何故、だろう。
 どうして今さら、ここに来てみようなんて気まぐれを起こしたのだろう。
 やはり、数日前の栞との会話のためだろうか。
 初めてだった。
 自分の口から、あの事件について語ったのは、初めてだった。
 翠はなにも言葉を差し挟むことなく、いつも通りの微かな笑みを浮かべて黙って聞いていた。
 どうして、話してしまったのだろう。これまで、早苗や一姫にも話してはいないのに。
 忘れていたのに。忘れようとしていたのに。
 だけど、わかっている。
 決して、忘れることなどできはしないのだ。


 彩樹は、夜明け前の街を歩いていた。
 空は晴れていて、東の方が微かに白くなりはじめていた。
 街は、まだ眠っている。途中で目についた動くものといえば、販売店へ朝刊を運ぶ、新聞社の軽トラックだけだった。
 夏とはいえ、この時刻の空気はひんやりとしている。
 わずかな風もない。動きの止まった空気をかきわけて、彩樹は眠っている街を歩いていた。
 懐かしい風景、と言っていいのだろうか。
 顔を上げて、その建物を見上げた。
 小学生の頃に住んでいたマンションは、ひどく小さく見えた。もっと大きな建物だと思っていたのに。
 記憶にあるよりも古ぼけて見えるのは、この何年か分の汚れによるものだろうか。もっとも、あの当時から決して新しい建物ではなかったが。
 そして建物の大きさが違って見えるのは、あの頃よりもずいぶん伸びた彩樹の身長のせいだろう。記憶と、いま実際に目の前にある光景の差違に、ここを去ってから経過した時間の長さを感じた。
 入口の扉を押す。キィ、と微かに軋んだ音がした。
 コンクリート製の階段の段差も、記憶にあるよりも低かった。
 一段抜かしで昇っていく。
 たいした時間もかからずに屋上に着いた。表面にいくらか錆が浮かんだ扉には、驚いたことに鍵がかかっていなかった。
 もともと管理のいい加減な建物ではあったが、あの日以来ちゃんと鍵を閉めるようになったと思っていたのに。
 五年を越える歳月は、人の死という事件すら風化させてしまうのだろうか。
 例えば。
 もしも管理人がもっと真面目に仕事をしていて、この鍵が開いていなかったら、翠は死なずに済んだのだろうか。
 つまらないことを考えている、と彩樹は思った。
 そんなはずはない。
 この扉に鍵がかかっていたら、きっと違うビルか、歩道橋か、地下鉄駅のホームで同じことをしたに違いない。ただそれだけのことだ。
 屋上へ出る扉を開ける。重い金属製の扉は、一階の入口よりはいくらか彩樹の力に抵抗した。
 一歩外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。タンクトップ一枚では、いくぶん肌寒さを感じる。
 空を見上げる。
 東の方から白さを増していく空。
 徐々に、星が消えていく。風景が、濃い群青から明るい灰色へと変化していく。
 彩樹はゆっくりと、屋上の端へと歩いていった。
 五年前、翠は何を思ってここを歩いていたのだろう。
 立ち止まって、ちらりと下を見おろした。人が死ぬには十分過ぎる高さだった。
 吐き気が込み上げてくる。
 あの日以来、高いところは苦手だった。
 あの日。
 彩樹の目の前で、姉が血まみれの肉片となったあの日。
 騒いでいる大人たちの目を盗んで、立ち入り禁止となった屋上へと忍び込んだ。
 まだ現場検証の最中で、何人もの警官たちが動き回って写真を撮ったり、なにやら調べたりしていた。
 彩樹はそっと屋上の端へ行き、四つん這いになって下を見た。
 それは、アスファルトの上に咲いた紅い薔薇の花のようだった。翠の死体は既に運び去られていたが、飛び散った血はまだ洗い流していなかった。
 小学生の彩樹は、その場で激しく嘔吐した。警官に見つかって、屋上から連れ出された。
 その後のことは、よく憶えていない。
 ここを訪れるのは、それ以来だった。
 激しく収縮を繰り返す胃から込み上げてくる酸っぱいものを堪えながら、彩樹は下を見おろせる位置に立っていた。
 網膜に、五年前の残像がはっきりと残っていた。
「何をしているの?」
 背後からの突然の声に、悲鳴を上げそうになった。
 はっと後ろを振り返る。
 長い髪を風にたなびかせた少女が、そこに立っていた。
 もともと白い肌が、薄明かりの下でさらに強調されて、病的な白さに見える。
 そのせいだろうか。一瞬、翠の幽霊かと思ってしまった。全身の毛が逆立つ。
「栞……どうしてここに?」
 ふぅっと息を吐きながら、彩樹は訊いた。
 そこに立っていたのは栞だった。
 どうして、こんなところにいるのだろう。しかも、まだ夜が明けきっていない時刻である。
 彩樹だって計画的な行動ではない。夜明け前にふと目を覚まして、急に思い立って来てみたのだ。
 ここに彩樹がいるなんて、栞が知っているはずがない。
「ここで、お姉さんが亡くなったの」
 彩樹の質問には答えずに、栞は独り言のようにつぶやいた。
「でも、自殺なのでしょう? 彩樹のせいではないわ」
「オレのせいさ」
 栞から目を逸らして言った。肩が、微かに震えていた。
「自殺ってのは、そのほとんどが間接的な殺人なんだ。なんの理由もなしに死ぬ人間なんかいやしない」
「だけど、彩樹のせいじゃない」
「オレのせいなんだよっ!」
 彩樹は叫んだ。声が裏返って、妙に甲高い声になった。
「この間、ひとつだけ言わなかったことがある。栞にも、言えなかった。翠が死んだのは、あいつらに犯されたからじゃないんだ」
「……彩樹?」
 珍しく栞が訝しげな表情を浮かべて、彩樹の顔を覗き込んだ。彩樹はもう一度視線を逸らした。
 栞の手が、頬に触れた。強引に顔の向きを変えさせられ、栞の顔を真正面から見つめる形になった。
「目を逸らさないで。わたしを見て。そして、話して」
 黒曜石のような光沢のある黒い瞳が、真っ直ぐに彩樹を見つめていた。その目を見ていると、隠し事はできないという気にさせられた。
「オレの……せいなんだ。どうして、あんなことをしたんだろうな」
 口元が不自然に引きつった。苦笑を浮かべようとして、だけど笑えなかった。
「翠が死んだのは、あいつらに犯されたせいじゃない。傷ついてはいたけれど、なんとか立ち直ろうとしていた。なのに、なのに……」
「彩樹……」
「翠の身体が、あんな奴らに汚されていいはずがない。そうだろ? そんなこと、許せるわけがないじゃないか」
 栞の目が、微かに見開かれた。ほんのわずかに、驚いたような表情が浮かんでいる。それでも視線を逸らさず、逃げようともせずに同じ距離を保っていた。
「翠は、オレにとって絶対的な存在だった。うちは母親が忙しかったから、翠がオレの母親代わりでもあった。綺麗で、優しくて、頭がよくて、なんでもできる。オレにとっては、そんな絶対的な存在だった。親がいなくても、翠が傍にいてくれれば寂しくなんかなかった。それなのに……」
 声が、震えていた。
「翠は、オレのものだ。オレだけの翠だ。あんな男どもに汚されていい存在じゃない。あんなクズのような奴らのために傷ついたり、死んだりしていいはずがない。オレ以外の誰にも、そんなことはさせない。だから……」
「……彩樹が、お姉さんを?」
「……そうさ」
 急に、涙が込み上げてきた。人前で泣くことなんて、滅多にないのに。
「翠はオレのものだ。オレの、大切な姉だったんだ。他の奴に汚されるなんて、許せるはずがない。だからオレは……」
 彩樹は力尽きたように、ずるずるとその場に座り込んだ。
 涙がこぼれて、ジーンズに黒い斑点をつけていく。
「……わかったろ? 翠を殺したのは、オレなんだ」
「わたしには……わからない」
 栞は抑揚のない声で言った。
「わかるはずもないか。オレみたいな、頭のおかしい奴のやることなんて。……どこで、狂っちゃったんだろうな」
 コンクリートの上に座り込んだまま、彩樹は頭を抱えて苦笑した。
「彩樹のことじゃない。わたしには、お姉さんが何を考えていたのかわからない。どうして死ぬ必要があるの?」
「……そりゃあ、お前もおかしいんだよ」
 家族にレイプされた十代の女の子が自殺する理由がわからないなんて、同性の台詞とは思えない。
「ねえ、彩樹。賭けをしない?」
「あ?」
 唐突な台詞に顔を上げた。いつの間にか翠はこちらに背を向けて、転落防止のために高くなっている屋上の縁に立っていた。
 長いスカートが、強くなりはじめた風にはためいている。ちょっとバランスを崩しただけで落ちてしまいそうだ。
「危ない……降りろよ」
 彩樹はかすれた声で言った。
 栞の姿が、飛び降りる直前の翠の記憶と重なる。あの時彩樹は、下から見上げていたのだが。
「……危ないって」
 もう一度繰り返す。しかし栞は彩樹の声など聞こえていないかのように、灰色の街並みを見おろしている。
「危ないのはわたしじゃない。あなたの方でしょう?」
 栞にしては珍しい、どこか皮肉めいた言い方だった。狭い足場の上で、器用に回れ右をしてこちらを向く。
「だから……だよ。そんなところにいたら、オレはお前を殺してしまうかもしれない」
 彩樹は一歩、栞の方へと近付いた。
「賭けをしましょう。彩樹に、わたしが殺せるかどうか」
「……やめろよ」
 また一歩、足が前に出る。
「わたし、彩樹が欲しいわ。わたしがこの場を生き延びたら、彩樹はわたしのものになるの。いいわね?」
「冗談、言ってる場合じゃねーって」
 ゆっくりと、彩樹の右手が持ち上げられる。栞の方へと差し伸べる。
「……逃げてくれよ。まだ、間に合うから。早く」
 まだ気温は低いのに、額に汗が滲んでいた。前に伸ばした腕が振るえている。
「殺せるものなら、殺せばいい。彩樹を縛っている過去の幻影なんて、殺してしまえばいい」
 栞の顔から、一切の表情が消えていた。冷たさすら感じられない、人形よりも無機的な顔が彩樹に向けられている。
「お前は、翠じゃない。生きている人間だ」
「あなたにとっては、過去の幻影でしょう? 幻影が生きている限り、彩樹はわたしのものにはならない」
「オレのことが好きなら、いくらでも抱いてやるからさ。だから……」
「わたしが望んでいるのは、そんなものじゃない。わたしは、彩樹が欲しいの。生まれてからずっと、彩樹は誰のものでもなかった。ただひとり、お姉さんだけのものだった。それは今でも変わっていない。だけど、わたしはあなたが欲しい。彩樹、わたしのものになりなさい」
 それは、命令だった。
 命令することに慣れた人間の口調だった。
 しかしその言葉も、彩樹を止めることはできなかった。自分自身の意志にも反して、足が一歩前に出る。
 指先が栞の身体に触れた。
「早く……逃げてくれよ。もう、抑えられないんだ。身体が……勝手に動くんだ。頼む! 逃げろっ!」
 言葉とは裏腹に、彩樹の手はゆっくりと少女を押していた。
 栞の身体が傾いていく。
 ゆっくりと、スローモーションのように。
 風を受けて、長い髪がふわりと広がる。昇ったばかりの朝陽を浴びて、一瞬、金髪のように輝いて見えた。
 そして、落ちてゆく。
 ゆっくりと。
 ゆっくりと。
 栞の姿が、彩樹の視界から消えていく。
 彩樹は腕を伸ばしたまま、その場に立ちつくしていた。
「殺し……た……」
 この手で、突き落とした。
 いま生きている者の中では、もっとも愛しい少女を。
 殺してしまった。
 この、狂った心が。
 五年前、この場所で壊れてしまった心が。
 また、殺してしまった。
「く……」
 彩樹はその場に座り込んだ。両手で頭を抱える。
「く……くく……はは……」
 どうしてだろう、笑いが漏れてしまう。こんな状況なのに、込み上げてくる笑いが抑えられない。
 自分が狂っていることは、わかっていた。
 相手が愛しければ愛しいほど、自分の手でそれを壊したくなる。
 大切な姉を殺した。だから、他の大切な人にも同じことをしなければならないのだ、と。
「はははは……あっはっはっは……」
 彩樹は狂ったように笑い続けていた。笑いながら、涙を溢れさせていた。
 狂気を孕んだ哄笑は、いつまでも続いた。
「は……はは……は…………」
 どのくらい笑い続けていただろう。ようやく笑いが収まってきて、彩樹は立ち上がった。
 先刻、栞がそうしていたように、屋上の縁に立って下を見おろした。
 これまでなら、とてもできなかったことだ。なのにどうしてだろう、もう吐き気は感じなかった。冷静に、見ることができた。
 彩樹は屋上から下を見おろして、自分がしたことを見つめようとした。
 そして、誰かが通報して警察がここに来るまで、待っていようと。
 ところが。
 彩樹の眉がぴくりと動いた。
 二度、三度、瞬きを繰り返す。
 下には、何もなかった。
 例えば、子供が壁に叩きつけて壊れた人形のような死体。
 例えば、アスファルトの上に紅く咲いた血花。
 そんな、予想していたものは何もなかった。
 しばらく茫然と見おろしていた彩樹は、やがて屋上を後にした。階段を駆け下りて外に出る。
 やっぱり、どこにも栞の姿はなかった。
 人が落ちたような痕跡も、血痕も、何ひとつ見つからない。少し離れたところに停めてあった車の下まで覗いてみたが、もちろんなんの意味もないことだった。
「……」
 しばらくの間、思考が停止していた。
 いったい、どういうことだろう。
 夢でも見ていたのだろうか。
 まさか、あの栞は本当に幻影だったのだろうか。
「そんな、バカな」
 そんなはずはない。
 この手が憶えている。屋上から突き落とした栞の身体の感触を、はっきりと憶えている。
 なのに、どうしてここに栞の姿がないのだろう。
「彩樹さん? 何をしているんですの?」
 突然の声に、彩樹はびっくりして跳び上がった。こんな状況で心臓に悪い。
 左胸を押さえながら振り返ると、マンションの前の歩道に、一姫の姿があった。
 早朝の犬の散歩だろうか、大きなピレネー犬に引きずられるように歩いている。気がついてみれば、もう朝の散歩にも不自然ではない明るさになっていた。
「ん……、いや、ちょっと散歩」
 彩樹は曖昧な口調で応えた。直前までの出来事はまだ自分の中で整理できておらず、他人に説明することなど不可能だった。
「まさか……朝帰り、ですの?」
「違うよ、今日は、な」
 あまりにも俗っぽい一姫の想像に、思わず苦笑する。
 一姫はぷぅっと膨れた。
「今日は、ですのね」
「妬くなって」
 一姫の肩を抱いて、乱暴にキスしてやる。その光景を、犬が不思議そうな顔で見ていた。
「ところで……」
 唇を離すと、彩樹は上を向いた。一姫もその動作につられる。
「あの屋上から人が落ちたら、どうなると思う?」
「死んじゃいますわ、あんな高いところ……」
「そう。死ぬよな、普通は。……お前なら?」
「私どころか、彩樹さんだって死んじゃいますよ。間違っても、試そうなんて考えないでくださいね。……あ、でも」
「でも?」
 一姫の顔を見て、答えにたどり着いた。そう思った。
 考えてみれば、答えはずっと以前から目の前にあったのだ。今まで気付かなかった方がどうかしていた。
「魔術師の杖があれば、私はなんとかなるかもしれません。もちろん、前もって心の準備ができていればの話ですけれど」
「魔術師の杖、か……。そうだよな」
 納得顔でうなずいて。
「……っのヤロー。人をおちょくりやがって! あのペテン師がっ!」
 いきなり、傍らのブロック塀に拳を叩きつけた。細かなコンクリートの粉がぱらぱらと落ちて、一姫が目を丸くする。
「ど、どうしたんですの、彩樹さん?」
「なんでもねーよ。じゃ、オレは帰って寝るよ」
 彩樹はどこか楽しそうに応えると、一姫と別れて歩き出した。



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