夜の山は、本来なら真っ暗なはずなのに――
今夜に限っては、月の他にもう一つの光源が、私の周囲を照らしていた。
遠くで、ヘリコプターの音がしていた。空を見上げても、それらしき灯りは見えないが。
空は月明かりで明るいが、森の中は闇に包まれている。しかしその闇の中で、オレンジ色の光があちこちで揺らめいていた。
ただよってくる煙。そして焦た匂い。
木が燃える匂いって、私はけっこう好きだ。例えば、キャンプ場での焚き火とか。
それに、木が燃えるオレンジ色の炎には暖かみがあって、見ているとなんだか安心できる。
だけどこの炎は…
私を殺そうとしている。
私は草の上に座って、炎を見つめていた。
少しずつ近付いてくる炎を見ながら、私は考えていた。
これから、どうしようか。
もう、考える時間はあまり残されていない。
選択肢は二つ。
このまま、ここに座っているか。
それとも、今すぐ逃げ出すか。
別に、死ぬためにまた山へ来たわけではない。ただ、一人でいろいろと考えたいことがあっただけだ。
それなのに、こんな時にこんな目に遭うなんて…。
もしかして、これが運命なのだろうか。
…それもいいかもしれない。
死にたがっている私が、耳元でささやく。
本当なら、三日前に死んでいたはずなのだから。
それが少し遅くなっただけだ、と。
もう泣かなくてもいい。
もう苦しまなくてもいい。
こんな、胸が締めつけられるような思いをしなくてもいい。
私は立ち上がって――炎に引き寄せられるように――足を一歩踏み出した。
悲しみよさようなら。
「…私が死んだら、あの子は泣いてくれるかな…」
それだけが、少し心残りだった。
「…イヤです」
突然、背後で声がした。そして、草や枯れ枝を踏む音。私は驚いて振り返る。
振り返って、それが空耳ではないことと、声の主を確認して、もう一度驚いた。
「…さおり! どうしてこんなところにいるの?」
そこに、さおりが立っていた。
ミニのワンピースにサンダル。とても山歩きをするような格好ではない。
さおりは、泣きそうな顔をしていた。
「…死んじゃ、イヤです」
「どうして…どうしてここにいるの?」
「昼間、美里さんの家に電話したら、山登りに行ったって…。それで夕方、テレビで山火事のニュースをやってて…なんだかイヤな予感がして…」
「それだけのことで、わざわざこんなとこまで来る?」
奏珠別からここまで、山道を歩いて私の脚でも二時間はかかるというのに。さおりはどうやって来たのだろう。
「なんて危ない…」
ただでさえ、夜の山歩きは危険だ。しかも山火事の最中に。
偶然会えたからいいようなものの、もし私と会えなかったら、今頃どうなっていたか。
「とにかく、早く帰りなさい。ここは危ないから!」
もう、火の手はすぐそこまで迫っている。急がなければ、逃げられなくなってしまう。
しかし、さおりは首を横に振った。
「…ヤです」
「さおり!」
「…美里さんも、一緒です」
泣きそうな目で、しかし真っ直ぐに私を見ている。
「私のことはいいから! 早く逃げなさい!」
そんな言葉を無視して、さおりは私の隣に腰を下ろした。
「美里さんも一緒じゃなきゃ、あたしも帰りません」
いつもは素直で可愛いくせに。今日に限って妙に強情だ。
「私のことは放っておいて! さおりには関係ないじゃない!」
思わず、そう叫んでしまった。
さおりは、泣いているような、それでいてどこか怒ったような表情を見せる。
「…じゃあ、あたしのことも放っといてください。美里さんには関係ないことです」
「さおり!」
パンッ!
軽い音が響いた。
私の手が、さおりの頬を叩いた音。
さおりは赤くなった頬を手で押さえて、涙ぐんでいる。
「あ…ごめん」
…自己嫌悪。
さおりはなにも悪くないのに。私の勝手な我が儘でしかないのに。
「ずるい…ずるいよ」
さおりの目から、涙がこぼれた。
「あたしだって、美里さんが死んだら悲しいのに…。それなのに、勝手に死のうだなんて」
「…ごめん」
「どうして、そんな簡単に死のうだなんて思うんですか? 生きてさえいれば…」
「生きていれば、楽しいこともある。どんなに辛い記憶だって、いつか、時が癒してくれる…。そんなこと、わかってるよ」
私は言った。
「だったらどうして…」
「それが…怖いんだ。あいつのこと、忘れたくない。思い出になんか、したくない。記憶はいつか風化してしまうから…。それが、怖いんだ」
一番大切な人のことも、一番大切な想いも、いつか忘れてしまうだろう。
それが、怖い。
私が忘れてしまったら、あいつは、本当にどこにもいなくなってしまう。
この大切な想いを永遠のものにするためには…、生きていることを止めるしかない。生きている限り、どんな想いもいつか色褪せてしまうから。
「…でも、ヤダ」
隣から、嗚咽混じりの声がする。
「美里さんが死んじゃ、やだ」
さおりは地面に座って、膝を抱えている。
「あたし、きっといっぱい泣くもの。好きな人が死ぬなんて…やだ」
「…ごめん、さおり」
「…どうしても?」
「……、ごめん。帰りたくない」
「……わかりました」
さおりは「ふぅ」と小さく息を吐き出した。
「じゃあ、あたしもここで死ぬってことですね」
「さおり!」
私は驚いてさおりを見る。
「…だって、一人じゃ帰れないもの。真っ暗だし、道もわかんないし」
「じゃあ、どうやってここまで来たの?」
「……」
「さおり?」
「…来るときは夢中だったから。火事場の馬鹿力ってヤツ? 文字通り」
泣いているのに、口元だけが少し緩んだ。
「あたしがここで死んだら、美里さんのせいですね。十四歳の若さで死ぬなんて、ああ、なんて可哀想なあたし…」
わざとらしくポーズを取りながら、芝居がかった台詞を口にする。
「これから死のうって人間を、脅迫する気?」
「…だって、ヤなんだもん。美里さんが死ぬなんて、考えたくないもん。お願いだから…」
さおりがしがみついてくる。
私にしがみついて、泣いている。
「お願いだから、死なないで。あたしと一緒に帰ろう?」
「さおり…」
「やだ…死んじゃやだ。お願い…」
私の服をぎゅっと掴んで、胸に顔を埋めて、わんわんと泣いている。
なんて真っ直ぐな、純粋な気持ちだろう。
こんな想いをまともにぶつけられて、平然としていられるほど私は強くない。
さおりの泣き顔を見るのは、とても辛いことだった。
まったく泣き止む様子はない。顔中くしゃくしゃにして泣き続けている。
私は、小さな溜息をついた。
女の子の涙って、卑怯だ。
今日は、死ねない…。
そう思った。
私が死ぬのは勝手だけれど、この子を巻き込むわけにはいかない。
確かに、さおり一人で無事に帰るのは難しいだろう。この子は、助けないと…。
とりあえず今は、さおりを連れて逃げるしかなさそうだ。
それで、どうしても生きているのが辛かったら…。
また、別な機会にしよう。
この子が見てる前で死ぬなんて、出来そうになかった。
さおりの泣き顔は、反則だった。
死ぬのはいつでもできるから。
もう少しだけ、この子のために生きててみよう。
「…わかった」
しがみついて泣いているさおりを抱いて、耳元でささやいた。
「さおりを連れて、一緒に逃げるよ。それでいいんでしょう?」
「ホントに?」
さおりが、がばっと顔を上げる。
「うん。さあ、行こう」
「美里さん…」
私は立ち上がった。さおりの手も引いて立たせてやる。
もう、炎は間近まで迫っている。もしかしたら、帰りの登山道にも火が回っているかもしれない。
さおりが来たときでもギリギリだったのだから。これは、本気で逃げる気でもかなり危ないかも。
そうは思ったが、もちろん口には出さない。
しかしさおりもなんとなく不穏な雰囲気を感じ取ったのか、不安そうな顔をする。
「ちょっと、危ないかな…」
「美里さん…」
「…なんてね。大丈夫、私に任せて」
ポケットから取り出したマグライトを点灯すると、さおりの手を握った。
「走るよ。足元に気を付けて」
「はい!」
私たちは炎に背を向け、山道を走りだした。
ふもとを目指して。
しっかりと、手をつないで。
実際のところ、私にも自信があったわけではない。
無我夢中だった。
道に迷いかけたり、煙に巻かれそうになったり。何度も危ない目に遭った。
どこをどう走ったのかもよくわからない。
憶えているのは、お互いの息づかい。体温。かすかな汗の匂い。そして、しっかりとつないだ手の感触。
どのくらい走っただろう。
ようやく、奏珠別の街の灯りを目にしたときには、もう真夜中だった。
「あ…はは…は」
「えへ…へ…」
なんとかさおりの家へ帰り着いた私たちは、お互いの顔を見て笑い出した。
ひどい格好だ。
顔中…いや身体中、煤だらけ、泥だらけ。
それでも、生きて帰れただけ良しとしよう。
さおりの髪に付いていた木の葉の切れ端を、摘んで取ってやった。
軽い食事をして一息ついたところで、さおりがお風呂を沸かしてくれる。確かに、この汗と泥と煤を洗い流せば、いい気持ちだろう。
さおりの家のお風呂場は意外と広かったので、二人で一緒に入ることにする。さおりは恥ずかしがっていたけれど、私が、少し強引に誘ったのだ。
脱衣所で服を脱いでいると、一枚の小さな羽根がはらりと床に落ちた。私の目には、さおりの服から落ちたように見えたが。
「なに、これ?」
私は羽根を拾い上げる。
「あ…、べ、別に。なんでもないです!」
「そぉ?」
それは、特に変わったところのない鳥の羽根に見えた。純白の美しい羽根だ。山の中で転んだときにでも付いたのだろうか。
なんとなくその羽根を捨てる気になれなくて、洗面台の上に置いてお風呂に入った。
熱い湯の中で手足を伸ばすと、とても気持ちがいい。身体の芯まで、暖かさが伝わってくるようだった。
「ひどい顔だね、さおり」
少し遅れてさおりが入ってきた。手の平でお湯をすくって、煤で汚れたさおりの頬を少し乱暴に洗ってやる。
「美里さんだって」
さおりも、同じことをやり返してくる。
「やったな、こら」
「美里さんが先にやったんですよ〜」
私たちは子供のように、湯船の中でじゃれ合って遊んでいた。
お風呂から上がって服を着た私は、ふと悪戯心を起こした。
まだバスタオル一枚でもたもたしていたさおりの背中を、人差し指でつついてやる。
「ひゃんっ!」
妙な悲鳴を上げて飛び上がる。その拍子に、身体に巻いていたバスタオルがはらりと落ちた。
「や…なにするんですか! 美里さんのエッチ!」
慌ててタオルを拾って前を隠したさおりが、顔中真っ赤にして抗議する。そんな様子を見て、私はくすくすと笑っていた。
さおりはどちらかというと小柄で、腕も脚も、そしてウェストも細い。その割に出るべきところは一応人並みに出ている。わかりやすくいうと、色気には欠けるがまあ悪くないプロポーション、というところ。
私は別に、さおりの裸体が見たくてこんな悪戯をしたわけではない。ただ念のため、もう一度確認しておきたかっただけだ。
そしてもちろん、さおりの背中には翼なんて見当たらなかった。
「…今晩、泊まっていきます?」
バスタオルを握りしめたままのさおりが聞く。
「…いや、今日は帰る。家で、心配してるだろうし」
少し未練はあったけれど。
でも、きっと親も山火事のニュースを聞いて、心配しているはずだ。
その代わり…
「明日、ヒマ? 遊びに来てもいい?」
そう聞くと、さおりは満面の笑みをたたえた。まさしく天使の微笑みだ。
「じゃあ、晩ゴハンはごちそう作りますね」
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