった頃。
場所は、夜の公園だった。
夜、彩樹はなんとなくアイスクリームが食べたくなって、姉の翠と一緒に近所のコンビニエンスストアへ買いに行ったのだ。
その公園の中を通り抜けていくのが近道だった。
ただ、それだけのことだったのに。
それがどうして、こんなことになってしまったのだろう。
下半身を貫く激痛。そのあまりの痛みに、悲鳴すら出てこなかった。身体が引き裂かれてしまうと思ったほどだ。
まだ中学生にもなっていない、異性を受け入れるには未熟すぎる肉体に、異物が無理やりねじ込まれている。
一方的な凌辱。
衣類が引き裂かれ、露わにされた肌は夜の冷気を直に感じていた。何故か、その冷たさを痛みよりもはっきりと憶えている。
身体の上にのしかかっている男は、大きな掌で彩樹の口を塞いで、荒い息をしながら乱暴に腰を動かしていた。その度に、すりむいた傷を擦られるような新たな痛みが走る。
もう、流すべき涙も涸れていた。たとえ口を塞がれていなくても、声を出す気力もない。
何も、考えられない。
絶望という名の淵に沈んだ意識の中で、ただ朦朧と、早く終わることだけを望んでいた。
こんなこと、いつかは終わりになる。
ただ、それだけを願う。
それまで、何も考えなければいい。
何も感じなければいい。
痛みも、悲しみも。
ただ人形のように横たわっていれば、いつかは終わりになる。それが十分後か、一時間後かはわからないが。
いつしか、痛みも麻痺していた。殴られた顔の痛みも、下半身を凌辱される痛みも。
それなのに、微かなすすり泣きの声が耳に届く。
これは、自分の声だろうか。
ずいぶん遠くに聞こえるのは、気のせいだろうか。
いいや、違う。
止まっていた思考が、のろのろと動きを再開しはじめた。
すすり泣く声が誰のものか。思い出して、はっと我に返った。
その瞬間、胎内深くにねじ込まれた異物がびくっと脈打った。男が大きく息を吐きだして、彩樹の痩せた身体に覆い被さってくる。自分の何倍もありそうな体重に、押し潰されそうだった。
無意識のうちに、彩樹は手を横へ伸ばしていた。固い地面の感触の中に、それとは違う、もっと硬質な手触りのものがあった。
反射的に握りしめたそれは、公園を彩る花壇の縁に並べられていたブロックの破片だった。その硬さが、彩樹にするべきことを教えてくれた。
小さな手には収まりきらないコンクリート片の一端を、しっかりと掴む。己の欲望を一方的に満たして脱力している男は、何も気付いてはいない。
彩樹は、その結果をはっきりと認識していたわけではなかった。どうなるかなんて、考えてはいない。ただ、それはしなければならないことなのだ。
男の側頭部、こめかみのあたりに、コンクリート片を力いっぱい叩きつけた。そこが人体の急所であることは、最近気まぐれで習いはじめた空手が教えてくれた。
鈍い打撃音と、くぐもった声が響いた。
もう一度、同じように叩きつける。さらにもう一度、二度。
男の身体から不自然なほどに力が抜ける。ねっとりとした温かい液体が、彩樹の顔に滴り落ちてくる。
もう一度、今度は手を伸ばして、後頭部にブロックを叩きつけた。
男は動かない。呼吸をしている様子すらなかった。
彩樹はブロックを捨て、まるで軟体動物のように覆いかぶさっている男の下から這い出した。
踏み潰された蛙のような格好で、男は俯せに倒れていた。血塗れの醜悪な顔が、水銀灯の冷たい光に照らされている。
彩樹は立ち上がると、割れていないもっと大きなブロックを両手で持ち上げた。頭の上に振り上げて、力まかせに男の上に叩きつける。
その音に既視感を覚えた。夏に海へ行った時の、スイカ割りの記憶と妙に似ていた。。
しばらくの間、肩で息をしながら醜く潰れた男を見おろしていた。
身体中あちこちから、痛みが甦ってくる。
何度も殴られた顔の痛み。
地面に引き倒されたときの擦り傷。
そして、下半身を貫かれた痛み。
内腿を滴り落ちる液体の感触は破瓜の血か、それとも、考えるのもおぞましい、この男の体液だろうか。
急に、吐き気が込み上げてきた。苦酸っぱい味が、喉から口の中へと広がってくる。
その場にうずくまって吐こうとしたが、少し離れたところから聞こえてくるすすり泣きの声がそれを許さなかった。
大切なことを思い出した。まだ、やらなければならないことが残っている。
彩樹は、無害になった男に背を向けた。
灌木の茂みを挟んで十メートルほど離れたところに、重なって横たわっているふたつの影が見える。遠くの水銀灯が逆光になって、影絵のように浮かび上がっていた。
影は、小刻みに前後に動いている。啜り泣く声は、その動きに合わせて聞こえてくる。
彩樹は紅く濡れたブロックを拾い上げると、姉を犯している男の背後から近付いていった。
芝生を踏む微かな足音は、すすり泣きと荒い息が邪魔をして、目の前の獲物を陵辱することに夢中になっている男の耳には届いていない。
簡単なことだった。
先刻と同じようにブロックを頭の上に持ち上げ、力いっぱいに振り下ろす。
今度は、一度で十分だった。また、スイカ割りの感触が手に伝わってきた。
声すら上げずに、男は動かなくなった。
それでも彩樹は、二度、三度とブロックを振り下ろした。翠に覆いかぶさっていた男を引き剥がし、蹴飛ばして仰向けに転がした。その上に馬乗りになり、何度もブロックを叩きつける。
男の顔は、原型を留めないほどぐしゃぐしゃに潰れていた。飛び散る血でブロックが滑る。勢い余って手からすっぽ抜けたところで、彩樹は破壊行為を止めて立ち上がった。
「……お姉ちゃん」
なんとか、声を絞り出した。
翠は上体を起こして、その場にぼんやりと座り込んでいた。焦点の合わない目が、無惨に潰された男に向けられている。
着ているものはずたずたに引き裂かれ、日焼けした彩樹とは対照的な白い肌が露わになっている。まだ発展途上の胸は、それでも年齢相応に滑らかな曲線を描いていて、その上に白く濁った粘液が滴っていた。
「もう大丈夫だよ、お姉ちゃん」
立ち上がるのに手を貸そうと、彩樹は手を差し伸べた。
翠がのろのろと顔を上げる。
殴られたのか、唇の端に一筋の血が流れた痕があった。しかしそれは、血まみれの彩樹の手に比べれば微々たる量だ。
一度顔を上げて彩樹を見た翠が、わずかに視線を下げた。自分の前に差し伸べられた、血まみれの手に目の焦点が合う。
それからもう一度、彩樹の顔を見上げた。呆けたようになんの表情も浮かんでいなかった翠の顔に、はっきりと怯えた気配があった。
「い……い……」
唇が小さく震えている。
「い……いやあぁぁ――――っっ!」
人気のない夜の公園に、甲高い悲鳴が響き渡った。
そして――
翠が自らの命を絶ったのは、それから半月ほど後のことだった。
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