三 たたかう少女

 一姫と別れて家に向かって歩き出したものの、帰って寝直すには中途半端に遅い時刻になっていた。
 空手の朝稽古に慣れている彩樹は、いい加減な性格から想像されるよりもずっと朝が早い。だからむしろ、今は朝食の時刻だ。
 こんな時にも腹は減るのかと自分でも意外だったが、妙に晴れやかな気分で、胃腸は今日も元気だった。
 途中、行きつけの喫茶店『みそさざい』の前を通ると、朝の早いマスターの晶さんは既に開店の準備をしていて、店の前を竹箒で掃いていた。客が少ない割には、いつも早くから店を開けている。
「おはよ」
「おはよう。今朝は早いのね」
「ん、ちょっとね、普段より早く目が覚めて。メシ、喰える?」
「いいわよ、十分くらい待ってくれるなら」
 彩樹は自分で料理などしないし、夜の仕事である母親とは起きている時間帯が違うから、どうしても外食が多くなる。
 だから、家から近くて営業時間の長いこの店の存在はありがたかった。コンビニ弁当では舌が満足しないし、他の飲食店となると、少し歩いて地下鉄駅近くまで行かなければならない。
 他に誰もいない店に入って、一番奥の席に腰を下ろす。ここは彩樹の特等席だった。
 トーストにベーコンエッグにサラダ、それにヨーグルトとグレープフルーツジュースという朝食を平らげ、のんびりとコーヒーを飲みながら朝刊に目を通す。お代わりしたコーヒーも飲み干して、うとうとと居眠りを始めた頃、血相を変えた早苗が店内に飛び込んできて、彩樹の眠りを邪魔した。
 目を開けた彩樹は、早苗の姿を見ておやっと思った。
 起きたばかりなのか、化粧もしていないし髪もろくにブラシを通していない。着ているものも明らかに部屋着で、お洒落には気を遣う早苗らしくない。
 何があったのか、ひどく慌てている。
「彩ちゃん、やっぱりここにいた! 捜したよー。電話しても出ないしさ」
「ん? ああ」
 そういえば、携帯は部屋に起きっぱなしで出てきてしまった。家を出る時はこんなに遅くなるつもりはなかったし、午前四時に電話が必要になるなんて思いもしない。
「で? なんか用か?」
「あ、彩ちゃん、姫様がどこにいるか知らない? 向こうから、知内さん経由で連絡があって、行方不明なんだって!」
「行方不明……ねぇ?」
 彩樹は微かに眉をひそめた。
「二時間前までいたところなら、知ってる」
「ホントにっ? どこ?」
「オレと一緒にいた。夜明けまでは、な」
「よ、夜明けっ? 彩ちゃんと姫様がぁっ?」
 早苗は赤面して、ひどく驚いた様子だった。なにか勘違いしているらしい。
「それって、どうして……」
「もう帰ってるんじゃないか?」
 早苗の質問は途中でさえぎった。面倒なので、いちいち説明も訂正もしない。
「電話して聞いてみろよ」
「ん……」
 納得はしていない表情で、それでも早苗は携帯を取りだして知内に電話した。二言、三言話して、電話を切ると首を左右に振った。
「まだ戻っていないって」
「ふぅん……」
 彩樹は曖昧にうなずいた。
 妙な話だ。アリアーナが城を抜け出すこと自体は珍しいことではないが、最近はそれが騒ぎになることは滅多にない。女王としての自覚なのかどうかは知らないが、仕事を放り出して脱走していた王女時代と違い、スケジュールを細工してうまく空き時間を作り、その隙にこっそりと抜け出しているのだ。
 それに、もしもこちらに来ているのなら、知内のところか、彩樹たちのところにいるはずだ。こちらに他に知り合いはいない。
「玲子さんには訊いてみたのか?」
「知内さんが電話したみたい。でも、やっぱりいないって」
 では、もうこちらにはいないということだ。明け方、彩樹の前から姿を消して、そのまま向こうへ転移したのだろう。
 向こうでアリアーナがこっそり足を運ぶ場所には心当たりはあった。しかし、それならわざわざ騒ぎになるようなことをするだろうか。
 もしかして……。
 彩樹はふと、嫌なことを考えた。
 自分の意思以外の理由で、行方をくらませた可能性はないだろうか。彩樹と別れてから城に戻るまでのわずかな時間に。
「……ったく、仮にも女王なら一人でうろつくなよな。おっさんのところに、誰か来てるのか?」
「メルアさんが」
「ならいい」
 その答えに彩樹はうなずいた。メルアは、魔術師としての力も持つ若手の近衛騎士だ。
「じゃ、オレは先に行ってる。お前は家に帰って、ありったけの武器を持ってこい。それから、一姫も忘れずにな」
「ん!」
 早苗が駆け出していく。
 彩樹も、カップの底にわずかに残って冷たくなったコーヒーを飲み干して席を立った。



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