十章 大空の支配者


 カランティ市を護る防衛線の各所に、小さな綻びが生じつつあった。
 迎撃隊の損害は徐々に増えているし、最後の頼みである高射砲陣地も敵の空襲にさらされ、少なからぬ被害を出している。司令部は編隊を再編して防衛線の穴を塞ぐものの、その分、優先度の低い地域の護りがさらに手薄になってしまうことは避けられなかった。
 ソニアとシェルシィが飛んでいるのは、そんな、手薄になった空域のひとつだった。ここにいるのは二機だけ、他の編隊はすべて、別空域で敵と交戦中だ。
 高度八○○○メートルを巡航。今のところ、周囲に敵影はない。
 護りが手薄な部分を攻めるのは戦術の基本だが、敵も、ここにいるのがマイカラス空軍最強の二機であることを知っているのだろう。アルキア軍もこちらの無線を傍受しているだろうし、高性能のレーダーを装備した偵察型のペリュトンが、後方で戦場を監視している。
 二人は、それを逆手に取るつもりだった。
 そろそろ頃合いだろうか。シェルシィは隣を飛ぶソニアをちらりと見た。ソニアもこちらに顔を向けると、無線を使わず片手を上げて合図を送ってくる。
 小さく深呼吸。左手のスロットルレバーを握り直し、一気に手前に引いた。
 回転計と速度計の針が下がっていく。機体は徐々に失速し、ゆっくりと高度を下げていく。
 シェルシィは無線の送信ボタンを押すと、できるだけ慌てた様子を装って叫んだ。
「リリィ12、緊急事態。エンジントラブル発生!」



 空は、どこまでも青い。
 この空は、どこまで続いているのだろう。
 子供の頃、空を見上げるたびに思った。大空を渡る鳥が羨ましかった。自分も空を飛んで、空の彼方へ旅してみたいと夢みていた。
 ある意味、幸運だったのかもしれない。生まれてきたのがもう少し早ければ、その夢は夢のまま終わっていただろう。しかしランディは偶然にも、世界初の動力飛行機が空に舞ったその日、この世に生を受けたのだ。
 物心ついた頃から飛行機に憧れ続け、前の戦争の末期に初めて戦闘機に乗った。それから二十年近く飛び続け、アルキア空軍最高のエース、天空の狼王とまで称される身になった。
「……それが、この様か」
 大破した機体のコクピットで苦笑する。今のランディは翼を折られ、飛ぶ力を失った鳥だった。
 気化したジェット燃料の臭いが鼻をつく。主翼のタンクが破損したのだろう。不時着時に爆発炎上しなかったのが奇跡のようだ。被弾して失神したものの墜落寸前に意識を取り戻したランディは、かろうじて機の姿勢を立て直し、残燃料を投棄して不時着したのだった。
 下が、大きな障害物のない原野であることが幸いした。うっすらと積もった雪も、衝撃を和らげるのにいくらか役に立った。
 もっとも、それは彼の死を何十分か先に延ばしたに過ぎない。腹の傷から流れ出る血は止まる気配もなく、シートを真っ赤に染めていく。
「……ったく、いい度胸してやがるぜ、あの女」
 彼に勝負を挑んできた竜姫のパイロット、機体ナンバーから推測するに飛行隊の副隊長だろう。さすがにいい腕をしていた。そして、それ以上に度胸が据わっていた。
 最初から相打ち覚悟で、ランディの攻撃を避けようともせずに突っ込んできた。予想外の行動だった。
 相当数の命中弾を与えたはずだが、こちらも深手を負った。機関砲弾が腹部を直撃していたし、不時着時の衝撃であちこち骨折もしている。
 致命傷だった。
 痛みはほとんど感じなかった。既に痛みも感じないくらい、彼の肉体は死にかけていた。
 不思議と、死に対する恐怖も、自分を撃墜した敵パイロットに対する憎悪も感じなかった。
 いつか訪れるはずの時が、ついに来ただけのことだ。
 これまで、数え切れないほどの死を見てきた。新米の頃にしごかれた上官。同期の仲間たち。自分が鍛えた部下。
 大勢の人間が死んだ。そしてようやく彼の番が来た。早いか遅いかの違いでしかない。
 もう、十分だ。
 飛行機の誕生とともに生まれ、飛行機が戦争に使われるようになって間もない頃から飛び続けてきた。世界最高の撃墜王とさえ言われるようになった。
 先に死んでいった戦友たちのことを考えれば、十分すぎるくらいに幸せな人生だった。最高の機体を駆って、最高の敵と正面から戦ったのだ。その結果敗北して死ぬとしても、もう悔しくはない。
「リュウキ……か」
 アルキア空軍の最新鋭機ワイバーンは、素晴らしい機体だった。竜姫はそれをさらに凌駕していた。彼が初めて空を飛んだ当時の複葉機と比べれば、その性能はトンボと鷹ほども違う。
 飛行機はどんどん進化していく。進化の速度は緩むどころか、むしろ加速してさえいる。
 この先、たとえば十年後、いったいどんな戦闘機が大空を支配しているのだろう。
 死ぬのは怖くなかったが、ひとつ残念なことがあるとしたら、そうした今後生まれてくる素晴らしい機体を、この手で操縦できないことだった。いくつになっても、新しい機体、優れた機体は放っておくことができない。
 しかし、欲を出したらきりがない。これからの機体は、これからの世代に任せればいい。
 ずっと飛び続けてきて、さすがに少し疲れたかもしれない。
 眠くなってきた。意識が朦朧としてくる。
 煙草が吸いたいと思ったが、もう、手を動かすのも億劫だった。
 薄れゆく意識。それを現実に引き戻したのは、近づいてくるジェットのエンジン音だった。
 ワイバーンのものではない。
 目を開ける。薄暗い視界を、二つの影が横切っていく。
 竜姫だ。
 ずいぶんと低空飛行をしている。不自然なほどだ。連なる山々の尾根よりも低く、山脈の陰に隠れるようにしてゆっくりと飛んでいる。高々度性能と高速が自慢の竜姫とは思えない。なにをしているのだろう。
 不審に思っていると、まだ生きている無線機に友軍機の声が飛び込んできた。後方にいる管制機だ。
『チーム・オメガ、突入せよ。ルート二○五に道が開いた、お姫様はエンジントラブルで帰還』
 混濁しかけていた意識が、一瞬はっきりする。新型爆弾を搭載した爆撃機と、その護衛機への指示だ。ルート二○五、この近くではないか。
 お姫様はエンジントラブルで帰還、と言っていた。おそらくはあの竜姫だろう。それで、あんなに低空飛行をしていたのだ。
 この大事な時に、よりによってエンジントラブルとは。
 しかし、新技術とはえてしてそうしたものだ。ワイバーンも、試作段階の不安定なエンジンにはずいぶん泣かされた。最新技術の粋を集めた竜姫でアルキア空軍を翻弄してきたマイカラスも、その新技術ゆえに敗北する。
 ……いや。
 そこで、おかしなことに気がついた。
 まだ遠くに聞こえる竜姫のエンジン音。出力は最低限まで絞っているようだが、どこも不自然なところはない。飛行姿勢も安定していた。
「……そういうことか。やるじゃないか、ハイダー大尉」
 無意識のうちに笑みが浮かぶ。
 擬態だ。
 どこから来るかわからない敵を待つのではなく、わざと防衛線に穴を開けて、そこに敵をおびき寄せようというのだ。本当に、いい度胸をしている。
 味方にこのことを知らせられないだろうか。このままでは、爆撃隊は待ち伏せの中に飛び込むことになる。
 最後の力を振り絞って手を動かした。指先が、無線機の送信ボタンに触れる。
 しかし。
 結局、ボタンは押さなかった。押せなかったのではなく、自分の意志で押すことをやめた。
 このまま、ハイダーにやらせよう。その方がいい。
 ランディは戦闘機パイロットだった。アルキア軍人である以前に、戦闘機乗りだった。
 空中戦でパイロットが死ぬのはいい。敵も味方も、お互いに覚悟の上で飛んでいるのだ。
 しかし、非戦闘員であるカランティ市民の頭上に、一発で何万人も殺せるような爆弾を落とすことは間違っている。どれだけの理由を並べても、そのような行為が正当化できるとは思えない。
 戦争で死ぬのは、軍人だけであるべきだ。職業軍人とは、一般市民を戦争に巻き込まないために存在するのではないか。そのために給料をもらっているのではないか。
「……頑張れよ、ハイダー」
 送信ボタンから手を離して、ランディは瞼を閉じた。



『敵編隊接近。進路二二五、速度七○○、高度一○○○○から上昇中。内訳は重爆一、護衛戦闘機が一○〜一二』
 白鳥からの連絡を受けたシェルシィの手が、微かに強張った。ついに、獲物が網にかかったのだ。
「でも、速度が速すぎません? なにかの間違いじゃ」
 時速七○○キロなんて、最速のレシプロ戦闘機並みだ。重爆撃機の速度とは思えない。
『いや、本物だろう。噂には聞いたことがある。エンジンを換装した、ペリュトンの高速型が開発中だってな』
「すると、最新鋭機?」
『だろうな。間違いない、本物だ。迎撃される確率を少しでも減らそうと思ったら、機体の速度を上げるのが近道だ』
 まるで舌なめずりしているようなソニアの声。
『行くぞ、シェル。とどめはお前にやらせてやるから、ぴったり後ろについてこい』
 ソニアの機が速度を上げる。シェルシィも続く。
 まだ高度は下げたままだ。敵に発見されないよう、周囲の山々よりも低く飛ぶ。エンジンは全開。外部タンクを投棄したので、速度はみるみる上がっていく。尾根が高さを増していくのに合わせて、ゆっくりと高度を上げる。
 白鳥が伝えてくる敵との距離が、瞬く間に縮まっていく。ぎりぎりまで接近して、一気に山脈の陰から飛び出した。
 同時に、敵の護衛戦闘機が反応する。爆撃機一機だけが高度を上げていく。
『シェル、射撃位置まで連れてってやる。遅れるなよ、ぶつけるくらいに間を詰めろ』
 その言葉に従い、ソニアの機の後流に巻き込まれないぎりぎりの位置に自機を持っていった。
 敵編隊が散開して、こちらを包囲しようとしている。
 敵の護衛機は一二機。その防御をかいくぐって目標を撃破することは容易ではない。しかし、シェルシィはその事実を無視した。ソニアが任せろと言うのであれば、その言葉を信じるだけだ。彼女こそ、シェルシィが知る中で最高の戦闘機パイロットなのだ。ただ後をついていくことだけに集中していればいい。
 ソニアは不規則な機動を繰り返す。一瞬たりとも真っ直ぐに飛ぶことはない。こちらの進路を妨害しようと動く敵の裏をかいていく。
 先頭の敵機が発砲する。その火線は遠く外れた。続いてもう一機、二機。こちらの進路を塞ぐように次々と発砲してくる。しかし一瞬早くソニアが旋回しているため、大半は見当違いの方向への射撃になっていた。
 ソニアは常に、敵の先手を取っていた。まるで、未来が見えているようだ。
 一度だけ、機銃弾がソニアの主翼をかすめていった。シェルシィは息を呑んだが、それは致命的な二○ミリ砲ではなく、威力の低い一二ミリ砲だったのだろう。わずかにジュラルミンの破片が飛び散っただけで火は出ていない。飛行に支障はなさそうだ。
 三機、四機。次々と襲いかかる敵機を嘲笑うようにかわし、あるいは撃墜していく。まるで、一流のバレリーナの舞踊のように華麗な動きだった。
 後をついていくうちに、シェルシィにもだんだんわかってきた。敵が次にどう動くのか。それをかわすためにソニアがどんな機動を行うのか。
 今までにない一体感を感じる。これまでは、ただソニアについていっていただけだ。しかし今は違う。ソニアが見ている道が、シェルシィにも見えていた。一二機の敵の中を複雑に縫って目標に向かう、一本の曲がりくねった道が。
「これが……隊長が見ていた光景?」
 敵機の未来の進路まで、手に取るようにわかる。一見して突破は不可能に思える敵編隊の中に、一筋の道が浮かび上がっている。
 三次元空間の中での、時間軸まで含めた完璧な空間認識。周囲の敵機がどの位置にいるのかを認識し、次の瞬間にどんな機動を行うのかを正確に予測する能力。
 これこそが、ソニアを最高のエースたらしめた才能だった。空中戦においては、単なる操縦技術の優劣よりも重要な要素だ。
 人間は、地上を歩く猿から進化した。空を飛ぶ能力を手に入れたのはつい最近のことだ。そのため、普通の人間には三次元の空間認識能力が欠けているのだという。彼我の位置や動きというものを、平面的に考えてしまうのだ。その点が、飛ぶ能力とともに何百万年もの進化を遂げてきた鳥やコウモリとの決定的な違いだった。
 科学の力で飛ぶ力は手に入れても、人間の脳は空を自由に飛び回るようにはできていない。しかしごく希に、完璧な空間認識能力を持つ人間が存在する。それは生まれながらにしてのパイロット、人間の姿をした鳥だ。ソニアはまさしく、大空を支配する猛禽そのものだった。
『よし、今だ。やれ!』
 突然、ソニアが高度を下げる。視界が開けると、目の前にはペリュトンの姿があった。ちょうどロケット弾の射程ぴったりの距離だ。
 自分に迫ってきているであろう護衛戦闘機の存在は無視して、慎重に照準を合わせる。敵機はなんとか逃れようと旋回しているが、もう遅い。
 発射。
 小さな振動に続いて、二本のロケット弾が矢のように飛び出していく。夕陽を浴びて朱く染まった白煙が、その進路を教えてくれる。
 訓練でもなかなかできないような、完璧な射撃だった。これも、ソニアが絶好の射撃位置まで先導してくれたおかげだ。シェルシィはソニアを信頼しきっていたから、射撃だけに専念することができた。
 旋回する敵機の進路上に、ロケット弾が向かっていく。間違いない、必中コースだ。
 あと三秒、二秒……。
 しかし次の瞬間、シェルシィは信じられない光景を見た。
 灰色の影が視界をかすめるのと同時に、ペリュトンのはるか手前で大きな火の玉が生まれたのだ。
 ロケット弾が、敵の戦闘機を直撃していた。偶然の事故ではない。意図的な動きだった。爆撃機を護るために、護衛戦闘機がロケット弾に対する盾となったのだ。
 シェルシィはそれで確信を深めた。こうまでして護らなければならない目の前のペリュトンは、間違いなく新型爆弾を搭載した機だ。
 間一髪で危機を脱したペリュトンが、さらに高度を上げていく。
「隊長、やっぱりこいつが目標です。機関砲で左右から挟撃しましょう!」
 興奮して叫ぶ。言うまでもなく、ソニアはわかっていることだろう。もう、二次攻撃の態勢を整えているはずだ。
 そう思っていた。しかし応答がない。
 訝んで周囲を見回す。ソニアの姿がない。慌てて、大きなSの字を描くように旋回した。機体を傾けて下を見る。
 そして、短い悲鳴を上げた。
 煙を引いて墜ちていく戦闘機の姿。
 一つ、二つ、三つ、四つ。
 一機は、たった今シェルシィのロケット弾に体当たりしたガーゴイル。その下に三つの機影。
 二機のシルエットはワイバーンのもの。そして残る一機は、紛れもなく竜姫だった。
「隊長っ!」
 ソニアの身になにが起こったのか、考えるまでもない。ロケット弾の照準に全神経を集中していたシェルシィを護るために、敵機と相撃ちになったに違いない。
「隊長っ! 応答してください!」
 返事はない。考えたくはないが、どうしても最悪の事態を想像してしまう。
 目の前が真っ暗になる。
 頭の中が真っ白になる。
 どうしたらいいのだろう。これから、どうしたらいいのだろう。
 ソニアを追うべきか?
 そんなことをしても意味はない。ソニアの意識が戻らない限り、外部から救う術はない。
 理性ではわかっている。今、何をしなければならないのか。
 ソニアを無視し、一人で敵爆撃機を追ってとどめを刺さなければならない。それこそが、シェルシィが今ここにいる理由なのだから。
 わかっている。頭ではわかっている。
 しかし、身体は凍りついたように動かなかった。
 どうすればいい。一人でなにができる?
 いつも、ソニアが一緒だった。
 いつでもソニアが傍にいて、シェルシィを導き、護ってくれていた。だから安心して飛ぶことができた。
 今は一人きりだ。この戦争の行方を左右するような重大な局面に、たった一人で取り残されてしまった。
 シェルシィは動けないまま、ただ惰性で水平飛行を続けていた。やらなければならないことはわかっていても、身体が動かない。こんなの、新米パイロットには荷がかちすぎる。
 残った敵戦闘機が、こちらに旋回してくる。
 それでも動けなかった。
 どうすればいい? いったいどうすればいい?
 その言葉だけが、頭の中で反響している。
 このままでは敵の射程に入ってしまう。回避しなければならない。だけど、身体は動かない。
『シェルちゃんっ!』
 突然、甲高い声が無線機に飛び込んできた。同時に、今まさにシェルシィを撃墜しようとしていた敵機が四散する。
 明るい灰色の影が視界に入ってくる。
『シェルちゃん、なにをぼんやりしているの! 敵を追撃なさい!』
「……副長?」
 間違いない、サラーナの声だ。思考を停止していた頭が、少しずつ動きはじめる。
 何故、サラーナがここにいるのだろう。彼女の機は、狼王との戦闘で大破したはずではないか。
 通り過ぎた竜姫を目で追った。機体ナンバーは907‐11、機首下に被弾した痕。エシールの機だ。怪我を負ったエシールに代わって、サラーナが乗っているのだ。
「副長……た、隊長が、隊長が……」
『知ってる。だから、あなたが目標を追いなさい』
 泣きそうなシェルシィとは対照的な、凛とした声。シェルシィは大きく頭を振った。
「できません、あたしにはできません! 副長がやってください」
『この機は三二ミリ砲が故障しているの。シェルちゃんがやりなさい。あなたにしかできないのよ』
「……!」
 言われて気がついた。機首下の弾痕、あれは三二ミリ砲の機関部の位置だ。
『行きなさい。これは命令よ』
 強い口調でサラーナは言った。
『もし、あなたがソニアの犠牲を無駄にするというのなら、私は絶対に許さない』
 普段のサラーナからは考えられない、強く、鋭い口調だった。
 考えてみれば当然のことだ。ソニアとサラーナは、開戦直後からずっと共に戦ってきた戦友だ。ソニアが戦死したとしたら、サラーナの悲しみはシェルシィの比ではあるまい。
 それでも、悲しい素振りなど見せていない。隊長不在の際に飛行隊を率いる者として、厳しい口調で指揮を続けている。
「……はい」
 シェルシィは、操縦桿をしっかりと握り直した。スロットルレバーをいっぱいに押し込む。
 愛機が加速を始める。身体がシートに押しつけられる。
 進路を塞ごうとする敵機を、サラーナが撃ち墜とす。飛び散る破片の中を突っ切って、シェルシィは高度を上げていった。
 追撃をかわすためか、それとも新型爆弾で自身が被害を受けるのを避けるためか、ペリュトンはかなり高度を上げていた。一五○○○メートル近くに達しているだろう。さすがにエンジンを換装した改良型だけのことはある。速度だけではなく、上昇性能も量産型のペリュトンとは別物だ。
 それでもシェルシィは追う。
 一四五○○メートル。
 竜姫の実用上昇限度に達する。しかし目標はさらに上空にいる。シェルシィも昇り続ける。実用上昇限度はあくまで設計値であり、本当の限界を意味しない。
 もう、敵戦闘機は追って来ることができない。ガーゴイルもワイバーンも、この高度まで到達することは不可能だ。
 一五○○○メートル。
 まだ目標に追いつけない。
 これ以上の上昇は無理かもしれない、そんな気になる。ソニアは試験飛行で一七○○○メートルまで上がったことがあると言っていたが、それは武装を搭載せず、塗装すら削ぎ落としたマキシマム・スリック状態での成績だ。実戦装備の性能限界は、常にそれより低くなる。
 一五五○○メートル。
 空気が薄い。地上の十分の一に満たない希薄な大気を、二基のコンプレッサーが必死に圧縮している。しかしエンジン出力が上がらない。
 新型ペリュトンの過給器の性能には驚かされる。優れた上昇速度を誇る竜姫も、この高度では目標の上に位置することができずにいた。
 一六○○○メートル。
 もう時間がない。間もなくカランティ市の上空に出てしまう。重爆撃機に対しては上からの攻撃が基本だが、一か八か、下から攻撃するべきだろうか。
 いや、それはできない。斜め銃を搭載した夜間戦闘機ならともかく、ロケット弾が尽きた竜姫が重爆を一撃で仕留めようと思ったら、やはり上方から攻撃しなければならない。
 時間がないからこそ、確実に一撃で仕留めなければならなかった。これほどの高空で発砲すれば、反動で失速してしまう。一度高度を失えば、敵が爆弾を投下する前に再攻撃を仕掛けることは不可能だ。
 一六五○○メートル。
 もうひと息で敵を射程に捉えられるのに、そのわずかな距離がなかなか縮まらない。まるで、カタツムリが這うような速度で飛んでいるように感じる。
 もっと、もっと高く。
 シェルシィは念じる。
 もっと、誰よりも高く、世界中の誰よりも。
 その強い想いが、竜姫の機体を少しでも持ち上げてくれると信じているかのように。
 もう、周囲には誰もいない。
 有史以来、誰もこんな高度で戦ったことはないだろう。人間も、鳥も、到達できない高度。自分と敵機の他に、なにも存在しない。
 限りなく純粋な世界だった。こんな時でなければ、その美しさに見とれただろう。
 しかし今、ここは戦場だった。
 一六六五○メートル。
 もう限界だった。しかしシェルシィは、ついに目標を射程に捉えていた。
 躊躇せずに仕掛けなければならない。カランティ市はすぐそこだ。
 機関砲の射撃モードを選択。六門一斉発射。反動が大きすぎて普段は使うことがないが、今はこれしかない。
 この高度では、たとえ一六ミリ砲の反動でも間違いなく失速する。チャンスは一度きり。そのわずかな時間に、最大の火力をぶつけなければならない。
 徐々に、距離が詰まっていく。
 敵機の後部銃座が動き出す。朱色の火線が向かってくる。それでも構わずに全速で接近する。
 敵影を照準器の中心に捉える。トリガーに置いた指に力を込める。
 そこで、一瞬だけ躊躇った。
 あの機には、おそらく一○名前後の乗員がいる。その命をこの手で奪おうとしている。
 鮮血に染まった雪原の記憶が蘇り、指が震えた。涙が滲んでくる。
 それでも。
 それでも、やらなければならない。
 今、シェルシィの手には、何十万というカランティ市民の命が懸かっていた。カランティを護ることができるのは、自分だけなのだ。
 逃げることはできない。誰も代わってはくれない。シェルシィがやらなければならない。自分の意志で。自分の責任で。
「憎くて殺すんじゃない。だけど、あたしはカランティを護らなきゃならない。……あなたたちの命を奪ったことは一生忘れない。だから……」
 対空機銃から撃ち出された曳光弾が機体をかすめていく。構わずにまっすぐ距離を詰める。ペリュトンの巨体が照準器の中いっぱいに広がる。
「だから……ごめんなさい」
 シェルシィは泣きながら、機関砲のトリガーを引いた。



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