翌日の放課後になると、聖美は昨夜の行為を心底後悔していた。
昨夜の――凉子のことを考えながら、凉子をオカズにしての激しい自慰行為。
しかも、それがものすごく気持ちよかった。
何度も何度も達してしまった。
その翌日に、凉子と二人きりの稽古を平常心で行えるわけがない。
罪悪感と羞恥心で、目を合わせることすらできなかった。間近で凉子の体温を感じるだけで、昨夜の感覚が甦ってきてしまう。
いつも以上にぎこちない動き。凉子が不審に思うのは当然だった。
「あのさぁ……、間違ってたら謝るけど、アンタ、その……ひょっとして……」
珍しく歯切れの悪い口調で言う。
戸惑ったような、困ったような表情で。
「あたしの勘違いかもしれないけどさ、アンタ、ひょっとして…………その、いわゆる……同性が好きな人? 組んだ相手のことを、ヘンな意味で意識してない?」
びくっ!
全身が強張る。
バレてしまった。
見抜かれてしまった。
いきなり核心を衝かれて、平静を装うこともできなかった。誤魔化しようのない、明らかな動揺が顔に出てしまう。
ぎこちない動きで、それでも凉子に顔を向ける。
驚きと戸惑いの表情が目に入る。
嫌悪感の入り混じった、蔑むような瞳。実際に凉子がそんな目をしていたのかどうかは定かではないが、聖美の目にはそう映った。
痛い。
凉子の視線が痛い。
「ご……ごめんなさいっ!」
いたたまれず、聖美は柔道場から逃げ出した。
どうしよう。
どうしよう。
知られてしまった。
気づかれてしまった。
他人に知られてはいけなかった事実。
隠し続けておかなければならなかった感情。
抱いてはいけなかった想い。
すべて、知られてしまった。
もう、凉子の前には出られない。
もう、ここにはいられない。
どうしたらいいのだろう。
どうしたらいいのだろう。
答えは出ない。
どうしたらいいのだろう。
ただ、その言葉が頭の中でこだまし続けている。
翌日は学校を休み、部活にも顔を出さなかった。
その次の日から学校には登校したが、部活は休んだ。
凉子と顔を合わせられないのだから、部活に行けるわけがない。
授業が終わると、逃げるように寄宿舎に戻る。そんな生活が数日間続いたが、しかし五日目の放課後、同様に急いで帰ろうとしたところを凉子に捕まってしまった。
有無を言わせず、人目のない場所へ引っ張っていかれる。ひどく怒っている様子だ。
「どうして部活に出てこないんだ?」
腕を組んで、怖い目をして言う。
「え……あの、それは……」
「……この前のことは悪かったよ。別に、好きになる相手が同性だろうが異性だろうが、それは個人の自由だもんな。ただ、ちょっとびっくりして……」
そう言う凉子の表情は、しかしいくぶん引きつっている。
「……いえ、私が悪いんです」
「で、やめるのか?」
「……」
その質問には即答できなかった。
ずっと、悩んでいた。
頭の中でぐるぐると回り続けている命題。
知られた以上、もう凉子の傍にはいられない。
――そう思っていたはずなのに。
それでもやっぱり、傍にいたい。
柔道もやめたくない。
そんな想いがつきまとう。
「……あのことなら、誰にも言わないよ。うん、プライバシーは守る」
「いえ、そうじゃなくて……」
一番の問題は、知られたことではない。
凉子の、あの目。
異質なものを見る目。
それは一番好きな人に、自分を否定された瞬間。
だから、凉子の傍にはいられない。辛すぎる。
だけど、やっぱり好き。
傍にいたい。
相反する想い。答えが出せない。
凉子はしばらく無言でこちらの様子をうかがっていたが、やがてゆっくりと、やや躊躇いがちに口を開いた。
「……ン、と……これって考え過ぎっていうか、自意識過剰なのかもしれないけど…………アンタ、ひょっとして……あたしのことが好きなのか?」
「――っ」
息を呑む。一瞬、動きが止まる。
隠そうとしても、動揺がはっきりと顔に出てしまう。
「……あ、あの……それは…………、ごめんなさいっ!」
また走って逃げ出そうとしたが、しかし一瞬早く掴まえられてしまった。身のこなしの素早さには自信があるが、軽量級の凉子にはさすがにかなわない。
寝技の名手に相応しく、小さな手なのに握力は強い。制服の襟を掴んだ手を振りほどくことはできなかった。
「どうなンだ? はっきり言いな」
至近距離で凄まれる。
これでは逆らえない。嘘はつけない。
「……中学の頃からずっと、憧れてました。カッコよくて、強くて…………一緒に柔道するようになって……もっともっと惹かれるようになってしまったんです! ……好きです!」
「ふむ……」
一大決心をしての告白に、凉子はやや困惑したような表情でうなずいた。
「あたしは別に、同性愛の趣味はないんだけど……ま、愛の告白されるのって悪い気はしないもんだな。……でも」
凉子の視線が聖美を捉える。
「性別云々以前の問題として、今のアンタは好みのタイプじゃないな」
「……そう……ですよね」
予想していた言葉。それでも落ち込まないと言ったら嘘になる。
「あたしはね、強くてカッコイイ人が好みなんだ。例えば、現役時代の古賀稔彦とか吉田秀彦とか。佐伯も強いけど、今のアンタは……そのおどおどとした態度、全然カッコよくない」
きっぱりと言いきる凉子の唇の端に、どことなく挑発的な笑みが浮かんだ。
「……なあ、本気なのか?」
「え?」
「本気で、あたしのことが好きなのか?」
「…………好き、です」
「だったら、今度の大会でかっこいいところ見せてみろよ。性別の壁を越えて、あたしが思わず惚れてしまうくらいカッコイイところを、な。稽古には出てこい。逃げるなよ」
挑発するような口調ではあるが、しかし、激励しているように聞こえなくもない。
「え……あの……」
「可能性は、ゼロではないってこと。ま、アンタ次第だけどな」
それって……。
少しは希望を抱いてもいいということだろうか。
だけど、どうして?
ひとつ、わからないことがある。
「どうしてですか?」
「ん?」
「どうして、私のところへ来たんですか? どうして柔道部に戻そうとするんですか?」
「アンタは、柔道部の戦力になる。実力をきちんと出せれば、ね。それがひとつ」
「ひとつ? 他にも?」
訊ねると、今度は凉子は少し間を置いてから口を開いた。
「…………あたしは、柔道が好きだから」
「え?」
「だから、わかる。アンタも心底柔道が好きなんだって。なのに、柔道とは直接関係のない理由で柔道をやめるなんて、納得できるのか? あたしなら納得できない」
それはそうだ。
部活に出ないのは凉子と顔を合わせるのが辛いからであって、柔道をしたくないからではない。
こんなことになっても、やっぱり柔道は好きだった。
「それに……ね」
人差し指を立てて凉子が言う。
「アンタのこと、嫌いじゃないよ……部活の後輩って意味ではね。だから」
それはもしかしたら、単に次の団体戦で好成績を収めたいがための方便かもしれない。しかし、わずかでも希望があるならば、聖美としてはそれにすがるしかない。
金鷲旗まであと1ヶ月、好成績を残すための練習時間はけっして十分とはいえない。
「……金鷲旗まで、また稽古をつけてくれますか?」
「もちろん。でも、ちょっとでも腑抜けたところを見せたら蹴飛ばすぞ?」
やっぱり素敵な人だな、と思う。
もっともっと好きになってしまいそうだった。
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