学校には、怪談がつきものだ。
以前誰かが冗談半分に話していたことだが、全国の小学校の実に九割以上に「学校の敷地は昔、墓地だった」という話があるそうだ。墓地でなければ刑場である。
もちろん、実際にはそこまで墓地跡ばかりを選んで学校を建てるはずはない。トイレの花子さん同様、学校の怪談の定番なのだ。事実、私が通っていた小学校にも、中学で一緒になったクラスメイトが通っていた小学校にも、そんな話があった。
中学、高校と年齢が上がるにつれて、そうした子供だましは減っていく。それでもやっぱり、学校には怪談がつきまとう。
夜の音楽室、鏡、トイレ、誰もいない更衣室。怪談のネタには事欠かない。
学校というのは、日中は大勢の生徒で賑わっているのに、夜になると誰もいなくなる場所だ。昼間の喧噪と、夜の静寂のギャップがもっとも大きな場所のひとつ。学校の多くは周囲が住宅地であるが、大勢の人が暮らす中に、ぽっかりと無人の空間が出現することになる。
日常の中の非日常。だからこそ、怪談の舞台にはもってこいなのだろう。
もちろん、私が通うこの聖陵女学園にも、怪談話はある。
そのひとつを知ったのは、夏休みも終わりに近いある日のことだった。
その日は、夏休み中だというのにクラスメイトと学校に来ていた。
この街の好きな風景を写生するという、美術の課題を片付けるためだ。
学校であれば水はふんだんに使えるし、イーゼルも美術室から持ち出せばいいし、緑が多くて美しい風景には事欠かない。なにより、友達と一緒に絵を描くには一番気楽な場所だった。人様に見せられるような腕も才能も持ち合わせていないのに、人の多い公園などで絵を描くのは恥ずかしい。
この学校では、芸術科目として美術、音楽、書道から一科目を選択することになっている。こんなことなら、室内でできる書道を選択しておけばよかったかもしれない。しかし、習字なんて絵を描く以上に苦手だ。音楽も、歌は嫌いではないが楽器に関してはまるで駄目。それよりは絵の方がいくらかましという、消去法で選んだ美術だった。
一緒に来ているクラスメイトの山川は、仲のいいクラスメイトの中では唯一の美術選択者である。もっとも、絵の才能については私とドングリの背比べでしかない。こんな二人が写生をする場所として、一部の運動部員以外に人気のない、夏休みの学校に勝る選択肢があるだろうか。
校舎裏の花壇の前に半日座って、お世辞にも上手とはいえないものの、とりあえず再提出だけは免れそうな絵を描き上げた。絵の具やイーゼルを片付けるために校舎に戻ろうとして、途中、ふと私の足が止まった。
裏庭の、普段からあまり人の通らないその一角は、以前からなんとなく気になっていた場所だった。裏山に続く斜面には大きな樹が茂り、真夏の陽射しを浴びた雑草が、好き放題に伸びている。山の麓にあるこの学校では珍しくもない、なんの変哲もない風景。
だけど、なにかが引っ掛かる。不穏な気配を感じる。
なんと言ったらいいのだろう。
空気の色が違う。重苦しい雰囲気が漂っている。
真夏の強い陽射しの下で、ここだけ陰になっているように感じる。
なんとなく息苦しくて、胃がむかむかするようでもある。
どうしてだろう。以前からこの場所を通るたびに、いつも同じように感じるのだ。
立ち止まって、そこに生えている樹を見た。
大きな樹だが、びっくりするほどでもない。自然そのままの山の麓に建つこの学校の敷地内では珍しくもない、つまりはなんの変哲もない樹だ。
なのに、すごく嫌な印象を受ける。木陰の空気が澱んでいるように感じる。
「樹本、どしたの?」
先を歩いていた山川が、立ち止まった私に気づいて振り返った。
「ん……いや、なんだろうな。なんか、変な感じがして」
「……早く行こ」
樹に顔を向けたまま応えると、戻ってきた山川は乱暴に私の腕を引っ張った。
「こんなとこ、長居する場所じゃないよ」
おや、と思った。声に、怯えたような気配がある。見ると、心なしか顔色も蒼醒めている。
気のせいではない。山川は、ここにいることを嫌がっている。この場所から早く離れたがっている。
「なにかあるの? こんなとこ、って言ったよね?」
「樹本ってば、知ってて立ち止まったんじゃないの?」
「なにも」
私はなにも知らない。転校してきて二ヶ月、まだ、学校の敷地内で足を踏み入れたことのない場所もあるくらいだ。
「早く行こ。あたしホントは、ここ通るのも嫌なんだから」
腕を抱えるようにして、山川は私を強引に引っ張っていく。まるで、この場所から逃げ出すように。
腕を引かれながら、もう一度樹の方を見た。木陰で、なにかが動いたような気がしたのだ。しかし目の錯覚だったらしい。いくら注意して見ても、風で揺れる木の葉以外に動くものは視界に入らない。
「通るのも嫌って、あそこ、何かあるの?」
山川の怯えようはただ事ではない。確かに嫌な印象を受ける場所だったが、それだけでは説明にならない。
「ホントに、何も知らないの?」
「知らない。なんなの?」
「まさか樹本って、霊感少女?」
「え? いや、別に」
美杜さんじゃあるまいし。私には特別な能力なんてない。心霊体験らしきものも、十六年生きてきた中で、あの海での一件しかない。
「……二年くらい前のことだから、あたしも自分で見たわけじゃないんだけどさ」
一刻も早くその場を離れようとする山川が説明をはじめたのは、校舎に入ってからだった。
「あの樹で、首を吊って自殺した先輩がいたんだって」
「え?」
「で、それ以来……出るんだって、あそこ。見たって人は何人もいるよ」
なにが出るのか、とは訊くまでもない。山川が身体の前で、両手をぶらぶらさせていた。
美術室で荷物を片付けた後、私は一人であの場所に戻ってみた。
特に深い考えがあったわけではない。単に、怖いもの見たさとでもいうのだろうか。女の子って基本的に、怪談が好きだと思う。
一応山川も誘ってみたけれど、即座に断られた。本気で怯えている。自分では見たことないと言っていたのに、この怯えようは普通ではない。
やっぱり、本当になにかいるのだろうか。
正直なところ、私はそれほど気にしてはいなかった。真夏の炎天下なんて、怪談にはもっとも不釣り合いな舞台である。たとえそこが、普通に授業のある日でも人気のない校舎裏だとしても。
平らに整地された学校の敷地が終わり、裏山の斜面へと境界線もなく続いていく場所。雑草が伸び放題で、そこかしこから聞こえてくるバッタの鳴き声は、私の足音が近づくと急に止み、通り過ぎるとまたすぐに再開する。
ところが。
そこだけは、あの樹の周囲だけは、不自然に静まりかえっていた。バッタやキリギリスの声はなく、山全体が鳴いているようなやかましいセミの合唱すら、遙か遠くから聞こえてくるように感じる。
確かに、ここにはなにかがある。
なにかを感じる。
どろどろとした、嫌な空気が漂っている。
木陰に黒い霧のようなものが溜まっているように思えるのは、目の錯覚だろうか。
微かに漂う嫌な臭いは、腐臭のようでもある。
今日は雲ひとつない快晴なのに、この一角だけ、陽の光が当たっていないように感じる。
いけない。
この場所に近づいてはいけない。
心の奥で警鐘が鳴る。
それでも好奇心が勝っているのか、私はゆっくりと脚を進めていく。
樹に近づくほどに、気分が悪くなってくる。
間違いない。ここには確かに、現代科学では説明できないなにかが存在する。
カメラを持ってくればよかったと、今さらのように思った。目には見えなくても、写真を撮ればなにか写っているかもしれない。カメラ付きの携帯電話は鞄に入れたまま、美術室に置きっぱなしだ。
しかし、幽霊はディジタルカメラに写るのだろうか? ディジタルの心霊写真というのはあまり聞いたことがない。美術室まで携帯を取りに戻るくらいなら、学校の前のコンビニで使い捨てカメラを買ってきた方が早いかもしれない。
そんなことを考えていて、ふと気がついた。
私は、この場所を離れたがっている。ここから立ち去る口実を欲しがっている。写真なんて言い訳に過ぎない。これ以上、この場にいたくないだけなのだ。
確かに、ここにはなにかが存在する。それも、人にとってよくないなにかが。
こんなところ、一人でいてはいけない。心霊現象なんて、興味半分で首を突っ込んでいいものじゃない。
もっと用心深くなるべきだった。海ではそれで死にかけているのだから。
あの時は美杜さんが一緒だったから助かったけれど、今は一人だ。万が一なにかがあったら、私ひとりでなにができるだろう。
そうだ、美杜さんを呼ぼう。
それは、カメラ以上にいい思いつきだった。美杜さんと一緒なら怖くはないし、きっと、こうしたものへの対処も知っているに違いない。
回れ右して、美術室に戻ろうとする。
しかし、脚が動かなかった。顔を真っ直ぐにあの樹に向けたまま、身体を動かせずにいた。
私の目は、樹上にいるものに釘付けになっている。
それは、一匹の蛇だった。
いつからそこにいたのだろう。気がついた時には、太い枝に絡みつくようにしていた。
ただの蛇ではない。どろどろとした黒い気をまとった、巨大な蛇だ。
身体を伸ばしたら、おそらく十メートル近くになるのではないだろうか。胴回りは電柱よりも太い。
こんなの、現実のはずがない。日本に、北海道に、こんな大蛇がいるはずがない。爬虫類は変温動物なので、一般に熱帯地方の方が大きく成長できる――それは美杜さんから教わった知識だ。
現実ではない、巨大な蛇。
それが、真っ直ぐに私を見つめている。金色をした、爬虫類特有の冷たい瞳で。
人間を丸呑みにできそうな口には鋭い牙がびっしりと並び、先が二股に分かれた青い舌がちろちろと蠢いている。
蛇に睨まれた蛙。その時の私は、まさにそんな状態だった。
動けない。
身体が、脚が、動かない。
蛇は少しずつ身体を伸ばして、樹上からこちらへ近づいて来るというのに。
大きな口を開けて。
黒い気をまとわりつかせて。
ずる……ずる……
近づいてくる。
逃げなきゃいけない。ここから逃げなきゃいけない。
化物のような蛇が近づいてくる。あいつに捕まったら――好ましい結果にならないことだけは確信できる。
しかし、身体は動かなかった。
蛇が近づいてくる。五メートル……三メートル……。
私の脚は微かに震えるだけで、根が生えたようにその場に固まっている。
「幸恵、そこを離れなさい」
なんの前触れもなく、背後から声がした。
振り向くことはできなかったけれど、見なくてもわかる。
一番身近な声。美杜さんの声。
しかし、いま一番嬉しいはずのその声も、私を解放してはくれなかった。
「そこにいては駄目よ。そんなもの、見てはいけないわ」
声が近づいてくる。この状況下で、不思議なくらいに落ち着いている。そのことは私をいくらか勇気づけたが、根本的な解決にはならない。
「そ……んなこといっても、む、無理です」
見るなと言われても、はいそうですかとうなずくことはできない。今にも襲いかかってきそうな全長十メートルの大蛇を無視できるほど、太い神経は持ち合わせていない。目は大蛇に吸い寄せられたまま、視線をわずかに動かすことすらできなかった。
足音が近づいてくる。すぐ背後で止まる。
「見ては駄目よ。無視しなさい」
後ろから肩を掴まれ、いきなり回れ右させられた。
怒っているような、あるいは緊張しているような、やや硬い表情の美杜さんの顔が、びっくりするくらいに近くにあった。
「み……」
名前を呼ぶ余裕すら、与えてもらえなかった。いきなり抱き寄せられたかと思うと同時に、柔らかな感触が口を塞いでいた。
「――っっ?」
なにが起こったのかを理解するには、いくらかの時間が必要だった。しかし、この感触には憶えがあった。
唇が押しつけられている。美杜さんが、いきなり私の唇を奪ったのだ。
びっくりして、慌てて逃れようとしたけれど、身体に腕を回されて身動きが取れなかった。
「……っ! んっ……んんっ?」
美杜さんってば、どういうつもりなのだろう。化け物のような蛇が襲ってこようとしている時に、なにを考えているのだろう。
キスされたことだけでも、頭の中はパニックになりかけていた。しかし美杜さんは、さらにとんでもないことをしてくれた。
身体に回されていた腕が解かれたかと思うと、その手がブラウスのボタンを外しはじめたのだ。
上から順に。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
四つめのボタンが外された時には、私の頭はすっかり沸騰してしまっていた。なのに美杜さんの狼藉は、それだけにとどまらなかった。
ブラウスの中に手が滑り込んできたかと思うと、ブラのフロントホックを外されてしまった。露わにされた胸の膨らみを、美杜さんの手が直に包み込んだ。
それはまるで、恋人にされるような行為。実際にそんな経験があるわけではないけれど、知識としては知っている。
服の上から触ったりするくらいなら、女子校では珍しくもないおふざけだ。だけどこれは冗談では済まされない。
美杜さんの手が、私の胸を優しく揉んでいる。さほど大きくもない胸を、愛おしそうに愛撫している。
やがて、胸に触れていた手が移動をはじめた。
下の方へと。
「みっ、美杜……さんっ!」
一度太腿まで下りた手は、こともあろうかスカートの中にもぐり込んできた。
長い指が、下着の上で蠢いている。
女の子の、一番恥ずかしい部分に触れている。
ゆっくりと前後に動いたり、小刻みに震えたり。
もちろん、初めての体験だった。私はバージンだし、そもそもこれまで男の子とちゃんとお付き合いしたこともない。もちろん、女の子とお付き合いしたことだってあるはずがない。
美杜さんってどこか百合っぽいと、前々から感じてはいたけれど。
本人、口では否定していたけれど。
やっぱり本物だったのだ。そして、私のことを秘かに愛していたのだ。
不思議と、触れられることは嫌ではなかった。ただものすごく驚いて、それ以上に恥ずかしかっただけだ。
こんな、いきなりなんて。
それも、夏休みで人気がないとはいえ、学校で、しかも野外で。
やっぱり初めてはちゃんとベッドの上で……って、私ってば、なにを考えているんだろう。問題はそこじゃない。
だけど。
「あっ……」
認めることには、抵抗があったけれど。
気持ち、よかった。
だんだん、触れられることが気持ちよくなってきていた。
彼氏イナイ歴十六年とはいえ、私だって今どきの女子高生。そこに触れるのが気持ちいいってことは知っている。自慰の経験くらいある。
知らなかったのは、他人の指に触れられることが、気が遠くなるくらいに恥ずかしいということ。なのに、自分で触れるより何倍も何十倍も気持ちいいということ。
顔が熱くなる。
頭がぼぅっとして、なにも考えられなくなってしまう。
身体中の神経が、美杜さんが与えてくれる快い刺激に集中している。
脚に力が入らなくなって、いつの間にか美杜さんにしがみつくような体勢になっていた。
脚の間では、美杜さんの手が動き続けている。
私に、いけないことをしている。
「あ……み、と……さぁんっ! あっ……ぁんっ!」
気持ち、いい。
すごく、気持ちイイ。
今まで経験したことのない、快感。
もう、他のことはなにも考えられなかった。ただ、いつまでもこの快楽に身を委ねていたかった。
だけど、至福の時間はあまり長くは続かなかった。
緊張のせいか、興奮のせいか、それとも気の遠くなるような快感のせいか。
頭の中が真っ白になって、私はそのまま気を失ってしまった。
気がついた時には、近くにあった木製のベンチに座らされていた。
夢だったのだろうか。朦朧とした意識の中で、美杜さんの鈴の音を聞いていたような気がする。
美杜さんは隣にいた。私は、美杜さんに寄りかかるようにして座っていたのだ。
まだ、頭がはっきりしない。
私はどうしてここにいるのだろう。
こんなところで、なにをしていたのだろう。
「……あ」
「あ、気がついた? はい」
見慣れた優しい笑みを浮かべた美杜さんが、校内の自販機で売っている烏龍茶を渡してくれる。反射的にそれを受け取って、冷たく濡れたアルミ缶の感触に、少しだけ意識がはっきりしてきた。
急に、顔が熱くなった。私は烏龍茶の缶を握りしめて、そのままうつむいてしまった。
スカートの中で、下着が冷たく湿っている。妙に風通しがいいと思ったら、ブラウスのボタンがいくつか外れて、念入りに寄せて上げて着けたはずのブラジャーが乱れている。
それで、記憶が甦ってきた。何故ここにいるのか。ここで、なにをされたのか。
美杜さんに、エッチなことをされてしまったのだ。恋人同士がするようなエッチなことをされて、それが気持ちよすぎて気を失ってしまったのだ。
やっぱり美杜さんは女の子が好きな人で、私のことが好きだったのだ。
あまり意外には思わなかったし、不思議と嫌悪感とかも感じなかった。むしろ、美杜さんに好かれていたという事実に、漠然とした喜びさえ感じていた。
だけど、ちゃんと告白もしないうちに、いきなり、しかも真っ昼間の野外であんなことをするのはよくないと思う。その点では文句のひとつも言いたい。女の子としては、やっぱりムードを大切にして欲しい。
そうしてくれれば、美杜さんがどうしてもと言うのなら、お付き合いだって……真剣に考えてみてもいいのに。
「……あ、あのね、美杜さん?」
「幸恵、あなたちょっと無防備すぎる。もう少し用心しなきゃ」
責めるような口調で美杜さんは言った。
自分で襲っておいて、「無防備すぎる」とはひどい言いぐさだ。いくら年頃の女の子とはいえ、誰が、同性の親友にいきなり襲われることを用心するというのだろう。
「よくないものがあるのはわかっていたんでしょう? 私が来なかったら危なかったわ。あなたは、ああいったものに影響されやすいんだから」
「……え?」
なにを言われているのか理解できず、二度、三度と瞬きを繰り返した。
「そりゃあ、今まで放置していた私も悪いかもしれない。でも、まさかあなたが、あそこまで無防備だなんて思わなかったもの。たいした力もない相手だけど、さすがに先刻は危なかったわ」
そこでようやく、美杜さんの言わんとしていることが理解できた。今の今まですっかり忘れていた。あの、怪物の存在を思い出した。
「あ、あの……それって、あの蛇の怪物のことですか?」
「他になにがあると?」
「それよりも今の問題は、美杜さんが私を襲ったことです!」
十六才のバージンの女の子にとっては、こちらの方が大問題だ。今は見当たらない、気配もしない蛇なんかどうでもいい。それに結局、私を襲ったのは怪物ではなくて美杜さんなのだ。
今となっては、あの蛇は幻覚なんじゃないかとすら思えてくる。真夏の炎天下で、熱射病にでもなりかけていたのかもしれない。だけど、美杜さんにされたことは紛れもなく現実だ。物的証拠がある。下着が湿っぽいし、ブラウスのボタンも外されている。
「お、襲ったって……人聞きの悪いこと言わないでよ!」
何故か美杜さんは、真っ赤になって反論してきた。狼狽している美杜さんというのも珍しい光景だ。
「でも、事実だもん。エッチなこといっぱいされたもん!」
今さら、なかったことにしようたって許さない。
「エッチって……あ、あれは、あなたを助けようとしたの。あなたの意識を他に逸らすために……」
「え?」
なんだか、様子が変だ。いまいち話が噛み合っていない気がする。
期待していた……じゃない、予想していたのとはちょっと違う展開だ。
「あの蛇が幸恵に悪さしようとしていたから、それで……」
「……あれって、なんだったんですか?」
あの、正体不明の蛇の怪物。それが美杜さんの狼藉とどんな関係があるのか、さっぱり理解できない。
「ウェンカムィの一種。わかりやすく言うと、邪神……いや、悪霊という方が近いかな」
「あ、悪霊っ?」
私は大声を上げた。美杜さんってば、とんでもないことをさらっと言う。
「ああいった連中はね、本当はたいした力はないのよ。普通の人間には悪さなんかできない。ただ、たまに幸恵のように、波長が合って影響を受けやすい人間がいるのよね」
「え? それって……」
「もっとも原始的な宗教では、身の回りのあらゆるものに神が宿っているというのはごく普通の考え方よ。ハルニレの木の神、ハシドイの樹の神、カツラの樹の神。大地には大地の、川には川の、風には風の神がいる。自然のものだけじゃないわ。家の神、かまどの神、トイレの神、なんでもありね。神様っていうより、精霊って表現の方がイメージが掴みやすいかしら? 彼らはどこにでもいる。特別な存在なんかじゃない。それに、所詮は実体を持たない存在。物理的に人間をどうこうする力なんてない。それでも、実体を持たないものに働きかけることはできる。例えば、人間の心とか」
「……もしも、あのまま美杜さんが現われなかったら、私はどうなっていたんですか?」
訊ねると、美杜さんは一瞬口ごもった。
「……クラスの友達とかから聞いたことない? 二年前、あそこでなにがあったのか」
「――っ」
先刻、山川から聞いたばかりだ。あの樹で首を吊って自殺した先輩がいる、と。
心に働きかけるとは、つまり、そういうことなのだろうか。
「精霊たちはどこにでもいる、なんにでも宿っている。その中に時々、人間に悪影響を与えるものがいる。でもね、普通はなんの問題もないの。海で、幸恵を呼んでいた声と同じ。こちらから意識を向けない限り、見ることも感じることもできない。なにも影響を与えることはできないから、それは存在しないも同然」
「はあ、そういうものですか」
「だからね、先刻の幸恵みたいに凝視しちゃ駄目よ。見えてないふりをしないとからまれてしまう。その点では人間の不良や野良犬と同じことかな」
「だからって無理ですよ! あんなもの、見ないようにしろなんて」
どんな図太い神経を持った人間だって、無理だと思う。美杜さんのように、こうした超常現象に慣れっこでない限りは。
いや、美杜さんにとっては超常現象ではないのだろう。彼女にとっては、「どこにでも存在する」ものなのだ。しかし私のような凡人にとってはそうはいかない。
「だから、無理やり意識を他に向けさせたわけ。ちょっと強引な手段だったけど」
「ご、強引って……」
また、赤面してしまう。美杜さんにされたことの記憶が、鮮明に甦ってくる。
美杜さんは私をびっくりさせて、目の前の蛇から意識を逸らすためにあんなことをしたのだ。
確かに、効果的ではあった。私は蛇のことなんかすっかり失念していたのだから。
ちょっと強引なキス。胸や、もっとエッチな部分への愛撫。
だけどそれは私に対する恋愛感情によって行われた行為ではない。そのことがわかって、美杜さんの同性愛者疑惑が晴れて、どうしてか私は落胆していた。
「だ、だからって、いきなりあんなエッチなことしなくてもいいじゃないですか! あれじゃまるで痴漢ですよ」
「ち、痴漢って……でもそれをいったら、幸恵だって同じことしたじゃない」
「え? ……あ」
そういえば。
知り合って間もない頃、私の方からいきなりキスしたことがあった。美杜さんのファーストキスを奪ってしまった。私のファーストキスをあげてしまった。
「あ、あれはっ、……感謝の気持ちを態度で表しただけです! それに、キスだけじゃないですか」
「でも、私はびっくりしたわ。一瞬、他のことがなにも考えられなくなるくらいに。だから、あなたの意識を蛇から逸らすのにもこの手が使えるかなって」
「だ、だったらキスでいいじゃないですか! あ、あんなっ、え、エッチなこと……」
美杜さんにいきなりキスされたりしたら、それだけですごく驚くと思う。それ以上のエッチなことなんて、する必要はない。
「そうなの? 知り合ったばかりの相手にいきなりキスするくらいだから、幸恵にとってはキスなんて挨拶がわりなのかと思ってた。だから、もっとびっくりさせるようなことをしなきゃ駄目かと思って」
「だ、だ、だからってあんなこと……私、初めてだったんですよ!」
「私も、ああいうことしたのは初めて。だからおあいこね」
「それはなにか違います! ひとつ間違えば、あれってレイプですよ!」
「あら、人助けでしょう? 危ないところを助けてあげたんだもの、お礼を言ってもらってもいいくらいだわ」
私が文句を言い続けているので、美杜さんも開き直って尊大な態度になる。
「どこの世界に、襲われてお礼を言う女の子がいますかっ! 美杜さん、人助けとかなんとか言って、実は楽しんでたんじゃないですかっ?」
「それを言ったら幸恵だって、実は楽しんでいたんじゃないの? なんだか、可愛い声を出していたみたいだけど?」
「――――っ!! な、なによっ、このスケベ――っ!!」
本当は――
本音を言えば――
ぜんぜん、嫌じゃなかった。
エッチなことをされて驚いたのは事実だけど、嫌悪感はまったくなかった。
それどころか、すごく気持ちよくて。
美杜さんが同性愛者で、私に好意を抱いていたのだと思った時、むしろ嬉しかった。それが誤解だとわかって、がっかりした。
そのことがなにを意味するのか、この時にはもう気がついていた。だけど、十六年間平凡に生きてきた女の子にとって、それを素直に受け入れることには少々抵抗もある。
だから私は照れ隠しのために、不機嫌な仔犬のように、いつまでもきゃんきゃんと喚き続けていた。
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