六章 tus‐kur


 数日後の学校帰り。
 美杜さんと一緒に、いつものように公園へ寄った。
 しかし、なにやら普段と様子が違う。あの樹の周囲には黄と黒の縞模様のロープが張られ、作業服姿の男性数人が動き回っている。
「なにか、あったんですか?」
 とりあえず、いちばん近くにいた人に訊いてみる。
「ん? ああ。この木、二、三日中に切り倒すことになったんだよ」
「え、えぇっ?」
「幹の内部が腐っているのが見つかってね。放っておくと危ないから、今のうちに切り倒すんだ」
「そんなっ、なんとかならないんですか? ……こんな、立派な樹なのに」
「なにしろ年寄りだからなぁ。これからの季節、台風でも来たら折れて怪我人が出るかもしれないし、仕方ないだろうな」
「そんな……」
 突然のことに、どう反応していいものやらわからなかった。
 美杜さんは、なんの表情も浮かべていなかった。ただ黙って、無表情に前を見つめている。特に驚いた様子はない。
 もしかしたら、以前から知っていたのかもしれない。この樹の生命が、もう残り少ないことに。
「……仕方ないわ」
 私にだけ聞こえる小さな声で、そうつぶやいた。



 明日にはあの樹が切られてしまうという夜。
 私は夜中にそっと家を抜け出して、公園へ向かった。
 予感があった。きっと、美杜さんが来ているはず、という。
 ほら。
 公園に入る前から、その予感が正しいことはわかっっていた。
 音が、聞こえる。
 遠くから、透きとおった鈴の音が響いてくる。
 立ち入り禁止のロープの中で、美杜さんが踊っている。月明かりの下、銀色のスポットライトを浴びている。
 長い髪が風になびき、スカートが翻る。
 身体が弾む。鈴の音が響く。今夜は、ひどく哀しい音に聞こえる。
 私が来ていることには気づいているはずなのに、こちらを見ようともせず、ただ一心不乱に踊っている。
 涙は流していないが、遠目には泣いているようにも見えた。あの樹の、切り倒される運命を悼んでいるのだろうか。
 いつも美杜さんはこの場所にいた。この樹に寄り添っていた。いったい、どれほど大切な存在だったのだろう。
 美杜さんは、この街で生まれ育ったと聞いた覚えがある。家から公園まで、子供だって一人で来られる距離だ。おそらく、物心ついた頃からこの樹と一緒にいたのだろう。
 この街に越してきて三ヶ月の私だって寂しいのだから、美杜さんの悲しみの大きさは、言葉では言い表せまい。
 だから美杜さんはなにも言わない。
 ただ黙って、踊っている。
 いつまでもいつまでも踊り続けている。



 そして翌日。
 学校をさぼって、樹が切り倒される現場に立ち会おうと提案したところ、やんわりと断られた。
 意外に思ったが、少し考えて私が間違っていると気がついた。自分の親友が殺されるところを見たいと思う人間がいるだろうか。
 だから、普段通りに登校した。だけど授業を受ける気にはなれず、教室を抜け出して屋上でさぼることにした。
 そこで、一足先に来ていた美杜さんと鉢合わせしたのだ。
「……美杜さんも、サボリですか?」
「まあ……ね」
 真面目な美杜さんにしては珍しい。試験勉強とかはさほど熱心ではないが、それも普段の授業態度が真面目だからこそ。そんな美杜さんがサボリだなんて。
 微かに、ばつの悪そうな表情を浮かべている。鞄を持ってきているところを見ると、今日はもう授業に戻るつもりはないらしい。
 私は屋上の隅に腰を下ろした。これ以上、美杜さんになにを言えばいいのかわからなかった。美杜さんもなにも言わず、ゆっくりとした動きで踊り始める。
 授業中の静かな学校に、鈴の音が鎮魂歌のように響く。
 嬉しい時、悲しい時、美杜さんは踊る。それが、彼女の感情表現の手段なのだと、最近気がついた。
 いつも静かに微笑んでいて、表情の変化は少ない美杜さん。代わりに、身体全体でその想いを表している。
 黙って、美杜さんを見つめている私。
 ゆっくりと踊り続ける美杜さん。
 そのまま、どのくらいの時間が過ぎただろう。
 そろそろ、だろうか。
 予定では、そろそろのはず。
 そう思って、時計を見ようとした時。
 突然、心臓がぎゅうっと締めつけられるような感覚を覚えた。
 痛い。
 苦しい。
 胸を押さえ、短い呻き声を漏らす。
 幸い、それほど長くは続かなかった。鋭い痛みは、始まった時と同じくらい唐突に去り、私は息を吐きながら顔を上げる。
 そして――

 屋上に倒れている美杜さんに気がついた。



「あ、幸恵ちゃん。今日もお見舞いに来てくれたの? ありがとう」
 病院のロビーで、美杜さんのお母さんと会った。
 以前にも何度か会ったことがある。美杜さんとよく似た、綺麗な人だ。歳よりもずっと若く見えて、知らなければ、ちょっと歳の離れた姉妹と言われても信じたかもしれない。
「それで、あの……美杜さんの様子は?」
「相変わらず」
 お母さんは苦笑しながら、小さく首を振った。
 あれから一週間。
 美杜さんは眠り続けている。
 あの日、樹が切り倒されるのと同時に意識を失って倒れ、そのまま眠り続けている。
 外傷はない。脳波も正常。精密検査をしても、身体にはなんの異常も見つからない。医学的には、ただ眠っているのとなにも変わらない。
 なのに、意識が戻らないのだ。
「もう、一週間になるのにねぇ。友達をこんなに心配させて、あの子ってば、もう」
 その口調は、愛娘のことを心配しているというよりも、むしろ怒っているようだった。
「深くつながりすぎてしまったのね。注意してたのに。もっと早くに幸恵ちゃんみたいな友達ができていれば、こんなことにはならなかったでしょうに」
 お医者さんは首を傾げている、美杜さんが目覚めない理由。お母さんはわかっているらしい。私も漠然とではあるが、言っていることの意味は理解できた。
 美杜さんと一緒に、あの樹の下にいた時のことが思い出される。
 自分の意識が身体を離れ、樹の中に広がっていくような感覚。
 美杜さんはずっと以前から、あの樹と「つながって」いたのだ。きっと今も、あそこにいるに違いない。
 もちろん、お母さんは美杜さんの『力』のことを知っている。お母さん、お祖母さん、そしてひいお祖母さん、代々受け継がれてきたものなのだ。特にひいお祖母さんは強い力を持ち、名の知られたトゥス・クルだったのだそうだ。
 しかし、北海道がアイヌの土地だった時代とは違う。現代日本は、こうした超常の力が受け入れられる世界ではない。
 お母さんよりもずっと強い力を持っていた美杜さんは、小さな頃から奇異の目で見られていたという。自然と『力』を隠すようになり、親しい友人を作ることもなくなった。
 美杜さんにとって、この世界は決して住みやすいところではなかったのだろう。そして彼女には、もっと居心地のいい場所があった。
 一番大切なものがこの世界から失われる時、美杜さんは一緒に行くことを選んだのだ。
「以前にもこんなことがあったの。あの子が小学生の頃、可愛がっていた犬が死んでしまった時に……」
 その時、身体を離れて異なる世界をさまよっていた美杜さんの魂を連れ戻したのは、お祖母さんだったそうだ。だけどそのお祖母さんも、美杜さんが中学生の時に亡くなっている。お母さんの力は美杜さんよりもずっと弱く、同じことはできないという。
「なにか、きっかけがあれば戻って来られると思うの。ただ、それがいつになるか……」
 お母さんの様子は、あまり深刻そうではない。いつかは目覚めると、信じているようだ。だけど私としては、一日でも、一分一秒でも早く目覚めてほしい。
「時間があるのなら、しばらく傍にいてあげて。幸恵ちゃんがなにかのきっかけになるんじゃないかって、ちょっと期待してるのよね」
 そう言って、お母さんは家事を片付けるために家へ帰っていった。私は一人、美杜さんの病室に入る。
 個室のベッドの上で、美杜さんが眠っている。静かな表情で。
 ここが病院で、腕に点滴の管が入っていなければ、本当にただ眠っているとしか思えない。
 ベッド脇の椅子に腰を下ろし、美杜さんの寝顔を見おろす。
 伏せられた長い睫毛。やっぱり、寝顔も綺麗だ。
 じっくりと観察しても、昨日となにも変わっていない。目覚める気配はない。
 美杜さんの身体はここで眠っているけれど、本当はここにはいない。この身体は抜け殻でしかない。
 その魂は、いったいどこを彷徨っているのだろう。
 どうしたら、還ってきてくれるのだろう。
 寝顔を見つめているうちに、涙が滲んできた。
 美杜さんのいない毎日が、すごく寂しかった。
 この街に引っ越してきて、初めて出会った人。
 まだたった三ヶ月ほどの付き合いなのに、心の中でいちばん大きな位置を占めるようになった人。
 いちばん、大好きな人。
 なのに美杜さんは、私の気持ちも知らずに眠り続けている。まるで、童話の眠り姫のように。
 眠り続けるお姫様は、王子様の口づけで目を覚ますものだ。
 衝動的に、私は美杜さんと唇を重ねていた。柔らかな感触が伝わってくる。
 だけど、もちろんなんの反応もない。美杜さんは目を覚まさない。私は王子様じゃないのだ。
 悲しくて。
 悔しくて。
 涙が頬を伝い落ちた。
 もう一度、今度は少し乱暴に唇を重ねる。美杜さんの唇の間に、強引に舌を割り込ませる。
 唇を重ねたまま、手を、パジャマの中に滑り込ませる。大きな乳房を手のひらで包み込む。
 こんなこと、初めてだった。女子校だから、友達と、服の上から触ったりするくらいのおふざけは珍しくないけれど、直に他人の胸に触れるのは初めてだった。
 美杜さんの胸は柔らかくて、手に吸いつくくらいに滑らかで、ゴムボールのような弾力がある。
 その先端を、指先でつつく。軽くつまむ。そして、眠っている美杜さんの耳元でささやいた。
「美杜さん、起きないと襲っちゃいますよ。いいんですか? うんとエッチなこと、しちゃいますよ?」
 パジャマのボタンを外す。
 ゆっくりと。
 ひとつ。ふたつ。
 艶めかしい、胸の谷間が露わになる。
 それでももちろん、目覚める気配はない。私の声は、美杜さんの耳には届いていないのだろうか。
 涙がこぼれ落ちる。一滴、二滴。
 胸の膨らみの上で弾ける。
「ずるいじゃないですか、私を放って……。私、美杜さんのこと大好きなのに。美杜さんの傍にいたいのに。……美杜さんは、私がいなくても平気なんですね」
 悲しくて、それ以上に悔しくて。
 美杜さんの上に突っ伏すようにして、胸に顔を埋めて私は泣いた。
 私のことなんか、どうでもいいのだろうか。美杜さんは、私よりもあの樹の方が大切なのだろうか。
 好意を持たれていると、思っていた。
 なのに……。
 そうだ。
 美杜さんだって、私のことは好きなはずだ。絶対に、自惚れなんかじゃない。
 私は、やり方を間違えたのだ。
 違う。美杜さんに対する呼びかけは、こうじゃない。
 手の甲で涙をぬぐうと、三たび唇を重ねた。舌を伸ばして、舌先で美杜さんの舌をくすぐる。
 手は、胸への愛撫を再開する。先端の敏感な部分を重点的に、指先で優しく刺激する。
 そんな行為をしばらく続けてから、手を下半身へと移動させた。
 パジャマの中に滑り込ませ、ショーツの上で指を動かす。
 以前、蛇の怪物の事件の時に、美杜さんが私にしたように。
 指を強く押しつけたり。微かに、触れるか触れないかという微妙な位置でくすぐったり。
 自分が同じことをされたら、気持ちよくてエッチな気分になってしまうくらいに。
 もしかしたら、ひどく異常な行為かもしれない。
 同性で、しかも恋人ではない、意識のない相手に、病院のベッドの上でエッチなことをしているのだ。ひとつ間違えば痴漢行為、いや、むしろレイプといってもいい。
 それでも私は、愛撫を続けた。もう、他に思いつくことはなかった。
 パジャマのボタンをもうひとつ外して、全体が露わになった胸にキスをした。唇を押しつける。乳首を口に含んで軽く吸う。
 その間も、指はショーツの上で動かし続ける。
 これが自慰であれば、そろそろ達してしまうくらいの時間、そうしていて。
 そして、不意に愛撫をやめる。
 唇を離し、美杜さんの顔を覗き込んでささやいた。
「気持ち……イイですよね? 目を覚ましてくれたら、続きをしてあげますよ?」



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