三章 atuy


 海で泳ぐのなんて、何年ぶりだろう。
 私の目の前には、穏やかに凪いでる夏の日本海が広がっていた。
 どこまでも青い空と海。その上に浮かぶ真白い雲。鮮やかな対比が美しい。どこからかカモメの鳴き声が聞こえてくる。
 海岸は砂浜ではなく大きな玉石で、海の中にはごつごつした黒い岩がいくつも顔を出している。しかし波が穏やかなので、磯であっても泳ぐのに危険はない。
 そういえば、日本海で泳ぐというのも初めてだった。宮城育ちだから、これまで太平洋とプールでしか泳いだことがない。
 正直なところ、海は好きではない。五年前の夏から、海なんて見るのも嫌だ。なのに海水浴に来ているのは、他でもない美杜さんのせいだった。


「幸恵、泳ぎは得意?」
 夏休みに入る直前、そう訊かれて素直にうなずいた。たいていのスポーツはこなすが、中でも水泳は球技と並んで得意種目である。
 ここで「海は好き?」と訊かれていたのなら、即座に否定していただろう。美杜さんの作戦勝ちだ。あるいは何もかもわかった上でこんな訪ね方をしたのではないかと勘ぐってしまう。
 泳ぎは得意だ。正直にそう答えると、美杜さんは嬉しそうに手を叩いて言った。
「じゃあ、夏休みになったら、一緒に海へ行きましょう」
 ――と。
 既に決定事項である。「海へ行かない?」ではなく「行きましょう」と。
 これでは断る隙もない。
 そうして私は、美杜さんと一緒に海へ遊びに来ているというわけだ。
 札幌から電車とバスを乗り継いでやって来たのは、積丹半島の先端に近い漁村。ここで美杜さんの親戚が、民宿を経営しているのだという。
 美杜さんと二人きりでの旅行。少し、緊張してしまう。
 女の子だけでの旅行も、両親は簡単に許してくれた。容姿端麗、頭脳明晰、そしていかにも真面目そうで清純派の美杜さんは、私の親に受けがいい。
 泊まるのが美杜さんの親戚の家ということもあって、なにも心配はしていなかったようだ。多分、変に意識しているのは私だけだろう。
 水面に顔を出している岩の上に座っていた私は、隣にいる美杜さんに羨望のまなざしを向けた。
 すらりと伸びた長い手脚に、折れそうなほど細いウェスト。なのに胸のふくらみだけは、素晴らしい大きさと形を誇っている。
 スタイルがいい方だとは思っていたけれど、まさかこれほどとは。レトロなデザインの聖陵女学園の制服は、身体のラインがわかりにくい。私服の時もロングスカートが多く、肌の露出は少ない。
 なのに今日は、いったいどういう心境の変化だろうか。身に着けている水着は、明るい朱色を基調とした、布の使用量がかなり少なそうなビキニだった。まるで男性向け雑誌のモデルみたいな露出の多さで、しかしスタイルがいいのでそれがすごく似合っている。
 魅惑的な胸の谷間に、つい目が吸い寄せられてしまう。続いて自分の身体を見おろして、無意識に溜息が漏れた。
 百五十センチ台半ばの身長は、美杜さんよりも約十センチ低い。決して太ってはいない、むしろ痩せている方だが、その分、女性として出るべきところもあまり出ていない。スリーサイズのうち少なくともひとつは、美杜さんとは比べること自体が間違っているような差があった。
「どうしたの? 浮かない顔して」
 そう訊いてくる美杜さんは、今年初めての海を心底楽しんでいるようだ。
「プロのモデルでもない限り、水着の美杜さんの隣に立った女の子はこうなります」
 それは事実ではあるが、事実のすべてではない。むしろ余録である。しかしせっかくの旅行、美杜さんが楽しそうにしているのに、本当の理由を話すことはない。
「幸恵の水着姿だって可愛いじゃない」
 美杜さんがふざけて、背後から抱きついてくる。背中に当たる弾力に、頬が赤らんでしまう。
「清純派っぽくていいじゃない。その……あまり胸が大きいのも、ちょっとエッチっぽくない?」
 だったらどうして、そんな露出の多い水着を着るんですか。
「その水着でそんなこと言っても、説得力ないですよ」
「でも、お店で試着した時、幸恵も似合ってるって言ってくれたじゃない。だから、たまにはこんなのもいいかなって」
 そりゃあ、似合ってはいます。それは間違いないです。
 でも。
「よりによって、私と一緒の時に」
 そんな、見せつけるようなお洒落をしなくても。
 周囲には家族連れが数組いるだけの人の少ない海岸だから、のんびりと泳いでいられるのだ。これが同世代の男の子がいる海水浴場だったら、美杜さんの周囲はナンパ男たちがひしめいていたことだろう。
「幸恵が一緒だから、お洒落したのにな」
「……え?」
 微妙に、意味深な台詞に聞こえなくもない。また、頬の赤みが増してしまう。
 ずっと女子校育ちだったせいだろうか、美杜さんって少し百合っぽいところがあるような気がする。はっきりとした根拠はないけれど、なんとなく。
 とはいえ、それが嫌なわけではないし、具体的になにか変なことをされるわけでもないから、別に気にしてはいない。
「ね、幸恵」
 いきなり、肩を押された。バランスを崩して海に転げ落ちてしまう。水音とともに、無数の泡が私を取り囲んだ。
 水中で一回転する。どこまでも澄んだエメラルドグリーンの水。白く輝く海面。
 水面に顔を出すと、美杜さんが隣に飛び込んできた。
「せっかく札幌を離れて綺麗な海に来たんだから、もっと楽しみましょう」
 目にかかる濡れた前髪を、長い指でかき分けてくれる。
 私は美杜さんの顔を見た。
 いつもと同じ、邪気のない優しい笑顔だ。
 だけど美杜さんは、知っているのではないだろうか。
 海が嫌いなことを知っていて、私を連れてきたのではないだろうか。
 あの不思議な「力」についての結論は出ていないけれど、美杜さんに隠しごとができるなんて思ってはいない。
 だとしたら、お節介なことだ。
 だけど、美杜さんらしくもある。
「……えーい、仕返し」
 私は美杜さんの肩に手を置くと、水面から飛び上がって体重を預けた。いきなり水中に沈められた美杜さんが、私の下でじたばたと暴れていた。



 昼食後、民宿の畳の上でごろごろと一時間ほど休憩してから、また海岸へ出た。
 相変わらずの、よく晴れた空と澄みきった海。
 だけど午前中とはなにか様子が違う。
 妙に人が多くて、だけどその多くは海水浴客という雰囲気ではなく、服を着たまま海岸に立って、沖の方を不安げに見つめている。
 海上には、午前中はなかった小舟やゴムボートが何艘も浮かんでいた。乗っている人は皆一様に真剣な表情で、海の中を覗き込んでいる。
「何かあったんですか?」
 近くにいた、地元の人らしい初老の女性に訊いてみる。その人は眉間に皺を寄せて言った。
「なんでも、子供が溺れて行方不明なんだってさ」
「えっ?」
 驚いて、もう一度海に視線を向ける。
 そう言われてみれば、あのたくさんの小舟は、行方不明になった人を捜しているようだ。
「美杜さん!」
 私は慌てて振り返った。
「捜して! できるんでしょ?」
「え? あ……そ、そうね」
 美杜さんなら、美杜さんの不思議な『力』なら、行方不明の子供を見つけることができるに違いない。
 非常事態に、美杜さんもさすがにとぼけたりはしなかった。サンダルを脱いで、膝の下あたりまで海に入る。微かに俯いて、真剣な表情で水面を見つめる。
 時間はかからなかった。五秒ほどで回れ右して、波打ち際の私のところに戻ってくる。
 今まで見たことのない、固く強ばった表情をしていた。
「戻りましょう」
「……美杜さん?」
「私たちがここにいても、役に立つことはないわ」
 手を取って、海を背に歩き出そうとする。私はその手を乱暴に振りほどいた。
「どうして!」
 そのまま、サンダルとTシャツを脱ぎ捨て海に入る。
「一人でも多い方が、早く見つかるかもしれないじゃない! 私も手伝う!」
 海面に点在する無数の岩。入り組んだ根。舟で探すのが難しい場所も多い海岸だ。私はあてもなく泳ぎだそうとした。
「幸恵、待って!」
 追ってきた美杜さんが、私の腕を掴まえる。もう一度振りほどこうとしたが、その手には痛いほどに力が込められていた。
「だめ。……行っちゃだめよ」
「美杜さん……」
 涙は流していないけれど、まるで泣いているような表情。
 それで、わかってしまった。
 美杜さんは、「もう間に合わない」と言いたいのだ。水に触れただけで、そのことがわかってしまったのだ。
「それでもっ!」
 それでも、私は納得しなかった。
「もしかしたら、まだ蘇生できるかもしれない。そうじゃなくたって、いつまでもこのままにしておいていいはずがない! ねえ、どこにいるの?」
「……」
 答えはない。しかし美杜さんは知っているはずだ。表情がそう言っている。
「もういいよ! 勝手に捜すから!」
 力ずくで、掴まれていた腕を振りほどいた。美杜さんの爪が、腕に赤い筋を残した。
「幸恵!」
「すぐ助けないと! 助けなきゃいけないの!」
 金切り声で叫ぶ。涙が溢れ出す。
 固い表情で唇を噛んでいた美杜さんが、ゆっくりと腕を上げた。数十メートル沖に顔を出している、ひとつの岩を指差す。
 次の瞬間、私はその岩に向かって泳ぎだしていた。
 慌てていたので腕の振りと息継ぎのタイミングがばらばらで、ずいぶん水を飲んだけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
 一秒でも早く、あの岩に辿り着きたい。
 一秒でも早く、助けてあげたい。
 目的の岩の手前で、私は水中に潜った。
 水中のぼんやりとした視界の中、岩の陰に引っかかるようにして漂っている、白っぽい塊を見つけた。
「……っ!」
 必死に手を伸ばす。
 その感触は、人間のものとは思えなかった。
 なんとか抱えて岩の上に持ち上げたそれは、ぐったりとしていて、ぐにゃぐにゃで、中に重い液体が詰まったゴムの袋のようで。
 眠っている人間を抱き上げるのとは、根本的になにかが違っていた。



 その夜は、なかなか寝つけなかった。
 カーテンの隙間から明るい月光が射し込んで、室内をぼんやりと照らしている。
 私は目を開けたまま、天井を見つめていた。
 目を閉じると、血の気のない、不気味な白さの子供の顔が浮かんでくる。
 腕にはまだ、あの子を抱き上げた時の感触が残っている。
 布団に入ってから何十度めかの溜息をついた。
 聞こえてくるのは潮騒の音と、隣で眠っている美杜さんの静かな寝息だけ。あんなことがあったというのに、普通に眠れる美杜さんが恨めしかった。
 上体を起こして、美杜さんを見おろす。
 月明かりの下、胸が静かに上下しているのがわかる。
 それは、生きている証。
 やっぱり違う。
 生きている者と死んでいる者は、同じように横たわっていても、根本にあるなにかが違う。
 いや、違うというか、足りないのだ。
 生きている人間にば存在するはずのなにかが、命を持たない者には欠けている。
 心臓が動いているとか、呼吸をしているとか、脳波があるとか、そういう問題じゃない。もっともっと根本的ななにか。
 また、溜息が出た。
 やっぱり、海になんて来るんじゃなかった。
 つい、私を誘った美杜さんを恨みそうになる。別に悪気があったわけではないのだから、八つ当たり以外のなにものでもないのだけれど。
 海なんて、海水浴なんて、もう二度と行かないと決めていたはずなのに。
 美杜さんに誘われたから、来てしまった。
 来て、また人の死に遭遇してしまった。
 目に、涙が滲んでくる。美杜さんの寝顔がぼやける。
 泣き出してしまいそうだ。
 その時、ある物音が耳に届かなければ、本当に大声で泣いていただろう。
 最初は、空耳かと思った。
 だけど違う。
 美杜さんの寝息よりも微かな音。それでも、私の耳にははっきりと届いている。
 息を止めて、耳を澄ました。
 それは、潮騒に混じって外から聞こえてくる。
 声。
 人の声。
 子供の声。
 誰かを呼んでいるようでもあるが、なにを言っているのかまでは聴き取れない。
 私は、パジャマ代わりのTシャツ一枚という姿のまま、美杜さんを起こさないように足音を殺して外に出た。


 外に出ると、思っていたよりもずっと明るかった。
 丸い月が頭上にあって、群青の混じった真珠色の光が降り注いでいる。月明かりを反射する暗い海も、まるで淡い燐光を放っているように見えた。
 水平線上に、明るい光の点がいくつも並んでいる。イカ釣り漁船の漁火だと、寝る前に美杜さんが教えてくれた。
 下着の上にTシャツ一枚という無防備な姿で、私は海岸を歩いていた。
 だんだん、声が大きくなってくる。
 少しずつ、声の出所に近づいているのがわかる。
 だけど、それは本当に、実際に耳に聞こえている音なのだろうか。
 あるいは私の頭が勝手に作り出した、幻聴ではないだろうか。
 その声には、聞き覚えがあるような気がした。
 波打ち際に近づくにつれて、声がだんだんはっきりしてくる。
 海の中から聞こえてくるようだ。
『……ちゃん』
 いくぶん不明瞭ながらも、言葉が聞き取れるようになってきた。
『……お姉ちゃん』
 懐かしい声がする。私を呼んでいる。
『お姉ちゃん……お姉ちゃん……』
 その声に誘われるように、私は水の中に入った。声の元へ行くこと、それしか考えていなかった。
 岩場の海は深く、波打ち際から数メートルで足が届かなくなる。私はTシャツのまま泳ぎだした。
 沖に向かって。
 声のする方に向かって。
 私を呼ぶ声の方に向かって。
『お姉ちゃん……お姉ちゃん……』
 その声はどことなく苦しそうで、泣き声のように聞こえた。
 水をかく手に力を込める。
 早く行かなきゃならない。
 助けなきゃならない。
 それだけを思って泳いでいった。
 波間に、白い影が見える。
 少し近づくと、月明かりの下でもそれが子供の身体であることがわかる。
 精一杯に手を伸ばす。指先が触れる。
 その瞬間。
 細い腕が、身体に絡みついてきた。
 腕を、脚を押さえつけられる。
 急に、身体が重くなった。
 水中に沈んでいく。絡みついた手に引きずり込まれる。
 驚いて、叫び声を上げそうになった。口から溢れた空気が無数の泡となって、水面へ昇っていく。
 肺が空っぽになる。身体が沈んでいく。水面を通して見える満月が揺れている。
 その月に向かって伸ばそうとした手に、また青白い腕が絡みつく。
 動けない。
 身体が動かない。
 身動ぎすらできないまま、暗い海の底へと沈んでいく。
『お姉ちゃん……お姉ちゃん……』
 水の中だというのに、声が聞こえた。
『冷たいよ……苦しいよ……』
『どうして……助けてくれないの』
『一人は怖いよ……お姉ちゃんも一緒に来て』
 細い腕が首に巻き付いてくる。私の腕よりも細い小さな子供の腕だというのに、ふりほどくことができない。
 息ができない。
 苦しい。
 酸素を求めて開いた口に、冷たい海水が流れ込んでくる。
 視界が暗くなっていく。
 そうして、私は意識を失った。



 激しく咳き込む耳障りな音が、私の意識を現実に引き戻した。
 咳き込んでいるのが自分自身だと、すぐには気づかないくらい朦朧としていた。
 苦しい。
 肺は新鮮な空気を貪ろうとしているのに、激しい咳に邪魔されて、なかなかそれが叶わない。
 かなりの量の海水を飲んだのだろう。胃がむかついて、咳き込むたびに塩辛い水が食道を逆流してきた。喉が灼けるようで、頭も痛い。
 私は波打ち際にうずくまって、発作のような咳を繰り返していた。濡れたTシャツが身体にぴったり張付いて気持ち悪い。
 そんな状態がしばらく続いて、ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、自分が一人ではないことに気がついた。隣に座って、背中をさすってくれている人がいる。
「……美杜、さん?」
 不安げな表情を浮かべていた美杜さんはなぜか裸で、身に着けているものは濡れたショーツ一枚だけだった。
 肌が濡れていて、月明かりを浴びた水滴がきらきらと光っている。傍らに、パジャマとサンダルが脱ぎ捨ててあるのが目に留まった。
 私も美杜さんも、なぜ濡れ鼠なのだろう。
 海で泳いでいたというのだろうか。こんな夜中に。それもTシャツを着たまま。
 そもそも、なぜ私は海岸にいるのだろう。部屋で寝ていたはずではないのか。
「美杜さん、あの……?」
「よかった、幸恵が無事で」
 美杜さんが笑みを浮かべる。なんとなく泣き笑いのような表情だった。
 ぎゅっと抱きしめられる。
 痛いくらいに、力強く。
「美杜さん……私……?」
「ふと目を覚ましたら、布団が空なんだもの。お手洗いにもいないし……びっくりした」
「私、溺れてたんですか? どうして? どうしてこんな時間に海に……」
 どうやらこの状況、溺れていた私を、美杜さんが助けてくれたところらしい。だけど、その間の記憶はほとんど残っていない。
「呼ばれた……のね」
「呼ばれた?」
「今日、死んだ子供に」
「……っ!」
 美杜さんの口調は静かなものだったけれど、私は息を呑んで真っ青になった。
 それは、つまり。
「ゆ、ゆ、幽霊……?」
 その単語を口にすることには、かなり抵抗があった。声に出してしまうと、存在しない、してはいけないはずのものが、実在してしまうような気がした。
「そんなに、大げさに怖がる必要はないわ」
 美杜さんの口元が微かにほころぶ。
「人が死んだ直後は、意識がその場に止まっていることが多いの。でも、それはほんの一時的なもの。煙突から出た煙が拡散して見えなくなるように、すぐに消えてしまう。わかりやすくいえば、成仏するっていうのかな」
「そ、そ、そんなっ! でもっ! あ、あたし、殺されかけたんですよ!」
 少しずつ、記憶が戻ってきていた。
 私を呼ぶ声。
 冷たい夜の海。
 そして、絡みついてくる細い腕。
 そこには間違いなく、殺意があったはずだ。なのに、怖がる必要はないだなんて。
「普通はね、そんなに害のあるものではないの。だから私もびっくりした。……でも、殺されるっていうのはどうかしら。他殺か自殺か、判断に困るところね」
「じ、自殺?」
 美杜さんってば、なにを言っているのだろう。
 相手が幽霊だか悪霊だか知らないけれど、私は海に引きずり込まれそうになったのだ。
 なのに美杜さんは、怒っているような視線をこちらに向けていた。
「幸恵、どうして呼びかけに応えたの? あの声は、普通は聞こえないものよ。私だって、意識して聞こうとしない限りは聞こえない。なのにあなたには聞こえて、それに応えてしまった。応えて海に入り、子供に引き込まれる幻影を見た。……どうして?」
 責めるような口調だった。まるで、私に非があるとでも言うかのように。
「どうして、って……」
 そんなの、私の方が聞きたい。
 そう言いかけたところで、はっと気がついた。
 急に、すべての記憶が鮮明に甦ってきた。
 それで思い出した。
 あの声。
 私を連れて行こうとしていたのは、今日溺れ死んだ子供ではないのだ。
 あれは。
 聞き覚えのある、懐かしいあの声は。
「宏昭……だったんだ……あれは……」
「……誰?」
「私、弟がいたんです。……五年前まで」
 そのことを、自分から話すのは初めてだった。今の学校ではもちろん、中学でさえ知らない友達の方が多かった。それでも、美杜さんになら話してもいいと思った。
 小学生の頃、私には弟がいた。
 三つ年下で、多分、仲のいい姉弟だったはずだ。
 五年前の夏、母に連れられて三人で海水浴に行った。その年初めての海。宏昭はすごく喜んでいたし、私はそれ以上にはしゃいでいた。
 飲物を買いに行った母が戻るまで、宏昭を見ているのは私の役目だったのに。
 波打ち際で見つけた、小さな魚に気を取られて。
 ほんの、ほんのちょっと目を離しただけのつもりだったのに。
 気がついた時には、すぐ傍にいたはずの弟の姿はなくて。
 宏昭が変わり果てた姿で見つかったのは、一時間以上も後のことだった。


 いつの間にか、美杜さんの腕が身体に回されていた。私は美杜さんにしがみつくようにして泣いていた。
 かなり長い時間泣いていて。
 たくさん涙を流して、喉や肺の痛みがなくなる頃には、いくらか気持ちも楽になって。
 その時になってようやく、人に見られたら大変な格好で抱き合っていることに気づいて、今さらのように赤面してしまうのだった。



「……で、なんですか、これ?」
 泊まっていた部屋に戻って、身体を拭いて、髪を乾かして。
 ようやく落ち着いて、さて寝直そうと布団に入ったところで私は訊いた。
 すぐ隣に、美杜さんがいる。
 文字通りにすぐ隣、同じ布団の中である。
 それだけでも平常心を保つのは難しいのに、しかも美杜さんは、私をしっかりと抱きしめているのだ。
「念のため。幸恵が、また連れていかれないように」
「そんな……」
「今夜一晩だけ、ね。今度も間に合う保証はないし、もしも幸恵に万が一のことがあったら、私はどうしていいのかわからない」
「でも……」
 これって少しばかり、いやかなり、悩ましげな雰囲気ではないだろうか。私を心配してのことだとはわかるけれど、女の子同士とはいえ、こんなに密着した状態で眠るのは難しい。
 心臓が激しく脈打っている。部屋の明かりは消した後なので、真っ赤になった顔を見られずにすむのは幸いだった。美杜さんはなにも気にしていない様子なのに、私ばかりが変に意識しているというのも恥ずかしい。
 だけど。
 部屋が暗くて視力が役に立たない分、他の感覚が敏感になってしまう。
 美杜さんの静かな息。
 体温。
 柔らかな肌と、独特の弾力のある胸の膨らみの感触。
 そして、微かなシャンプーの匂い。
 そのひとつひとつが、私の心をかき乱してしまう。どうしても平静でいられない。
 身体は疲れ切っているのでなんとか眠ろうとしても、脈拍も血圧もレッドゾーンまで上昇しているみたいで、とても眠れそうにない。
「……ねえ、美杜さん」
 黙っていると、かえって緊張してしまう。少し話でもすれば、かえってリラックスできるかもしれない。
「どうして、私を連れてきたんですか?」
「どうして、って?」
「美杜さんなら、わかっていたんじゃないですか? 私のこと」
 答えが返ってくるまでに、少しだけ間があった。
「幸恵が思っているほど、なんでもお見通しってわけじゃないわ。海に、なにかトラウマがあるらしいのは気づいていたけれど」
「だったら、どうして……」
 どうして、私を誘ったのだろう。海が嫌いなことを知っていながら。
「ねえ、幸恵?」
 美杜さんは、私を抱きしめていた腕を解いて身体を起こした。
「……眠れないのなら、ちょっと散歩に行きましょうか?」
「散歩?」
 突然のことに戸惑っている私を、半ば強引に布団から引きずり出して、そのまま外に引っ張っていく。物腰柔らかそうに見える美杜さんだけれど、時々、妙に強引なところがある。
 建物の外に出ると、東の空が少しだけ白みはじめていた。丸い月は、西の水平線に沈みかけている。
 私の手を引いて、美杜さんは波打ち際までやってきた。
「声、まだ聞こえる?」
 その問いに、首を左右に振って応える。
 いま耳に届いているのは、静かな潮騒の音だけだ。
「じゃあ、もう大丈夫ね」
 美杜さん手を離すと、サンダルを脱いでくるぶしまで水に入った。
「私はね、海が好きよ」
 真っ直ぐに沖を向いて言う。それから、ゆっくりとこちらを振り返る。
「山や杜も大好きだけど、同じように海も好き。だから、幸恵と一緒に来たかった」
「え……」
 海が大好きだから。
 だから、私と一緒に来たかった。
 やっぱり、意味深な台詞に聞こえなくもない。
 頬が朱くなる。
「幸恵が考えているような、難しい理由なんかない。海が好きだから、仲のいい、大好きな友達と一緒に来たかった。ただそれだけだって言ったら、怒る?」
「……別に」
 私は素っ気なく応えた。
 美杜さんのようには海を楽しめないけれど。
 やっぱり、辛い思いをしたけれど。
 それでも、来てよかったのかもしれない。このまま一生、海を避けて生きていくよりは。
「ね、泳ごうか?」
 突然、美杜さんが言う。
 夜の海で泳ぐなんて危ないことこの上ないけれど、周囲は少しずつ明るさを増しているし、深いところに行かなければ大丈夫かもしれない。
 それにしても突然だ。そんなつもりなら最初から言ってくれれば、水着を持ってきたのに。また、部屋まで取りに戻らなければならない。
「必要ないわ。こんな時間に、誰も見てないでしょ」
「え、えぇっ?」
 こともあろうに、美杜さんは着ていたTシャツと短パンを脱ぎはじめた。下着一枚になって、それさえも脱ぎ捨てて海に入っていく。
 全裸の美杜さん。あまり凝視しちゃいけないと思いつつも、視線が吸い寄せられて離れない。
「ちょっ、ちょっと、美杜さん!」
「幸恵もいらっしゃい」
 お臍の上あたりまで水に入って、私を手招きする。下半身は水の中に隠れたけれど、その見事なバストを隠すものは何もない。薄暗がりの中で映える白い肌は、妙な艶めかしさが感じられる。
「あ、あの、でも……」
「いらっしゃい」
 美杜さんの言葉には、力がある。
 いろいろと葛藤を感じつつも、Tシャツの裾に手をかけた。
 昨夜だって、一緒にお風呂に入ったんだし、今さら恥ずかしがらなくても。
 でもやっぱり、お風呂と海はぜんぜん違う。いくら夜明け前で人がいないからといって、屋外で全裸になるなんて、女の子としては恥ずかしすぎる。
 ――だけど。
 普通ならしないこと、しちゃいけないこと。だからこそ、好奇心を揺さぶられてしまうのも事実だった。子供が、禁じられている煙草やお酒を悪戯してみたくなるのと似た心境かもしれない。
 さすがに面と向かっては恥ずかしかったので、美杜さんに背を向けてTシャツと下着を脱いだ。美杜さんが脱ぎ捨てた服をたたんで、その横に自分の服を置く。それからようやく海に入る。
 恥ずかしかったけれど、胸も、下半身も隠さなかった。そんなことをしたら、かえって恥ずかしさが増すように思えた。こんなことなんでもない、という態度でいた方がいい。
 それでもやっぱり、美杜さんの隣に立った時には、恥ずかしさのあまり顔も身体もかぁっと熱くなっていた。おかげで、夜明け前の海の冷たさも気にならなかった。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいでしょう。私しかいないんだし」
 水の中で、美杜さんが手をつないでくる。
 美杜さんがいるから恥ずかしいんです、とはさすがに言えなかった。
「露天風呂みたいなものと思えばいいじゃない」
「大きすぎますよ」
 日本海サイズの露天風呂なんて。
「もっとリラックスして、目を閉じて」
 二人の距離がさらに縮まる。それでリラックスするのはかなり困難ではあるが、言われた通りに目を閉じた。
 美杜さんの呼吸の、ゆっくりとしたリズムを感じる。
 自分の呼吸を、それに合わせる。
 だんだん緊張が解けてきて、今まで気づかなかったものを感じ取れるようになってくる。
 静かな潮騒。
 鼻腔をくすぐる潮の香り。
 早起きな鳥のさえずり。
 脚を撫でる海藻。
 全身を洗う冷たい海水。
 波で、身体が微かに揺れている。
 美杜さんの身体も、同じように揺れている。
 初めてのことだった。まったく衣類で隔てられることなく、全身で直に海を感じるなんて。
 美杜さんが、露出の多い水着を選んだ理由、水着がいらないと言った理由が、少しわかったような気がする。
 この方が、気持ちいい。
 なににも邪魔されず、大海原と接することができる。小さな水着でさえ、邪魔な存在だった。
 普段、人間は視覚に頼りすぎている。本人に受け取る意志さえあれば、他の器官だって、こんなにも様々な情景を伝えてくれるというのに。
 身体全体で、海を感じることができる。
 そういえば。
 遙かな昔、生命は海から生まれた。
 だから今でも、人間の血液の塩分濃度は、海水に近いのだと聞いたことがある。
 だから、なのだろうか。こうしていると、「還ってきた」という気がする。
 まるで、身体が少しずつ海に溶け込んでいくようだ。右手の、美杜さんとつながる手の感触がなければ、本当に海に溶け込んで、消えてなくなってしまいそうだった。
「ね? この方が、海を「感じる」ことができるでしょう?」
 美杜さんの声に、溶けかかっていた意識が戻ってくる。
「……ですね。ちょっと、気持ちいいですね」
 ちらりと、美杜さんを見る。美杜さんもこちらを見ていて、小さく微笑んだ。
 ひょっとして……
 ふと、妙な考えが浮かんだ。
 水着を着ていない方が、裸の方が、海をより深く感じることができるのなら。
 今、裸のまま美杜さんに抱きついたら……と。
 人間同士も、直に肌を触れ合わせた方が、より深く、より強く、お互いを感じることができるのかもしれない。
 そんなことを考えて。
 それが意味するところに気がついて。
 私はまた真っ赤になった。
 これこそが、恋人同士がセックスする時、裸になる理由ではないだろうか。



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