後になって思えば、あまり美しい出会いではなかったかもしれない。
なにしろ私はその時、トイレットペーパーを買いに行くところだったのだ。
六月のある土曜日の午後。
急な引っ越しだった。
父の転勤で、中学三年まで暮らしてきた仙台から東京に引っ越したのが、三月の末のこと。まだ三ヶ月と経っていない。
なのに今は札幌にいるのだから、慌ただしいことこの上ない。
父が勤める会社の札幌支店で急な欠員が出て、その穴を埋められるのが他にいないと白羽の矢が立ったらしい。転勤したばかりで、まだ東京では引き継ぎ困難な仕事を抱えていなかったのは、会社にとっては幸運だった。私たち家族にとっては微妙なところだけれど。
普通なら、単身赴任とするところだろう。一人娘の私は、この春高校に進学したばかりの大事な時期だ。
最初は、そのつもりだったらしい。ところが、父が住むアパートを探しに札幌へ行った両親が、いきなり家を買って帰ってきて私を驚かせた。
すごくいい街で、一目で気に入ったから――と。
いったい、何を考えているのだろう。
家なんて、安くても数千万円の買い物だろう。それを衝動買いだなんて。
うちはあくまでも中流家庭、ひいき目に見ても中のやや上というところで、どう考えても経済力に相応しくない。
父と母、どちらが言い出したことなのかはわからないが、今では二人ともすっかり乗り気のようだ。あるいは似たもの夫婦なのかもしれない。
こんな、思いつきだけで生きてるような両親の血が流れているのかと思うと、自分の将来が不安になってしまう。
とはいえ、一戸建てのマイホームというのは、確かに魅力的な言葉ではある。あのまま東京都内に住んでいたら、庶民にはそうそう買えるものではなかっただろう。ましてや、父の通勤に片道四十分弱などという条件ではなおさらだ。
二人とも、山に囲まれた緑の多いこの新興住宅地をいたく気に入ったらしい。急な転勤を受け入れる代わりに、当分は北海道から異動させないという条件を会社に呑ませて、たまたま目に留まった手頃な建て売り住宅を契約してしまったのだという。
こんな勝手な話、多感な年頃の一人娘としては反対してもいいところだった。私に一言の相談もなく、知らされた時にはすべてが決められた後だったのだから。
当然、反発を覚えた。
強引に、一人ででも東京に残ると言い張ろうかと思ったほどだ。そのくらいのわがままを言うくらいの権利はあるはずだ。
しかし、その新しい家と街と、近くにある高校の写真を見せられて、ぐらりと心が動いてしまった。
仙台にいた頃もマンション住まいだったので、庭つき一戸建てというのはやっぱり憧れてしまう。
庭に花壇を作って、花やハーブを植えよう。
自然が多いところだというから、バードテーブルを置くのもいいかもしれない。北海道にはどんな鳥がいるのだろう。
そんなことを考えると、心が躍ってしまう。
正直なところ、強く反対する理由はなかった。親友との涙の別れは、仙台を発つ時、中学卒業の時に済ませているのだ。東京ではまだ、どうしても別れたくないというほどの友達はいない。そして仙台からの距離なら、東京も札幌もそれほど大きな違いはないだろう。
そうした事情で、私はこの街にやってきた。
奏珠別(そうしゅべつ)――どこか不思議で美しい響きを持つ名の、この街へ。
新しい家。
新しい畳や木材の匂いを楽しみながら部屋を片付けていた時、人としてごく当たり前の生理的欲求に襲われた。
しかし、トイレットペーパーが見当たらなかった。軽い割にかさばり、しかもどこでも買えるものだから、荷物を減らすために持ってこなかったのかもしれない。
段ボールの山をひとつひとつ調べることを考えたら、買いに行った方が早そうだ。どうせ、この先もずっと必要となる物である。母にこの周辺の地図のコピーを渡され、ついでにいくつかの買い物を頼まれる。
家を出た私は、初めての街を地図を頼りに歩きはじめた。
どうやら、家の近くに公園があって、その向こうに比較的大きなスーパーがあるらしい。
公園といっても、小さな児童公園ではない。少なく見積もっても学校のグラウンドの数倍くらいの広さはありそうだ。
たくさんの樹々が植えられているので、足を踏み入れると森の中にいるような気がした。ここらがまだ新しい住宅地であることと樹木の大きさを考えれば、「植えられている」のではなく、「以前からここに生えていたものを残してある」可能性が高い。
公園の中はきちんと手入れはされているが、無粋なコンクリートやアスファルトはほとんど目に留まらなかった。歩道の舗装は石か木で、小川が流れていて小さな池もあり、まるで森の中の散策路といった雰囲気だ。
気持ちいい。
森の香りを胸一杯に吸い込む。
排気ガスの匂いなんてしない、自然な空気だ。
天気のいい休日は、ここでお弁当を食べたら楽しいかもしれない――そんなことを考えながら歩いている時に、その人を見つけた。
公園の中でもひときわ大きな樹の根元に、一人の女の子が寄りかかるように座っている。
高校生か大学生。私と同世代か、あるいは少し年上だろうか。
瞼を閉じて、静かにたたずんでいる。
綺麗な人だった。
今どき珍しい、漆黒の長い髪。
白い肌。
どことなく日本人ぽくない彫りの深い顔に、濃い眉。
流行の顔ではないかもしれないが、逆に、流行に左右されずにいつの時代でも美人で通用するような美しさがある。
そんな美人が木の根元に寄りかかって瞼を閉じている姿は、まるで一枚の絵のようだ。そこだけ、時間の流れが止まっているようにすら見えた。
いつの間にか、私は立ち止まっていた。思わず見とれていたらしい。
近くの梢から飛び立った鳥の羽音で我に返ると、徐々に切羽詰まってくる生理的欲求を思い出して、小走りにその場を立ち去った。
帰りは、急ぐ必要はなかった。
なにも家に帰るまで我慢する必要はない。スーパーのお手洗いで用を足して、トイレットペーパーと、母に頼まれたこまごまとした品と、お菓子と飲み物を買って帰る。
手にビニール袋を提げて来た道を戻る途中、あの樹のところで自然と足が止まった。
しかし、そこには誰もいない。
何故だろう、少しがっかりした。その不思議な感情に思わず苦笑して、また歩き出そうとしたその時。
「ねえ、そこのあなた」
不意に、背後から声をかけられた。傍に人がいるなんて思っていなかったから、びっくりした。
それが自分に向けられた言葉かどうかもわからないまま、反射的に振り返ってしまう。
今の今まで、そんなところに人がいるとは気づかなかった。けれど、数メートルほど後ろに立っていたのは紛れもなくあの人だった。
静かな笑みを浮かべている。すごく大人びているような、それでいてどこか無垢な子供のような、不思議な笑顔だ。
「あなた、この街に越してきたばかりなのね?」
「え?」
突然の言葉に、飛び上がるほど驚いた。
「ど、どうして……」
どうしてわかるのだろう。
この人とは、間違いなく初対面だ。こんな美人、前に一度でも会っていたら忘れるはずがない。
そもそもここは、生まれて初めて訪れる土地。顔見知りに会う可能性もない。
「見ればわかるわ」
その人は言った。
「私はよくここにいるけど、あなたを見たことはない。それに、物珍しそうにきょろきょろしながら歩いている。この辺りに不慣れな証拠ね」
「それは……そう、ですけど」
「だけど着ているものはよそ行きではなく、汚れても構わないような普段着。つまり遠くから遊びに来たのではなく、近所に住んでいるはず」
一本ずつ指を折りながら、理路整然と説明していく。私は言葉の内容よりも、むしろ声の美しさに気を取られていた。
「そして、買物袋の中身。トイレットペーパー、ゴミ袋、荷造り紐、ガムテープ、ハンドソープに台所用洗剤、紙コップにジュースにお菓子……引っ越しの荷物を整理している時に、必要になりそうなものばかりね」
お見事。感心するしかない。
じっくりと観察していたわけでもないだろうに、ちらりと見ただけでよくも買物の内容まで見抜いたものだ。
「……あなた、推理小説マニア?」
思わず、そう訊ねてしまう。
「なに、簡単な推理だよ、ワトソンくん」
芝居がかった口調で言って、くすくすと笑う。すごい美人なのに、そんな表情はむしろ「可愛らしい」という表現が似合った。なんだか不思議な人だ。
「じゃあ、これ。引っ越しのお祝い」
彼女は、手にふたつの缶を持っていた。そのうちのひとつ、カフェ・オ・レの缶を差し出してくる。見ると、彼女の背後には自動販売機がある。
「喉、乾いているでしょう?」
「それは、まあ……」
確かに、喉は渇いている。
引っ越しの荷物を整理していて、今は荷物を抱えて歩いていて、ついでに言えば体内の水分をいくらか排出した直後でもある。
「ひと休みしていったら?」
私の返答を待たずに缶を押しつけると、彼女は先刻の樹の根元に腰を下ろした。そして、もう一方の手に持っていた缶を開ける。見覚えのある黒い缶は、無糖のブラックコーヒーだ。
そのまま立ち去るわけにもいかないので、私も少し距離を空けて腰を下ろし、荷物を置いた。
さて。
どう対応すればいいものだろう。
この人はいったい、どういうつもりなのだろう。
見ず知らずの相手にいきなり声をかけて、飲み物をご馳走してくれて。
その意図が読めない。
この人が男の子であれば、ナンパの一種と思わなくもない。だけど彼女は間違いなく、ロン毛の男の子ではなく綺麗な女の子だ。
もちろん、世の中には同性が好きという人もいる。だけどそれはあくまでも少数派、引っ越してきたばかりの街でいきなり出会う確率は宝くじ以下だろう。
そもそも私は、同性にもてるタイプではない。いや、どういうタイプがもてるのかもよくわからないけれど、少なくとも十六年弱の私の人生で、特に同性にもてた記憶はない。ついでに言えば、異性にもさほどもてた経験はないのだけれど。
本当に、どういうつもりなのだろう。
多少、警戒心が働く。
だけど相手は綺麗な女性だし、缶は細工をした様子もない。恐る恐る一口飲んでみるが、普段からよく飲んでいるお気に入りのアイス・カフェ・オ・レに間違いない。
「あの……」
三分の一くらいを喉に流し込んだところで、はっきりと意図を訊ねてみようと思った。
しかし口から出かけた言葉は、車のクラクションと甲高いブレーキの音、そして激しい衝突音でかき消されてしまった。
びっくりして顔を上げる。
公園の前の交差点で、乗用車と小型トラックが衝突していた。白煙か水蒸気かはわからないが、もうもうと立ち昇って視界の一部を遮っている。
「交通事故ね」
慌てて立ち上がった私の後ろで、彼女は驚いた様子もなく、淡々とした口調で見たままの事実を述べた。
「怪我人はいないようね。車はどちらも、エアバッグが付いているみたいだし」
「……そ、そうですね」
車はひどく壊れて、割れたガラスの破片が広く飛び散っている。しかし運転手は二人とも、自力で車から降りて来たようだ。少なくとも、大きな怪我はしていないらしい。
「歩行者が巻き込まれなかったのが、不幸中の幸いだわ」
そんな台詞で、はたと気づいた。
考えてみれば、あの交差点は私の帰り道だ。ここで道草を喰っていなければ、ちょうど今頃、横断歩道を渡っていたのではないだろうか。
もしも、この人が声をかけてくれなければ、事故に巻き込まれていたかもしれない。
運命の悪戯。奇妙な偶然に感謝した。
しかし――
それは決して、偶然などではない――私がそのこと知ったのは、もう少し後のことだった。
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