メルアの力で転移した彩樹が最初に向かったのは、王宮の後背に広がる深い森の中だった。
 知らなければ見落としてしまうような細い獣道を十数分歩くと、小さな泉に出る。
 原生林の中の、澄みきった泉。
 そこは、アリアーナの秘密の場所だった。彩樹たちと知り合う以前から、こっそり城を抜け出して、ここで息抜きをしていたらしい。
 知っているのは彩樹だけだ。早苗も一姫も、お目付役のフィフィールでさえもこの場所は知らないという。
 なのに、そこには先客がいた。それも、捜していた相手ではない。彩樹と似た髪型の、若い男だった。
「……あんたか」
「君も探しに来たのか、サイキ」
 向こうも、こちらを見て苦笑している。アリアーナの異母兄シルラートだ。
「残念ながら、ここにはいないようだ」
「……だろうな」
 最初から期待はしていなかった。念のため来てみただけだ。それにしても、シルラートはどうしてここにいるのだろう。
「あんたは、ここを知っていたのか?」
「アリアーナにここを教えたのは私だよ。まだ、小さい子供の頃に」
「……そうか」
 そのまま、しばらく沈黙が続いた。
 泉から流れ出す小川のせせらぎと、遠くの鳥の鳴き声だけが聞こえる。彩樹は泉の水面を見つめながら唐突に訊いた。
「あいつは、あんたのことが好きだったんだろう?」
「好き、の意味については注釈が必要だろうけどね」
 意外なくらいあっさりと、シルラートはうなずいた。
「確かに、子供の頃のアリアーナは私によく懐いていた。サルカンドは、私たちと仲良くしようなんて気はこれっぽっちもなかったからな」
 正妃の子であるサルカンドに対し、シルラートとアリアーナは母親は違うがいずれも妾腹だ。そこには、ある種の連帯感があったのかもしれない。
「サルカンドか?」
 なんの前置きもなしに、彩樹はそれだけを訊いた。それでも、こちらの意図はちゃんと伝わったようだった。
「だろうな。他には考えられない。ここ二、三日、彼の居城で不審な動きがあったという報告も入っている」
 彩樹は小さく肩をすくめた。溜息混じりに言う。
「あのバカ、どこで捕まったんだ?」
「君のところから帰る時だろう。アリアーナが時々、変装して君のところへ遊びに行っていたのを、サルカンドも知っていたに違いないよ」
「こっちに人を送り込んでいたのか?」
「アユミの件を憶えているだろう? 彼女をさらった実行犯の魔術師はまだ特定できていないが、私はサルカンドの手の者だと睨んでいる。それならば、王宮外には伝えられていない転移魔法を知っていた理由も説明がつく。他者の転移魔法に割り込んで捕らえることも、理論的には可能だ」
「……っ」
 彩樹は足元の小石を蹴った。澄みきった泉の水面に、円い波紋が生まれる。
「それだけわかっているなら、こんな場所で何をぼんやりしている? さっさと、軍隊でもなんでも差し向ければいいだろ」
「女王が不在で、誰がそれを命じる?」
 今度はシルラートが、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「大臣たちは必ずしもアリアーナ派の人間ばかりではないから、なかなか足並みが揃わない。立場上、あまり私が出しゃばるわけにもいかない」
 彩樹はシルラートを睨みつけた。なにか言い返したかったが、彼の言うことはもっともだった。
 シルラートは王位継承権第一位の人物である。
 彩樹たちは、彼にそんなつもりがないのは知っているが、世間一般からは今でも虎視眈々と王位を狙っていると思われている。シルラートを支持する貴族たちの中には、いまだに望みを捨てていない者がいるようだし、逆にアリアーナを支持する者にとっては、彼は仮想敵だ。
 本人の意思はこの際問題ではない。周囲の人間にとって肝心なことは、自分にとって利用価値があるかどうか、あるいは危険があるかどうか、だ。
 だからこの状況では、シルラートはあまり大っぴらに動けない。女王の不在時に直接軍を指揮したりしたら、アリアーナ派の人間たちは警戒心を強めるだろう。
「くそったれが」
 彩樹は唾を吐いた。
「ここにいたのは、オレを待っていたんだな? 兄も妹も、面倒なことはすぐオレに押しつけやがる」
「それだけ信頼されていると思ってくれればいい」
 シルラートが苦笑する。彩樹は彼を睨みつけたが、それ以上なにも言わなかった。
「一刻も早く騎士団を派遣するつもりだが、それでも手続きに多少の時間はかかる。すぐに動けるとなると、君らと近衛騎士の連中だけだ。特に君らは、こちらでは一切公式な地位に就いていない。単なる、アリアーナの個人的な友人だ。そもそも、この世界の人間ですらない」
「はっきりとした証拠もなしにサルカンドを締め上げるような真似をしても、誰も責任を追及しようがない、ってか」
「私がでしゃばると、ひとつ間違えば内戦になる」
「……しかたねーな。この貸しは高くつくぞ?」
「請求はアリアーナにしてくれ」
「……飛竜と、それを扱える騎士を一人貸せよ。そろそろ早苗たちも着く頃だな、城に戻るぞ」
 回れ右して、城へ向かって歩き出した。後ろから、草を踏む軽い足音がついてくる。彩樹は振り返らずに訊いた。
「殺してもいいのか?」
「ん?」
 前振りなしの唐突な質問は、シルラートには伝わらなかったようだ。戸惑ったような声が返ってくる。
「サルカンドだよ。殺してもいいのか?」
「……アリアーナを無事に救出することが、すべてに優先する。他の、あらゆることに優先すると考えてくれ」
「優等生的な回答だな。オレは、あんたの個人的な意見を聞きたいな」
 彩樹は立ち止まって振り返った。シルラートは一瞬、わずかに躊躇した様子を見せたが、やがて静かに言った。
「……サルカンドが生きていると、また同じことが起こる。たとえ彼自身が改心したとしても……ま、そんなことはあり得ないだろうがな。それでも利用しようとする連中はいる。しかしアリアーナにはサルカンドを殺せない。半分とはいえ血のつながった実の兄を処刑したとあっては、アリアーナに悪い印象を持つ者も出てくるだろう」
「処刑の命令は出せないが、乱戦のどさくさに紛れて始末しろってことか」
 その問いに対して、声に出してはなにも応えない。うなずきもしない。ただ真っ直ぐに彩樹の目を見ていた。
 しかし、その表情が肯定している。
 少しばかり、意地の悪いことを言ってやりたくなった。
「利用しようとする連中がいるという点では、あんたも同じだろ?」
「だから最近は、人前でアリアーナと仲良くするように務めているだろう?」
 笑って答える。
 確かに、最近は公式行事に二人で出席する機会も多く、公の場ではことさら友好的に振る舞っている。プライベートな時間でも、彩樹たちがアリアーナを訪ねてきた時には同席していることが多い。もっともそれは、半分以上早苗が目当てなのだろうが。
「それに、君には不愉快なことかもしれないが……」
 そう前置きしてシルラートは続けた。
「近い将来、私はサナエを妻に迎えるつもりだ。女王の親友と結婚したとなれば、私の心証もぐっとよくなるだろう? いかがわしい野心を持っている連中も、私を利用しにくくなる」
「……」
 彩樹は考え込んだ。
 どこまで信用していいものだろう。確かに、シルラートが王位に興味を示したところは見たことがないが。
 しかし、面白くはない。早苗は彩樹の親しい友人であり、愛人である。そしてなにより彩樹にとっては、身の回りの可愛い女の子はすべて自分のもののつもりである。その信条を曲げて、早苗を安心して任せられるのだろうか。
 少し考えて、そう深刻な問題ではないと気がついた。人妻が相手というのも、それはそれでなかなか楽しいシチュエーションではないか。
「……泣かせるようなことはするなよ」
「ベッドの中以外ではね」
「ああ、あいつ、感じると泣き出すクセがあるんだよな」
 今のところ、それを知っているのは彩樹とシルラートだけだ。二人で顔を見合わせて、微かに唇の端を上げて笑った。
「まあ、いいさ。どっちにしろ、卒業してからなんだろ?」
「その少し前に、正式な話をするつもりではいる」
「とにかく、今はそれどころじゃない」
「そうだね」
 二人はまた歩き出した。少し早足になっている。
 しばらく間があってから、シルラートがぽつりと言った。
「君は、身代わりじゃない」
「あ?」
 歩く速度をゆるめて、彩樹は顔だけで振り返った。
「アリアーナにとっての君は、決して私の身代わりじゃない。確かに、最初に興味を持った理由はその容姿かもしれないが、それはきっかけでしかない。そのことだけは、理解してやってくれ」
「……」
 彩樹はなにかを言いかけて、しかし結局は黙って口を閉じてしまった。
 どことなくむっとしたような表情で、数秒間シルラートを睨んでいた。
 そして。
「わかってる」
 素っ気なくそれだけ言うと、ぷいっと前を向いて歩き出した。



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