二章 ヒヨコ対撃墜王


 その夜、シェルシィはなかなか寝つけなかった。
 クリューカ基地で初めての夜、というのは理由にならない。枕が変わっても平気で眠れる体質だし、こんな北の地でもベッドの中は暖かだった。
 しかし今夜ばかりは駄目だ。神経が昂って、とても眠れそうにない。なにしろ明日の朝には竜姫で空を飛べるのだ。
 今日の訓練の最後に、サラーナが言ってくれた。明日は実際に飛ぶことになる、と。それで眠れるはずがない。遠足前の子供と同じ精神状態だ。
 ようやくうとうとしたかな……と思った頃には朝になっていた。それでも眠気なんて少しも感じなかった。
 サラーナからは、午前七時三○分までに集合と言われていたが、シェルシィは七時前には完璧に装備を整えて、格納庫へとやってきた。
 廊下から格納庫へ通じる扉を開けると、どっと寒気が流れ込んでくる。格納庫正面の大扉が開け放たれ、三機の竜姫が外に引き出されていた。
 周囲では整備員が動き回っている。そのうちの約半数が女性だ。この基地はパイロットが全員女性のためだろうか、他の部署も女性の比率が高い。
 女性軍人――これもまた、長く厳しい戦争の副産物だった。
 この大戦のそもそものきっかけは、アルキアの新皇帝の即位だった。以前から強大な軍事力を有していたアルキア帝国だったが、新皇帝はさらに軍備を強化し、拡大政策を進めていったのだ。
 マイカラスやハレイトンといった古い歴史を持つ大国は、最初それを静観していたが、自国の植民地にまで侵略の手が及ぶに至って重い腰を上げ、同盟を結んでアルキアに宣戦布告した。
 三大国の戦いは利害の絡む他の国々を巻き込み、世界規模の大戦へと拡大していった。それから五年、激しい戦闘が続いてきたが、いまだに戦争の行方は見えてきていない。
 しかし現代の戦争は膨大なエネルギーと資源を消費する。両陣営の疲弊は限界に近づきつつあった。
 以前から軍備を強化していたアルキアと異なり、マイカラスでは軍人の数が不足していた。戦闘で消耗した兵員を補うには、民間人を徴兵するしかない。しかし働き盛りの社会人や、未来を担う学生を戦場へ送り出すことは、国の工業生産力の低下を意味する。それでは戦争には勝てない。局地的な戦闘ならともかく、長期的かつ全面的な大戦となれば、国力の差がそのまま勝敗に直結するといっても過言ではない。
 そこでマイカラス政府は、まず女性の社会進出を推し進めた。男性の徴兵によって不足した労働力を、女性で補おうと考えたのだ。
 しかしやがて、女性を直接戦場へ送るという考えが生まれてきた。既に職に就いている男性に軍事訓練を施して戦場へ送り出し、女性に一から職業訓練を施すのでは二度手間だ。ならば女性を軍人にしてしまった方が効率的ではないか、と。
 確かに、銃を手に前線で戦うのは男性の方が適している。しかし高度に機械化され、部署ごとの役割分担が進んだ現代の戦争では、女性にできる仕事も少なくない。
 もちろん、こうした考えは世界的に見れば少数派だ。しかしこの国には、古代、王と共に剣を取って戦場に立った勇敢な王妃の伝説があり、中世までは女性騎士も珍しい存在ではなく、女性が戦場に出ることへの抵抗が少なかった。大戦初期に痛手を被ったマイカラスは、そうしなければならないところまで追いつめられていたという現実的な問題もあった。そうしてマイカラスは、軍における女性の比率が世界でもっとも高い国となったのである。
 今では女性士官もそれほど珍しくはない。シェルシィは、空軍士官学校が女子に門戸を開くようになって三期目の卒業生だった。
「おはようございます!」
 シェルシィは自分の機の傍へ行くと、整備員たちに向かって明るく挨拶した。
「おはよう、リースリング少尉。ずいぶん早いのね」
「そりゃあ、初飛行に遅刻したら大変ですもん」
「でも、隊長はぎりぎりにならなきゃ来ませんよ」
「あの人なら、まだ寝てる方に賭ける」
「それは賭けにならないって」
 笑い声が上がる。どうやらソニアの素行の悪さは、飲酒だけに限ったことではないらしい。
「どうせなら、何分遅刻するか賭けない?」
「何時間、の間違いじゃなくて?」
 整備員たちは楽しそうに笑っているが、シェルシィは不安になってきた。
 そんないい加減な人が、最新鋭機を擁するこの飛行隊の隊長だなんて。しかも今日は、一緒に飛ばなきゃならないなんて。
 編隊長が信頼できない飛行ほど不安なものはない。それならば単独飛行の方がよほどましだ。
「私は、時間までに来る方に賭けるわ」
 背後から、新たな声が加わった。サラーナが格納庫に入ってくる。
「おはよう、シェルちゃん。昨夜はよく眠れなかったんじゃない?」
 完璧な装備で現れたサラーナは、おしゃれとはまるで縁のない飛行服姿でも美しかった。知らない人が見たら本物のパイロットではなく、空軍の広報用モデルだと思うことだろう。いや、並のモデルよりもよほど美人だ。
「ぜんぜん、大丈夫です!」
「今日は天気もいいし、風もないし、絶好の飛行日和ね」
 整備のチェックリストを受け取りながら、サラーナが微笑む。
「はいっ、よろしくお願いします!」
 シェルシィも自分の機のチェックを始める。しっかり整備された機体とはいえ、搭乗前に自分の目で最後のチェックを行うのが戦闘機パイロットの鉄則だ。
 もちろん機体に問題があるはずがない。機体もパイロットも、準備はすっかり整っている。足りないものは飛行隊長だけだ。
 時計の針はそろそろ七時半を指そうとしている。あとどのくらい待たなければならないのかと心配していると、意外なことに、飛行服を身に着けたソニアが現れた。時刻はぴったり七時三○分。
 整備員たちは不安げに空を見上げた。この好天が一転して嵐にでもなるのではないかといった表情だ。ソニアとは長い付き合いらしい整備班長のラウナが、遠慮のない口調で訊く。
「隊長が朝の訓練に遅れないなんて、昨夜はなにか悪いものでも食べましたか?」
「今日は新入りがいるからな、ビシッとしたところを見せないと」
 ソニアは笑って応える。しかし、どこら辺が「ビシッと」なのだろう。ブラシも通していないぼさぼさの髪で大欠伸をし、ボタンを留めていない飛行服姿で、パラシュートをずるずると引きずっている。よく見ればソニアもかなりの美人なのに、これでは台無しだ。
 そして極めつけに、手はしっかりとワインの瓶を持って、あまつさえそれをラッパ飲みしている。
「た、隊長! 飛行前ですよっ?」
 シェルシィは慌てて止めようとした。飛行前の飲酒は御法度だ。昨日もやっていたこととはいえ、せめて自分と一緒の時はやめて欲しい。
「これがアタシの朝飯。飛行前にはしっかりエネルギーを補給しないとな」
「そんなぁ」
「東方のどこかの国には、酔えば酔うほど強くなる拳法ってのがあるらしいじゃないか。それと同じこと」
「戦闘機の操縦とは違います!」
「違うかどうかは、空の上で確かめな」
 ソニアはぽんとシェルシィの頭を叩くと、自分の機体に乗り込もうとした。搭乗前にやらなければならない機体のチェックもしていない。
「あ、隊長、待ってください!」
「なんだ、トイレか? 集合前に済ませとけよ」
「違います。訓練前のブリーフィングをしてませんよ」
 本来、訓練飛行の前には、使用する空域や航路、訓練内容、帰投燃料といったことを打ち合わせておくものだ。
「ンなもんいらねーよ。ヒヨコは黙ってアタシの後をついてきな」
「そんな、いい加減な……」
 ここは、新型機のデータを取るための実験飛行隊ではないのか。なのにこんないい加減なことでいいのだろうか。
 しかし整備員たちはそれが当たり前のような態度でいるし、サラーナも何も言わずに自分の機に乗り込んでしまう。シェルシィも仕方なくそれに倣った。
「こーゆーところだからね、ここは。早く慣れた方がいいよ」
 タラップを昇るシェルシィに手を貸しながら、ラウナが笑う。
「あまり軍隊らしくなくて、気楽でしょ?」
「気楽っていうか、ここまでくるとかえって不安ですよ」
 規律という面では、士官学校の方がよほど厳しかった。そして教官から「前線の基地はこんな甘いものじゃない」と脅されていたというのに。
 女性が多いためか、むしろ女学校の寄宿舎時代を彷彿とさせる。いや、口うるさい教師や寮監がいない分、女学校よりも呑気だろう。
「大丈夫。ソニア大尉は腕だけは確かだから」
「ホントに?」
「信じられないかもしれないけれど、あれでも撃墜王だから」
「ホントにぃぃ?」
 からかっているのではないか、という目でラウナを見る。にわかには信じられない。
「この目で確かめるまでは信じませんよ」
 そう言って、コクピットに乗り込んだ。
 計器盤を一通り見渡す。エンジン始動用の電力が外部から供給されていて、電流、電圧ともに正常。一切の警告は出ていない。
 高度計の針が、今日の気圧に合わせてリセットされていることを確認。無線が通じることを確認。それから高空服の電源ケーブルと、酸素マスクのホースを機体に接続した。軽く深呼吸して、楽に呼吸ができることを確かめる。
 ここまでは問題なし。
 外にいるラウナに、手でエンジン始動の合図を送った。吸気口に取りつけられたコンプレッサーから圧縮空気が送り込まれ、タービンが回転を始める。回転数が始動位置まで上がったところで点火スイッチを押し、燃料バルブを開く。
 ドンッ!
 小さな爆発音とともに、機体が震える。甲高い笛のようなタービンの回転音に、低い呻りが加わる。排気温度計と圧力計が上昇して、アイドリング位置で安定した。エンジン始動成功。
 計器をチェック。すべて問題なし。もう一度外に合図を送る。
 ラウナが、車輪止めを外したことを知らせてくる。目の前のソニアの機が、ゆっくりと動き出す。斜め前にいたサラーナの機も続く。
 一呼吸の間をおいて、シェルシィはつま先で踏み込んでいたブレーキペダルを戻した。動きを妨げるものがなくなった機体は、ゆっくりと進んでいく。
 滑走路の端で一旦停止。前にいるソニアの機の排気を受けて機体が揺れる。
『リリィ01、離陸準備よし』
 無線機から、ソニアの声が聞こえてくる。
 急に、鼓動が激しくなるのを感じた。離陸の瞬間が迫っている。いよいよ竜姫で飛ぶことができるのだ。
『リリィ02、よし』
『リリィ12、よし』
 サラーナに続いて、シェルシィも自分のコールサインを伝える。管制塔からの応答が返ってくる。
『クリューカ・コントロールよりリリィ01、離陸よし』
『リリィ01、了解』
 ソニアの機の排気口から朱色の炎が伸びる。サラーナも、そしてシェルシィも、ブレーキペダルを放してスロットルレバーをいっぱいに押し込んだ。
 コクピット内がエンジンの轟音に包まれる。身体がシートに押しつけられる。
 左右の風景が、加速しながら後ろへ流れていく。
 興奮に胸を震わせながらも、素速く計器をチェックした。タービン回転計、温度計、圧力計、すべて異常なし。
 速度計の針が上がっていく。機首が浮きはじめる。操縦桿をわずかに前に押して、急激に角度を上げようとする機首を抑える。
 さらに速度が上がり、身体がシートに沈むような感覚を覚えた。離陸したのだ。
 それでも慌てて上昇することはせず、シェルシィはすぐに降着装置を格納した。空気抵抗が減って一気に加速する。そこでようやく操縦桿を軽く引いた。
 地平線が傾き、地面がみるみる遠ざかっていく。高度計の針が踊っている。
 他の計器はいたって正常。不自然な騒音や振動もない。
「すごい……すごい!」
 叫び出したい気分だった。最高だ。
 眼前には青い空だけが広がっていた。薄い雲を突き抜けて、さらなる高空を目指していく。
『このまま一二○○○メートルまで上がるぞ。遅れずについて来い』
「一二○○○っ?」
 ソニアの言葉に、思わず叫び声を上げた。現用機の上昇限界に近い高度を、そんなあっさりとした口調で。
 資料は目にしていたはずだが、もう一度確認せずにはいられなかった。
「竜姫って、どのくらいまで上昇できるんですか?」
『実用上昇限度は一四五○○メートルとなっているわね』
 サラーナが応える。
『アタシは、テストで一七○○○近くまで上がったことがあるよ。武装も塗装もしてない試験機で、ホントにただ上がるだけだったけど。そこまで行くと空戦機動は無理だな』
『そもそも、その高度に敵機もいないけど』
「いちまんななせんっ?」
 信じられない。それはもう、空ではなくて宇宙の領域ではないのか。
 訓練飛行で一○○○○メートルまでは上がったことがある。旧式の戦闘機を改造した練習機では、八○○○メートルから上はずいぶん苦労したものだ。
 それに比べて、竜姫の上昇力はどうだろう。高度はすでに七○○○メートルを超えているが、まだまだ余力が感じられる。
 八○○○……九○○○……そして一○○○○メートル。
 もう、これより上に雲はない。一年中快晴の空間だ。周囲には空だけが広がっていた。視界を遮るものは何もない。
 基地からも見える北極山脈の峰々が、ずいぶん近くに迫っていた。九○○○メートルを超える最高峰の頂すら、遙か下にあった。
 上を見ると、空が怖いくらいに青い。一二○○○メートルに達すると、それはもう青というよりも群青に近い暗い色だった。星さえ見えそうな気がする。
『んじゃ、いくぞ。ぴったりついて来いよ』
 シェルシィが暗い空に見とれていると、ソニアはそれだけ言っていきなり急降下を開始した。慌てて後を追う。
 高度計の針が狂ったように回転し、速度計ぐんぐん上がっていく。
 八○○……八五○……九○○……九五○!
 機体が激しく振動する。空中分解してしまいそうだ。
 もうこれ以上は無理、と思ったところで、ソニアがいきなり機首を起こした。
 そのまま宙返り。
 遠心力で強いGがかかり、身体が何倍にも重くなったように感じた。体内の血液が足の方に下がり、視界が暗くなる。脳貧血で意識を保つのさえ困難だ。
 周囲の風景がめまぐるしく変わる。天地が逆さになって、頭の上に白い大地が広がっている。それが正面に来て、また正常な位置に戻る。
 水平飛行に戻ることなく、二回目の宙返りに入った。その頂点で機体を横転させる。インメルマンターンと呼ばれる空戦機動だ。
 姿勢が水平に戻ったところで、右の急旋回。一八○度反転したところで左旋回。
 旋回で失われた速度を急降下で補い、もう一度宙返り。その上昇中、機体が真上を向いたところで横転。同じ機動を四回繰り返すと、九○度ずつ向きを変えた宙返りの軌跡が四つ重なる。クローバーリーフだ。
 息つく暇もない曲技飛行の連続。それも事前の打ち合わせなしで。シェルシィは全神経を集中してソニアの後をついていった。
 個々の技術は士官学校でもさんざん練習させられたものだが、これほど連続で、しかもこれほどの高速で行った経験はない。これも竜姫だからこそできることだった。エンジン出力の低いレシプロの練習機では、その前に曲技飛行に必要な最低速度を割り込んでしまう。
 Gで血液が下がって、意識が遠くなる。横転の連続で平衡感覚を失いそうになる。
 操縦に関しては士官学校でトップの成績だったシェルシィでも、引き離されずについていくのがやっとだった。それでも弱音を吐くことはできない。一流のパイロットになるためには、酔っぱらいなんかに負けてはいられない。
 今度は機体を横転させながらの宙返り、バレルロールだ。その途中で、いきなりソニアの機が視界から消えた。
 頭で考えるより先に、身体が動いていた。ラダーペダルを蹴飛ばすと同時に、操縦桿を倒して自機を横転させる。横倒しになって失速した機体は横滑りして、一瞬で高度を下げる。
 機体を水平に戻すと、目の前にソニアの姿があった。格闘戦で敵機に後ろにつかれた時に、強引に振り切るための技だ。
『ふぅん、意外とやるじゃん』
 推力を絞って水平飛行に戻ると、無線からソニアの笑い声が聞こえてきた。
『ヒヨコにどうやって飛び方を教えようかと考えてたけど、一応、翼はあるようだな』
 失礼なことを言う。これでもシェルシィは、同期の中ではナンバーワンの成績なのだ。
「このくらい、簡単なものですよ」
 実際には、神経をすり減らすような曲技の連続で息が上がっていたが、それを気取られないように努めて平静を装った。別にシェルシィに限らず、戦闘機パイロットには自尊心の強い見栄っ張りが多い。
『シェルちゃん、機体の方はどう?』
「最高ですね」
 竜姫はアクの強い機体で操縦が難しいと聞いていたが、全然そんなことはない。電機式の操縦装置に独特のくせがあるのは事実だが、むしろそれがぴったりくる。軽い操縦桿は華奢なシェルシィにこそ相応しかった。
『じゃあ、ウォーミングアップはこのくらいで、次は少し難しいのをやってみるか』
「え?」
 ウォーミングアップ?
 あの、失神しそうな曲技の連続が?
 訊き返すより先に、ソニアの機が加速を始めていた。遅れないようにスロットルレバーを押し込む。
 ソニアは徐々に高度を下げていった。前方に、聳え立つ白い山肌が迫ってくる。
 北極冠状山脈――この星で最高、最長の山脈。
 何千万年も昔、巨大な隕石の衝突による地殻変動で生まれたといわれる冠状の大山脈は、地図ではまるで北極を護る城壁のように見えた。最高峰は九○○○メートルに達し、その内部への人間の侵入を拒んでいる。
 ソニアはさらに高度を下げながら、入り組んだ峡谷の中へと入っていった。進むに従って谷はどんどん狭くなり、左右の岩壁は垂直に近い角度で聳えている。
 シェルシィは全身から冷や汗が噴き出すのを感じていた。
『シェル、遅れてるぞ』
 前を行くソニアの台詞。冗談じゃない。
 谷を縫うように飛ぶことは士官学校でも練習させられたが、その時はもっと低速で飛行していた。
 ちらりと速度計を見る。六三○キロ。レシプロ戦闘機の最高速度に近い高速で狭い峡谷を縦断するなんて、正気の沙汰ではない。一瞬でも操作を誤れば、たちまち岩壁に激突するだろう。
 雪に覆われた斜面は白一色で、距離感がつかめなかった。普通ならばできるだけ速度を落とし、慎重に操縦しなければならない場面だ。時折、雪をかぶっていない岩肌が、黒い線となって後ろに飛び去っていく。その度に全身に鳥肌が立つ。
 機体が不規則に揺れる。迷路のような峡谷の中では、予測不可能な突風が吹き荒れていた。真っ直ぐに飛んでいるつもりでも、実際には強風でかなり機体が流されてしまう。運が悪ければ岩壁に叩きつけられるかもしれない。
 おまけに、強風が巻き上げる雪煙に、しばしば視界を遮られてしまう。まったく、ここまで無事に飛んでこられたのが奇蹟のようだ。
『もっと速度を上げろ、シェル。速度こそがジェットの生命。世界一速い戦闘機でノロノロ飛ぶような奴は、旧式の三式戦にでも乗ってりゃいいんだ』
 ソニアの口調からは、恐怖は微塵も感じられなかった。きっと、酔っているせいで恐怖心が麻痺しているのだろう。
 それでもシェルシィはスロットルレバーを押し込んだ。山脈に激突して死ぬのはもちろん嫌だが、臆病者の下手くそと嘲られるのも我慢がならない。
 左右の斜面を見るのをやめた。ただ、前を飛ぶソニアだけに意識を集中する。斜面を気にしてしまえば、恐怖感がいや増すばかりだと気がついた。
 士官学校時代に、編隊飛行について耳にタコができるほど繰り返し言われたことを思い出す。曰く「編隊飛行では、隊長機についていくことだけを考えろ。隊長機がミスして地面に激突したなら、そのまま一緒に突っ込め」と。
 その教えを実践することにした。経験の浅いシェルシィでは、自分の判断だけでこの峡谷を飛ぶことは難しい。だったらソニアに任せてしまってもいいだろう。いくら酔っているとはいえ、まさか進んで激突死したがっていることもあるまい。
 ソニアだけを見るようにすると、いくらか気が楽になった。斜面を見ていないので恐怖を感じない。ソニアが速度を上げても、ただそれについていくだけだ。
 速度が上がっていく。峡谷の出口が見えた時、速度計は時速八○○キロを指していた。
『どうだ、怖くてちびったんじゃないか?』
 谷を抜けたところでソニアが訊いてくる。相変わらず、品のない物言いだ。
「このくらい、全然平気ですよ」
 強がって応える。失禁しそうなほどに怖かったのは事実だし、実際、下着が冷たい気もするが、それを認めるような真似は絶対にしない。
『まあ、一応は度胸もあるか』
『初飛行でこれだけ飛べれば、たいしたものよ』
「たとえ、今すぐ実戦だって平気ですよ」
 小馬鹿にしたようなソニアの態度が癇に障って、強い口調で言い返した。無線の向こうから、微かに笑ったような声が聞こえた。
『じゃ、模擬空戦でもやってみるか?』
「え?」
『今日は、一六ミリは空砲だからな。どうだ? アタシと一騎打ち』
「そんな、いきなり……」
『怖いのか?』
「怖くなんかないです!」
 シェルシィはきっぱりと言った。たとえベテランパイロットとの空戦だって、迷路のような峡谷を時速八○○キロで飛ぶのに比べればなんということはない。
 新米であっても、空戦には自信があった。士官学校での最後の一年間、学生同士の模擬空戦では負けなしだったし、教官とだって五分に近い戦いができていた。
 竜姫は初めての機体だが、シェルシィとの相性は抜群だ。むしろ、乗り慣れた三式練習機よりもよほどしっくりくる。これならいつでも思い通りに飛ぶことができる。
『サラーナが審判な。このまま互いに背を向けて十秒間飛んで、そこでスタート』
「いいですよ。本気でやりますからね、ヒヨコだなんて舐めてたら痛い目みますよ」
 ソニアはベテランで大尉で、しかも撃墜王だそうだから、そう簡単には勝てないだろう。ここまでの飛行で、かなりの腕前であることもわかった。それでも、ボロ負けするとも思わない。
 こちらは今日が初飛行なのだ。例えば十戦中三回も勝ってみせれば、もうヒヨコ扱いされることもあるまい。そもそも相手は酔っぱらいである。勝てなくてどうする。
 竜姫に四門搭載されている一六ミリ機関砲のうち、二門の安全装置を解除すると、シェルシィは唇を舐めて操縦桿を握り直した。



 シェルシィが「安普請」と評したクリューカ基地だが、ひとつだけ自慢できる設備がある。
 それは浴場だ。
 基地建設時、地下浅いところに温泉の湯脈が通っているのが見つかり、それを利用して二四時間入浴可能な大浴場が造られたのだ。
 これは、寒い北の地ではありがたい施設だった。凍てつくような高空での激しい訓練を終えたパイロットたちにとって、熱い湯の中で手足を伸ばして身体の芯まで温まるのは、なによりも心地良いことだった。
 しかし。
「えぅぅ……」
 シェルシィは今にも泣き出しそうな表情で、口元まで湯に浸かって呻き声を上げていた。それはどう見ても、訓練後の休息を楽しんでいる者の姿ではない。
「……あたしって、実はものすごく才能ないんでしょうか?」
 一度頭まで湯の中に潜ってから、隣で気持ちよさそうに湯に浸かっているサラーナの顔を見た。濡れた髪にそっと手が置かれる。柔らかな手のひらの感触が伝わってくる。
「悪くなかったわ。シェルちゃんは、空士を卒業したばかりの新米パイロットとしては、間違いなくトップの腕前よ」
「……でも、勝てませんでした」
 そう。
 先刻の模擬空戦はシェルシィの負けだった。それも、これ以上はないというくらい徹底的に負かされたのだ。
 ソニアの機の弾倉が空になって模擬空戦が終わるまでに、実戦であれば十数回は撃墜されていただろう。なのにこちらはろくに発砲もしていない。ソニアの姿を、まともに照準器に捉えることすらできなかったのだ。
 相手が視界に入ったと思った次の瞬間には見失っていて、気がつくと後ろ上方の絶好の射撃位置につかれている。Gで意識が遠くなるほどの急旋回を繰り返しても、空中分解ぎりぎりの速度で急降下しても、ソニアを振り切ることはできなかった。
 新米とはいえ、士官学校でトップの成績だったのだ。実戦のエースが相手だって、五分とはいかないまでもそれなりにいい戦いができるものと思っていた。
 とんでもない自惚れだった。きっと、空軍士官学校の七期生は、とびっきりの下手くそ揃いだったに違いない。その中でトップだなんていい気になって、まるっきり井の中の蛙だった。最新鋭のジェット戦闘機に乗っても十分に働けるだなんて、思い上がりもいいところだ。
 恥ずかしくて仕方がない。このまま、次の連絡便に乗って帰ってしまいたい。
「もう一度言う。シェルちゃんは、すごく上手よ。そんなに気を落とさないで」
「だって……」
 あまりにも一方的な敗北に、サラーナの慰めも素直に受け入れることはできなかった。
「相手が悪いもの。ソニアに勝てるパイロットなんて、空軍中を捜してもそうそういない。あの子の撃墜数を知ってる?」
 シェルシィは首を左右に振った。撃墜王だということは訓練前にラウナから聞かされたが、正式な撃墜数までは知らない。
「公式記録で二八機」
「にじゅっ……」
 びっくりして、思わずお湯を飲み込んでしまった。咳き込みながら立ち上がる。
 とんでもない数字だ。
 撃墜王どころの話ではない。マイカラス空軍では、二○機を超えていれば文句なしの超一流だ。シェルシィが知る限り、男性パイロットでもそれ以上の撃墜数を持つ者はそう多くはない。
 もちろん世界は広い。アルキア軍には一○○機以上の撃墜数を誇る強者も存在する。しかしそれは、出撃回数が殺人的に多かった三年前の西部戦線のような激戦を、運良く生き延びた者たちだけだ。当時はまだ、アルキアとマイカラスの機体の性能差も大きかった。
「間違いなく、女性パイロットの世界記録でしょうね。今日初めて飛んだ新米パイロットが勝てなくたって、なんの不思議もないでしょう?」
「そんな……信じられない。だって、ソニア・ハイダー大尉なんて名前、ニュースでも聞いたことないですよ?」
 今の時代、空戦のエースは全国的な英雄だ。その活躍を伝える記事が新聞の一面を飾り、ブロマイドやポスターが飛ぶように売れる。
「あの子は、ほら、素行が悪いもの」
 サラーナが苦笑する。
「空軍としては、あまり公にしたくないのよ。上官の命令は聞かない、部下には手を出す、飛行前の飲酒は日常茶飯事。そんなエースなんて、ちょっと外聞が悪いでしょう?」
「まあ、それは確かに」
 あまり褒められた話ではない。歴史の浅い空軍は、陸軍や海軍につけいられる隙を作りたくないために、醜聞には特に神経質だ。
「それに……あの子は、白百合飛行隊の生き残りだから」
「えっ!?」
 シェルシィはまた大声を上げ、浴槽の水面に大きな波を立てた。
 懐かしい単語に、遠い記憶が甦る。まだ開戦前のことだから、シェルシィが十一、二歳の頃だ。
 それは、空への憧れをはっきりと自覚した日。
 蒼空に咲く、大きな百合の花を見上げた日。
 白百合飛行隊――それは世界初の、女性パイロットのみで構成された戦闘機隊だった。可憐な百合の花になぞらえて、部隊番号ではなく通称の『白百合飛行隊』と呼ばれていた。
 設立されたばかりで陸海軍に対して立場の弱い空軍という組織を、国内外に広く宣伝する意図も多分にあったのだろう。若く美しい女性ばかりの飛行隊はたちまち人気者となり、各地で開催される空軍の航空ショーには、彼女たちの曲技飛行を目当てに大勢の人々が集まった。
 胸をときめかせて空を見上げる少年少女たち。その中に、子供の頃のシェルシィ・リースリングがいた。いつも仕事に追われている父親が、珍しく休暇を取って連れていってくれた航空ショーに、シェルシィは一目で魅せられてしまった。
 大空に白煙で絵を描きながら、華麗な曲技飛行を見せる純白の編隊。瞬きをすることすら忘れて見入っていた。
 そして、大空への憧れを抱くようになった。あんな風に、自由に空を飛んでみたい。
 その想いは時間が経っても薄れることはなく、女学校を卒業すると、父親の猛反対を押し切って、勘当同然で空軍士官学校へ入学したのだ。そして今、夢にまで見た戦闘機パイロットとしてここにいる。
 しかし白百合飛行隊の名は、いつしか歴史の表舞台から消えていた。アルキアとの戦争が始まり、白百合飛行隊も前線の基地に配属されたはずで、最初の頃は戦果を上げるたびに大きく報道されていた記憶もあるのだが。
「隊長が白百合飛行隊の出身? 信じられない。だってあたし、飛行ショーは何度も観たし、ポスターとかブロマイドとかいっぱい持ってますけど、ソニア・ハイダーなんて聞いたことないですよ?」
「私たちは開戦後の入隊だから、ショーの曲技飛行には参加していないのよ」
「私たちって、サラーナ大尉も?」
「ええ。私の方がひとつ年上だけど、ソニアとは同期の入隊なの。私たちの時代は、まだ士官学校に女子はいなかったから、民間の飛行クラブからスカウトされてね」
「ふぅん……で、あの、飛行隊はその後どうなったんですか?」
 何気ない気持ちで訊いた。ファンとしては当然の疑問だった。サラーナは一瞬、長い睫毛を伏せた。
「白百合飛行隊は、もう存在しないわ」
 悲しそうな、寂しそうな表情だった。それでピンと来た。これは、気軽に訊いてはいけないことだったかもしれない。
「退役して結婚した者もいる。怪我で一線を退いた者もいる。だけど……死んでいった仲間たちが一番多い。現役で飛んでいるのは、ソニアと私の二人だけ」
「そんな……」
「女性エース集団なんてもてはやされていたのは、あくまでも宣伝のため。当時の私たちの技量は、男性パイロットの平均的な水準でしかなかった。なのに目立つ部隊でしょう? 敵にも目をつけられやすくて。当時の三式戦闘機は、性能的には明らかに敵より劣っていたし、苦しい戦いが続いたわ。一人また一人と仲間が減っていく。女性の戦闘機パイロットなんて、そうそう補充もできない」
 どことなく自嘲めいた儚い笑みを浮かべ、サラーナは遠くを見つめていた。
「白百合飛行隊としての最後の作戦では、残っていた六機で出撃して、自力で基地に戻れたのは私一人だけ。飛行隊長は戦死。ソニアも被弾して、不時着して負傷したところを運良く味方に救出されたの」
 シェルシィはなにも言えなかった。ちゃらんぽらんに見えるソニアにも、そんな厳しい過去があったなんて。
「その中で二八機もの撃墜数を挙げたソニアは、本当にすごいパイロットよ。怪我やなんかでその後一年以上も飛行機から離れていたけれど、体格的に零式ジェット戦闘機に相応しいということで白羽の矢が立って、テストパイロットとして復帰したの」
「……実は、すごい人だったんですね」
 単なる酔っぱらいと思っていた隊長のことを、ずいぶん見直した。激戦をくぐり抜けてきた撃墜王、ただ者ではないのだ。それを言ったら最初から、違う意味でただ者ではないとは思っていたが。
 それでも尊敬してしまう。地上にいる時にどれほど問題のある性格だろうと、空戦で強い者が無条件に尊敬を集めるのが空軍パイロットの世界なのだ。
「今日が初飛行のシェルちゃんが勝てなくたって無理はないわ。私だって十回のうち二回も勝てればいい方なんだから」
「ちなみに、サラーナ大尉の撃墜数は?」
「一二機」
「それもすごいじゃないですか!」
 正真正銘の撃墜王として、胸を張れる立派な数字だ。それなのにソニアには圧倒されるのだとしたら、ヒヨコに毛が生えた程度のシェルシィが一度も勝てなかったからといって、落ち込むことの方が自惚れている。
「まあ、私の戦果は、ソニアや白百合時代の隊長にずいぶん助けられての数字だけど」
 その台詞は謙遜だろう、と思った。考えてみれば、シェルシィが必死の思いで飛んでいたあの峡谷でも、サラーナは平然とついてきていたのだ。
「こうなったらもう、あたしもがんがん飛びますよ。少しでも隊長に近づけるように」
「そうね、シェルちゃんならきっと撃墜王になれるわ。そう遠くない将来」
「実戦に出れば、の話ですけどね」
 九○七飛行隊は、あくまでも新型機の試験が任務だ。このクリューカ基地にいる限り、敵と交戦することはない。
「ところでシェルちゃん、今日はもう一度飛ぶのでしょう?」
「はい。今度はルチア中尉と一緒に」
「それまでに、朝の訓練の疲れを癒さなきゃならないわね。マッサージしてあげる。そこに横になって」
「え?」
 見ると浴槽の外に、小さなベッドくらいの大きさのゴム製のマットが敷いてあった。有無を言わさず、その上に俯せに寝かされる。
「あ、あの、サラーナ大尉?」
「じっとしてて。こーゆーの得意なのよ」
 背中を押さえつけられる。少し間があって、背中に冷たいものが触れた。
「ひゃんっ! な、なんですかっ?」
「香草から抽出したマッサージ用のオイル」
 鼻先で、淡い緑色の液体が入った小さなガラス瓶が振られる。ミントに似た、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「この香りが精神をリラックスさせると同時に、皮膚から浸透する成分が血行をよくして、筋肉の疲労を解消し、凝りをほぐす効果があるの」
 背後に回ったサラーナが、両手でオイルを塗ってくれる。まるで、夏の海岸で日焼け止めでも塗ってもらっているような体勢だ。
 ぬるぬるとした感触が、少し心地よい。だんだん、背中がぽかぽかと温かくなってきた。オイルを塗り広げながら、サラーナは手のひらや指先で背中のつぼを軽く圧迫している。確かに、激しい訓練で疲れた身体が楽になってくるような気がする。
「うひゃあ!」
 指先が脇腹に触れる。くすぐったくてシェルシィは身体を捩った。
「こら、暴れないの」
「でもっ! そこっ、だめっ! くすぐったくて……」
「我慢しなさい」
 暴れるシェルシィを押さえつけるようにして、サラーナはマッサージを続ける。
 最初のうちは、肩とか背中とか上腕といった穏便な部分に触れていた手が、徐々に腋の下とか脇腹とか、お尻とか太腿に移動してきた。
「や……やぁんっ!」
 くすぐったい。だけど少し気持ちいい。内腿の、かなりきわどい部分を指が滑っていく。
「あ、あのっ、サラーナ大尉、そこはっ……んっ!」
 一瞬、女の子の部分に触れられてしまった。身体を貫かれるような快感に息が止まった。
「シェルちゃんて、可愛いわね」
 くすくすと笑うサラーナの声に、妙な下心を感じた。
「た、隊長もアレですけどっ! サラーナ大尉までっ?」
 女子校の寄宿舎でもこんなじゃれ合いはあったけれど、単なるおふざけだった当時と違い、なんだかアダルトな雰囲気だ。
「あのっ、もう充分ですから!」
 サラーナの手から逃れようともがく。しかし、しっかりと体重を乗せられていて身動きがとれない。
「だめだめ、しっかりとマッサージしておかないと、訓練は毎日続くのよ。筋肉痛が残ったら困るでしょう」
「ホントにそんな理由なんですかぁっ?」
 じたばたと暴れるシェルシィが、本気で貞操の危機を感じはじめた頃、浴場のドアが開いた。
「あー、副長ってば、またやってる」
「昨日の今日で、もう新入りに手を出すなんて、手が早いんだから」
 入ってきた二人が、浴場内の光景を目にして笑った。
 同じ九○七飛行隊の隊員たち。
 先に入ってきた陽に焼けた肌の女性が、ルチア・アイアルトン中尉。この基地に来る前は、西部戦線で六式戦闘機〈旋風〉に乗っていた、飛行隊ではソニアとサラーナに次ぐ経歴の持ち主だ。
 二人目はもっと年下で、シェルシィにとっては士官学校の一年先輩のエシール・シード少尉。
「手を出すだなんて人聞きの悪い。訓練後のマッサージでしょう」
 サラーナが平然と言う。しかしシェルシィは耳まで真っ赤だ。
「ま、そゆことにしておきましょ。軍では、上官の言うことは絶対ですからね」
「そうそう。それが賢明だわ」
 サラーナとルチアが顔を見合わせて笑った。実際のところ、クリューカ基地の雰囲気は、一般に思われている『軍隊』からはほど遠い。若い女性の比率が多いせいもあって、むしろ女学校のようなノリだ。
「それよりも、隊長が呼んでましたよ」
「そうなの? じゃあシェルちゃん、続きはまた今度ね」
 意味深な笑みとウィンクを残して、サラーナが浴場から出ていく。まだ赤い顔をしているシェルシィは、身体を洗いはじめた二人に訊いた。
「あ、あの、サラーナ大尉って……その、やっぱり、そーゆー趣味の人なんですか?」
「そーゆー趣味?」
「つまり、その……同性が……」
 語尾がゴニョゴニョと小さくなる。はっきりと口に出すのは妙に恥ずかしい。
「ああ」
 ルチアとエシールは引きつった笑みを浮かべた。
「微妙なところだよね」
「なにかと口実を作っては、誰彼構わず『アレ』やってますもんね」
「やっぱり……」
「でも、マッサージとしての効果があるのは事実だから、一概にセクハラとも決めつけられないし」
「あまり深く考えない方がいいよ。悪気はないんだし、好きにさせておけば? 気持ちいいんだから、楽しんじゃえばいいんだって」
「それでいいんですかっ?」
 いくらなんでも、そう簡単に開き直ることはできない。確かに、いろいろな意味で気持ちよかったのは事実だが、「気持ちよければなんでもOK」と言えるほどにはすれていない。
「新入りが来れば、しばらくはそっちにかかりっきりになるからね」
「私たちが標的にされる確率は下がるし」
「それってつまり、あたしが生贄ってことですかぁっ?」
 やっぱり、とんでもないところに来てしまったのかもしれない。
 さらに不安になってしまうシェルシィだった。



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