二章 sirokanipe


 その日、私は熾烈な戦いの渦中にあった。
 目の前には、強大な敵が立ちはだかっている。
 私は死にものぐるいでそれに立ち向かっていた。この敵を倒さない限り、平穏な日々が訪れることはないのだから。



「幸恵? 珍しいところで会うわね」
「あ……」
 すっかり馴染みとなった声に顔を上げると、いつものように美しく微笑む美杜さんの姿があった。
 あの雨の日以来、美杜さんとは親しく友達付き合いするようになっていた。親しくといっても、もちろんプラトニックな友情、同じ高校の先輩後輩の間柄である。キスなんて、あの時一度きりの気の迷いだ。
 美杜さんはいつの間にか、私の名前を呼び捨てにするようになっていたが、私はそのことをむしろ心地よく感じていた。
「こんなところで何してるの……って、そうか、試験勉強ね」
「……うん」
 私たちがいるのは、放課後の学校の図書室だった。家ではCDとかテレビとかマンガといった誘惑が多すぎて、落ち着いて勉強ができる環境ではない。追いつめられた人間は、ついつい他のことに逃避しがちにもなる。
 そう。
 明後日に迫った恐るべき敵の名は、『期末試験』という。日本の学生の多くにとって、もっとも忌むべき敵だ。
 しかし美杜さんにとっては、試験なんて事件でもなんでもないのだろうか。隣の席に着いて開いた本は、学校の勉強とはまるで関係のない、珊瑚礁に棲む生物の色彩鮮やかな写真集だった。
 試験勉強もせずに趣味の読書とは、たいした余裕だ。これで成績は常に学年上位をキープしているというのだから、平均点を維持するにも睡眠時間を削っての試験勉強が必要な私とは、生まれついての頭の作りが違うのかもしれない。
 数学の問題集に痛めつけられている私の隣で、優雅に写真集のページを繰っている美杜さん。その姿は、この殺気立った試験前の図書室で、一人だけ違う時間の流れに身を置いているようだ。
 なんだか、悔しくなってしまう。私は美杜さんの制服の袖を引っ張るようにして縋りついた。
「美杜さぁん、そんな余裕ぶっこいてないで、協力してくださいよぉ」
「勉強を教えて欲しいの? いいわよ」
 美杜さんは顔を上げて、読んでいた本を閉じた。
「そうじゃなくて」
 私は首を左右に振る。よりによって数学は試験初日なのだ。今さら普通に勉強を教えてもらっても焼け石に水、間に合わない。
「出題される問題の予想とか、できませんか?」
 そこまで言って、続きは美杜さんにだけ聞こえるように声を落とした。あまり、他の人に聞かれて都合のいい話ではない。
「……ほら、例の力で」
 その一言で、美杜さんが微かに眉を上げた。静かな笑みを浮かべていた表情が、微妙に変化する。
 美杜さんは、なにか不思議な力を持っている。私はそう信じていた。
 具体的になんなのかはわからないが、超能力というか、霊能力というか、とにかくそんな力だ。
 本人に訊いても、はっきりと認めることはないのだけれど、かといってきっぱり否定もしない。
 雨を降らせたり止ませたり……というのはあの後も二、三度経験していたし、土埃で目も開けていられないほどの強風を止ませてくれたこともある。
 そして、妙に鋭いというか、勘がいい。
 今にして思えば、初めて会った日だってそうだ。
 私が引っ越してきたばかりだと見抜いたのは、シャーロックホームズばりの推理ではなくて、テレパシーかなにかではないだろうか。あの時ご馳走してくれたのが、私が愛飲しているアイス・カフェ・オ・レだったのも、偶然ではないのかもしれない。
 なんの面識もない私に声をかけたのも、直後に事故が起きることと、そのまま行けば巻き込まれることを、予知能力で知っていたからではないだろうか。
 私は、そう思っていた。学校内でも、一部の生徒から霊能力者だと思われているらしく、奇異の目で見られているふしがある。
 だから美杜さんなら、試験問題を当てるくらい朝飯前に違いない。
 完全犯罪のカンニング。その申し出に、しかし美杜さんは小さな溜息で応えた。
「あのね、幸恵。試験っていうのは、点数を取ることが目的ではないのよ? 学んだことがどれだけ身についているかを確認するためのものなんだから、ズルしちゃ意味ないでしょ。そもそも試験前の一夜漬けだって不毛よ。普段から普通に勉強していれば……」
「そんな綺麗事を言ってる場合じゃないんです!」
 美杜さんの言うことはもっともだけれど、今の私は、それどころではないところまで追いつめられていた。
 ここでひどい点を取ってしまったら、夏休みを目前にして、お小遣い減額などという最悪の事態もあり得る。追試や補習で休みが潰れることも勘弁して欲しい。
 そんな窮状を訴えたのだが、「自業自得よね」と取り合ってくれない。いつも優しく微笑んでいる美杜さんだが、言うことはけっこうきつい。だけどここで引き下がるわけにはいかない。
「今回は不可抗力だもん。転校のせいで慌ただしかったし、習ってないところも範囲に入ってるんだもの」
「それにしても……」
「お願い、ね? 可愛い後輩の頼みを聞いてください!」
 顔の前で手を合わせる。美杜さんは溜息をついて肩をすくめた。
「仕方ないわね。今回だけよ」
「ありがとっ、だから美杜さんって大好き」
 思わず抱きついてしまってから、その身体の思わぬ柔らかさに赤面してしまった。
「でも、必要最低限の協力しかしないわよ?」
 美杜さんは私の教科書と問題集を手にとって、パラパラとページを繰った。
 小さく首を傾げながら、オレンジの蛍光ペンで印を付けていく。
 なんだか拍子抜けした。こんな簡単なことだなんて。
 力を行使するのに、あの踊りは不可欠のものではないのだろうか。それとも、天候のような自然現象に干渉する時だけのものなのだろうか。
 本音を言うと、少し残念でもある。美杜さんの美しい踊りを見られないのは。
「チェックを付けた公式と例題の解法を、きちんと憶えておきなさい。赤点は避けられるはずだから。それで、補習とお小遣い減額は免れるんでしょう?」
「感謝!」
 私はもう一度手を合わせた。
「それ以上の点が取りたければ、自分で努力することね」
「いやもう、それで十分。今回は贅沢言いません」
「……私は先に帰るわ。勉強の邪魔をしちゃ悪いし」
 美杜さんは読んでいた本を持って立ち上がった。ちょっと不自然な、性急な行動である。
 これ以上ここにいると、私が頼りすぎると思ったのか。
 それとも、『力』に頼ったことに気を悪くしたのか。
 美杜さん自身は、『力』について否定はしないものの、公に認めてもいない。人と違う特別な力を持つことで周囲に騒がれるのが、嫌なのかもしれない。
 私も無神経だったかもしれない。とはいえ、今回ばかりは背に腹は替えられない。
 試験を無事に終えたらちゃんとお詫びとお礼をするとして、今はまず勉強だ。
 美杜さんが立ち去った後、教えてもらった公式と例題を、徹底的に頭に叩き込んだ。それ以外の勉強は一切しない。美杜さんの予想が外れる可能性なんて、これっぽっちも考えなかった。
 下校時刻まで図書館で粘って、なんとか数学の試験を乗り越える手応えを感じたところで、帰り支度を始めた。参考書とノートを鞄に詰めて立ち上がり、図書室の出口に向かう。
 その途中、ふと足が止まった。なにやら、視界の隅に引っ掛かるものがあった。
 横にあった書架に視線を向ける。微かな既視感を覚える。なにか、気になるものがある。
 そこは、北海道に関する本のコーナーだった。
 歴史、地理、自然、そして北海道の先住民族であるアイヌについての本などが並んでいる。
 背表紙を目で追っていて、私は小さく声を上げた。数冊の本のタイトルや著者名に、見過ごせない名前があった。
『アイヌ神謡集 知里幸惠 編訳』
 知里幸惠。
 知り合って間もない頃、美杜さんの口から聞いた名だ。私と同じ名前で、美杜さんが尊敬していると言っていた人の名。
 私は、その本を手に取った。


『梟の神の自ら歌った謡

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」
 という歌を私は歌いながら流れに沿って下り、
 人間の村の上を通りながら下を眺めると、
 昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、
 昔のお金持ちが今の貧乏人になっているようです。
 海辺に人間の子供たちが
 おもちゃの小弓におもちゃの小矢をもって遊んで居ります。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」
 という歌を歌いながら子供等の上を通りますと、
 子供等は私の下を走りながら云うことには、
「美しい鳥! 神様の鳥!
 さあ、矢を射てあの鳥
 神様の鳥を射当てたものは、
 一番先に取ったものは
 本当の勇者、本当の強者だぞ」
 云いながら、昔貧乏人で今お金持ちになっている者の子供等は、
 金の小弓に金の小矢を番えて私を射ますと、
 金の小矢を私は下を通したり上を通したりしました。
 その中に、子供等の中に、
 一人の子供がただの小弓にただの小矢を持って仲間にはいっています。
 私はそれを見ると貧乏人の子らしく、着物でもそれがわかります。
 けれどもその眼色をよく見ると、えらい人の子孫らしく、
 一人変わり者になって仲間入りをしています。
 自分もただの小弓にただの小矢を番えて私をねらいますと、
 昔貧乏人で今お金持の子供等は大笑いをして云うには、
「あらおかしや貧乏人の子
 あの鳥、神様の鳥は私たちの金の小矢でもお取りにならないものを、
 お前の様な貧乏な子のただの矢腐れ木の矢を
 あの鳥、神様の鳥がよくよく取るだろうよ」
 と云って、貧しい子を足蹴にしたりたたいたりします。
 けれども貧乏な子はちっとも構わず私をねらっています。
 私はそのさまを見ると、大層不憫に思いました。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」
 という歌を歌いながらゆっくりと大空に私は輪をえがいていました。
 貧乏な子は片足を遠く立て片足を近くたてて、
 下唇をグッと噛みしめて、ねらっていてひょうと射放しました。
 小さい矢は美しく飛んで私の方へ来ました。
 それで私は手を差しのべてその小さい矢を取りました。』
(※岩波文庫『アイヌ神謡集』より抜粋)


 知里幸惠さんは、明治の末期に生まれたアイヌの女性だ。
 語学に堪能で、文字を持たないアイヌの神謡をローマ字で書き綴り、日本語の口語訳を施した。そうした神謡十三編を収めたのが、この本『アイヌ神謡集』だ。
 しかし彼女は生まれつき身体が弱く、愛し合っていた青年との結婚も叶わずに十九歳の若さでこの世を去ったという。
 私は、ようやく理解することができた。
 どうして美杜さんが、この人を尊敬しているのか。
 どうして美杜さんの容姿が、どことなく日本人ぽくないのか。
 別の本に載っていた知里幸惠さんの古い写真には、どこか、美杜さんと似た面影があった。



 美杜さんの『力』は、間違いなく現実のものだ。まったく疑いようはない。
 返ってきたテストの答案を見て、私はそう確信した。
 美杜さんは「赤点は避けられる」なんて言っていたけれど、教えられた問題だけを解いた数学のテストは、ちょうどぴったり平均点だったのだ。
 これはさすがに驚いた。
 その日の学校帰り、お礼として、家の近くにある喫茶店『みそさざい』でケーキセットをご馳走することにした。この店のチョコレートケーキと洋梨のパイが、素晴らしく美味しいのだ。
「別に、お金のかからないお礼でも構わなかったのに」
 洋梨のパイを口に運びながら、冗談めかした口調で美杜さんが言う。私は慌てて首を振った。
 あの、雨の日のことを言ってるのは間違いない。あれは本当に、一時の気の迷いだ。あんなこと、恥ずかしくて二度とできるはずがない。
「そ、それにしてもすごいですよね」
 私は話題を変えて、それ以上『お礼』のことには触れないようにした。フォークをくわえた美杜さんが、可愛らしく首を傾げる。
「美杜さんの予知能力ですよ」
「予知?」
「数学の試験、本当に言った通りの問題が出ましたよ。おかげでいい点を取れました」
「それが、どうして予知能力だと?」
 からかうような、悪戯な笑みを浮かべて美杜さんが言う。なにやら意味深な表情だ。
「え、だって……」
「予知じゃなくて予想、日本語は正しくね。一年生の数学は、遠藤先生でしょ? 私も一年生の頃、あの先生に習ってたから、どんな問題を出すかはだいたい見当がつくのよ。少なくとも、平均点分くらいはね」
「えっ?」
 意外な台詞に驚いた。普通ならば「予知能力で問題を当てる」ことの方に驚くべきかもしれないが、私は美杜さんの超能力を信じ切っていたのだ。
「じゃあじゃあ、あの予想問題に、超常能力は関係なし?」
「言ったでしょう? 普段からちゃんと勉強していれば、特別な試験勉強だって必要ないって」
「でも……」
 私はまだ疑っていた。探るような目で美杜さんを見る。
 いくら頭がよくて、試験問題を作ったのがよく知っている先生だからといって、ちょうど平均点ぴったりの予想なんてできるものだろうか。それとも、平均点だったのは偶然だというのだろうか。
 訊いてみてもいいことなのかどうか、ちょっと躊躇してしまう。だけど、この機会にはっきりさせておいた方がいいのかもしれない。
 美杜さんとは、この先も長く友達付き合いしていきたいのだ。変な遠慮や気遣いはしたくない。
「でも、美杜さんがなにか不思議な力を持っているのは、事実なんですよね?」
 今回の試験のことが偶然だとしても、他のことは説明がつかない。
 しかし、
「さあ、どうかしら」
 美杜さんは否定も肯定もせず、ただ悪戯っ子のような笑みを浮かべているだけだ。
 あまつさえ、
「チョコレートケーキも美味しそうね。一口ちょうだい」
 と、私のお皿に手を伸ばしてくる。
 そんな様子はまったく普通の女子高生で、私は、また、美杜さんという人がわからなくなってしまうのだった。



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