〜3〜


 今日も、いい天気だ――

 私は、当てもなく街を歩いていた。
 なんとなく家にいたくなかったから。ただそれだけの理由で外へ出た。
 別に今日に限ったことじゃない。今年の夏は、何も予定がない。
 ただ、惰性で生きているだけ。
 …どうして、生きてるんだろう。本当なら、二日前に死んでいた筈だったのに。
 …………
 まずい…な。
 また、危ない精神状態になりつつある…みたい。
 それが自分で分かっているのに。どうすることもできない。
 どうすることも…?
 いいや、違う。ひとつだけ、方法がある。
 だけど…


「美里さ〜ん!」
 私を呼ぶ声が聞こえた。その声で、私の精神は現実に引き戻される。
 通りの向こうで、さおりが手を振っていた。
 小さく手を上げてそれに応えると、元気一杯にこちらへ走ってくる。
「えへへ〜、ちょうどいいところで会えた!」
「なに?」
「あたし、買い物に行くところなんですけど…、一緒に行きませんか?」
「…まあ、特に予定はないけど」
「美里さんって力ありそうだから、ちょうどいいなぁって」
「私は荷物持ちかいっ?」
 私はわざと怒った素振りを見せたが、さおりは少しも悪びれずに、
「今晩もまた、好きなもの作ってあげますから」
 と言ってくすくす笑う。
 その笑顔を見ていて、わかったような気がした。
 荷物持ち、というのは言い訳なのだ。私を食事に招待するための。ひどく遠回しに「今夜もごはん食べに来こない?」と言っているのだろう。
 勝手な思い込みかもしれないけれど、私はそう信じることにした。



 買い物…というか、これが男女のカップルだったら、まるでデートみたいだったかもしれない。
 特に用もない店を適当に見て回ったり、喫茶店でお茶したり、ゲーセンで遊んだり…。
 ちょっとした気まぐれで安物の指輪を買ってあげたら、すごく喜んでいた。
 その見返りとして、夕食はサーロインステーキにポタージュという約束を取り付けたのだから、まあ私にとっても損な話ではない。
 それに、さおりの嬉しそうな顔を見ていると、こっちまでなんだか楽しくなってくる。
 そう、私は確かに楽しんでいた。さおりと一緒にいることを。
 そのことに驚きと、不安――それとも恐怖――を感じていた。
 さおりと一緒にいることが楽しければ楽しいほど、胸の奥が痛い。
 どうして、私なんだろう。
 やや強引に私の手を引くようにして歩くさおりを見ながら考えていた。
 何故、彼女が私につきまとうのか。
 母親が留守で、家に一人きりで寂しかったから? それはおかしい。
 この容姿と人懐っこい性格なら、きっと友達は多いだろう。昨日今日知り合ったばかりの私にこだわる理由はない。
 理由はむしろ、私の側にあった。
 もしかしたら、私のためなのかもしれない。ふと、そんなことを考える。
 寂しいのは、さおりではなくて私の方だ。
 彼女はそれに気付いているのかもしれない。それで、私に付き合ってくれているのかもしれない…と。



 夜の公園は、人気がなくてしんとしている。といっても、人間が発する物音がないというだけ。キリギリスやエンマコオロギ、ウマオイといった虫達は盛んに鳴いているし、水銀灯の周りを飛び交う大きな蛾が、時々ぶつかって軽い音を立てたりもしている。
 もう夜も更けていて、日中の暑さが嘘のように涼しい。
 夕食の後、さおりが「散歩に行こう」と言い出して、ここへやってきた。
 一昨日の夜、さおりと初めて会ったところ。
 街の外れにある奏珠別公園の展望台。少し山を登ったところにあるので、街の風景を見渡すことができるのだが、昼間でもそれほど人の多くないところだ。だから、夜にやってくる物好きなんてそうそういない。
 月が出ていた。
 大きな、丸い月。多分、今日が十六夜。
「きれいな月…」
 さおりは、まるで月に引き寄せられてでもいるかのように、公園の柵から身を乗り出している。
「ね、美里さん」
「ん?」
「空を飛べたらいいなって、思いません?」
「え?」
 私が聞き返すと、普段のさおりからは想像できないような身軽な動作で、ひょいと柵の上に立った。
 こちらに背を向けて、月を見上げるようにして両手を広げている。
「こんなにきれいな月の光の中、空の散歩ができたら素敵じゃないですか」
 …目の錯覚だろうか。
 一瞬、さおりの背中に翼が見えたような気がした。
 朱鷺か白鷺のような純白の、大きな翼。
 月の光を浴びて、真珠色の輝きをまとっていた。
 私は驚いて、目を瞬く。
 そうしたら、翼なんてどこにも見えなくなった。
 気のせいだ。ちょうど月とさおりの身体が重なったために、光の加減でそんな風に見えたらしい。
「…美里さん?」
 私がぼうっとして返事をしないのを訝しんで、さおりがくるりと振り返る。
 平均台よりも細い柵の上で器用なことだ。バランスを崩さずにただ立っているだけでも難しいだろうに。まるで重力を無視しているかのように、軽やかに立っている。
「…あ…え〜と…、危ないよ。そんなところに立ってたら」
 いま気付いたが、柵の向こうは急な斜面になっている。落ちたら死にはしないまでも、骨折くらいはするかもしれない。
「大丈夫」
 さおりは笑いながら、柵の上でぴょんぴょんと飛び跳ねてみせる。
「あたし、こ〜ゆ〜の得意なんです」
「さおり! 危ないから!」
 突然、言い様のない不安に襲われた。さおりの腕をつかんで強引に引きずり下ろす。慌てていたので、つい力を入れすぎてしまった。
「や…痛い」
 さおりが顔をしかめる。
「あ…ごめん」
 慌てて手を離した。
「も〜、乱暴なんだから〜」
「…ごめん」
「あたし、こう見えてもけっこう運動神経いいんですよ?」
 その言葉に、ぎゅっと心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。
 …いつだったか、あいつも同じことを言っていた。
 胸が苦しくて、立っていられなくなる。私はベンチに腰を下ろした。
「…美里さん?」
 私の様子が普通ではないのに気付いて、さおりが首を傾げる。
「さおりって、さ…」
 ベンチに座って俯いたまま、私は聞いた。
「恋人とか、いる?」
「え…?」
 驚いたような声を上げる。顔を見ると、頬が真っ赤になっていた。
「…まだ…いません…けど?」
「そう…」
 ほんの少し、口元がほころんだ。こんなことで赤くなる、さおりの純情さが可笑しくて。
「私ね、好きな人がいたんだ…」
「え?」
 私は、話し始めた。
 どうしてそんな気持ちになったのかはよくわからないけれど。誰かに聞いてほしかった。
 …いいや、違う。誰かに、じゃない。さおりに聞いてほしかったんだ。


 初めて会ったのは、中学のときだった。
 なんとなく気が合って仲良くなり、ずっと親しく付き合っていた。
 私と同じく山歩きが好きで、よく、一緒に山へ行っていた。
 大好きだった。
 一緒にいると楽しくて、そして、いちばん心が安らぐ相手だった。
 肌を寄せ合う温もりの心地良さを、初めて知った。お互い、相手と触れあっていれば安心できた。
 最初は友達だったけれど、いつしか自然と、その感情は「恋愛」と呼ぶべきものに変化していった。
 そして、初めてのキス。
 初めて一緒に過ごした夜。
 この時間が永遠に続けばいいと、どれほど強く願ったことだろう。
 だけど…
「この間、山の事故で死んだんだ。たまたま一人で行ったときに、急斜面で足を滑らせて…」
 口に出してそう言うと、また涙が溢れてきた。
 まだ、信じられない。だけど、あいつはもういない。
 どこにも、いない…。
「なのにどうして、私はこうして生きているんだろう…」
 涙が、止まらない。
 どんなに堪えようとしても。
「あの…」
 いつの間にか、さおりが目の前に立っていた。困ったように、私を見おろしている。
「…ごめんなさい。こんな時、どう慰めたらいいのか、わかんないの」
「別に、気を使わなくていいよ…」
 私は泣きながら応える。
「…ただ、もう少しの間、側にいて…」
 さおりが、隣に腰を下ろす。腕が触れるほど近くに。
 私はさおりに縋りついて、声を上げて泣いていた。
 止めどもなく溢れる涙が、さおりのシャツを濡らす。
「…初めて会ったとき…」
 私の身体に腕を回して、ぽんぽんと背中を優しく叩きながら、さおりが聞いた。
「…もしかして、その…、死のうとしてました?」
「…わかんない」
 私は泣きながら応えた。
 誤魔化しているわけではなくて、本当にわからなかった。
「積極的に死のうとしてたわけじゃないと思うけど…」
 でも、このまま死んでもいいかなって。そう思っていたのは事実だった。
「あたし…余計なこと、しました?」
「…わかんない」
 どうなのだろう。そういう思いが全くないといったら嘘になる。
 だけど…
 私、この子に救いを求めてる。四歳も年下の女の子に。
 そういえば――いつもタメ口だったからつい忘れるけど――あいつも一学年下だったっけ。
 だけど…
 誰も、あいつの代わりにはならない。



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