〜4〜


 夜の山は、本来なら真っ暗なはずなのに――

 今夜に限っては、月の他にもう一つの光源が、私の周囲を照らしていた。
 遠くで、ヘリコプターの音がしていた。空を見上げても、それらしき灯りは見えないが。
 空は月明かりで明るいが、森の中は闇に包まれている。しかしその闇の中で、オレンジ色の光があちこちで揺らめいていた。
 ただよってくる煙。そして焦た匂い。
 木が燃える匂いって、私はけっこう好きだ。例えば、キャンプ場での焚き火とか。
 それに、木が燃えるオレンジ色の炎には暖かみがあって、見ているとなんだか安心できる。

 だけどこの炎は…
 私を殺そうとしている。

 私は草の上に座って、炎を見つめていた。
 少しずつ近付いてくる炎を見ながら、私は考えていた。

 これから、どうしようか。

 もう、考える時間はあまり残されていない。
 選択肢は二つ。

 このまま、ここに座っているか。
 それとも、今すぐ逃げ出すか。

 別に、死ぬためにまた山へ来たわけではない。ただ、一人でいろいろと考えたいことがあっただけだ。
 それなのに、こんな時にこんな目に遭うなんて…。
 もしかして、これが運命なのだろうか。

 …それもいいかもしれない。
 死にたがっている私が、耳元でささやく。
 本当なら、三日前に死んでいたはずなのだから。
 それが少し遅くなっただけだ、と。

 もう泣かなくてもいい。
 もう苦しまなくてもいい。
 こんな、胸が締めつけられるような思いをしなくてもいい。

 私は立ち上がって――炎に引き寄せられるように――足を一歩踏み出した。

 悲しみよさようなら。

「…私が死んだら、あの子は泣いてくれるかな…」
 それだけが、少し心残りだった。
「…イヤです」
 突然、背後で声がした。そして、草や枯れ枝を踏む音。私は驚いて振り返る。
 振り返って、それが空耳ではないことと、声の主を確認して、もう一度驚いた。
「…さおり! どうしてこんなところにいるの?」
 そこに、さおりが立っていた。
 ミニのワンピースにサンダル。とても山歩きをするような格好ではない。
 さおりは、泣きそうな顔をしていた。
「…死んじゃ、イヤです」
「どうして…どうしてここにいるの?」
「昼間、美里さんの家に電話したら、山登りに行ったって…。それで夕方、テレビで山火事のニュースをやってて…なんだかイヤな予感がして…」
「それだけのことで、わざわざこんなとこまで来る?」
 奏珠別からここまで、山道を歩いて私の脚でも二時間はかかるというのに。さおりはどうやって来たのだろう。
「なんて危ない…」
 ただでさえ、夜の山歩きは危険だ。しかも山火事の最中に。
 偶然会えたからいいようなものの、もし私と会えなかったら、今頃どうなっていたか。
「とにかく、早く帰りなさい。ここは危ないから!」
 もう、火の手はすぐそこまで迫っている。急がなければ、逃げられなくなってしまう。
 しかし、さおりは首を横に振った。
「…ヤです」
「さおり!」
「…美里さんも、一緒です」
 泣きそうな目で、しかし真っ直ぐに私を見ている。
「私のことはいいから! 早く逃げなさい!」
 そんな言葉を無視して、さおりは私の隣に腰を下ろした。
「美里さんも一緒じゃなきゃ、あたしも帰りません」
 いつもは素直で可愛いくせに。今日に限って妙に強情だ。
「私のことは放っておいて! さおりには関係ないじゃない!」
 思わず、そう叫んでしまった。
 さおりは、泣いているような、それでいてどこか怒ったような表情を見せる。
「…じゃあ、あたしのことも放っといてください。美里さんには関係ないことです」
「さおり!」
 パンッ!
 軽い音が響いた。
 私の手が、さおりの頬を叩いた音。
 さおりは赤くなった頬を手で押さえて、涙ぐんでいる。
「あ…ごめん」
 …自己嫌悪。
 さおりはなにも悪くないのに。私の勝手な我が儘でしかないのに。
「ずるい…ずるいよ」
 さおりの目から、涙がこぼれた。
「あたしだって、美里さんが死んだら悲しいのに…。それなのに、勝手に死のうだなんて」
「…ごめん」
「どうして、そんな簡単に死のうだなんて思うんですか? 生きてさえいれば…」
「生きていれば、楽しいこともある。どんなに辛い記憶だって、いつか、時が癒してくれる…。そんなこと、わかってるよ」
 私は言った。
「だったらどうして…」
「それが…怖いんだ。あいつのこと、忘れたくない。思い出になんか、したくない。記憶はいつか風化してしまうから…。それが、怖いんだ」
 一番大切な人のことも、一番大切な想いも、いつか忘れてしまうだろう。
 それが、怖い。
 私が忘れてしまったら、あいつは、本当にどこにもいなくなってしまう。
 この大切な想いを永遠のものにするためには…、生きていることを止めるしかない。生きている限り、どんな想いもいつか色褪せてしまうから。
「…でも、ヤダ」
 隣から、嗚咽混じりの声がする。
「美里さんが死んじゃ、やだ」
 さおりは地面に座って、膝を抱えている。
「あたし、きっといっぱい泣くもの。好きな人が死ぬなんて…やだ」
「…ごめん、さおり」
「…どうしても?」
「……、ごめん。帰りたくない」
「……わかりました」
 さおりは「ふぅ」と小さく息を吐き出した。
「じゃあ、あたしもここで死ぬってことですね」
「さおり!」
 私は驚いてさおりを見る。
「…だって、一人じゃ帰れないもの。真っ暗だし、道もわかんないし」
「じゃあ、どうやってここまで来たの?」
「……」
「さおり?」
「…来るときは夢中だったから。火事場の馬鹿力ってヤツ? 文字通り」
 泣いているのに、口元だけが少し緩んだ。
「あたしがここで死んだら、美里さんのせいですね。十四歳の若さで死ぬなんて、ああ、なんて可哀想なあたし…」
 わざとらしくポーズを取りながら、芝居がかった台詞を口にする。
「これから死のうって人間を、脅迫する気?」
「…だって、ヤなんだもん。美里さんが死ぬなんて、考えたくないもん。お願いだから…」
 さおりがしがみついてくる。
 私にしがみついて、泣いている。
「お願いだから、死なないで。あたしと一緒に帰ろう?」
「さおり…」
「やだ…死んじゃやだ。お願い…」
 私の服をぎゅっと掴んで、胸に顔を埋めて、わんわんと泣いている。

 なんて真っ直ぐな、純粋な気持ちだろう。
 こんな想いをまともにぶつけられて、平然としていられるほど私は強くない。
 さおりの泣き顔を見るのは、とても辛いことだった。
 まったく泣き止む様子はない。顔中くしゃくしゃにして泣き続けている。

 私は、小さな溜息をついた。
 女の子の涙って、卑怯だ。

 今日は、死ねない…。
 そう思った。
 私が死ぬのは勝手だけれど、この子を巻き込むわけにはいかない。
 確かに、さおり一人で無事に帰るのは難しいだろう。この子は、助けないと…。
 とりあえず今は、さおりを連れて逃げるしかなさそうだ。

 それで、どうしても生きているのが辛かったら…。
 また、別な機会にしよう。
 この子が見てる前で死ぬなんて、出来そうになかった。
 さおりの泣き顔は、反則だった。

 死ぬのはいつでもできるから。
 もう少しだけ、この子のために生きててみよう。

「…わかった」
 しがみついて泣いているさおりを抱いて、耳元でささやいた。
「さおりを連れて、一緒に逃げるよ。それでいいんでしょう?」
「ホントに?」
 さおりが、がばっと顔を上げる。
「うん。さあ、行こう」
「美里さん…」
 私は立ち上がった。さおりの手も引いて立たせてやる。
 もう、炎は間近まで迫っている。もしかしたら、帰りの登山道にも火が回っているかもしれない。
 さおりが来たときでもギリギリだったのだから。これは、本気で逃げる気でもかなり危ないかも。
 そうは思ったが、もちろん口には出さない。
 しかしさおりもなんとなく不穏な雰囲気を感じ取ったのか、不安そうな顔をする。
「ちょっと、危ないかな…」
「美里さん…」
「…なんてね。大丈夫、私に任せて」
 ポケットから取り出したマグライトを点灯すると、さおりの手を握った。
「走るよ。足元に気を付けて」
「はい!」
 私たちは炎に背を向け、山道を走りだした。
 ふもとを目指して。
 しっかりと、手をつないで。
 実際のところ、私にも自信があったわけではない。
 無我夢中だった。
 道に迷いかけたり、煙に巻かれそうになったり。何度も危ない目に遭った。
 どこをどう走ったのかもよくわからない。
 憶えているのは、お互いの息づかい。体温。かすかな汗の匂い。そして、しっかりとつないだ手の感触。

 どのくらい走っただろう。
 ようやく、奏珠別の街の灯りを目にしたときには、もう真夜中だった。



「あ…はは…は」
「えへ…へ…」
 なんとかさおりの家へ帰り着いた私たちは、お互いの顔を見て笑い出した。
 ひどい格好だ。
 顔中…いや身体中、煤だらけ、泥だらけ。
 それでも、生きて帰れただけ良しとしよう。
 さおりの髪に付いていた木の葉の切れ端を、摘んで取ってやった。

 軽い食事をして一息ついたところで、さおりがお風呂を沸かしてくれる。確かに、この汗と泥と煤を洗い流せば、いい気持ちだろう。
 さおりの家のお風呂場は意外と広かったので、二人で一緒に入ることにする。さおりは恥ずかしがっていたけれど、私が、少し強引に誘ったのだ。
 脱衣所で服を脱いでいると、一枚の小さな羽根がはらりと床に落ちた。私の目には、さおりの服から落ちたように見えたが。
「なに、これ?」
 私は羽根を拾い上げる。
「あ…、べ、別に。なんでもないです!」
「そぉ?」
 それは、特に変わったところのない鳥の羽根に見えた。純白の美しい羽根だ。山の中で転んだときにでも付いたのだろうか。
 なんとなくその羽根を捨てる気になれなくて、洗面台の上に置いてお風呂に入った。
 熱い湯の中で手足を伸ばすと、とても気持ちがいい。身体の芯まで、暖かさが伝わってくるようだった。
「ひどい顔だね、さおり」
 少し遅れてさおりが入ってきた。手の平でお湯をすくって、煤で汚れたさおりの頬を少し乱暴に洗ってやる。
「美里さんだって」
 さおりも、同じことをやり返してくる。
「やったな、こら」
「美里さんが先にやったんですよ〜」
 私たちは子供のように、湯船の中でじゃれ合って遊んでいた。



 お風呂から上がって服を着た私は、ふと悪戯心を起こした。
 まだバスタオル一枚でもたもたしていたさおりの背中を、人差し指でつついてやる。
「ひゃんっ!」
 妙な悲鳴を上げて飛び上がる。その拍子に、身体に巻いていたバスタオルがはらりと落ちた。
「や…なにするんですか! 美里さんのエッチ!」
 慌ててタオルを拾って前を隠したさおりが、顔中真っ赤にして抗議する。そんな様子を見て、私はくすくすと笑っていた。
 さおりはどちらかというと小柄で、腕も脚も、そしてウェストも細い。その割に出るべきところは一応人並みに出ている。わかりやすくいうと、色気には欠けるがまあ悪くないプロポーション、というところ。
 私は別に、さおりの裸体が見たくてこんな悪戯をしたわけではない。ただ念のため、もう一度確認しておきたかっただけだ。
 そしてもちろん、さおりの背中には翼なんて見当たらなかった。
「…今晩、泊まっていきます?」
 バスタオルを握りしめたままのさおりが聞く。
「…いや、今日は帰る。家で、心配してるだろうし」
 少し未練はあったけれど。
 でも、きっと親も山火事のニュースを聞いて、心配しているはずだ。
 その代わり…
「明日、ヒマ? 遊びに来てもいい?」
 そう聞くと、さおりは満面の笑みをたたえた。まさしく天使の微笑みだ。
「じゃあ、晩ゴハンはごちそう作りますね」



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