※この作品を読む前に、拙作『きばらの森』をお読みくだだくとより楽しめます。
「あの、本当にいいんですか?」
「なんなの、祐巳。さっきから水を差すようなことばかり言って」
「だって」
ほんの少し未来の話、なんて言うから自分たちの今後のことについて語り合ったりするものかと思いきや、行きたい店があるから連れていってと言われて、やって来たのがこの店。
「またしても『生まれて初めて』…なんでしょ? お姉さま」
しつこいと言われようが、祐巳は何度でも確認する。たってのお望みとはいえ、小笠原家のお嬢さまを未開の店にご案内していいものなのかどうか。
いや、お店そのものは未開ではない。どこにでもあるような、比較的新しい本屋さんなのだから。しかし――
「そうよ。生まれて初めて」
「で、ウィンドウ・ショッピングではなく、本当に購入されるおつもりで」
「もちろん? 個人的な買い物はしてもいい、ってあなた言ったじゃない」
「そりゃ、言いましたけれど――」
辞典買うのとボーイズラブ小説買うのは違うと思う。どう違うかって、説明するまでもなく絶対違う。
「お父さまやお母さまに叱られませんか?」
「あら大丈夫よ。お祖父さまは泣くかもしれないけれど」
「じゃ、大丈夫じゃないじゃないですか」
お祖父さん泣かせてまでも読まなければならない代物ではない、ボーイズラブ小説は。
しかし、祥子さまのお祖父さま、そんなことで泣くのか。――いや、普通泣くか。
「お祖父さまの前で読まなければいいでしょ。それに、いくら祖父とはいえ、孫の本棚まで干渉されては困るわ」
「困る、って」
「こういう時じゃないと、来られないもの。私、前から一度ボーイズラブってものを読んでみたかったのよ」
「はぁ」
一度ボーイズラブってものを読んでみたかったのよ、なんて。さすが祥子さま、言うことが違う。読書といえばボーイズラブ、っていう感覚の黄薔薇さまとは大違いだ。
そんなお嬢様を『あっちの世界』に染めてしまっていいものかどうか祐巳が思案しているうちに、祥子さまはさっさと店の中へ入っていった。
「祐巳、ぶつぶつ独り言いっていないで案内してちょうだい」
「は、はい」
祐巳は腹をくくった。ファーストフードを克服したのだから、ボーイズラブ小説だって構わないだろう。――すごく構うような気もするけど。
しかしアニメショップとか言われたら、それだけは断固断ろうと思う。あそこは祐巳だってテリトリー外だ。
「ボーイズラブ小説って、ずいぶんたくさんあるのね」
ゆっくり奥に向かって進みながら、興奮気味に祥子さまがつぶやく。
「でも、黄薔薇さまと令が薔薇の館で読んでいたような本はないわね」
「黄薔薇さまが? どんな本ですか?」
「B5判のカラフルな表紙で、妙に薄い割に値段が高い本よ」
ああ…。心の中で溜息をつきながら、祐巳はうなずいた。
「それは同人誌といいまして、この本屋さんには置いていないんです」
「同人誌?」
祥子さまが聞き返す。さすがお嬢様、きっとコミケなんてご存じないのだろう。
「主にアマチュアの方たちが作る、自主制作の本のことです。週末とかに、同人誌即売会という催しが開かれていまして、そこに自分たちが作った本を持ち寄って売るんですよ。もっとも最近は、同人誌を扱う専門のショップも増えてますけど」
どうしてこんなこと説明しなければならないのだろう。
「そう、ここにはないのね。それでもいいわ、それでなくてもこんなにたくさんの本があるんですもの」
祥子さまはその品揃えの多さに怯んでいた。それもそのはず、その店は奥のスペースがすべてボーイズラブもので占められていて生半可な量じゃない。
「これだけある中で、どうやって自分が欲しい本を見つけられるの? …私、自信がなくなってきたわ」
平積みならともかく、ビニール袋に入って棚に並んでいれば、なおさらわからない。
不安げに、祥子さまは辺りを見回した。
(まずい)
祐巳は気付いた。祥子さまは落ち込みかけている。別にボーイズラブ小説がうまく買えなかったからといって、今後の人生に響くわけではないが。だけど、落ち込んでいる祥子さまなんて見たくない。
「しっかりしてください、お姉さま。私がついていますから」
祐巳は祥子さまの両手を自分の両手で握って、励ました。ここは妹の自分がなんとかしましょう、と。
「…祐巳」
手を握られたまま、祥子さまが縋るように祐巳を見る。間近で見つめ合ってなんだかいい雰囲気…って、ボーイズラブコーナーの棚の前ではムードに浸ることもできない。
「ここにはたくさんありますけど、コミックも並んでいます。今日の目的は小説ですから、コミックの棚は見なくていいです」
手を引いて、小説のコーナーへ連れていく。
「ここが、小説?」
「はい。これで品物が半分になりました」
それを聞いて、祥子さまは少しほっとしたような顔をした。よかった。さっきは、乗り物酔いした人みたいな顔色してたから。
「で、好きなジャンルや作家を選んで、適当に面白そうなものを買えばいいんです」
「好きなジャンル…?」
「えっと。リーマンものとか、高校生とか、あるいは年下攻めとかアー×スコ(笑)とか。簡単にいうと、そういうことです」
詳しく説明すると日が暮れてしまいそうだから、全部省略。初心者にあまりたくさん言うと、頭が爆発しちゃうだろうから。
「祐巳の…」
「は?」
「祐巳の弟さん…祐麒さんっていったわね。あんな男の子が出てくる話がいいわ」
あろうことか祥子さま、祐巳の身内を引き合いに出して言った。
「アレですか?」
「そう。黄薔薇さまが読んでいた同人誌の表紙に、祐麒さん似の男の子が描かれていたの。それを見て、ボーイズラブを読んでみようと思ったんだもの」
「え〜っ!」
思わず声が出た。黄薔薇さまが怪しげな本を作って、令さまと一緒にコミケで売っていたのは知っているが、それが祥子さまの目にとまっていたなんて。
「お姉さまだったら、耽美系とか似合いそうなのに」
ぶつくさ言いながら、でも悪い気はしない。これで大人っぽい美形がいいなんて言われたら、思い出したくもない「彼」の顔が浮かんでくる。それならまだ、タヌキ顔の祐麒の方がマシだ。祐巳は棚から、祥子さまが読んでも平気そうな、比較的ソフトなショタ系の作品を何冊か抜き出した。
「祐巳」
両手に本を抱えてレジに並んでいる祥子さまが、明るく言った。
「はい」
「喫茶店の前に、行きたい場所ができたんだけれど、いい?」
「はあ」
何か、嫌な予感がした。しかし、だめなんて言えない。ここまできたら、どこまでもまで付き合うのみ。
「いいですよ。…で、どちらに?」
予想っていうのは外れることもあるから、一応聞いてみる。
しかし、残念ながら的中してしまった。
「同人誌即売会って、この近くでもやっているの?」
まだ会計も済ませていないのに、祥子さまの頭の中はすでに違う場所にワープしていた。
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