原始の姿を遺した深い森に、鈴の音が響く。
美杜さんが踊っている。
紅葉もピークを過ぎた地味な色彩の森の中に、ぽっかりと開いた小さな草原で。
吐く息はもう白い。澄んだ鈴の音が、冷たい空気を震わせる。
美杜さんが踊っている。
長い髪を秋風になびかせ、スカートを翻して。
楽しそうに、嬉しそうに。
その姿に見入っていた私は、遠くで、大きな黒い獣がこちらを見つめているのに気がついた。
羆だ。冬眠を控えた秋の羆は危険なものをされているけれど、不安は感じなかった。
私は確信していた。この地の獣が、美杜さんを襲うはずがない。事実、敵意は感じられない。ただ、興味ありげな顔でこちらを見ているだけだ。
知床の原始の森。遠い昔のアイヌモシリの姿を遺す地。
私は苔むした倒木に腰掛けて、美杜さんを見つめていた。
こうしていることが嬉しくて仕方がない。
美杜さんの踊りを見ているのが好き。
美杜さんと一緒にいることが好き。
涙が出そうなほどに嬉しかった。
あの翌日、美杜さんは何事もなかったかのように目を覚ました。
ちょうどお見舞いに来ていた私の顔を見て、普段と変わらぬ口調で「おはよう」と微笑んだ。
精密検査でもなんの異常も見つからず、すぐ退院することになった。
それから間もない九月の連休に、私の方から美杜さんを旅行に誘ったのだ。
元気づけたかった。
一見、普段と変わらぬように見えるけれど、やっぱりどこか元気がなかったから。
あの公園の傍を通る時、一瞬立ち止まって、寂しそうな表情を浮かべていたから。
そんな美杜さんを、少しでも元気づけたかった。
いろいろと考えて選んだ目的地は、知床半島。自然の多い北海道でも、もっとも豊かな自然が、原初の森が遺っている土地。
こうした場所に来ると、美杜さんは本当に生き生きとしている。この旅行がよほど楽しみだったのか、札幌を出発した時から、すごく嬉しそうだった。
「……ありがとう、幸恵」
踊りを終えた美杜さんが、隣に座る。
うっすらと汗ばんだ身体の温もりが伝わってくる。
「この時期の知床は私も初めて。一度、来てみたかったのよね」
頭を私の肩に乗せて、甘えるように言う。
心拍数が跳ね上がる。体温も、いきなり何度か上昇したように感じる。
最近、ずっとこうだ。
あの病院での一件以来、美杜さんが五十センチ以内に近づくと、平常心ではいられない体質になってしまった。
白い、滑らかな肌。艶めかしい曲線を描く胸のふくらみ。先端の、小さなピンク色の突起。
そうした記憶が一気に甦ってきて、恥ずかしさのあまり死にそうになってしまう。
なのに美杜さんってば私の気持ちも知らず、退院してからというもの、以前よりも頻繁にすり寄ってくるようになっていた。
「誘ってくれて、嬉しかった」
「……美杜さん、こーゆーところ好きかと思って」
どきどき、どきどき。
速い、大きな鼓動。顔が赤くなる。意識していることを気づかれてしまうのではないかと不安になって、そっぽを向いてわざと素っ気なく答えた。
なのに。
「うん、大好き」
美杜さんは私の両頬に手を当てて、強引に自分の方を向かせて、私の理性がとろけてしまうような笑顔で言うのだ。
「そして、あなたのことも大好き」
……反則だ。
こんな、ど真ん中の直球勝負なんて。
「だから……」
腕が回される。身体が密着して、美杜さんの顔が近づいてくる。唇が耳たぶをくすぐる。
心臓が破裂しそうだ。じゃなければ、脳の血管が百本くらいまとめて切れてしまいそう。
「だから……、あの時の続き、してね?」
「――っ!」
驚きのあまり、硬直してしまう。
まさか。
あれを、聞かれていた?
あの時、なにをしていたのか知っている?
あんな変態的な行為を知られていたなんて。
目覚めてから今日まで、なにも言わなかったくせに。
ああ、もう。穴があったら……ううん、自分で穴を掘って、化石になるまで百万年くらい埋まってしまいたい。
私は顔も耳も、紅葉よりも真っ赤になって固まっていた。そこへ、美杜さんの顔が近づいてくる。
「眠っている十八歳の乙女にあんなことをしたんだもの、責任とってくれるよね?」
唇が押しつけられる。体重を預けるようにして、押し倒されてしまう。
りん、りん。
衝撃で、美杜さんの腕の鈴が鳴る。私が暴れても放してはくれず、ただ、鈴の音だけが大きくなる。
しかしその音はやがて、美杜さんの甘い吐息にかき消されていった。
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