一章 最果ての地へ


「……っくしゅん!」
 シェルシィ・リースリングは、自分のくしゃみで目を覚ました。
 凍えそうなほどに寒い。
 なにしろ北極圏に近い北の空の上である。これが民間の旅客機であれば、暖房の入った客室で温かいコーヒーも飲めるだろうが、必要最低限の装備しかない軍の輸送機ではそうもいかない。
 毛布にくるまって、手足を縮めてがたがたと震える。また、くしゃみが出た。
「そろそろ起きなよ、嬢ちゃん。そんな薄着で居眠りしてたら風邪ひくぞ」
 操縦席の機長が振り返って笑う。
 この航路を毎週飛んでいる機長も、隣の副操縦士も、そのまま極地探検でも行けそうな重装備で操縦桿を握っている。離陸前、北国の寒さを知らないシェルシィの薄着を見かねて毛布を貸してくれたのだが、それも「ないよりはマシ」という程度にしか役に立っていなかった。
「嬢ちゃんじゃありません。あたしの名前はシェルシィ・リースリング。これでも少尉です」
 からかうような口調が癇に障って、シェルシィは寒さで紫色になった唇を尖らせた。確かにまだ十代だし、小柄で童顔のためにいつも実年齢より幼く見られるのは事実だが、一応はマイカラス王国空軍の士官なのだ。たとえ、士官学校を卒業したばかりの新米だとしても。
 毛布にくるまったまま立ち上がって、身体を伸ばす。
 寒い中、貨物の隙間に不自然な姿勢で長時間座っていたために、全身が強張っていた。ずっと、ワインの木箱を椅子代わりにしていたのだ。陸路が整備されていない辺境の基地に補給物資を運ぶ輸送機に、余分なスペースなど存在しない。彼女自身、今は貨物同然の扱いである。
「どうして、こんな僻地に基地を建設したのかしら。敵だって来ないでしょうし。あーあ、暖かい南方戦線に行きたかったな」
 毛布の中から手を出して、以前のくせで髪をかき上げる仕草をする。辺境の基地では長い髪なんて邪魔になるだけと思い、背中まであった髪をばっさり切ったのは三日前のこと。まだ、短い髪に慣れていない。
 こんなことなら切るのではなかったと、今さらのように後悔した。長い髪は意外と暖かいものだ。首筋の防寒に少しは役立ったことだろう。
「あたし、寒いのって苦手なんですよ」
「だったら、嬢ちゃんはどうしてここに来たんだ? クリューカ基地に配属になるパイロットは、志願した者だけだと聞いていたが」
「それは……もう、意地悪ですね」
 シェルシィは拗ねたように言った。たとえ輸送機に乗っていても、空軍のパイロットなら知っていることだろうに。
 いくら女性の社会進出が進んでいるマイカラス王国とはいえ、女性パイロットが戦闘機に乗れる部隊などそういくつもあるものではない。それが最新鋭機となればなおさらのこと。数少ない例外がこの北の地だ。
「女だてらに戦闘機乗りか。嬢ちゃんも物好きだね。ほら、物好きのお仲間が来たぞ」
 厚い手袋をはめた手で、機長が前を指差した。隣に立って目を凝らす。
 目に映るのは、北国特有の薄い雲がかかった水色の空と、もう春だというのに雪が残っている部分の方が多い平原。
 そして――
 水平線の上、淡い色の空に、小さな灰色の点が三つ浮かんでいた。
 針の先ほどの大きさにに見えたそれは、たちまち大きさを増してくる。相当な速度で近づいてきているのだ。もう、小型の飛行機であることがはっきりとわかる。
 同時に、おんぼろ輸送機の咳き込むようなエンジン音に慣れた耳に、別の音が聞こえてきた。下腹に響く低い呻りと、金属の笛のような甲高い音。それが耳を塞ぐほどの轟音になり、明るい灰色の影が視界を塞いだ瞬間。
 ドンッ!
 機首になにかが叩きつけられたような衝撃だった。続けてもう一度、二度。そろそろガタが来はじめている機体が激しく揺れて、ぎしぎしと軋む。
 シェルシィは操縦席横の窓に張りついて、すれ違ったばかりの相手を目で追った。それは強引な斜め宙返りで反転、減速して、後方から近づいてくる。二番機、三番機がその後に続く。
 まるでこちらを攻撃してくるかのような乱暴な機動だったが、友軍機だ。機体側面に、翼を広げた青い竜の姿を模したマイカラス空軍のマークが描かれている。
 それは、一般常識からすれば奇妙な形の飛行機だった。
 まず目を疑うのは、どこにもプロペラがないことだ。胴体は槍の穂先のように鋭く、その両側に不自然に大きな空気取り入れ口がある。
 主翼は前後の幅が広く直線的で、上から見れば台形に近い。その後ろには大きな水平尾翼と、やや外側に傾いた二枚の垂直尾翼。
 尾部はすぱっと切り落としたような形状で、二つ並んだ大きな排気口からは薄い灰色の煙が真っ直ぐ後ろに伸びている。陽炎でひどく揺らめいて見えることから、排気が相当な高温であることがわかる。
 シェルシィが今まで見てきた、どんな飛行機とも違う。
 ジェット、だった。
 ジェット戦闘機だ。
 五年も続いているこの大戦で、もっとも進化した兵器は航空機だった。ほんの十数年前には布張りの複葉機だけがのろのろと飛んでいたこの大空を、今では超ジュラルミン製の戦闘機が時速七○○キロ近い速度で駆けめぐっている。
 航空機の進化は、もう行き着くところまで来てしまったと考える者もいるほどだ。この先はもう、過去十年間のようなの大きな進歩は望めない、と。
 しかしそれは、ガソリンエンジンとプロペラを動力とする伝統的なレシプロ機に限ってのこと。とどまるところを知らない技術の進歩は、まったく新しい航空機を生み出そうとしていた。
 それが、ジェットだった。
 高温高圧の燃焼ガスを噴き出す反動で推力を得るジェットエンジンは、理論的にはガソリンの爆発力でピストンを動かすレシプロエンジンよりも高速に達することができる。目の前を飛んでいるのは、まだ実戦配備されていない最新鋭機。マイカラス空軍がようやく実用化したばかりの、世界初のジェット戦闘機なのだ。
 食い入るように見つめていたシェルシィは、ふと思いついて予備のヘッドセットを手に取った。パイロットと話をしてみたい。
『はぁーい、ごきげんよう!』
 通信機のレシーバーを耳に当てるのと同時に、ハスキーな女性の声が飛び込んできた。同時に先頭の一機が輸送機の前に出て、大きく翼を振る。どうやらこの機のパイロットが声の主らしい。
「相変わらず乱暴な奴だな」
 苦笑しながら機長が応える。その態度から察するに、先ほどの乱暴な出迎えは今日に限ったことではないらしい。あるいは輸送機を敵の爆撃機に見立てて、迎撃訓練の標的にしていたのかもしれない。
『あら、普段のわたくしはもっとお淑やかでしてよ。でも、それでは戦闘機パイロットなんて務まりませんもの』
 そう言った後で、わざとらしい口調で『おほほ……』と笑う。これはどう考えても、乱暴な方が地だろう。
「お前さんの大事な荷物が割れても知らないぞ」
『えっ? あれ、届いたの?』
「ソーウシベツ産の白ワイン、それも上質のリースリングが二ケースだ」
『わぁお、すごいじゃない!』
 レシーバーから聞こえてくる声が、一オクターブ高くなった。シェルシィは一瞬、自分の名前を呼ばれたのかと思ったが、機長が言った『リースリング』は、ワインの原料である葡萄の品種名だ。
『もうワインが底をついちゃって、一昨日からビールしか飲んでないのよ。ほら、もっと速度上げて。さっさと着陸しなさい!』
 催促するように、激しく翼を振る。
「無茶言うな、こっちはおんぼろなんだから。それと、もう一つ掘り出し物があるぞ」
『なになに?』
「一本だけだがな。リースリングの最高級品、しかも一八年ものの古酒だ」
 機長の台詞が終わらないうちに、甲高い口笛が響いた。目の前の戦闘機の排気口から、朱い炎が伸びる。
『エンジンが焼き切れるまで、全速で回しなさい! 待ってるからね』
 戦闘機がみるみる小さくなっていく。わずかに遅れて他の二機が続く。三機はあっという間に彼方の小さな点となり、視界から消えていった。すごい加速力だ。
 シェルシィはちらりと計器盤に視線を落とした。この機の速度はおよそ時速三五○キロ。簡単な暗算をすると、向こうは八五○キロを超えていたはずという結果になった。
 時速八五○キロ!? 慌てて検算をする。
 これまでの常識からは考えられない速度だった。現在、世界最高速の戦闘機や高速偵察機でも七○○キロちょっとが限界、八○○キロですら夢のような速度なのに。
 これが、ジェットの性能だった。
「すごい……すごい!」
 シェルシィは熱っぽい瞳で、三機が飛び去った方角を見つめた。
「どうだい、すごいだろ」
 機長の言葉に無言でうなずく。感動のあまり言葉が出てこなかった。
 すごい。
 本当にすごい。
 最新技術の結晶である、零式ジェット戦闘機〈竜姫〉。
 シェルシィは、あれに乗るためにこんな辺境まで来たのだ。この先に、新型機の試験を行う実験飛行隊のための基地がある。
 そのクリューカ基地こそ、新米でしかも女子のシェルシィが最新鋭機に乗ることのできる、世界で唯一の場所だった。



 クリューカは、ツンドラの原野に築かれた小さな空軍基地だった。
 二本の滑走路といくつかの建物以外、周囲に人工物は見当たらない。新兵器の機密保持のために僻地に建設したのだと聞いていたが、いくらなんでもやりすぎという気がする。一番近い街まで二○○キロもあるのだ。
「降りるんなら、それ、ひとつ持ってってくれ」
 自分の鞄をかついで輸送機を降りようとしたところで、機長に言われた。指差しているのは、シェルシィが椅子代わりにしていたワインの木箱だ。
 箱に刻印されている生産者名を見て、小さく苦笑する。リースリング社――シェルシィの父が経営する、国内最大のワインメーカーだ。彼女の家は代々、マイカラス王国でワイン造りをしてきたのだ。
 生産年は一昨年。天候に恵まれ、葡萄の出来がすばらしく良かった年だ。しかもかなりの高級品。こんな辺境の基地には少々不釣り合いな気がする。最新鋭機のパイロットというのは、飲物まで優遇されているのだろうか。
「いや、それは先刻のねーちゃんの個人的な注文なんだ」
 疑問が顔に出ていたのか、機長が笑って教えてくれる。
「なんだ。ずいぶん贅沢な人なのね」
 別に、残念というわけではない。家に戻ればいくらでも飲める。もっとも、次に帰れるのがいつになるかはわからないけれど。
 シェルシィは両手で木箱を持ち上げた。一二本分のワインの重みがずっしりと腕にかかる。
「そういえば、先刻話していた一八年ものとやらは? ずいぶん楽しみにしていたみたいだし、それを真っ先に持っていてあげるべきでは」
 なにしろ、訓練を途中で放り出して基地に戻ったほどなのだから。
「そこにあるだろ」
 機長がこちらを指差す。人差し指は腕の中の木箱ではなく、シェルシィの顔に向けられている。
 小さく首を傾げて、すぐに「あっ」と声を上げた。
「……あたし?」
「嬢ちゃんはそのくらいの歳だろ。なあ、シェルシィ・リースリング少尉?」
 にやにやとからかうように笑う。シェルシィの姓が有名な葡萄品種と同じであることに引っ掛けた洒落なのだ。リースリングの最高級品――そう、シェルシィはマイカラス王国でも有数の名家、リースリング家の一人娘だ。
 だけど。
「古酒なんて失礼だわ」
 シェルシィはぷぅっと頬を膨らませた。
「ワインならともかく、女の子の一八歳はまだ新酒ですよぉ、だ」
 機長に向かって子供っぽく舌を出してから、狭いタラップを降りる。靴が滑走路のコンクリートに触れるのと同時に、
「待ってました!」
「きゃっ!」
 いきなり、抱えていた木箱を奪い取られた。
 一人の女性が、輸送機の下で待ちかまえていたのだ。肩に軽くかかるくらいの鮮やかな朱い髪が、原野と基地の地味な色彩の中でひときわ鮮やかに映った。
 ややきつい顔立ちの、なかなかの美人だった。シェルシィよりは長身だが、それでもどちらかといえば小柄な方だろう。歳は二十台前半くらい。階級章は大尉。
「今日の便でこれが届かなかったら、アタシは燃料切れで墜落するところだったね」
 無線で聞いたのと同じ声だった。舌なめずりしながら木箱に頬ずりしている。
 よほどワインが恋しかったのだろう。重い荷物を抱えているとは思えない、スキップするような軽い足取りで宿舎と思しき建物へ戻っていった。
「あ、あの……」
 女性の姿はあっという間に視界から消えた。呆気にとられて「司令官はどちらにいらっしゃいますか」と訊ねる隙すらなかった。まずは基地司令に着任の報告に行かなければならないのに。
 寒々とした滑走路の上に、シェルシィ一人がぽつんと取り残される。
「ああ、無駄無駄」
 ハッチから顔を出した機長が笑う。
「アルコール切れの時のあいつは、他人の話なんか聞いちゃいない。基地司令なら向こうの建物だ」
 指差す先は、司令室というにはずいぶん簡素な建物だった。鞄をかついで歩き出したシェルシィは、滑走路を横断しながら周囲を見回す。
 本当に、何もない原野だった。基地から少し離れればまだあちこちに残雪があり、茶色い地面とまだら模様を描いている。ところどころ、ようやく芽吹いたばかりの草の緑が、モノトーンの風景にわずかなアクセントを与えている。
 視線を遠くに移すと、北極を環状に取り巻く長大な山脈の白い峰々が、蜃気楼のように空に浮かんで見えた。思わず足が止まる。
 自分が最果ての地に来たことを、嫌でも実感させられてしまう。頬を撫でる風はまだ冷たい。
 小さく溜息をついて、また歩き出した。今度は基地内の様子を観察する。
 一番大きな三棟の建物は、航空機の格納庫だろう。その前には、先ほどの機体だろうか、三機の零式ジェット戦闘機が駐機していて、数人の整備員が忙しそうに働いている。
 近くで見てみたかったが、まずは着任報告が先だ。零式の方は、これから好きなだけ見ることができる。
 格納庫の次に大きいのが、おそらくは隊員の宿舎と思われる建物だった。飛行隊員はシェルシィを含めても一二人しかいないはずだが、地上勤務の整備員や管制要員がいるので、基地の人員の総数は、パイロットの数より何倍も多い。
 いま向かっている司令部の建物は、格納庫や宿舎よりもずっと小さかった。その隣の管制塔も、鉄骨が剥き出しの簡素な造りだ。
 正直に言って、初めて見るクリューカ基地の第一印象は、
「……安普請」
 だった。
 うっかり声に出してつぶやいてしまい、慌てて周囲を見回した。大丈夫、誰にも聞かれていない。
 それにしても、高価なジェット戦闘機を擁している割には、ずいぶんと金のかかっていなさそうな基地だ。あるいは飛行機に金がかかりすぎて、地上施設に回す予算がなかったのかもしれない。
 五年に及ぶ大戦で、国の経済は疲弊している。軍需景気の恩恵を受けて潤っている企業など一握り。本来はエリートである戦闘機パイロットの給料だって、以前より安くなっているような状況だ。堅牢でなければならない前線の要塞と違い、後方の実験飛行隊の基地に金はかけられないのだろう。
「……いいけどね。飛行機さえ最高のものなら、地上にはベッドとお風呂だけあればいいんだもの」
 小さな溜息を残して、司令部の建物へと歩いていった。入口には衛兵すらいない。不用心な気もするが、そんな必要はないのかもしれない。なにしろ周囲は何もない原野である。近づく不審者がいれば、一○キロ先からでも見つけられそうだった。



「よく来たね、リースリング少尉。基地指令のリーヴ・アーシェンだ」
 右手を差し出した四十代の男性は、線が細く穏和な雰囲気で、あまり軍人らしくは見えなかった。軍服を着て中佐の階級章を付けていなければ、人の好い教師か学者と思ったかもしれない。生徒に恐れられていた士官学校の教官の方が、よほど貫禄があった。
「待っていたよ。士官学校での成績は見せてもらった。実に優秀だね」
「いえ、それほどでも」
 これは謙遜である。卒業時のシェルシィの成績は、総合で上位五指に入っており、操縦及び空戦技術については文句なしのトップだった。親の猛反対を押し切って士官学校へ入学したのだから、悪い成績など取れるはずがない。
「知っていると思うが、少尉が配属される第九○七飛行隊は、零式ジェット戦闘機の運用試験を行う実験飛行隊だ。なにしろジェットなんて誰も実戦で使ったことはない。新型機の問題の洗い出し、ジェットならではの運用・整備方法のチェック、そしてジェットの性能を活かした新戦術の研究、やることはたくさんある。当面は朝から晩まで飛ぶだけの生活になるだろうが、頑張ってくれ」
「それこそ、望んでいたことです」
 シェルシィは瞳を輝かせた。
 まったく夢のようだ。一日中飛んでお給料をもらえる生活なんて。しかも乗るのは最新鋭機。
「期待しているよ、リースリング少尉。この後の詳しいスケジュールとか、基地での生活のことについては、飛行隊長のソニア・ハイダー大尉に聞きたまえ」
 司令官はそこで一旦言葉を切って、壁に掛かっている時計を見た。
「今なら多分、彼女は食堂にいるだろう。午後の訓練に出る前に挨拶しておくといい」
「はい、それでは失礼します」
 背筋を伸ばして敬礼し、シェルシィはその場から退出した。そのまま、宿舎へ通じる廊下へと向かう。
 建物はプレハブのような安っぽい造りだが、新しいので隙間風が入ってくることはない。蒸気式の暖房が入っていて、外観から想像していたよりも屋内は暖かかった。
 食堂はすぐに見つかった。初めての基地とはいえ、迷うほど広い建物ではない。昼食の時刻は過ぎていたから、食堂はがらんとしていた。入ってすぐのところに一人、奥の方に二人、いずれも二十台の若い女性だ。
「あの……」
 シェルシィは、入り口近くに座ってグラスを傾けていた女性に声をかけた。燃えるような朱い髪は忘れようがない。先刻、滑走路で出会った人だ。
 テーブルの上には、あの木箱の中身が一本置かれている。まだそんなに時間は経っていないはずなのに、瓶は空になっていて、微かに金色がかった液体は、グラスの中にほんの少し残っているだけだった。
 足音に気付いた女性が顔を上げた。シェルシィは慌てて敬礼をする。
「あ、あたし、今日からこの基地に配属になりました、シェルシィ・リースリング少尉です。あの、飛行隊長のハイダー大尉はどちらにいらっしゃいますか?」
「シェルシィ? ああ、例の一八年物のリースリングね。いいところに来た」
 納得顔でうなずくと、グラスの中身を飲み干して立ち上がる。
「ちょうど、一本空になったところなんだ。味見させてもらうか」
「え?」
 いきなり、顎に手をかけられた。何が起こったのか理解する前に、しっかりと唇が重ねられていた。
「――っっっ!?」
「ふうん、けっこう美味しいじゃない。かなり甘口だね」
「な、な……いきなり何するんですかっ!」
 服の袖で口を拭いながらシェルシィは叫んだ。
 士官学校に入る前は女学校の寄宿舎にいたから、こうした百合的なノリは知らないわけではない。とはいえ、初対面でいきなり唇を奪うだなんて。
(きっと、酔っぱらっているのね)
 口の中にほんの少し、甘いワインの味が残っている。
「さ、行くよ」
 まだ動揺醒めやらぬうちに肩を抱かれ、耳元でささやかれた。シェルシィはさらに狼狽える。
「い、行くって、どこへっ?」
「なに慌ててんの? 寝室にでも連れ込まれると思った?」
 その通りです、とは口には出さなかった。いくら酔っぱらいでも相手は上官。新米少尉としては、大尉様に失礼な口をきくわけにはいかない。
「サラーナが戻ったら、格納庫に来るように言っといて」
 朱毛の女性はシェルシィの肩を抱いたまま、奥の二人に声をかける。こちらを面白そうに観察していた二人は、片手を上げて応えた。まだ狼狽えたままのシェルシィは、強引に引きずられていく。
「あ、あのっ、ちょっとっ、そんなっ?」
「いいから、ここまで来てじたばたするなって。痛くしないから」
「わぁぁん、やっぱりぃぃっ? だめっ、あたし、そっちの趣味はっ」
「……うぶな奴からかうと面白いね。すぐ本気にするんだから」
「え?」
 気がつくと、がらんとした格納庫に連れてこられていた。乱暴な扱いに文句を言うより先に、シェルシィの視線は格納庫の中央に釘付けになった。
 そこには、一機の戦闘機があった。
 鋭い刃を思わせるスマートな機体。微妙に濃さの違う二種類の明灰色で塗装された機体はぴかぴかで、油汚れの染みひとつ見当たらない。
「零式……」
「零式ジェット戦闘機〈竜姫〉だ。昨日組み上がったばかりの新品だぞ」
 コクピットの下と垂直尾翼に、907‐12という機体ナンバーが書かれている。第九○七飛行隊の一二番機。マイカラス空軍の戦闘機隊は一二機編成が普通だから、その末番。
 それが意味するところはひとつ。
「お前の機だよ」
「あ、あたしのっ?」
 思わず、声が裏返ってしまった。
「大切に使えよ。高いんだからな、このお姫様は」
 それはそうだろう。最新鋭のジェット戦闘機の、まだ量産されていない試作機だ。しかも最新技術が山のように盛り込まれている機体。どう考えても安いはずがない。
 クリューカ基地に来る前に小耳にはさんだ噂では、零式は技術的には十分実用レベルに達しているのに、その製造・運用コストの異常なほどの高さ故に実戦配備されないのだという。
「……すてき」
 間近で見る竜姫は、溜息が出るほどに格好よかった。美しさと猛々しさが、これ以上はないというくらいに絶妙のバランスでブレンドされている。
「もっと近くで見ていいですか?」
「ああ、好きにしな」
 シェルシィは機体に歩み寄った。
 手を伸ばして、恐る恐る触れてみる。暖房の入っていない格納庫で冷えきった、金属の冷たさが伝わってくる。ナイフのような、あるいは槍の穂先のような鋭さを持った機体。子供の頃に読んだ空想科学小説に出てくる、未来のロケット戦闘機のようだ。
「すごい……すごいわ」
 機体の周りを一周しながら、何度も感嘆の声を漏らした。これを自分が飛ばすのかと思うと、興奮のあまり心臓が破裂しそうになる。
 滑らかな曲線を描く機首部分に頬ずりし、撫で回すことに夢中になっていたシェルシィは、近づいてくる足音を聞き逃していた。
「ソニア、呼んだ?」
 突然の声に驚いて、ばねが弾けるような動作で振り返る。
 一人の女性が、ゆっくりと近づいてくる。長い銀髪をなびかせた、美しい人だった。
「ああ、コイツの面倒を見てやってくれ。アタシはこれから訓練だから」
 シェルシィをここまで連れてきた女性が、こちらを親指で指して言う。
「あなたは昼の訓練、途中でさぼったものね」
「サボリとは失礼な。燃料補給に戻っただけさ」
「人体用アルコール燃料の補給に、ね。……初めまして、リースリング少尉」
 二人を交互に見ていたシェルシィに向かって、手を差し伸べてくる。軍人だということが信じられないような美人なので、間近で真っ直ぐに見つめられると、同性なのに頬が朱くなってしまう。
 遠慮がちに手を握り返しながら、さりげなく相手を観察した。階級は大尉だった。
「私はサラーナ・オルディカ。九○七飛行隊の副隊長よ」
「あ、は、はい! シェルシィ・リースリング少尉です。よ、よろしくお願いします」
「じゃ、後は任せた」
「はい、任されました。じゃあソニア、気をつけてね」
 サラーナの声を背中に受けて、朱毛の女性が引き上げていく。その後ろ姿を見送っていたシェルシィは、あることに気づいて大声を上げた。
「え……えぇぇぇっ?」
 このサラーナ・オルディカ大尉は、あの人のことをなんと呼んでいた?
 ソニア、と。
 そして、九○七飛行隊の隊長の名は?
 ソニア・ハイダー大尉。
「あ、あ、あの人がっ? 飛行隊長なんですかっ?」
「そうよ? ソニアってば自己紹介もしてなかったの? 相変わらずね」
「で、でもでもっ。あの人ってば食堂で浴びるようにワインを飲んでいて、あたしにいきなりキ……キスしたんですよっ?」
「まあ、いつものことだから。早く慣れることね」
「い、いいんですか、それで?」
 いつものこと、なんて軽く流してしまっていいのだろうか。あんな人が、戦闘機隊の隊長だなんて。
 大空の騎士たる戦闘機パイロットとは、もっと規律正しく厳格なものではなかったか。
 なんだか、大変なところへ来てしまった気がする。
「今さら言っても治らないし。それよりもシェルちゃん、乗ってご覧なさい。一通り、操縦の練習をしてみましょう。操縦マニュアルには目を通してきた?」
「あ、はい」
 ここへ来るまでの長い道中で、暗唱できるほどに何度も読み返している。
「頭ではわかっていても、操縦は身体で憶えないとね。今日中に、目を閉じていてもすべての機器を操作できるようになさい。そうしたら、明日は飛ばせてあげる」
「と、飛べるんですかっ?」
「もちろん。そのためにここへ来たのでしょう?」
「それはそうですけど」
 空軍士官学校に入学した当時、初めて飛行機に乗せてもらうまでの地上訓練の長さを経験しているだけに、すぐに最新鋭機に乗れるなんて夢のようだった。
「一日も早く、一人前のパイロットになってもらわなきゃ困るの。のんびりやっている余裕はないわ」
「頑張ります!」
 飛べると聞いて、俄然やる気になった。
 竜姫の操縦機器の配置は、これまでの戦闘機とは大きく異なっている。明日飛ぶためには、急いで身体に憶えこませなければならない。サラーナに教えてもらった更衣室ですぐさま飛行服に着替え、竜姫のコクピットに飛び込んだ。
「これは……」
 そこでようやく、竜姫の異質さを身をもって実感する。
「ずいぶんと狭いですねぇ」
 話には聞いていたが、竜姫のコクピットはひどく狭い。もともと戦闘機のコクピットというのは広いものではないが、女子としても小柄なシェルシィでさえ窮屈な印象を受ける。これではサラーナやソニアはともかく、男性パイロットでは操縦席に座ることさえできないのではないだろうか。
「性能を限界まで追求したら乗員スペースが足りなくなったって、竜姫の設計主任が言ってたわね」
 タラップに立ったサラーナが笑う。
「はぁ……いいんですか。それで?」
「リカード・ブロック大佐っていうんだけど、けっこうな変わり者なのよ。ただし、航空機設計に関しては紛れもなく天才」
 竜姫誕生の経緯を、サラーナが説明してくれる。
 リカード・ブロックは以前、この大戦には参戦していない中立国テンナの技術者だったのだそうだ。
 彼もまた、パイロットとは違った形で飛行機に魅入られた男だった。
 まだジェットエンジンが実験室の中だけの存在だった時代、戦闘云々以前にジェット機の模型を飛ばすことに苦心していた時代に、世界最強の戦闘機を生み出すことを夢見て、独力で斬新なジェット戦闘機を設計したのだ。
 ブロックはやがて、その設計図を手にマイカラスへ亡命してきた。政治的な理由でない。テンナ空軍がジェット機の開発に乗り気ではなかったことと、彼の設計を実現するにはテンナの技術力が不足していたためだ。
 この大戦で、敵国アルキアの強力な空軍力に手を焼いていたマイカラスは、すぐさまブロックを軍の航空機設計局の技術主任として雇い入れた。
 そうして試作された零式ジェット戦闘機は素晴らしい性能を見せたものの、製造・運用コストのあまりの高さと操縦の難しさ、そしてコクピットの狭さが問題となって量産を見送られた。代わりに、その斬新で優れたアイディアの数々を、マイカラスが開発していたジェット機に盛り込んで、制式採用の四式ジェット戦闘機〈飛竜〉が生まれた。
 それでも零式の性能は四式を凌駕していたため、次代のジェット戦闘機を生み出すために試験を続けることとなった。こうして、第九○七飛行隊が生まれたのである。
「それにしても、多少性能を犠牲にしても、せめてコクピットくらいはもう少し広くできなかったんでしょうか?」
「使いやすさよりもとことんまで性能にこだわるあたりが、天才と呼ばれる所以なんでしょうね。でも、私たちは彼に感謝するべきよ。この狭いコクピットのおかげで、最新鋭機に乗ることができるのだから。わかるでしょう?」
「男性パイロットの体格では、とてもこの操縦席には収まらないというわけですね?」
 シェルシィはシートの上で姿勢を正し、ベルトを締めた。
 狭さに驚いた竜姫のコクピットだが、乗り慣れた練習機と違う点はそれだけではない。
 まず操縦桿。
 普通の戦闘機では両脚の間にある操縦桿が右手の位置にあって、しかもひどく短い。右手で操縦桿、左手でスロットルレバーを握ると、ちょうど、肘掛けつきの椅子に座っているような姿勢になった。違和感はあるが、慣れれば意外と楽かもしれない。
 操縦桿を小さく動かしてみる。すごく軽い。てこの原理を利用した機械式の操縦桿と違い、竜姫の操縦装置は電機式なのだそうだ。操縦桿は単なるスイッチでしかなく、機体に組み込まれた強力なモーターがエレベータやエルロンを動かす仕組みだ。
 これは、シェルシィにとっては嬉しいことだった。高速での機動時、空気抵抗を受けて操縦桿はひどく重くなる。華奢なシェルシィでは両手で渾身の力を込めなければならないほどだ。電機式ならばその問題がなくなるだろう。
 操縦桿には、人差し指の位置に機関砲のトリガー、親指の位置に外部タンクやロケット弾、爆弾の投下スイッチがある。これらもすべて電機式だ。
 左手のスロットルレバーは太く、照準器の調整つまみや無線送信ボタン、フラップとエアブレーキのスイッチ等がある。そして、計器盤にも憶えきれないほどのスイッチ類が並んでいる。
 これらの機器を、すべて反射的に操作できなければならない。空を飛んでいる時、敵機と交戦している時、ゆっくりと考えて手元を確認する余裕などない。コンマ一秒の反応の遅れが生死を分ける世界なのだ。
 サラーナの指導で、シェルシィは操作手順を一から練習していった。
 エンジン始動、離陸、水平飛行、旋回、曲技飛行、空戦そして着陸。
 何度も何度も同じ手順を繰り返す。頭で考えるのではなく、身体に憶えさせるのだ。計器類も、一瞥しただけですべて状況が読み通れるようにならなければならない。
 いったい何十回、同じことを繰り返しただろう。サラーナの指示で目を閉じたままの着陸手順を終えて息をついたところで、外の轟音が格納庫の薄い壁を震わせた。戦闘機のエンジン音、それもレシプロではない。
「零式ですね?」
「ええ、ソニアたちが訓練飛行から戻ったようね」
「そういえば、ワインのために訓練を途中で切り上げたって言ってましたっけ……って、えぇっ?」
 今さらながら、大変なことに気がついた。
「じゃあ今の、ハイダー大尉ですか?」
「そうよ?」
「だってだって、隊長ってば先刻、ワインを一本空にしてましたよ?」
 パイロットには、飛行前にやってはいけないことがいくつもある。
 睡眠不足、腸内でガスが発生しやすい豆や芋の食事、過剰なカフェインの摂取、等々。飲酒はその最たるものだ。自動車でさえ飲酒運転は禁止されているというのに、最新鋭戦闘機を酔ったまま飛ばすなんて。
「いつものことよ」
 サラーナは平然と笑っている。
「いつもの、って……」
「まあ、慣れることね。ソニアはいつもあんな調子だから」
「い、いいんですか、それで……」
「いいんじゃない? あれでもちゃんと飛ばせてるみたいだし、司令官も黙認してるから」
「はぁ……」
 シェルシィは、二の句を継げずに曖昧な返事をした。
 ここが、鳥も通わないような辺境であることや、基地の建物が安普請であることはそれほど気にはならない。なんといっても、擁する機体は革新的な最新鋭機なのだ。
 だけど、それを指揮する飛行隊長は、同性の新入りの唇をいきなり奪い、酔っぱらって戦闘機を飛ばすような人だなんて。
 本当に、とんでもないところに来てしまったのかもしれない。
 少しだけ不安になるシェルシィだった。



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