〜 2 〜


 私は、道に迷っていた――

 翌日の午後のことだ。
 昨日一度歩いただけの道だし、それも夜だったから、すぐには見つからなくても仕方のないことだろう。曖昧な記憶を頼りに住宅地を歩き回る。
 暑い真夏の午後ということで、屋外に人の姿はほとんどない。山の方から響いてくるセミの声だけが、熱い空気を満たしている。
 探している家がなかなか見つからなくて、私はだんだん不安になってきていた。
 不安、というのも変な言い方だが、その時なにを考えていたかというと、実は、民話などに出てくる「迷い家」のことだった。
 一夜明けてみると、昨夜の出来事にいまいち現実感がなくて、だから、もしかしてすべては幻だったのではないか、とか。まあ、そんな馬鹿なことを考えていたというわけだ。
 だから、やがて見覚えのある家と「月城」と書かれた表札を見つけたときは、思わず安堵の息をもらした。
 玄関の前で小さく深呼吸して、呼び鈴を鳴らす。
 …応答はない。
 もう一度。
 …留守なのだろうか。
 諦めて立ち去ろうかと思ったとき、インターフォンから眠そうな女の子の声が聞こえてきた。
『ふぁい…、どなたぁ?』
 寝起きと思しき様子だが、間違いなく昨夜の女の子、さおりの声だ。
「あ、あの…。東野、だけど…」
『えっ?』
 さおりは一瞬、大きな声を出した。
『あ、はいはい! いま行きます!』
 最後の「す」の発音と同時にインターフォンが切れると、ドタドタと階段を駆け降りるような(実際その通りなのだろう)音が響いてくる。
 その音がすぐ目の前で止まった。ガチャガチャと鍵を開ける音がして、扉が開く。
「美里さん!」
 さおりが、嬉しそうに笑っていた。その髪に寝ぐせがあることを、私は見逃さなかったが。
「あ…これ。昨日のお礼」
 私は、来る途中に買ってきたケーキの箱を差し出した。
「え? あ、ありがとうございます」
 にっこりと笑ってケーキを受け取ったさおりだったが、すぐにぷぅっとふくれてみせる。
「ひどいじゃないですか。黙って帰っちゃうなんて」
「ごめんごめん。あんまり気持ちよさそうに寝てたから、さ。起こすのも悪いかなって」
「…とにかく、上がってお茶でも飲んでってくださいよ」
 さおりは私の手をつかんで、否応もなしに家に引っ張り込んだ。
「私が来たとき、何してたの?」
 私を居間のソファに座らせ、キッチンで飲み物の用意をしているさおりに向かって聞いてみた。
 もちろん質問の答えはわかっている。ちょっと悪戯心を起こして、からかってみただけだ。
 案の定、さおりは一瞬言葉に詰まり、ゆっくりと、考えながら応える。
「…夏休みの宿題」
「な〜んて。寝てたくせに」
「ど、どうしてわかるんですか?」
「あんな寝ぼけた声出して、どうしてわからないと思うの?」
 私は思わず吹きだした。さおりは真っ赤になって、唇を尖らせている。
「宿題をやろうと思ってたのはホントですよぉ。ただ、ノートを開いたら、とたんに眠くなって…」
「何やってたの?」
「数学と…理科」
「手伝ってあげようか?」
 アイスコーヒーのグラスを受け取りながら、私は言った。


 つまり、私は理系科目が得意なのだ。
 それから夕方までさおりの宿題に専念して、だいたい目途がついたところでさおりが聞いてきた。
「夕食、食べていきますよね?」
「え? ああ、もうそんな時間。…迷惑じゃない?」
「全然」
 さおりは首を振った。
「一人よりも二人の方がごはんも美味しいし。なにか、食べたいものあります?」
「別に、なんでもいいよ」
 ご馳走になるのに、メニューに注文を付けるほど厚かましくはない。それに、食べ物の好き嫌いはほとんどないし。
「好きなもの言ってください。あたし、こう見えても料理は得意だから」
「…じゃあ、銀鮭のムニエルと、シジミの味噌汁」
「いいですね。じゃあ、行きましょ」
 さおりが立ち上がる。
「行くって、どこへ?」
「買い物。そこのスーパーまで」
「だったら、私が行ってくるよ。待ってて」
 さおりを制して、私も立ち上がった。作ってもらうんだから、買い物くらいは私が行かなきゃ申し訳ない。
 しかしさおりは、玄関に向かおうとした私の腕をつかまえて、にこっと笑った。
「一緒に行こ?」
 その無邪気な笑顔に、私は思わずうなずいていた。



 昼間から、いや昨日からずっと気になっていることがあったので、食事中に思い切って聞いてみた。
 つまり、さおりの家族のことだ。とりあえず母親が作家だというところまではわかっているが、昨日も今日も、家にはさおり一人きりなのはどうしたわけだろう。
 どうやら、兄弟はいないらしいし。
「ママは今、取材旅行なんですよ」
「へぇ…、さすがは作家だね。じゃあ、お父さんは?」
「え? え〜と、うちは母子家庭でして…」
「あ…ご、ごめん! 変なこと聞いちゃって」
 答えを知っていれば、こんな無神経なこと聞かなかった。迂闊だったかもしれない。家の中をよく観察していれば予想できたことだった。言われてみれば、男くささがまるで感じられない家なのに。
 なんだか申し訳なくて、私は小さくなっていた。しかし、
「気にしなくていいんですよ」
 さおりは屈託なく笑う。
「あたしが生まれる前に、もう離婚してたらしいですから。だから、小さい頃からずっとこう」
「…寂しくない?」
 気付いたときには、聞いてしまっていた。しかしこれも、無神経な質問だったかもしれない。
「どうかなぁ。パパがいないのも、ママが留守がちなのも、あたしにとっては当たり前のことだから、よくわかんない」
 そう言うさおりの表情には、とくに寂しげな様子もない。
 だけど…
「あ、でもね。…誰かが一緒に夕食を食べてくれるのは、好き」
 その言葉で、私は一瞬、胸がきゅっと締めつけられるような感じがした。
 この子は別に、寂しくないわけではないのだ。
 ただ、それが当たり前で。
 だから、その感情が「寂しさ」であることに気付いていないんじゃないだろうか。
 彼女の不自然なまでの人懐っこさは、人とのスキンシップを求める無意識の行動なのではないか。
 不意に、涙が溢れそうになったけれど。さおりは相変わらず笑顔を見せているので、私は必死にそれを堪えていた。


 私にとっては少し気まずい食卓だったけれど、さおりは楽しそうだった。
 本当は、夕食後に宿題の残りを片付けるつもりでいたのだけど、お腹が膨れると、さおりも私もすっかり勉強なんかする気分ではなくなっていた。
「…ゲームでもします?」
 テレビに接続されたゲーム機の電源を入れ、流行のダンスゲームのCD―ROMをセットする。もちろん、マット状の専用コントローラーもつながっている。
 それにしても、私ってば何をやってるんだろう。
 さおりと遊んでいるのは楽しい。それは事実だ。
 こうしていれば、嫌なことを忘れていられるから。
 だけど…



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 1999 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.