月羽根の少女 〜炎のたからもの〜
 〜 1 〜


 最後に見たものは、天使だった――

 その時、私は死にかけていた。
 …少なくとも、本人はそのつもりだった。疲労困憊して身体を動かすこともできず、空腹はとうの昔に限界を超えている。
 だから、天使だと思った。
 どうやら、お迎えが来たらしい、と。
 天使は大きな純白の翼を広げ、丸い月をバックにして、夜空を滑るように飛んでいた。
 綺麗な翼。それは、夜空に浮かぶ宝石のよう。
 月の光を受けて、真珠色の光沢をまとっている。
 天使は、十代前半の女の子の姿をしていた。
 私は小さく微笑んだ。疲れきっていたから、実際に口が動いたかどうかはよくわからない。
 それにしてもおかしな話だ。
 私は別に、クリスチャンってわけではないのに。
 首に掛かっている十字架は、いまでは単なるアクセサリだ。昔通っていた幼稚園が、たまたまカトリック系だったというだけの話。そもそも、家は浄土真宗だし。
 …ああ、そうか。
 あいつの家は、クリスチャンだったっけ。
 迎えに来て、くれたのかな?
 そう思うと、なんだか幸せだった。
 深く息を吸い込むと、草の匂いがする。
 倒れる直前は意識が朦朧としていたから、自分がどこを歩いていたのかも定かではない。確かなのは、定山渓から奏珠別まで続く山々のどこかだということ。
 私は、草むらの中に倒れている。
 森の樹々は、このあたりではややまばらになっていて、空がよく見えた。
 ちょうど視界に大きな月が映っていて、その前を横切るように飛ぶ天使の姿があった。
 もう、動けない。
 このまま、死んでしまえばいい。
 このまま、眠るようにして。
 この大地の、この森の一部になってしまいたい。
 死ぬことに対する恐怖は、まったく感じなかった。
 むしろ、安堵。
 もう泣かなくてもいい。
 もう苦しまなくてもいい。
 こんな、胸が締めつけられるような思いをしなくてもいい。
 それは、私にとって唯一の救い。
 悲しみよさようなら。
 そして私は望み通り、眠るように意識を失った。



 しかし人間というものは、そう簡単には死なないらしい。
 それも、死にたいときに限って。
 死を望まない人間は、時としてあっけないくらい簡単に死んでしまうというのに。
 どれくらい時間が過ぎたのかはよくわからないが、私はまた目を覚ました。
 残念ながら、死ぬことはできなかった。
 目を開けると…
 天使がいた。
 仰向けに倒れている私の顔を、間近から覗き込んでいる。
 先刻、空を飛んでいた天使だ――と思った。
 それが勘違いだと気付くまでには、何秒かの時間を必要とした。
 普通の、女の子だ。
 背中に羽根なんてないし、普通の人間の服を着て、手には某大手スーパーの袋を抱えている。
 見たところ、私よりいくつか年下のようだ。中学生くらいだろうか。
 倒れている私の傍らにしゃがんで、不思議そうに見おろしている。
「…どうして、こんなところで寝ているんですか?」
 女の子が聞いた。ややあどけなさを感じる声だった。
「別に、寝てるわけじゃ…」
 私は仰向けになったまま、小さな声で応えた。大声を出すほどの元気はない。
「具合が悪いんですか? 大丈夫? 救急車を…」
 ポケットから携帯電話を取り出そうとしている。慌てているせいで、ストラップが引っかかってあたふたしているが。
「いいよ。大丈夫だから…」
 私は言った。救急車なんか呼ばれて、騒ぎになるのはごめんだ。
 できれば放っておいて欲しい。しかし、どうもそういうわけにはいかないようだ。
「でも…」
「疲れて…、お腹が空いて動けないだけ」
 仕方なく、本当のことを言った。
 女の子は一瞬驚いたような――そしていくらか呆れたような――表情を浮かべた。それから、手に持っていたスーパーの袋をがさごそと漁る。
「はい、どうぞ」
 そう言って差し出したのは、ペットボトルに入ったスポーツドリンクと、ケーキの箱。
 私は相手の顔をちらと見て、
「…いらない」
 ぶっきらぼうに断った。
「でも…」
「いいから、放っといてよ」
 いらぬお節介だ。私は一人になりたいのに。
「それじゃあ、やっぱり救急車ですね」
 また、携帯電話を手に取る。
「いいよ。やめてって言ってるっしょ」
「救急車がイヤなら、食べてくださいね」
 この子ってば、親切そうなふりして私のこと脅迫してるんじゃない?
 私はなんとか上体を起こすと、女の子の顔を睨みつけた。向こうは意に介さず、にこにこと微笑んでいる。
 どうやら本気みたいだ。救急車に乗るか、差し出されたケーキを食べるか。どちらかを選ぶしかないらしい。
「…わかったよ。お節介め」
 仕方なく、私はケーキとスポーツドリンクを受け取った。
 それは、チョコレートケーキとアップルパイだった。
 悔しいけれど、美味しかった。
 食べて少し休憩すると、身体にいくらか力が戻ってきた。これなら、もう少しは動けそうだ。
 女の子はその間ずっと、隣で私のことを見ていた。空になった箱とペットボトルを、ちゃんと袋にしまってから聞いてくる。
「歩けますか? あたしの家、すぐそこなんだけど…。よかったら、もっとちゃんとしたご飯もありますよ?」
 すぐそこ…? そんな馬鹿な。
 そう思って周囲をよくよく見ると、今いるのは登山道の入口からすぐの所だった。私はどうやら、ゴール直前で倒れていたらしい。もっと山の中だと思っていたのに。少しばかり歩きすぎたようだ。
 すぐそこは奏珠別の街外れにある公園で、十分も歩けば住宅地に出る。
「…歩けますか?」
 心配そうな顔につられて、ついうなずいてしまう。
 どうやら向こうは、私を残して立ち去る気はまるでないようだ。
「今夜は家にあたし一人だから、気を使わなくてもいいですよ」
 そう言って立ち上がると、私の手を取った。
 この子にとっては、私を家に連れていくことは決定事項らしい。しっかりと手をつないでいるのは、私が逃げないようにという配慮だろうか。
 どうやら、この子の家で晩ごはんを食べることになりそうだ。
 でも――
 家に帰るよりはマシかもしれない。
「あたし、さおりです。月城さおり。白岩中の二年生」
 歩き出してすぐに、女の子は自己紹介した。
 こんな、月のきれいな夜に出会った相手の名前が月城とは、奇妙な偶然だ。
「…東野美里。高等部の三年」
 向こうが名乗った以上、私も黙っているわけにはいかない。最小限のことだけを言う。
「うちの学校の先輩だったんですね。あたしのママも、みさとっていうんですよ。偶然ですね〜」
 無邪気な、あるいは無防備なといってもいいような笑顔を浮かべている。
 この頃になってようやく、その女の子――さおりを観察する余裕が出てきた。
 背はやや小柄、百五十センチくらい。肌は白くて、手足も細い。
 その割にあまりひ弱な印象を受けないのは、元気な笑顔のためだろうか。無防備なその笑顔は、やや天然ボケ入っているように見えなくもなかったが、まあ可愛いといえるだろう。
 やや茶色がかったセミロングのストレートヘアは、脱色しているのではなくて元々こういう色らしい。サラサラ、ふわふわとした柔らかそうな髪で、ちょっとだけ、触ってみたいと思った。



 ビーフシチューにつられて、というのは理由にならないだろうか。
 実をいうと、さおりについていくことにした一番の理由は、晩ごはんのメニューがビーフシチューだから、だった。
 好物なのだ。
 奏珠別公園からすぐのところにある家に着くと、さおりはてきぱきと晩ごはんの仕度をはじめた。キッチンで忙しく動き回りながら、ときどき私の方を振り返る。
「…どうして、あんな所に倒れてたんですか?」
「ん…ああ。別に、なんでもない」
 居間のソファに座ってぼんやりとしていた私は、曖昧な返事をした。
「別にって、そんな…」
「…奏珠別から定山渓まで、飲まず食わずで縦走できるかどうか試してたんだ」
 ガチャッ! と、キッチンから大きな音が聞こえた。なにやら、さおりが手を滑らせたらしい。
「ここから定山渓まで…往復ですか? 飲まず食わずで? 何十キロあると思ってるんです。死にますよ、普通」
 鍋を手に持ったまま、わざわざ居間まで来て言った。
「死にやしないさ。普通なら」
 かなり苦しい行程なのは事実だけど。きっといいダイエットになるだろう。もっとも、もともと余分な脂肪が少ない上に、ここしばらく食事も睡眠もろくにとっていない私には少々辛かったが。
「山登り、好きなんですか?」
 またキッチンへ戻ったさおりが聞いてくる。
「ああ。好きだったね、昔から」
 小さい頃から山の麓に住んでいたから。毎日、近所の男の子たちと野山を駆け回っていた。
 山はいい。
 自然の中にいると、心が落ちつく。
 風に揺れる葉擦れの音。鳥のさえずり。沢を流れ落ちる水音。
 心が、空気に溶けこんでいくように感じる。溶けた心は風に乗って、森全体に広がっていく。
 身体と、精神のすべてが、自然と一体化する感覚。それがたまらなく好きだった。



 お腹が膨れると、なんだか眠くなってきた。
 ビーフシチューとチキンピラフ。イカと海草のシーフードサラダ。
 それが、晩ごはんのメニューだった。
 美味しかった。もちろん空腹だったせいもあるだろうけれど。それを差し引いても、中学生の料理としては見事なものだろう。
 そう言ってやると、さおりは「えへへ…」と嬉しそうに微笑んだ。屈託のない笑顔だ。
 それにしても、私はここで何をしているんだろう。
 食事の後、ソファに座ってぼんやりと考える。さおりは、食器を洗っている。
 なんだかよくわからないうちにここに連れてこられて、晩ごはんをご馳走になっている。数時間前には考えもしなかったことだ。
 そして遺憾ながら、ごはんは美味しかったし、こうしてのんびりとくつろいでいることも心地良かった。
 私は特に何をするでもなく、ぼんやりとしていた。背後から、食器を洗う水音が絶え間なく聞こえている。
 ふと、本棚が目に入った。居間に本棚、というのはちょっと意外な気もするが、まあ他人の家のインテリアに文句を付ける気もない。
 なにげなく背表紙を眺める。どうやら、ティーン向けの文庫が中心らしい。さおりの趣味だろうか。
 どんな作家が好きなのかな…。そう思って見てみると、並んでいる本の多くが同じ作家のものだった。
「月城…みさと?」
 さおりと同じ姓。私と同じ名前。
 そういえば先刻「あたしのママも、みさとっていうんですよ」って言っていた。
「さおりの、母親…?」
 へぇ…。さおりのお母さんって、小説家なんだ。
 適当に一冊、手に取ってみた。またソファに座ってページを繰る。
 それは、妖精の少女が主人公のファンタジー。こういう話は嫌いじゃない。
 しかし読んでいるうちに、疲れのためにだんだん眠くなってきた。



 いつの間にか、眠っていたらしい。
 それほど長い時間ではないが、久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠っていたようだ。
 目が覚めると、ソファで寝ている私の上に、毛布が掛けられていた。
 そして傍らにさおりが座って…クッションにもたれて静かに寝息を立てている。
 居間の蛍光灯はついていないが、今夜は月が明るく、室内はぼんやりと白く照らされていた。壁に掛けられた時計を見ると、もう真夜中過ぎだ。
 私は起きあがる。
 さおりを見ると、気持ちよさそうに眠っている。可愛らしい、無防備な寝顔だ。
 起こすのも悪い気がして、このまま帰ることにした。一言、メモでも残しておけばいいだろう。
 自分に掛けられていた毛布を、今度はさおりに掛けてやろうとする。
 その時に、ふと思い出した。
 あの時、意識を失う直前に見た、月をバックに飛ぶ天使の姿を。
 さおりに似ていた気がする。
 幻覚だったのだろうか。まあ、そうだろう。きっと、意識を失った後に見た夢と混同しているのだ。
 だけどなんとなく、さおりの背中に手を伸ばしてみた。
 起こさないように気をつけて、そっと、背中に触れる。
 滑らかな曲線を描く背中。もちろん、そこに羽根が生えている形跡なんてあるはずもない。
 当たり前だ。私はいったい何を考えているのだろう。
 自分のしていることが可笑しくて、口元をほころばせながら、さおりに毛布を掛けてやった。


 明日は、満月だろうか。
 外に出ると、真円に近い月が空のいちばん高いところにあって、白い柔らかな光が夜の住宅街を静かに照らしていた。
 ひんやりとした空気。
 八月でも、さすがに夜中になると風は涼しくて気持ちがいい。
 家に帰ると、こんな時刻だというのに親は起きていて、遅くなったことを少し咎められた。
 いくらか鬱陶しく感じながらも、それも仕方のないことだと思う。
 きっと、心配していたのだろう。
 …あんなことがあったばかりなのだから。



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