一章 rayochi


 転校から一週間が過ぎ、新しい環境にもようやく慣れてきた頃の話だ。
 その日は母が寝坊してお弁当を作ってくれず、私は転校後初めて、昼休みに学校の購買を利用することになった。
 一階の、玄関に近いところにある売店で、サンドイッチとコーヒー牛乳を買った。これから四階の教室まで戻るのも面倒だな……と考えて、いいことを思いついた。
 今日は天気もいいし、外で昼食を食べようか。
 どうせこれから教室に戻っても、普段一緒にお弁当を食べているクラスメイトたちは、半ば食事を終えている頃だろう。一人で教室で食事をするよりも、外の木陰の方が気持ちいいに決まっている。
 この、私立聖陵女学園高等部は、山の麓に建てられている。奏珠別はほんの十数年前まで自然そのままの山林だったところに拓かれた住宅地で、学校があるのはその西端だ。そのため校舎の背後にまで山の斜面が迫って、深い森が広がっている。気持ちのいい木陰には事欠かない。
 思いついたら即行動。私はそのまま玄関を出て、校舎を振り返った。
 比較的新しい学校なのに、なんとなくレトロな印象を受ける建物だった。レンガ風の外装のためか、外壁に蔦が伸び始めているせいか、どこか中世のお城を思わせる雰囲気が漂っている。
 この校舎も、この学校を選んだ理由のひとつだった。
 実は、家から一番近いのは、白岩学園という私立の共学校だった。だけど学校案内のパンフレットの写真を見比べた私は、次の瞬間迷わずこちらに決めてしまった。
 深い森をバックにした、お城のような校舎。
 そしてなにより、制服が素敵だった。
 ただ可愛いだけではない。リボンのついた純白のブラウスと、漆黒の上着と長めのスカートの組み合わせは上品で、まるで古き良き時代のヨーロッパを思わせる貴族的なデザインだ。なんだか自分が上流階級のお嬢様にでもなったみたいで、思わず「ごきげんよう」なんて挨拶をしてしまいそうになる。実際には、通っているのはごく普通の現代日本の女子高生なのだけれど。
 とにかくこの学校は、味気ない鉄筋コンクリートの校舎とありきたりなブレザーの制服の白岩学園よりも、第一印象としてはずっと素敵だった。
 女子校ということは、特に問題とは思わなかった。東京で二ヶ月だけ通った高校もそうだったし、別に、どうしても今すぐ彼氏とかが欲しいというわけではないから、共学にこだわりはない。
 そもそも今の時代、他校との合コンとか、友達の紹介とか、ネットの出会い系サイトとか、その気になりさえすれば、女子校にいても男の子と知り合う機会はいくらでもあるのだ。
 今のところ、特にその気もなかったけれど。


 外に出た私は、裏庭に回った。
 大きく枝を広げた樹々が立ち並んでいて、家の近くの公園と雰囲気が似ている。ちょうど、大きな樹の木陰になる位置にベンチが置いてあって、お弁当を食べるにはもってこいだ。
 しかし。
 そこに、先客がいた。
 私がそうしようと思っていたのと同じように、一人でお弁当を食べている。
 どうしたものだろう。
 ベンチは三〜四人が腰掛けても十分な幅がある。とはいえ、見知らぬ人と同じベンチで食事というのも抵抗がある。
 どこか他に適当な場所はないだろうかと考えていると、ベンチに座っていた人が顔を上げてこちらを見た。
 目が合ってしまう。
 思わず、「あっ」と短い声を上げていた。
 見覚えのある顔だった。
 一度見たら忘れるはずがない。この、彫りの深い美しい顔。くっきりとした眉。漆黒の長い髪。
 あの、引っ越しの日に会った人だ。
 向こうも私を憶えているのだろうか。優しく微笑んで手招きする。
「あなたも、これからお昼? よかったら隣にいらっしゃい」
 そう言って、お弁当を包んでいたらしいナプキンを、ベンチの上に敷いてくれる。私はもちろん、その言葉に甘えることにした。
「すごい偶然。同じ学校だったんですね。えっと……」
 そこでようやく、この人の名前も知らないことに気がついた。襟の級章は二年A組となっている。
「美杜、神原美杜よ」
 疑問が顔に出ていたのだろうか。訊ねるより先に自己紹介してくれる。
「……樹本幸恵です」
 私も名乗りながら、自分の無礼さを恥じていた。先輩に先に名乗らせるとは、転校してきたばかりの下級生としてなんたる失態。まず自分からきちんと名乗って、それから相手の名を訊ねるべきだったのに。
「ミトさんって、どんな字を書くんですか? 美しい都?」
「惜しい。美しい杜、よ」
「うわぁ、綺麗な名前ですねぇ」
 この美しい人にはぴったりの名だと思った。
 神原 美杜。
 かみはら みと。
 美しくて、どこか神々しさを感じさせる響きがある。
「幸恵ちゃんだって、素敵な名前じゃない」
「どこが。ありきたりだし、なんだかちょっと古くさくないですか?」
 自分の名前、嫌いっていうほどではないけれど、それほど気に入ってもいない。時々、もっと今風の格好いい名前だったらよかったのにって思うことがある。
「幸せに恵まれる、あるいは、幸せを恵む。素敵な意味を持つ名前じゃない?」
 美杜さんは思わず見とれてしまうような笑みで言った。
 この美しい人に言われると、聞き慣れた自分の名前が、本当に素敵なものに思えてきた。美人って得だ。
「それに、私が尊敬する人と同じ名前だわ」
「尊敬する人? どなたですか?」
「知里幸惠さんっていうの。だけど、あなたは知らないでしょうね」
「……ごめんなさい、知りません」
 知里幸惠……聞いたことはない。そのことをなんだか申し訳なく感じてしまう。
「いいのよ。多分、知らない人の方が多数派でしょうし」
「はあ……」
 サンドイッチを包んでいるビニールを破きながら、曖昧に返事をする。ここで知里幸惠という人について説明してくれるものと思っていたのだけれど、美杜さんはそのまま黙ってしまった。
 三十秒ほど沈黙が続いて、こっちからなにか言った方がいいのかな、と思い始めた頃。
「そういえば、昔、アイヌの人たちは、子供が生まれてもすぐには名前を付けなかったそうよ」
「へ?」
 いきなり話題が変化したので、素っ頓狂な返事をしてしまった。突然だったし、聞き慣れない単語が混じっている。
 二、三秒遅れて、それが北海道の先住民族の名だと思い出した。言葉としては知っていても、普段馴染みがないだけに、意味を理解するのにタイムラグが生じてしまう。
「子供に名前を付けないって……じゃあ、どうやって呼ぶんですか? 不便じゃないですか」
「そうね、きっと『おい、そこのクソガキ』って感じじゃないかしら」
 冗談めかした口調で言う。
 美しい美杜さんの口から発せられた、汚い言葉。そのギャップが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「あはは……。そんな、まさか」
「本当の話」
 美杜さんは笑みを浮かべているが、ふざけているという雰囲気ではない。
「そうやって汚い言葉で呼ぶことで、疫病などの悪霊が子供に寄りつかないようにしたんですって。悪霊も、汚いものは嫌なのね。そして、子供がある程度成長してそれぞれの個性が出てきたところで、その子に合った名前を付けたの。だから名前は単なる記号ではなく、本当にその人を表していたわけ」
「へぇ……」
 博識な人だな、と思った。それとも北海道では、アイヌに関するこうした知識は常識なのだろうか。
「そう考えれば、幸恵ちゃんって素敵な名前じゃない?」
「うーん……でも、この名前は私が生まれる前から決めていたそうですから、本人の個性とは無関係ですよ」
「名前によって、個性が作られていくってこともあるかもよ。日本には言霊って考え方があるでしょう」
「……でもやっぱり、美杜さんの方が素敵ですよ」
「別に、名前の優劣を比べる気はないけれど。でも確かに、自分の名前は好きよ」
「私も、今までよりは少し好きになりました」
「そうね。姓と違って一生変わらないものなんだし、嫌うよりは好きでいる方がいいと思うわ」
「ですね」
 名前の話は、そこで終わりになった。私はサンドイッチを口に運ぶことに専念し、美杜さんも、私の出現で中断したお弁当を再開する。
 気持ちのいいそよ風が吹いている木陰での昼食は、思った通り楽しかった。
 サンドイッチの最後の一切れを、コーヒー牛乳で流し込む。
 その時、青い空が目に入った。
 雲もほとんどない、よく晴れた空。灰色がかった東京の空とは青さが違う。
 澄みきった、美しい青空。本来ならば喜ぶべきものだけれど、今日に限っては少し憂鬱だ。
 思わず、ため息が出た。美杜さんが怪訝そうな顔をする。
「どうしたの?」
「いえ、いい天気だなぁ……って」
「それが憂鬱なの? 普通に考えれば、気持ちのいい天気だけど」
「そうですね、でも」
 昨日から何度、今日が雨になることを祈っただろう。だけどその願いは届かなかったようだ。
 ところどころに小さな雲が浮かんでいる程度のいい天気。雨なんて期待できそうもない。
「今日の午後の体育、晴れだったら外でマラソンなんですよ」
 私の顔を見ていた美杜さんは、二、三度瞬きして「なるほど」とうなずいた。
「長距離は苦手?」
「どちらかといえば短距離型です。それに、ただだらだら走るのって退屈じゃないですか」
「ちなみに雨だったら?」
「体育館でバスケ」
「バスケは好きなの?」
「球技はたいてい好きだし、得意ですよ」
「ふぅん」
 そんな、なんでもない話を興味深そうに聞いていた美杜さんは、お弁当箱に蓋をして、おもむろに立ち上がった。
「なんとか、してあげましょうか?」
「は?」
「転校してきたばかりの幸恵ちゃんのために、特別サービス」
「なんとかって……どうするの?」
 わけがわからず戸惑っている私に構わず、美杜さんはベンチに置いてあった小さなバッグに手を入れた。
 取り出したのは、直径数センチほどの、金属製の輪が三つだった。短い鎖でいくつかの鈴が下がっていて、ちりちりと澄んだ音を立てている。
 二つはどうやらブレスレットらしい。両方の手首にひとつずつ填める。
 右手首には、金色の輪に銀色の鈴。
 左手首には、銀色の輪に金色の鈴。
 そしてやや大きめのもう一つはアンクレットで、右の足首に填めた。これは金銀を組み合わせたやや幅広の輪に、金と銀の鈴が交互に下がっている。
 いったいなにが始まるのだろう。私は呆気にとられて見守っていた。
 数メートル離れたところに背筋を伸ばして立った美杜さんが、腕を上げる。
 リーン
 鈴が鳴る。
 腕を振り下ろしながら、脚が地面を蹴る。
 一メートルくらい後ろに着地する。その衝撃でいくつもの鈴の音が重なり、美しい和音を奏でる。
 そのまま左脚を軸に一回転して、右足をとんと地面に下ろす。
 金の鈴が鳴る。
 銀の鈴が鳴る。
 上体を屈めながら後ろに下がり、また伸び上がって腕を上げる。
 腕の鈴が鳴る。
 リズミカルな動作が繰り返される。
 私が見ている前で、美杜さんはいきなり踊り始めたのだ。
 腕を振る。脚を振る。
 その度に、透き通った鈴の音が響く。
 くるりと一回転する。
 スカートが翻り、すらりと長い脚が露わになる。
 長い黒髪がふわりと広がる。
 また、鈴が鳴る。
 踊りのことなんてよくわからないけれど、静かな笑みを浮かべて踊る美杜さんは美しかった。
 微かなメロディが耳をくすぐる。歌を口ずさんでいるようだ。
 歌詞ははっきりとは聴き取れない。どうも、日本語ではないような気がする。
 素朴な、そしてなんとなく懐かしい旋律。どこか外国の民族音楽だろうか。
 私の存在など忘れたかのように、美杜さんは踊っている。私はただ呆然と、美杜さんに見とれていた。
 実際のところ、それほど長い時間ではなかったのだろう。やがて美杜さんの動きが止まり、最後の鈴の音とともに、大きく深呼吸をした。ベンチに戻ってきて、ブレスレットとアンクレットを外す。
「えっと……あの、素敵な踊りですね」
「ありがとう」
 上気して、うっすらと汗ばんだ顔で美杜さんが笑う。
「でも、あの……」
 午後の体育のことと、今の踊りと、いったいなんの関連があるのだろう。
 私がそのことを訊ねる前に、美杜さんが口を開いた。
「雨が降って欲しいんでしょう?」
「え? ええ……」
「だから、ちょっと雨乞いの踊りを」
「あ……?」
 雨乞い?
 あまりにも突拍子のない単語に、返す言葉がなかった。二十一世紀の日本に住む女子高生の台詞とは思えない。
 からかわれているのだろうか。それともやっぱり、美杜さんってどこか変な人なのだろうか。
「あ、あの、美杜さん……」
 危うく、「頭は大丈夫ですか?」なんて失礼な台詞を口にするところだった。一瞬早く、微かな遠雷の音が私の鼓膜を震わせなければ。
「……え?」
 遠くからゴロゴロと響いてくる、重い音。間違いなく雷の音だ。
 私は空を見上げた。
 気のせいか、先刻よりも雲が増えているように見えなくもない。
「え……? まさか」
 今朝の朝刊で見た天気予報を思い出す。石狩地方の今日の天候は晴れ、降水確率は十パーセント未満。
 空と、美杜さんの顔を交互に見る。
 そんな私の様子を、美杜さんは面白そうに見ている。
 見上げるたびに、空には雲が広がっていた。
 もう、間違いない。
 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴って校舎に戻る時、雨の最初の一粒が私の頬に当たった。



 予定通り、体育はバスケになった。
 どちらかといえば小柄な私だけど、ドリブルの速さとランニングシュートの正確さには自信がある。
 試合で得点王になって、チームメイトの賞賛の声にいい気になっていたけれど、授業が終わって下校する時になって、困ったことに気がついた。
 傘を持ってきていない。
 当然だ。降水確率十パーセント未満でわざわざ傘を用意する物好きはいない。
 雨は、一時よりはやや小降りになったようだが、まだ傘なしで外を歩けるほどではなかった。
「……幸恵ちゃん?」
 玄関で立ち往生していると、背後から声をかけられた。もう、振り返って確認するまでもない。美杜さんだ。
「傘、持っていないの?」
「普通、持ってきませんよ」
 しかし美杜さんは、ちゃんと傘を持っていた。折り畳みではない、大きな長い傘。生地は深いグリーン、森の色だ。
 ひょっとして美杜さんは、今日、雨が降ることを知っていたのではないだろうか。地元の人間だから、ちょっとした予兆から天気予報ではわからない局地的な気象の変化を知ることができたのかもしれない。
 午後から雨になることを知っていて、雨乞いだなんて言って私をからかった……その可能性が高そうだ。
「入っていく?」
「わ、いいんですか?」
「いいわよ。近所なんだし」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
 喜んでその申し出を受け入れようとして、しかし、ひとつ困ったことに気がついた。
 ここで立ち往生しているのは、私ひとりではない。
 今日は、傘など持ってきていない者が大多数だった。数少ない例外は、鞄の奥に折り畳み傘を常備している用意のいい人か、たまたま学校に傘を置いてあった人くらいだ。
 もちろん信じていたわけではないけれど、この雨が美杜さんの『雨乞い』の結果なのだとしたら、私のわがままで大勢に迷惑をかけたことになる。
「あの……美杜さん?」
 玄関を出かけたところで、私は立ち止まった。
「はい?」
「この雨って……あの、昼休みの雨乞いの成果なんですか?」
「そうかもしれないわね」
 美杜さんは何故か、とぼけるような口調で応えた。
「逆に、雨を止ませることもできるんですか?」
「そうね。できるかもしれないわね」
「じゃあ、お願いしますよ。私が頼んで雨になったのに、一人でのうのうと傘に入って帰れません」
「……確かに、ね」
 美杜さんもうなずいて首を巡らす。
 恨めしそうに空を見上げている者。携帯電話で家に連絡している者。諦めて鞄を頭に乗せて走り出す者。
 自分の責任なのに、その中を傘に入って堂々と帰れるほど、図太い神経はしていない。
「屋上へ行きましょう。ここでは目立ちすぎるわ」
 私の手を引いて、美杜さんは回れ右をした。


 放課後の屋上。
 天気が天気だから、もちろん人の姿はない。
 美杜さんは昼休みと同じように、ふたつのブレスレットとひとつのアンクレットを着けて、雨の下で踊っている。
 雨音を伴奏に、鈴の音が響く。
 身体が一回転した時、下着が見えそうなほどにスカートが翻って、思わず赤面してしまった。美杜さんの脚って長くて綺麗だなぁ……なんて、つい見とれてしまう。
 正直なところ、まだ信じていたわけではない。
 雨を自由に降らせたり止ませたりできるだなんて。
 こんなの、たまたま偶然に決まっている。
 私の常識からすれば、そうだ。
 だけど美杜さんは、それが当たり前のように踊っている。
 そして、踊りを終えた美杜さんが私の傍に戻ってきた時には、雨は目に見えて小降りになり、空を覆っていた雲には切れ間が生じていた。
「……す、ごい……ホントに、止んじゃった」
 信じられない。
 だけど、現実だ。
 黒い雲の隙間から、金色の光が射し込んでくる。天使の通り道、とかいっただろうか。
 それが、どんどん広がっていく。
「み、美杜さんって……超能力者?」
「単なる偶然かもしれないわよ?」
 制服や髪の水滴をハンカチで拭いながら、美杜さんが笑う。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
 雨が降ったことだけなら、偶然かもしれない。むしろ、その可能性の方が高い。だけど、こんな偶然が二度も続くはずがない。
 私は確信していた。雨が降ったのも、止んだのも、美杜さんがやったことなのだと。
 超能力。霊能力。具体的になんなのかはわからないが、美杜さんはきっと、そうした不思議な力を持っているのだ。
「だとしたら、幸恵ちゃんがどんなお礼をしてくれるのかが楽しみね」
「え?」
 突然の言葉に、戸惑いの声を上げる。
 しかし考えてみれば、雨を降らせたのも止ませたのも、私の願いだった。美杜さんは傘を持っているのに、私の願いを聞いて雨の中で踊ってくれたのだ。髪も制服も、ずぶ濡れとまではいかないまでも、それなりに湿っている。
 依頼主としては当然、その労力に対してお礼をしなければならないのではないだろうか。
 そこで、困ってしまった。
 雨乞いに対する報酬なんて、いったいどのくらいが相場なのだろう。そんなの、わかるわけがない。
 かといって、美杜さん本人に訊くのも躊躇われた。それでとんでもなく高いことを言われたら、困ってしまう。
 今日、財布の中身は少々寂しいのだ。小遣い日の直前だし、引っ越したばかりでまだアルバイトも見つけていない。
 そしてなにより、この神秘的な力に対する報酬が現金というのは、あまりにも俗っぽくていただけない。美杜さんだって、そんなものを望んでいるのではないような気がする。
 そうだ、例えば。
 先日、家の近くでケーキとパイの美味しい喫茶店を見つけた。あそこのケーキセットをご馳走するというのはどうだろう。内容的にも金額的にも、女子高生には相応しいのではないだろうか。
 しかし、それにも先立つものが必要だ。ケーキセットの価格と財布の中身を思い出すと、気分が重くなってしまう。
 もっと、他になにかないだろうか。懐を痛めずに、それでもちゃんと感謝の意を表す方法が。
 不意に、いいことを思いついた。
 思いつくと同時に、行動に移してしまっていた。
 美杜さんに近づいて、軽く背伸びをする。
 そして、唇を重ねる。
 一秒ちょっと、そうしていて。
 唇を離して、一歩下がった。
 目を丸くしている美杜さんの顔が目に入る。こんな表情を見るのは初めてだった。
「ぴちぴちの女子高生のファーストキスです。これじゃお礼にはなりませんか?」
 言いながら、急に自信がなくなってきた。
 実はそれほどいい思いつきではなかったような気がしてくる。
 いつも、それで失敗している。衝動的に行動してしまう性格なのだ。
 中学時代の担任にも言われたことがある。「思いついた瞬間に行動するのではなく、一呼吸間をおいて、もう一度よく考えてみるように」と。結局のところ私は、あの、一軒家を衝動買いしてしまう両親の娘なのだ。
 考えれば考えるほど、目を丸くしている美杜さんの顔を見れば見るほど、とんでもないことをしてしまったという思いが強くなってくる。
 相手が男の子であれば、問題はなかったろう。私のしたことは、十分にお礼としての価値はあったと思う。しかし同性となれば、お礼どころが嫌がらせと感じたかもしれない。
「あの……美杜、さん……?」
 恐る恐る、顔色を窺う。
 ここは、さっさと謝ってしまった方がいいだろうか。
「幸恵ちゃんって、いきなりすごいことするのね。びっくりしたぁ」
 目を丸くして頬を赤らめていた美杜さんが、突然ぷっと吹き出した。
「……でも、素敵なお礼ね。確かにいただいたわ、幸恵ちゃんのファースト・キ・ス」
 耳元でささやかれて、今度はこっちが赤面する番だった。
 自分がなにをしでかしたのか、改めて思い知らされてしまう。
 初めてだった。
 正真正銘、ファーストキスだった。
 それを、いくら素敵な人とはいえ、恋人でもなんでもない、しかも同性にあげてしまったのだ。
 本当によかったのだろうか。
 柔らかな唇の感触の記憶が、今さらのように甦ってくる。
「でも、少し貰いすぎじゃないかしら。半分、お返ししましょうか?」
 いきなり、頬に手を当てられた。目を閉じた美杜さんの顔が近づいてくる。
 私は慌てて飛び退いた。
「いっ、いえっ、遠慮なさらずに、全部取っておいてください!」
 もう一度、なんて。
 冷静になった頭では、恥ずかしくてできるはずがない。
 慌てふためいている私を見て、美杜さんがくすくすと笑っている。それで、からかわれたんだってわかった。いきなり唇を奪った私に対する仕返しのつもりなのかもしれない。
 そういえば。
 私にとってはファーストキスだけれど、美杜さんはどうなのだろう。
 すごい美人だけれど、恋人とかはいるのだろうか。昼休みには、そんな話題は出なかった。
 いない方が不思議な気もするし、どんな男の子が隣にいても相応しくない気もする。
 気になったけれど、訊けなかった。
 恥ずかしかったし、それに、美杜さんの口から恋人の話題なんて聞きたくない気がした。どうしてなのか、その理由は自分でもよくわからないけれど。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
 美杜さんが手を差し伸べてくる。反射的にその手を取って、一瞬遅れて赤面した。
 女の子同士手をつないで歩くなんて珍しいことじゃないのに、妙に意識してしまう。
 柔らかくて、温かくて、すべすべしている手。
 美杜さんと手をつないで歩くという行為が、恥ずかしくて、くすぐったくて。
 そして、少し嬉しい。
 私たちが学校を出た時には、雨はもうすっかり上がって、鮮やかな虹が空に架かっていた。



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