五章 ahunpar


「樹本って、神原先輩と仲いいの?」
 たまに、クラスメイトから訊かれることがある。
「うん。こっちに引っ越してきて、最初に知り合った人だしね」
 そう答えると、決まって、不思議なものを見るような表情が返ってくる。
「あの人って、ちょっと気持ち悪くない?」
「なんてゆーか、電波系の雰囲気あるよね」
「霊能者って噂もあるけど」
「そうそう。よく、校舎裏の『首吊りの樹』の近くで見かけんの」
「降霊とか悪魔召喚でもやってんじゃないの?」
「公園にもよくいるよね。木の根元に座って、なにもせずにぼーっとしてるの」
「ウチュー人とでも交信してるんでしょ」
 かように、校内での美杜さんの評判はよろしくない。
 実際のところ、単に噂ばかりがひとり歩きしている部分も多い。確かに変わった人ではあるけれど、親しく付き合ってみれば、意外と普通の女子高生っぽいところもあるとわかる。
 例えば。
 甘いものに目がない。
 だけどあの素晴らしいスタイルを維持するために、普段はブラックコーヒーを愛飲している。
 携帯電話は高画素カメラ付きの最新機種。
 マンガや女の子向けの雑誌のような、俗っぽい本も多少は読んでいる。
 普段のファッションはやや地味だけれど、下着と水着はオシャレで色っぽい。
 もちろん、今どきの女子高生として普通じゃない部分も多々ある。
 流行のドラマとかアイドルにはまったく興味がない。
 よく観るテレビは、自然や歴史が題材のドキュメンタリーもの。
 なんらかの不思議な力を持っているのは事実。
 合コンとか、男の子にはあまり興味がないみたいで、もっといえば、ちょっと百合っぽい。
 一度、美杜さんとこんな会話を交わしたことがある。あの、蛇の件の少し後のことだ。
「美杜さんって……その、経験はあるの?」
「経験? なんの?」
「……だから、その……えっと」
 言い淀んでいる私の態度で、美杜さんも察したようだ。かすかに頬を赤らめ、小さな声で訊いてくる。
「ひょっとして……えっちのこと?」
 ほら。
 こうした話題が通じる程度には、美杜さんは普通の女の子なのだ。
 真っ赤になってうなずくと、美杜さんはくすくすと笑って首を左右に振った。
「前に言わなかったっけ? 幸恵とのあれがファーストキスだって」
「彼氏とか、いないんですか?」
「ご覧の通り」
「カッコイイ彼氏がいたらいいなぁ……とか、思いません?」
「そうねぇ……」
 黒い大きな瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。こんな質問をする私の真意を、すべて見通しているかのようだ。
「そりゃあ、私だって年頃の女の子だし、素敵な恋人は欲しいわ。でも、こればっかりは縁だもの、欲しいと思っただけで手に入るわけではないでしょう?」
 意図的なものだったのだろうか、私がわざと「彼氏」という単語を使ったのに対して、美杜さんは「恋人」と答えた。思わず「同性同士の恋愛ってどう思います?」なんて訊きそうになってしまう。
 もちろん、本当に訊くことはできない。答えを聞くのが怖いし、そもそも自分の気持ちもまだ固まっていない。
「幸恵は?」
「えっ?」
 不意をついた反撃に、声が裏返る。
「幸恵はどうなの? 好きな人とかいないの?」
「そ、そ、それは……」
 こんなに狼狽えて、こんなに赤い顔で、「いません」なんて言っても説得力はない。照れくさくて、ぷいと視線を逸らした。
「な、ナイショです!」
 まだ、言えない。
 もう少し時間が必要だ。考える時間。自分の心を客観的に見つめる時間。
 そうしなければ、言えるわけがない。私が好きなのは美杜さんです、なんて。
 まだわからない。美杜さんに対する気持ちが、いったいなんなのか。
 恋愛、友情、それ以外のなにか。恋愛経験皆無の私には、どうにも判断がつかない。
 わかっているのは、美杜さんのことが気になって仕方がないということ。一緒にいると楽しいということ。それだけだ。
 いずれにせよ、美杜さんが他の人にあまり人気がないということは、私にとっては悔しくもあり、また嬉しくもあった。
 美杜さんの魅力をみんなに知ってもらいたいという気持ち。
 美杜さんを独り占めしたいという気持ち。
 どちらの気持ちがより強いのかは、自分でもわからなかった。



 学校帰り、他に用事がなくて天気がよければ、私は家の近くの公園に立ち寄ることにしている。
 あの、美杜さんと初めて出会った公園。
 ここに来れば、大抵、美杜さんと会える。
 もちろん、時間が合えば学校から一緒に下校することも少なくない。だけど学年も違うし、美杜さんに比べれば私はクラスメイトとの付き合いも多いから、必ずしも毎日というわけにはいかない。
 だけど、ここに来れば美杜さんに会える。
 ほら。
 いた。
 公園で一番大きな樹の根元、初めて美杜さんの姿を見たその場所に、あの時と同じように座っている。
 幹に寄りかかって瞼を閉じて、静かな笑みを浮かべて、遠目には眠っているようにも見える。
 だけど、そこは美杜さんのこと。驚かしてやろうと足音を殺して近づいたにも関わらず、すぐに気がついて目を開けた。こちらを見てにこっと微笑むと、隣に座るようにと手振りで促す。
 言われるままに腰を下ろす。ほとんど、腕が触れ合うほどの至近距離だ。
 美杜さんが、私の手を軽く握ってくる。問いかけるような表情で顔を覗き込む。
 私も手を握り返して、小さくうなずいた。美杜さんがしていたように、幹に寄りかかって瞼を閉じる。
 腕に、美杜さんの体温の、心地よい温もりを感じる。
 静かな風が、頬をなでていくのを感じる。
 土の匂い、木の匂い、草の匂いを感じる。
 近くを流れている小川のせせらぎが、いやにはっきりと聞こえる。水の匂いさえ感じることができる。
 鳥の声が聞こえる。この公園に、あるいは奏珠別の周囲の山々に、無数に棲んでいる小鳥たちの声。
 啄木鳥が木を叩く音が遠くから響いてくる。
 虫の音も聞こえる。まだ夕暮れ前だというのに、気の早いエンマコオロギが土鈴を転がすような声で鳴いている。
 時折、キリギリスのやかましい声が混じる。
 こうして目を閉じていると、視覚以外のすべての感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。
 見ることができなくても、むしろ目を開いている時よりもよほどはっきりと、周囲の世界を感じることができる。
 そのうちに、感覚は私の身体を離れていくようになる。
 心が、周囲の空気に溶け出していく。樹本幸恵という小さな殻を離れて、周囲に広がっていく。
 美杜さんの心を感じる。コーヒーにクリームを入れたように、私の心と絡み合い、やがて混じり合ってひとつになっていく。
 今、私は美杜さんであり、美杜さんは私であり、あるいはまったく別の存在でもあった。
 感じることができる。周囲の樹々も、草も、鳥も、虫も、流れる水やこの大地でさえも、同じように心を持っている。そのすべてが混じり合い、重なり合って、この世界を創り上げている。
 私の意識は今、寄りかかっている樹の中にいた。
 地中深く張り巡らせた根に、滋養に満ちた水が染み込んでくるのを感じる。
 幹の中を昇り、枝々の末端まで、葉の一枚一枚にまで広がっていくのを感じる。
 風が、茂った葉を揺らしている。
 広がった葉の表面に、暖かな夕陽が降り注いでいる。
 この上ない悦びを感じる。それは生きていること、生そのものに対する原初の悦びだ。
 気持ちいい。
 生きていることが気持ちいい。
 この先何十年、何百年。こうして、この樹とともに大地に根を下ろして生きていたい。大地に溶け込んでしまいたい。
 いったい、人間というちっぽけな形に、どれほどの意味があるのだろう。
 私がいるのは、目に見える形など無意味な世界だった。


 どのくらいの時間、そうしていたのだろう。
 鈴の音でふと我に返った。漂っていた心が、樹本幸恵という小さな身体の中に戻ってくる。
 血の通った肉体を持つことに違和感すら覚えながら、私はゆっくりと目を開けた。
 山の陰に半分隠れた夕陽を背景に、美杜さんが踊っている。全身を朱に染めて、透き通った鈴の音を響かせている。
 いつも、楽しそうに、嬉しそうに踊っている。
 美杜さんが踊っているところを見るのは好きだ。水の流れのように、どんなに長い時間見ていても飽きることがない。
 だけど今日の美杜さんは、いつもとどこか様子が違うような気がした。
 はっきりとはわからない。漠然とした違和感。どことなく哀しそうな表情に見えるのは気のせいだろうか。単に、夕陽で逆光になっているから、光の加減でそう見えるだけだろうか。
 ほんの数メートル先で踊っている美杜さんが、ひどく遠くに感じた。つい先刻まで、心が溶け合うくらいに近くにいたはずなのに。
「……ねえ、美杜さん」
 踊っている美杜さんの耳に届くように、少し大きな声で言った。
「もしよかったら、今夜、うちに泊まりにきません?」
 鈴の音が止む。
「いいの? 迷惑じゃない?」
「今夜、両親が旅行でいないんですよ。明日は休日だし、美杜さんさえよかったら」
 そう言ってから赤面してしまった。
 十六歳の女の子が「親がいないから、泊まりに来ない?」だなんて。まるで、そろそろ一線を越えたいと思っている彼氏を誘うような台詞ではないか。
 もちろん、そんなつもりじゃない。美杜さんのことは好きだし、それはひょっとしたら恋愛感情かもしれないけれど、別に、セックスしたいとかいうんじゃない。ただ一緒に、一番近い場所にいたいだけなのだ。
「もちろん、手料理をご馳走してくれるのよね? そうね、今夜はローストチキンって気分」
 時々ずうずうしいこともある美杜さん。だけど、そんな風に甘えてくれることが嬉しくもある。美杜さんのために料理を作ることも、それを喜んで食べてくれることも、とても嬉しいことだった。



 美杜さんは一度家に帰って、着替えてお泊まりの用意をしてから遊びに来た。
 手料理をご馳走して、一緒にお風呂に入って、髪を乾かしながら他愛もない話をして。
 お風呂上がりの、パジャマになった美杜さんがすごく色っぽくて、それが嬉しくて楽しくて、ちょっと恥ずかしい。
 夏物のパジャマの薄い生地を持ち上げている、ふたつの大きなふくらみ。その先端の突起まではっきりとわかってしまう。ちょっと前屈みになっただけで、深い谷間が目に入ってしまう。
 美杜さんが私の髪にドライヤーを当ててくれる時、背中に当たる弾力に、鼓動が速くなるのを感じた。
 どきどき、どきどき。
 顔が熱くなる。お風呂上がりだから、少しくらい火照った顔でも不審に思われないのが幸いだった。
 そして。
 もちろん、寝るのも一緒である。セミダブルのベッドに二人並んで、美杜さんの体温を感じ、寝息を聞きながら眠る。
 一緒に寝るのは初めてではないけれど、いまだに慣れない。鼓動が速くなって、顔が熱くなってしまう。
 こんな状態で眠るのはとても無理そうに思うのだが、美杜さんと一緒だと不思議とよく眠れる。すぐに眠ってしまうのはなんだかもったいなくて、灯りを消してベッドに入ってからもいろいろと話をしているのだけれど、自分でも気づかないうちに眠りに落ちてしまっている。そのまま熟睡して、翌朝早い時刻に二人一緒に目を覚ますのが常だ。
 だけど、この夜は例外だった。
 ふと目を覚ますと、部屋の中はまだ真っ暗だった。カーテンの隙間から、街灯の明かりが微かに漏れているだけ。時計を見ると、午前二時を回ったところだ。
 どうして、こんな変な時刻に目を覚ましたのだろう。
 寝ぼけた頭でぼんやりと考えていて、ふと違和感を覚えた。
 あるべきものがない。
 美智さんの体温、寝息、気配。
 私は、ベッドに一人で寝ていた。隣に寝ていたはずの美杜さんの姿がない。トイレにでも行ったのかと思ったが、シーツに温もりは残っていなかった。
 身体を起こし、灯りを点けて室内を見回す。
 なにも、なかった。
 美杜さんの衣類、鞄、ジュースのペットボトルや、お菓子の袋。
 昨夜、美杜さんがここにいたことの痕跡が、なにもなかった。
 慌ててベッドから降りる。言葉では説明できない衝動に駆られて、パジャマのままで家を飛び出した。
 月のない夜。
 街灯の青白い光だけが、寝静まった住宅地をぼんやりと照らしている。
 私は人気のない道を走った。無意識のうちに、脚は公園へと向かっていた。なんの根拠もなく、美杜さんがそこにいると確信していた。
 あの樹。
 いつも美杜さんが寄り添っている、あの大きな老木。
 そこにいるはずだ。他に考えられない。
 公園の樹々は水銀灯の冷たい灯りを浴びて、幹や葉は銀色に輝いて見えた。美しい光景といってもいいはずだが、今はなぜか不気味に映った。
 全身に鳥肌が立つ。それは、夜の冷気のためではない。
 あの樹に近づくにつれて、不安になってきた。美杜さんは本当にここにいるのだろうか。私はなにか、根本的に間違えているのではないか。
 しんと静まりかえった深夜の公園。普段ならば虫たちの声でやかましい場所なのに、今は本当に静まりかえっている。
 なんの音もない。
 虫の声。
 梟やキタキツネの声。
 遠くを走る車の音。
 何もなかった。自分の足音すら、耳に届いてこなかった。そしてもちろん、美杜さんの息づかいも。
 不安は的中した。嫌な予感ほど、よく当たるものだ。
 樹の根元に、美杜さんの姿はなかった。その代わりというか、幹に大きな穴が空いている。大人ひとりが屈んでもぐり込めそうな大きさの洞だ。
 これはなんだろう。昨日までは、こんなものはなかった。今夜できたばかりにしては、周辺の幹が朽ちかけている。
 躊躇することなく、その中にもぐり込んだ。外から見る幹の直径はせいぜい一メートル半というところだけれど、不思議なことに穴に行き止まりはなく、どこまでも続いているようだった。しかし私はそのことを当然のように受けとめ、手探りで奥へと進んでいった。
 光はまったくない。
 文字通り、一寸先も見えない闇。指先の感覚だけが頼りだった。
 地面は、緩やかな下りになっているようだ。湿った、冷たい空気が周囲を満たしている。土と、木の匂いがする。
 少し身を屈めた大人ひとりがようやく通れるくらいの狭い洞窟、だけど奥行きだけが計り知れない。
 どのくらい進んだのだろう。距離の感覚も、時間の感覚もまるでない。
 何時間も歩いたような気もするし、ほんの二、三分のような気もする。なにも見えない闇の中を手探りで進んでいるのだから、実はたいした距離は歩いていないのかもしれない。
 ただ、どこまでも進んでいく。
 やがて、漆黒の視界の彼方にぽつんと、ひとつの人影が浮かび上がった。一筋の光もない闇の中なのに、そこだけスポットライトが当たっているように見えた。
 腰まで届く長い髪。間違いない、美杜さんだ。こちらに背を向けて、奥へと歩いていく。
「美杜さん!」
 大きな声で呼びかける。しかし美杜さんの耳には届かなかったのか、立ち止まりも振り返りもしてくれない。
「美杜さんっ!」
 もう一度、あらん限りの声を絞り出す。狭い洞窟に反響するはずの声は、まるで周囲の闇に吸い込まれたかのようにはかなく消えてしまった。そして、美杜さんの姿も闇に溶け込んでいく。
「美杜さんっ!」
 何度も、何度も叫ぶ。叫びながら美杜さんを追う。足を速めようにも、気持ちばかりが急いてさっぱり進まない。慌てたせいで、ごつごつした石に足を取られて転んでしまった。
「……美杜さん」
 膝と手を擦りむいた私が顔を上げた時には、周囲は完全な闇に包まれ、なにも見えなくなっていた。



「……夢?」
 気がつくと、自分のベッドの中だった。
 時計は午前二時を回ったところ。まだ真夜中だ。
 自分のものではない、静かな寝息が聞こえてくる。隣に美杜さんが眠っている。私は身体を起こして、美杜さんの寝顔を見おろした。
 薄いカーテンを通して射し込む街灯の光の下で、白い顔が浮かび上がる。
 夢、だったのだろう。嫌な夢を見た。全身汗ばんで、パジャマはじっとりと湿っている。
 そっと、美杜さんの頬に触れてみる。滑らかな肌を、指先で軽く押す。確かな感触が伝わってくる。
 間違いなく、美杜さんはここにいる。
 馬鹿みたいだ。そんなこと、いちいち確かめなくてもわかることなのに。
 それでも、確かめずにはいられなかった。
 美杜さんは、ここにいる。
 隣で眠っている。
 なにも心配することはない。
 少しだけ安心して、私はまた横になった。
 そぅっと、起こさないようにそぅっと、美杜さんの身体に腕を回す。
 夏休みに一緒に海に行った時、美杜さんが私にしたように。
『幸恵が、また連れていかれないように』
 あの時、美杜さんはそう言っていた。私も今、同じことを心配している。
 掴まえていなければ、美杜さんがいなくなってしまうような気がした。ただの夢で済ますには、あまりにも意味ありげな夢だった。夕方の美杜さんの様子も、忘れることはできなかった。
 私は美杜さんを抱きしめて、美杜さんの胸に顔を埋めるようにして眠りについた。
 今度は、いやな夢は見なかった。



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