三章 北極航路


 シェルシィがクリューカ基地に来てから十日が過ぎた。
 毎日の訓練は厳しかった。朝から晩まで、寝ている時と機体の整備中以外はずっと飛んでいたような気がする。
 それでも、少しも辛いとは感じなかった。飛行時間が増えるに従い、操縦が上手くなっていくのがはっきりと自覚できていたから。
 今では本当に、竜姫が自分の身体の延長のようにさえ思える。もっとも、それでもまだソニアには一度も勝てていないのだが。
 今日こそは……と思っていたが、今日の訓練メニューに模擬空戦はなかった。戦闘機隊の訓練飛行といっても空戦ばかりしているわけではない。今日は、味方偵察機との協調飛行だ。
「……竜姫は文句なしに格好いいけれど、〈白鳥〉も綺麗な機体だよね」
 視線を横に向けると、一○○メートルほどの距離を空けて、白に近い明るい灰色の塗装を施したスマートなレシプロ機が並んで飛行している。その向こうにはソニアの竜姫がいる。
 こうして見ると名前の通り、猛々しい竜と、華麗な白鳥のようだ。
 七式防空管制機〈白鳥〉。クリューカ基地に所属するもう一つの実験飛行隊、九一一飛行隊に所属する新型機だ。
 スマートで主翼が長いその姿は、一見、海軍の艦上戦闘機のようにも見える。しかしコクピットは複座だし、その後方には平たいキノコに似た奇妙な構造物がある。
 白鳥は、強力なレーダーを搭載した哨戒機だった。
 この戦争、特に空の戦いでは、レーダーが重要な役目を担うようになっていた。接近する敵機を遠距離から探知できれば、それだけ余裕をもって迎撃できる。開戦間もない頃に、空からの奇襲の怖さを思い知らされた両陣営は、どちらもレーダーの開発とその性能向上に力を注いできた。
 現在では、敵編隊を二○○キロも離れたところから探知することができる。そうなると必然的に、今度はレーダー施設そのものが攻撃目標とされるようになった。もしも真っ先にレーダー基地を破壊されれば、防御側はろくに反撃もできないまま一方的な攻撃にさらされることになる。
 そこで開発されたのが〈白鳥〉だった。
 強力なレーダーを搭載した哨戒機を複数飛ばしていれば、移動できない地上施設と違い、すべてが同時に破壊される可能性は低い。たとえ帰るべき滑走路を破壊されたとしても他の基地に避難することもできる。そしてなにより、高い位置にあるレーダーは探知可能距離が大幅に伸びる。
 これまでにもレーダーを搭載した哨戒機は存在したが、それは運用に長い滑走路と多くの人手が必要な大型機で、しかもレーダーの性能は地上基地に大きく劣っていた。
 白鳥は新開発の高性能レーダーを搭載した単発の小型機で、乗員は二名。これなら前線の小さな基地でも運用が可能だ。実戦配備されれば、空軍のレーダー網は大幅に強化されることになる。
 そして竜姫にとって、白鳥との連係は不可欠だった。
 世界最高の速度と上昇能力、強力な火力、そして優れた運動性能を誇る竜姫にも欠点はある。
 製造・運用コストが極めて高いこと。独特のくせがあって慣れない者には操縦が難しいこと。そしてなにより、滞空時間の短さだ。
 ジェットエンジンは、レシプロエンジンに比べてひどく燃費が悪い。航続距離は決して短くはない竜姫だが、それはコクピットのスペースを犠牲にしてまで燃料タンクを大型化した結果だ。そして巡航速度が速いジェット機は、航続距離は同じでも、飛んでいられる時間はレシプロ機よりもずっと短い。
 海軍の艦載機なら、戦闘機であっても八時間以上の飛行が可能な機種もある。しかし竜姫がどんなに燃料消費を抑えても、その半分の時間も空にいられない。そして燃料切れで一度帰還すれば、燃料と弾薬の搭載量の多さが災いして、再出撃までに要する補給時間は長い。
 つまり竜姫は、空中で待機して敵を待ち伏せるような任務にはまるで不向きな機体なのだ。だから、敵機を発見してから出撃することになる。それでも後手に回らないためには、敵機が少しでも遠くにいるうちに探知することが重要だ。
 そこで白鳥の出番だった。最高の性能を誇るレーダー基地でも、探知可能距離は半径約二○○キロ。しかし白鳥なら、基地から五○○キロ以上を自力で飛行し、その先二○○キロの索敵を行える。
 敵の爆撃機を七○○キロ先で探知できれば、全速であっても基地上空に来るまで一時間以上かかる。迎撃するための時間的余裕は十分だ。ソニアに言わせれば、「一杯ひっかけてから出撃しても間に合う」ということになる。
 白鳥は、空に浮かぶレーダー基地だった。そのため、低速で長時間飛行できるように設計されている。巡航速度では八時間以上の飛行が可能だ。
 シェルシィは速度計に目を落とした。現在の速度は時速三○○キロ。竜姫の巡航速度よりもずっと遅いが、これでも白鳥の巡航速度を上回っている。
『シェルちゃん、退屈じゃない?』
 無線機に、一緒に飛んでいる白鳥の機長兼レーダー手、そして九一一飛行隊の隊長でもあるエリコ・ハーリック大尉の声が入ってくる。
『普段、こんなにゆっくり飛んだことないでしょ』
「別に、退屈ではないですけど。でも、なんだか燃料の無駄遣いをしているような気がしますねぇ」
 竜姫は燃費が悪い。全速飛行時には特に顕著だが、速度を落としても劇的に燃費が改善するわけではない。だから巡航速度よりも遅く飛ぶことは、燃料ばかり消費して、なのにさっぱり前に進んでいないことになる。燃料をただ垂れ流しているような気分だ。
『それは仕方ないな。竜姫の巡航速度は、この子にとっては全速とほとんど同じだもの』
「それと引き替えの飛行時間の長さですもんね。でも、八時間も飛びっぱなしっていうのは疲れません?」
 航空機の操縦というのは、心身ともにひどく消耗するものだ。二、三時間の竜姫の飛行でも地上に降りた時はほっとするのだから、八時間も飛ばなければならない白鳥のパイロットは大変だろう。いま一緒に飛んでいる白鳥のパイロット、ユーキ・ウェルコーン少尉は、シェルシィと同期の新米だからなおさらだ。
『竜姫で二時間飛ぶより、白鳥で八時間飛ぶ方が楽かもよ?』
 エリコが笑って言う。ユーキがその後を継いだ。
『もともと、長時間飛ぶために設計された機体だからね。絞め殺されそうな竜姫のコクピットに比べれば、こっちはリムジンみたいなものだよ』
「あ、それは羨ましいなぁ」
 竜姫とは相性のいいシェルシィだが、それでもやっぱり乗り心地がいいとは思わない。なにしろ、ぎりぎりのサイズに詰め込めるだけの最新装備を詰め込んだ機体だ。コクピットのスペースも最小限に抑えられている。そのため竜姫のパイロットは、今のところ小柄な女性に限定されていた。
『ま、竜姫はいろんな意味で長時間飛行には向かないよな』
 ソニアの声が割り込んでくる。
『だからこそ、白鳥が必要なのさ。敵が接近していて、迎撃が必要と判断されたその時だけ飛び立って、お客さんを片付けたらさっさと帰ればいいんだから』
「まあ、実戦ならそうでしょうね」
 しかしクリューカは実験飛行隊のための基地。実際に敵機を迎撃する機会などあるはずもない。
 それが、シェルシィには少し不満だった。竜姫の素晴らしい能力を知れば知るほど、その力を実戦で試してみたくなる。戦闘機パイロットとしては当然の思いだ。
「ここまで準備が整っているなら、前線に出してくれればいいのになぁ。こんな、間違っても敵なんか来ないような辺境じゃなくて。新型機の試験なら、もう充分じゃないですか。竜姫は実戦でも立派に戦えますよ」
『……そうだな』
 応えるソニアの声は、気のせいかやや不機嫌そうに聞こえた。
『戦えるよ。竜姫は、な』
『……そうね、どうやら、シェルちゃんのご期待に添えそうよ』
「え?」
『レーダーに反応。機影二○。方位三三五、距離一八○、高度一○三○○、進路一九○、速度……およそ四五○。目的地はカランティ市かしら』
 先ほどまでの楽しげな声ではない、事務的な口調でエリコが言う。シェルシィは、すぐにはその意味が理解できなかった。
『友軍機じゃないんですか?』
 ユーキの声で、ようやく状況を理解した。白鳥のレーダーがなにかを捉えたのだ。しかし敵機ではないだろう。前線から遠く離れたこんな辺境で敵襲なんて、現実的な話ではない。
「ティアサーク基地の飛行隊ですよね?」
『アタシら以外、味方にこんなところを高度一○○○○で飛ぶ酔狂な奴はいねーよ』
「でも」
『今、クリューカで飛んでいるのはアタシらだけだ。ティアサークの飛行隊は旧式の三式戦、切羽詰まった用もなしに一○○○○メートルなんて上がらない。重い外部タンクをつけたら一○○○○は無理な機体だぞ?』
「だって、そんな……敵機が? どうしてこんな場所に、いったいどこから?」
『北極航路だ』
 ソニアが断定的な口調で言った。
『北極航路だよ。アルキア本土から、北極圏を横断してきたんだ』
「……まさか!」
『よく考えてみろ。ここは激戦地の西部戦線よりも、距離だけならよほどアルキア本国に近いんだぜ?』
 確かに。
 赤道を中心とした平面の地図ばかりを見ていると失念しがちだが、北半球の高緯度の二点間を結ぶ最短ルートは北回りになる。地球儀を見れば一目瞭然だ。
 マイカラスの北端に近いこの地方と、アルキアの最北端。距離だけなら航空機で往復は可能だった。
「それは……そう、ですけど。でも」
 北極航路。
 それは言葉としては存在していても、現実的な戦略ルートとは思えなかった。厳しすぎる極地の気象が、長年に渡って人間と、人間が生み出した機械の侵入を阻んでいるのだ。
 エンジンオイルも凍りつく極寒。
 上空では、対地速度にして時速数百キロに達する暴風。
 そして、難攻不落の壁として聳える長大な北極冠状山脈。
 人間が極地に達してからこれまで、マイカラス〜アルキア間の北極航路は探検家だけの領域だった。少なくとも、世間一般ではそう思われていた。
『ここ数年の航空機の進歩はめざましい。これまで不可能といわれていた低温や荒天の下でも安定して飛べる機はいくらでもある。高度一二○○○以上まで上がれば、北極山脈の乱気流も無関係だ。アルキアの重爆ペリュトンなら、ちょっと改造して耐寒装備とエンジンの潤滑系を充実させれば十分だろうな』
「ペリュトン……」
 シェルシィは呻くような声でその名をつぶやいた。それはマイカラスのパイロットにとって、いくら憎んでも足りない忌むべき名だった。
 アルキア空軍が誇る世界最大、最強の重爆撃機。四発の強力なエンジンで一○○○○メートル以上の高々度を飛行し、八トンを超える爆弾を搭載できる。一○門以上の機銃でハリネズミのように武装しており、戦闘機による迎撃も困難。一年前に実戦投入されて以来、マイカラス西部の都市や港湾に爆弾の雨を降らせ続けてきた空飛ぶ要塞だった。
「ペリュトン……なんですか?」
『反応はかなりの大型機。十中八九そうでしょうね』
「じゃあ、すぐに迎撃しないと!」
『慌てるな。まず、基地に連絡だ』
 慌て興奮しているシェルシィとは対照的に、ソニアの口調は妙に醒めていた。
『リリィ01よりクリューカ・コントロール。エリアA‐11にて敵味方不明機発見。高度一○三○○、進路一九○、機数二○。アルキアの重爆の可能性が大』
『クリューカ・コントロールよりリリィ01。ハイダー大尉、間違いないかね?』
 驚いたことに、応答した声は基地司令リーヴのものだった。それが、事の重大さをうかがわせた。しかしソニアは意外そうな素振りも見せずに平然と応える。相手が司令官でも乱暴な口調は変わらない。
『間違いない。スワン01のレーダーが捉えている』
『一応訊くが、迎撃できるかね?』
『……残念だけど、燃料が足りない。クリューカからの行動範囲を少し超えているし、これから迎撃隊を発進させても間に合わない。今回は発見が遅れたな』
「隊長!」
 シェルシィは思わず大声を上げた。しかしソレアもリーヴも構わずに話を続ける。
『仕方ないか。こんなところに敵が現れるとは思っていなかったからな。では、すぐにティアサークへ連絡して迎撃させよう。君らはもう少し情報収集に努めてくれ』
『リリィ01、了解』
 通信が切れる。シェルシィはもう一度大きな声で言った。
「隊長、迎撃しましょう! ぎりぎりだけど、なんとか行けますよ」
 応答はない。
「隊長!」
 ソレアは嘘をついている。そう思った。
 残燃料にあまり余裕がないのは事実だが、それでもこの距離なら敵機を捕捉することはできる。クリューカに戻る燃料が足りないのであれば、会敵予想地点に近いティアサーク基地に降りればいい。
 もちろんソニアとシェルシィの二機だけで、二○機の敵をすべて撃墜できるはずはない。しかし少しでも敵機を減らせば、それだけティアサーク基地の負担も、カランティ市の被害も減る。
 ソニアの態度に不自然なものを感じた。迎撃は可能なのに、嘘をついて戦いを避けたのではないか、と。
 もう一度、念を押してみる。
「隊長、まだ間に合います。迎撃しましょう。せっかくの実戦の機会ですよ。スコア増やしたくないんですか?」
『……リースリング少尉、アタシたちの今の任務は、スワン01を護衛して情報収集することだ。それを忘れるな』
 やっぱり変だ。ソニアは普段、シェルシィのことを「シェル」と呼び捨てにする。「リースリング少尉」なんて格式張った呼び方、司令官の前でもしない。
 どうしてだろう。侵攻してきた敵機を前にして黙って見ているなんて、戦闘機乗りのやることとは思えない。ましてやソニアは、二八機のスコアを誇る撃墜王ではないか。
 いや。
 そこで、ふと思い当たった。
「怖いんですか?」
 考える間もなく、その台詞を口に出していた。
『……なんだと?』
 低い、剣呑な声が返ってくる。
「白百合時代の最後の空戦で撃墜されたそうですね。その後は実戦には出ていないんでしょう? 実戦が怖いんじゃないんですか?」
 言いすぎだ、と自分でも思う。こんな暴言、この隊でなければ処罰されてもおかしくない。だけど言葉が止まらない。
 無線に入った微かな呻き声は、ソニアではなくてエリコのもののように思えた。ソニアの反応はない。プライドを傷つけられて激怒しているだろうに。
 やっぱり、怖じ気づいたのだろうか。
 幻滅だった。女子最高のスコアを持つ撃墜王として、一応は尊敬もしていたのに。
(いっそのこと……)
 ソニアがあてにならないなら、自分一人だけでも行ってしまおうか――そんなことを考えた。たとえ命令違反だとしても、ちゃんと戦果を挙げてみせれば文句は言えまい。
 スロットルレバーを握る手に力が入る。
『ふざけたことを考えてんじゃないだろうな?』
 不意に、ソニアの声が聞こえた。しかし先刻までいたはずの場所にその姿は見当たらない。慌てて周囲を見回して驚いた。いつの間にか、ソニアの機はシェルシィの真後ろについていた。
『最新鋭機を初陣で撃墜される恥をさらすくらいなら、訓練中の事故で墜落という方を選ぶぞ』
 殺気のこもった声だった。
 全身の血が下がるような感覚を覚える。命令に従わず勝手な行動をとるなら撃墜する、と言っているのだ。
 操縦桿を握る手がグローブの中で汗ばんでいる。万が一ソニアと空中戦などということになったら勝てるはずがない。
『文句があるなら地上で言え。空にいる時は、何があっても編隊長の命令は絶対だ』
「……わかってます」
 吐き捨てるように言って、ゆっくりと進路を変えた。敵に向かうのではなく、一定の距離を保って平行に飛ぶように。単独行動は諦めたものの、やっぱり気が収まらない。憎まれ口を叩かずにはいられなかった。
「敵は撃てなくても味方は撃てるんですね」
『シェル、言いすぎだよ!』
 見るに見かねたのか、ユーキが金切り声で叫んだ。



「せっかく実戦のチャンスだったのに! 隊長のバカ! バカバカバカッ!」
 クリューカ基地が唯一誇ることのできる施設である大浴場のタイルに、シェルシィの声が反響する。基地に戻ってきてもまだ機嫌は直っておらず、浴槽の中でキャンキャンと吠え続けている。
「敵を目の前にして黙って引き下がるだなんて、なに考えてるのよ! せっかく、竜姫の力を見せつけるチャンスじゃない」
「そうだよねー。せっかくの最新鋭機も、訓練飛行ばかりじゃ宝の持ち腐れだよね」
「でも、ソニア大尉相手によくあそこまで言えるね。後ろで見ててはらはらしたよ。本気で撃たれるかと思っちゃった。ま、シェルの気持ちもわかるけど」
 エシールやユーキなどの若手は、どちらかといえばシェルシィに同情的だった。実戦を経験していないだけに、腕試しをしてみたくて仕方がないのだ。ベテランのルチアやエリコは、どちらの味方をすることもなく苦笑している。ソニアの姿はない。彼女はいつも、夜中に一人で入浴しているようで、浴場で会ったことはない。
「迎撃した飛行隊や、空襲を受けたカランティ市では、死者も出たらしいじゃない。あたしたちが少しでも敵を減らしていれば、違った結果になったかもしれないのに」
 実際の被害はそれほど大きなものではなかったが、これまで戦火にさらされたことのない北部の都市が空襲されたとあって、国内の精神的衝撃は大きかった。ラジオのニュースでも大々的に取り上げている。
 ティアサーク基地から発進した迎撃機は旧式の三式戦闘機で、わずか一機の戦果に対して五機の損害を出していた。カランティ市周辺の高射砲陣地も、配備されているのが旧式砲のため、高々度を飛行するペリュトンに対しては有効な防衛手段とはならなかった。
「あー、もう! どうせ隊長は、敵に襲われる心配のないこの基地でワインでも飲んでれば幸せなんでしょ。カランティが空襲を受けようと、知ったこっちゃないんだわ!」
 シェルシィの怒りは収まる気配がない。湯の中でじたばたと暴れている。その頭に、そっと触れる手があった。振り返ると、女神のように微笑むサラーナの顔が目に入った。
「副長……」
「シェルちゃん、お湯の中でそんなに興奮していたら、のぼせて倒れるわよ」
「だって!」
「そこへ横になりなさいな。落ち着くようにマッサージしてあげるから」
「え……」
 一瞬、たじろいでしまう。周囲の隊員たちが意味深な笑みを浮かべる。
 入浴中のマッサージはサラーナの特技のひとつである。精神を落ち着けたり疲労を回復する効果はてきめんなのだが、しかし手の動きが微妙にいやらしく、その実態はセクハラと紙一重だ。
「いや、でも、あの……」
「いいから、いらっしゃい」
 仮にも相手は上官である。強く出られると逆らうことはできない。強引に、マットの上に俯せにされた。
 背中に香草のオイルが垂らされ、サラーナの手がそれを塗り込んでいく。いい香りだ。確かに心が落ち着いてくる。しかし、偶然を装って女の子の敏感な部分に触れるのはやめて欲しい。しかもそれが気持ちいいので、くせになってしまいそうで怖い。
「ねえシェルちゃん。ソニアだって、本当は戦いたかったのよ。アルキアには白百合時代の借りがあるもの」
「だったら、何故」
「それが命令だから、よ」
「えっ?」
 驚いて身体を起こそうとして、サラーナに背中を押さえつけられた。
「みんなも聞きなさい。でも、お風呂から上がったら一切オフレコよ?」
 浴場にいた全員の視線が、サラーナ一人に集中する。
「北極航路を経由した敵襲は、以前から一部の人間が警告していた。だけど、空軍内ではそれを否定する意見の方が優勢だった。当然といえば当然ね。北極圏を飛び越えての爆撃なんて、これまで誰もやったことがないもの。そしてアルキアは西部戦線に戦力を集中しているし、昔から南進志向が強い」
 そうだ。そもそもこの戦争は、北の大国アルキアが、南方の温暖な地を求めて起こしたものなのだ。
「だから、カランティ市周辺の飛行隊を増強するという意見は退けられたわ。総力を挙げて西部戦線をなんとか五分の戦いに持ち込んでいる空軍に、北に回す余剰戦力がないのも事実だし」
「でも、それでもし敵襲があったら……」
 もし、ではない。実際に空襲はあり、旧式の装備しか持たないティアサーク基地は満足な反撃を行えなかった。
 それでシェルシィも、他の隊員たちも、状況が飲み込めてきた。どうしてソニアが敵編隊を見逃したのか。
「警告……なんですか?」
 その問いに、サラーナがうなずく。
「上層部の頭の固い連中は、一度痛い目に遭わなきゃわからないのよ。これまで一度も戦火にさらされたことのない内陸の都市が攻撃されれば、大変な騒ぎになるでしょう? 誰もが、北極航路の脅威を思い知ることになる。そうなれば、北に強力な迎撃部隊を配備することに反対する者はいないわ。かといって、万が一最初の空襲でカランティ市が壊滅したら一大事。だから……」
「だから、あたしたちがここにいる?」
「そう。実際に敵襲があって、目を覚ましたお偉方がティアサークに新鋭機を配備するまで、私たちが北の空を護るの。北極航路の危険性を強く主張していたグレイザック中将が秘かに手を回して、北極山脈に近いクリューカを竜姫の実験基地にしたのよ」
「でも、だったら!」
 シェルシィはまだ納得がいかない。
「今日の敵は二○機以上もいたんですよ。少しくらい迎撃してもよかったじゃないですか。警告の意味なら、カランティに爆弾が一発落ちれば十分でしょう? 一機でも二機でも敵を減らせば、それだけ味方の被害も減らせたのに」
「そうね。確かにそうよ」
「じゃあ、何故?」
 シェルシィは強引に起き上がって、真っ直ぐにサラーナを見た。目を見ていないと、うまく誤魔化されそうな気がした。サラーナが気まずそうに苦笑する。
「それは、ソニアに訊くべきでしょうね」
 その言葉が終わる前に、シェルシィは浴場から飛び出していた。



 食堂に、ソニアの姿はなかった。
 だとすると自室だろうか。いずれにしても、また飲んでいることは間違いあるまい。ソニアの生活は「飛ぶ」「飲む」「寝る」の三語でほぼ言い尽くせる。
 シェルシィは一人、ソニアの部屋の前まで来た。手を上げかけて、一度止めて、それから躊躇いがちにドアをノックする。
「開いてる。入れよ」
 誰何されることもなく、そんな返事があった。細かいことを気にしないソニアらしい。
 小さく息を吸って、ドアを開ける。
 ソニアはベッドに腰掛けて、手にはグラスを持っていた。テーブルの上にはワインの瓶が二本、うち一本は既に空らしい。予想通りの光景だ。顔を上げて、一瞬だけこちらを見る。
「遅かったな」
「え?」
 今の台詞。まるで、シェルシィを待っていたみたいではないか。衝動的にここへ来たのに、そのことを予想していたのだろうか。
 そうかもしれない。空の上であれだけの剣幕だったシェルシィが、基地に戻ってから文句を言いに来ることは十分に予想できる。
「ほら、お前も飲めよ」
 ソニアはテーブルの上にあったもうひとつのグラスに、なみなみとワインを注いで差し出してきた。
「飲めるんだろ? リースリング家のお嬢様なら」
「それは……まあ」
 シェルシィの家は、国内最大のワインメーカーだ。今ソニアが飲んでいるワインだって、リースリング社の製品である。
 だから、ワインには子供の頃から慣れ親しんでいた。故郷のソーウシベツ地方はワイン生産が盛んなところで、子供にも水で薄めたワインを飲ませるのが普通だった。
「あの、でも」
 上官が勧める酒を断るのも失礼だ。そう思ってグラスを受け取ってから、それどころではないと思い出した。この部屋を訪れたのは酒盛りのためではない。
「いいから飲めって。素面のヤツと話すのは嫌いなんだよ」
「……隊長って、根っからの飲んべですね」
 呆れながらも、グラスの中身を喉に流し込んだ。飲まなきゃ話を聞かないというのであれば、いくらでも飲んでみせる。
 空になったグラスに、ソニアがお代わりを注いでくる。それも飲み干す。空腹時ということもあって、三杯目には胃と顔が熱くなってきた。
「……で?」
 ソニアがそう訊いてきたのは、三杯目が空になった頃だった。アルコールによって理性のたがが緩んでいたので、一切の搦め手なしで本音をぶつけた。
「あたし、足手まといですか?」
 それが、シェルシィが出した結論だった。
 状況やソニアの性格を考えれば、今日の敵は迎撃してもよかったはずだ。こちらは二機、必ず撃ち洩らしが出る。北極航路の脅威を示すだけならそれで十分だ。
 それに、ここで少しでも力を見せておけば、上層部も方針を撤回して竜姫を量産するかもしれない。マイカラスの戦闘機で、重爆撃機に対する迎撃能力で竜姫に勝る機種はない。今後のことを考えれば、コスト高には目をつぶっても量産した方がいいに決まっている。
 それだけ条件が揃っていながら交戦を回避した理由は、ひとつしか考えられなかった。
 僚機がシェルシィだったから。
 実戦経験のない、新米のシェルシィだったから。
 これがベテランのサラーナやルチアと一緒だったなら、展開は変わっていたに違いない。
「今日、お前が敵と交戦していたら……」
 ソニアは低い声で言った。
「十中八九、死んでたな」
 その言葉には異議を唱えたかった。
 確かに自分は新米だ。それでも腕には自信がある。しかも最高性能の戦闘機を駆って、護衛戦闘機のいない鈍重な爆撃機を迎撃するのだ。極めて勝率の高い戦いではないか。十中八九死んでいたなんて、いくらなんでも大げさだ。
「自分の腕ならそうそうやられはしない、なんて考えてるだろ?」
 ソニアが笑う。シェルシィの心を見透かしたように。
「確かに、ガキにしては飛べる方だけどな。だけど、実戦ってのはそんな甘いものじゃない。空士じゃ教えてないのか? 撃墜されるパイロットの大半は、初陣か、それに近い新米なんだよ」
 空になったグラスを持ったまま話すソニア。部下としては、ここはお代わりを注ぐのが礼儀だろうか。少し迷って、結局そのままにしておいた。話を中断させたくなかったし、これ以上は飲み過ぎだ。
「操縦がどんなに上手くたって、初めての実戦はびびるんだ。訓練通りに飛べる奴なんていやしない。初陣のパイロットなんて、敵のエースのスコアを増やすためにいるようなもんだよ。補充されては死んでいく無数の新米パイロットと、ほんの一握りのベテラン。それが戦闘機隊の実態さ。マイカラスでもハレイトンでも、そしてアルキアでもそれは変わらない」
 さすがにソニアも酔っているのだろうか、いつになく饒舌だ。その割に話の内容は理路整然としているが、だからといってすべてが納得できるというわけではない。
「……でも。それでもやっぱり、いつかは実戦を経験しなきゃならないんですから。それが今日であっても仕方がないと思います」
「まだ、駄目だ」
 ソニアの目が真っ直ぐにシェルシィを捉える。かなり酔っているはずなのに、その瞳は濁ってはいない。鋭い視線だ。
「シェル、お前はこれまでに何時間飛んできた? 一○○時間飛んだ奴よりも二○○時間飛んだ奴、二○○時間よりも五○○時間、五○○時間よりも一○○○時間飛んだ奴の方が強い。初陣で実力を発揮できないのは同じとしても、経験の長い奴の方がその差は小さい。本来の力の一○パーセントしか出せない奴と五○パーセント出せる奴なら、生き残るのは後者だ」
 シェルシィはざっと暗算してみた。自分の飛行時間はどのくらいになるだろう。
 以前は戦闘機パイロットの養成には約八○○時間の訓練飛行が必要といわれていたらしいが、現在ではもっと短くなっている。戦火の拡大に伴ってパイロットが不足し、訓練に時間をかける余裕がなくなってきたからだ。
「お前がこの基地に来て十日か。……全然足りない!」
 叩きつけるような動作で、ソニアは乱暴にグラスを置いた。底に残っていた液体が飛び散る。
「本当は、最低でも一ヶ月は欲しかったんだ。なのに猶予は、せいぜいあと二、三日しかない」
「え?」
「今日の空襲が成功したんだ。アルキアの連中、すぐ次を寄越してくるぞ。今度はもっと大編隊でな。なのにこっちにあるのは、ペリュトンに歯が立たない三式戦と小口径の高射砲、そしてたった一二機の竜姫だけだ」
「……」
 思わず、唾を呑み込んだ。
 二、三日以内に、次の敵襲がある。その時こそ自分たちが迎撃しなければならない。
 全身に鳥肌が立った。ほんの一時間前まで、実戦に出られないことに文句を言っていたはずなのに、今は怖じ気づいていた。
「た……隊長」
 なんとか声を絞り出す。それは、ひどく震えた声だった。
「あ、あたし、明日からもっと訓練時間を延ばします。それこそ、朝から晩まで一日中」
「そうだな、そうしろ」
 ソニアは、ベッドにごろりと横になって言った。
「アタシの機も使っていいぞ。二機を交互に乗り換えれば、整備を待たずに飛び続けられる」
「でも、それでは隊長が」
「サラーナの訓練時間を半分もらうさ。アタシらはそれで十分。実戦なら嫌というほど戦ってきた。西部戦線で、な」
 涙が出そうになった。
 ソニアは大酒飲みでいい加減な性格だけど、こんなにも部下のことを考えてくれているのだ。そうと知らずに暴言を吐いてしまった自分が恥ずかしい。
「あ、あのっ……今日は、本当に申し訳ありませんでした! あたしってば、なんにもわかってなくて……ホント、新米でまだまだ子供ですね。ごめんなさい!」
 素直に謝ることができた。少しだけ、アルコールの助けを借りてのことだけれど。
「別に、お前のためじゃないさ」
 ソニアはベッドの上で寝返りをうって、こちらに背中を向けた。そんな態度が照れ隠しのようにも思える。
「お前のためじゃない、自分のためさ。アタシは決めたんだ」
「え?」
「アタシがパイロットでいる間は、もう二度と僚機を失いはしないってな」
 背中を向けたまま、小さな声で言う。
 ソニアはそれきり黙ってしまい、やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
 それが狸寝入りだとはわかっていたけれど、シェルシィは何も言わずに、ソニアの身体にそっと毛布を掛けてその場を立ち去った。



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