「……と、いうわけなんだけど」
 翌日の夕方、さおりはクラスメイトの神山徹に電話をかけた。
 さおりの秘密を知っている、このことを相談できる唯一の相手だった。学校で話していて誰かに聞かれたりしたら大変なので、家に帰ってから電話をしたのだ。
『ああ、その噂なら俺もちらっと聞いた。しかしまさか新聞部まで乗り出してきたとは……。まずいな、浩一の奴スクープとなると目の色変えるからな。万が一、羽根を見られたりしたら……』
「ど、どうしよう?」
『月城はどれがいい?』
「な、何が?」
『サーカスと動物園と研究所』
「神山っ!」
 受話器に向かって、力いっぱい怒鳴った。冗談にしても笑えない。本人にとっては深刻な問題なのだ。
『……冗談だって。そんなに怒るなよ』
「怒るわよ!」
 もう一度怒鳴る。電話なので、滲んできた涙を見られずに済んだのは幸いだった。
『悪い、無神経だった。……とにかく、今夜は俺も一緒に行くから』
「神山が?」
『月城が一人で、もし羽根を見られたら大変だろ』
「それで神山がいて、どうにかなるってわけ?」
 先刻の冗談のせいで、ついきつい口調になってしまう。
『問答無用で浩一を殴り倒して、後で、夢でも見たんだろうということに』
「……そんなんでいいの?」
『よくねーけど、マジな話、他に対策なんて思いつかねーわ。とにかく、羽根を出さないように気をつけるしかないな』
「……うん」
『じゃあ……七時に、いつものセイコーマートの前で待ち合わせでいいか?』
「うん」
『それじゃ、後で。……大丈夫だって、なにも心配しなくたって』
「うん……あのね、神山」
『ん?』
「……ありがと」
 小さな声でそれだけ言って、さおりは電話を切った。



「ママ、あたしちょっと出かけてくるから」
 午後六時四十五分。
 さおりは、締切り前で仕事部屋にこもっている母親に声をかけて出かけようとした。
 特に返事は期待していなかったのだが、扉が開いて母親のみさとが顔を出す。
「デート?」
 からかうような笑みを浮かべて訊いてくる。
「そ、そんなんじゃない! ぶ、部活よ、新聞部の取材」
「だって徹くんと一緒なんでしょ? 先刻、電話で約束してたみたいじゃない」
「それは……確かに、神山も一緒だけど」
「じゃあ、これ持って行きなさい」
「え?」
 手渡されたものを見て。
 二度、三度、瞬きして。
 さおりは耳まで真っ赤になった。
「ま、ま、ママッ!」
 避妊具の箱を、ぐしゃっと握りつぶす。
「こんなもの、いるわけないじゃない!」
「いるでしょ? まだ中学生なんだから。万が一の事があったら大変」
「そんなこと、あるわけないじゃない! あ、あたしと神山は、そんなんじゃないんだから!」
「なあに? あんた達まだ、エッチはおろかキスもしてないわけ?」
 みさとが呆れたように言う。
「そ、そーよ!」
 正確には、キスはおろか正式に付き合ってもいない。
「だから、こんなもの必要ないの。あたしたち、まだ中学生なんだから」
「もう中学生、よ。今どきの中学生なら、最後まで経験ずみでも珍しくないだろうし。ママはね、徹くんのことは気に入ってるけれど、こーゆーことでは若い男の子は信用してないの。それに避妊さえ気をつけるなら、特に反対することでもないしね」
「と、とにかく、こんなものいらないの!」
 さおりは、握りつぶした箱を床に叩きつけて家を飛び出した。


「……我が娘ながらウブねぇ」
 みさとは窓辺に立って、出かけていくさおりを笑って見送っていた。
 ちょこちょことした足取りの後ろ姿は、まだまだ子供っぽい。
「からかうと楽しいったらありゃしない。みーちゃんの気持ちもわかるわ……と、そうか」
 なにかを思いついたようにぽんと手を叩くと、みさとは机の上に置いてあった携帯電話を手に取った。



「あ……神山。は、早かったのね」
 さおりは約束の時間の五分前に待ち合わせ場所に着いたのだが、そこには既に徹の姿があった。
 コンビニの前でガードレールに寄りかかるようにして、ペットボトルのスポーツドリンクを飲んでいる。
「遅れるよりはいいだろ。それより月城、なんか顔赤くない?」
「え? べ、別に……」
 出がけにあんなことを言われたせいだろうか。徹の顔をまともに見るのが少し恥ずかしかった。
 徹は、さおりに対して恋愛感情を抱いている。一年くらい前に告白されたものの、いろいろあってその返事は保留のまま。
 友達以上、恋人未満。周りから見たら、じれったいような付き合いが続いている。
 手をつないだことはあるが、キスさえもしたことがない。イイ雰囲気になったことは何度かあるものの、その度にいろいろと邪魔が入って実現しないままだった。
(なのに、エッチなんて……ねぇ)
 全然、現実味のある話ではない。
 とはいえ、徹がさおりのことをそういう対象として見ていることは知っている。一緒にいる時は、そのことを意識せずにはいられない。
 だから普段でも、二人きりで徹と会う時は少しドキドキしてしまう。しかも今日はあんなことがあったので、赤面するのをどうしても抑えられない。
 その点では、単なるクラスメイト、そして新聞部の部長とヒラ部員というだけの関係の浩一の方が、一緒にいても気楽といえば気楽だった。
 ドキドキしないようでは恋愛とは呼べないのかもしれないけれど、いつまでもこんな調子では心臓に負担がかかって仕方がない。
 まあ、今夜は二人きりではない。浩一も一緒だから、気にすることはないだろう。それよりも、いつ羽根が飛び出すかとドキドキする方がよっぽど心臓に悪そうだ。
「んじゃ、そろそろ行くか? 浩一とはどこで待ち合わせてるんだ?」
「公園の、噴水の前」
「ん」
 二人は並んで歩き出す。その背後から、聞き覚えのある声が追ってきた。
「お二人さん、もう夜なのに二人きりでどこ行くの?」
 大人っぽい、ややハスキーな女性の声。
 さおりは嬉しそうに、徹はさも嫌そうに。対照的な表情で同時に振り返る。数メートル後ろに、二人よりいくつか年上の、長身の女性が立っていた。
「……あんたか」
「美里さん♪」
 やっぱり対照的なふたつの声が重なる。
 東野美里、さおりの友人の女子大生だ。
 向こうは単なる友情以上の感情を抱いているらしいので、徹にとっては天敵である。さおりと二人きりでいい雰囲気になったりした時に、必ずのように現われて邪魔をするのだ。
「さおり、いつも言ってるっしょ。こんなケダモノと二人きりで、人気のない夜の公園なんか行っちゃダメだって」
 美里はさおりを抱きしめて、頭を撫でながら言う。さおりがぽっと頬を赤らめたので、徹としては面白くない。
「人のことケダモノケダモノって、あんたも同類じゃないか!」
「ほーら、正体を現した。あんた「も」って言ったね? つまり私と同じように、さおりにあーんなことやこーんなことをしたいと思ってるわけだ」
「お、思ってねーよ、そんなこと!」
「……てゆーか、美里さんはそーゆーことを思ってるわけなのね?」
 さおりは思わず小声でツッコミを入れる。
「うん!」
 まるで悪びれる様子もなく元気にうなずかれて、小さく肩をすくめた。
 まったく。
 どこまでが本気で、どこからが冗談のつもりなのか。
 口ではこう言っているが、実際のところ美里が本気でさおりを襲ったことはない。抱きつかれたり頬にキスされたりはよくあることだけれど、それはあくまでも女の子同士にはありがちなスキンシップの範疇だ。
 それに、さおりは知っている。
 一年くらい前に美里は恋人――相手は女の子だけれど――を事故で亡くしていること。
 まだ、その傷は完全に癒えたわけではないこと。
 だから、さおりをからかって遊ぶことで、寂しさ、悲しさを紛らわせようとしているだけなのかもしれない。さおりと美里が出会ったのは、美里の恋人が亡くなって間もない頃のことだった。
「あのね美里さん。あたしのこと心配してくれるのは嬉しいんだけど、今夜はそーゆーんじゃないの。学校の新聞部で取材に行くことになって、それに神山も付き合ってくれているだけなの」
「取材? こんな時間に? いったい何の?」
「えっと……」
 簡単に事情を説明する。だいたいは昨日の部活で浩一が言った通りのことだ。美里はさおりの秘密を知らないから、あまり詳しいことは話せない。
「ああ、満月の妖精の話? 私も友達から聞いた。ふーん、中等部でも噂になってるんだ」
「あぅ……」
 さおりは小さく呻いた。
 美里までがこの話を知っているとは。どうやら思っていた以上に、噂は広まっているらしい。
 空を飛ぶ時は十分に気をつけていたつもりだったが、そんなにあちこちで目撃されていたのだろうか。
「妖精探しねぇ……ふーん、面白そうじゃない。私も行くわ」
「えぇ?」
 さおりは別に異存なかったのだが、徹が心底嫌そうな顔をする。
「いいでしょ、別に。第一、中学生が保護者なしで夜遊びしちゃいけません」
 徹はまだ口の中でぶつぶつ言っていたが、そんなことにはお構いなし。美里はさおりの肩を抱くようにして歩き出した。



 先に来ていた浩一は、不思議そうにこちらを見た。
「なんで、お前がいるんだ?」
 徹に向かって言う。
「お前らって、やっぱり付き合ってんの? 最近、仲いいよな」
「え?」
 さおりと徹は、ちらりと目を見合わせた。さおりの頬がかすかに赤くなる。
「えっと、いや、別に……付き合ってるってわけじゃ……」
 告白はされているけれど。
 徹のことはけっこう好きだけれど。
 まだ『恋人』と呼べる関係ではない。
「それに……東野先輩?」
 浩一にしてみれば、こちらは徹以上に意外な顔ぶれかもしれない。
「ああ。私は、さおりの恋人だから」
 さおりに背後から抱きついて、美里が笑う。
「えぇっ! マジで?」
「う、ウソよっ! そんなんじゃないんだからっ!」
 浩一が本気に受け取りそうな雰囲気だったので、慌てて否定する。
 長身で美人の美里は、白岩学園内ではけっこうな有名人で、同性愛者であることもそれなりに知られているらしい。それだけに、先刻の台詞は冗談に聞こえない。
「そーかー。神山と仲よさそうな割に『恋人』って雰囲気じゃないと思ったら、そうだったのか……」
「納得しないでよ!」
 さおりは真っ赤になって叫んだ。
 確かに美里このことは好きだ。ただしそれは恋愛感情ではなくて、あくまでも友達として、先輩として。
 ふざけているようでも、いざという時には頼りになる人。
 これで、隙を見せるとキスしてくる癖さえなければ……と、心の中で思った。嫌ではないんだけど、癖になりそうで怖い。
 美里のことは好きだけれど、恋愛の相手はやっぱり男の子の方がいいかな、と思うさおりだった。


 四人揃ったところで、展望台へと移動することになった。
 ちょうど山の陰から十四日の月が昇ったところで、公園の遊具や周囲の森が、ぼんやりと照らし出されている。
 さおりたち以外に人影はない。噂になっているというので見物人が大勢いるかと思っていたのだが、暇人はそれほど多くはないらしい。さおりにとっては好都合だ。
 しんと静まりかえっている夜の公園。まだ、虫が鳴く季節でもない。
 遠くから、蛙の合唱が響いてくる。
 風はほとんどなくて、気温は暑すぎず涼しすぎず、気持ちのいい夜だ。
 空を見上げる。
 雲はほとんどないが、まだ夕陽の残照がわずかに残っている上に月が明るいので、星の数はそれほど多くはない。
 浩一が、バッグの中からビデオカメラを取りだした。しかし今のところ、特に撮るべきものはなさそうだ。退屈なのか、さおりにレンズを向けたりしている。
 さおりはさりげなく、樹の陰になる位置に移動した。月光を直接浴びているよりはいくらか安全だ。
「背中、大丈夫か?」
 美里や浩一には聞こえないように、徹が小声で訊いてくる。さおりはこくんとうなずいた。
「なんとか、ね」
 先刻から、背中がむずむずしている。毛虫でも這っているような感触だ。
 くすぐったいような、くしゃみが出そうで出ないような、そんなもどかしさ。
 それでも、こうして月が見えない位置にいればなんとかなりそうだ。
 本当にきついのは、満月である明日の夜だろう。羽根の衝動は、満月の夜にもっとも強くなる。
 今夜なにも起こらなかったということで、浩一が諦めてくれればいいのだが、あまり期待はできない。長い付き合いだから、そのあたりの性格は把握している。
 案の定、真夜中まで粘った浩一は、解散時に「じゃあ、また明日」と言ってさおりをがっかりさせた。



 さおりを家まで送っていった後、天敵の美里と一緒に歩かねばならないというのは、徹にとってはかなりの苦痛だった。
 とはいえ、帰り道が同じ方向なのだから仕方がない。徹と美里の家は、さおりの家よりもずっと近所だ。
 徹は、ずっと無言で歩いていた。こちらから話しかけることなどないし、美里も黙っている。
 別に一緒に帰る必要もないのだが、さおりの要望だからきかないわけにはいかない。「美里さんだって一応女の人なんだから、送っていってあげて」と頼まれては断れなかった。
 しかし実際のところ、ボディガードなど不要だと思う。美里は女子としては長身だし、実戦空手で知られた極闘流の黒帯だそうだ。喧嘩となれば、徹よりもよほど強いだろう。
 だから、ただ黙って歩いていって、家の前で別れるだけ。それだけのつもりだった。
 しかし、
「がっかりしてる?」
 別れ際になって、美里の方から話しかけてきた。
「な、何が?」
「せっかくのデートに邪魔が入って」
「……わかってんなら、邪魔すんなよな」
 悪気がないならともかく、確信犯だからたちが悪い。
「そーゆーわけにはいかない。さおりのためだから」
 美里は意地の悪い笑みを浮かべた。
「考えたことある? どうしていまだに、正式にお付き合いOKの返事をもらえないのか」
「あ、あんたには関係ないだろ」
 痛いところをつかれて、徹はたじろいだ。美里が小さく肩をすくめる。
「気づいてないっしょ? さおりに、男性恐怖症の気があるって」
「え?」
 一瞬、言われたことの意味がわからなかった。何度か目を瞬く。
「あの子ってさ、男に慣れてないんだよね。生まれる前から父親がいなかったでしょ? そして一人っ子。これまで、クラスメイトよりも近い距離に男がいたことがないんだよ。最近になって初めて、単なるクラスメイトではない男の子が現われて戸惑ってんの」
「それは……」
 言われてみれば、そうかもしれない。さおりはそれほど人見知りをするタイプではないはずだが、それにしてはクラスの男子と言葉を交わす回数は少ない。徹や浩一は数少ない例外で、顔は可愛いのに男子の間であまり目立たないのはそのためだ。
 しかし、美里に言われるまでそんなことは考えもしなかった。
「だから、本気でさおりのことが好きなら、絶対に焦っちゃだめってこと。うんと時間をかけて、繊細なガラス細工でも扱うように、そぅっとね。強引な押しの戦法は、さおりには逆効果だから」
「で、なんでいきなりそんなことを言い出すんだ?」
 今夜に限って、恋敵にアドバイスするような真似を。
 これまで美里には散々ひどい目に遭わされてきただけに、不審感が先に立つ。
「私はね、さおりを守りたいの。あの子のことが、なによりも大切だから」
「あんたって……その、マジでレズなのか? マジで月城を狙ってるのか?」
「以前、私に同性の恋人がいたことは事実。さおりについては……難しいな。ただ、私が今こうして生きているのは、あの子のためだから」
「え?」
「さおりから聞いてない?」
 徹は首を左右に振った。
 美里がさおりと知り合ったのは、徹と親しくなった少し後のはずだが、詳しい経緯などは聞いたことがない。
「さおりと出会ったのは、恋人を事故で亡くした直後だったの。その頃の私は、……無意識に、死んだ彼女の後を追おうとしてたんだと思う。それを止めたのがさおりなの。あの子の泣き顔を見たくないから、あの子を泣かせたくないから、こうして生きているの。あの子のおかげで、生きているのも楽しいと思えるようになってきた。だから……」
 美里は、真っ直ぐに徹の顔を見た。
 鋭い視線が突き刺さる。
「誰であろうと、あの子を泣かすことは許さない。あの子を守るために、私は生きてる。で、今のところ、さおりを泣かす可能性が一番高そうなのがあんただから、釘を刺しておこうと思ってね」
「お、俺だって!」
 徹は大きな声で言った。
「月城を泣かせるようなことはしない! もう二度とそんなことはしないって、誓ったんだ!」
「でも、あんたは男だからねぇ。下半身が先走ることもあるっしょ?」
 冗談めかした台詞だが、美里の目は笑っていなかった。
「そ、そんなこと……」
 絶対にない、とは言い切れないところが辛い。前科持ちはこんな時に立場が弱い。
「ライバルの登場であんたが焦って、また馬鹿な行動に出るんじゃないかって。それが心配なわけ」
「ライバルって、今さらそんな……」
 今頃になって何を言うのだろう。美里がさおりと知り合ってからもうじき一年。その存在にやきもきしている徹だって、今さら焦ったりはしない。
「なんだ、気づいてないんだ。あんた、けっこう鈍いんだね」
 馬鹿にしたような笑いが癇に障る。
「なにがだよ?」
「あの萩野って奴、あいつもさおりのこと狙ってるよ。見ててわかんなかった?」
「えぇっ?」
 意外な台詞に、思わず大きな声を上げた。
「気づかなかった? 私たちがさおりについてきたのを見た時の、がっかりしたような表情」
 固まった徹の肩を、美里が小突く。
「自惚れるんじゃないよ、さおりの魅力に気づいているのが自分だけなんて」
 笑いながら家へ入っていく美里の後ろ姿を、徹は固まったまま見送っていた。



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