「さおり、また出かけるの?」
 土曜の夜、出かけようとしたところで母親に声をかけられた。
「中学生のくせに、毎晩男の子と夜遊びなんてねぇ」
 また、いつものようにからかわれる。
「よ、夜遊びって……そんなんじゃないって言ってるっしょ! それに美里さんも一緒だもん」
「あんまり遅くならないようにね。気をつけなさいよ」
「わかってる!」
 これ以上からかわれてはたまらない。おざなりな返事をしながら急いで玄関を出る。
「……今夜は特に、ね」
 小さくつぶやいたみさとの声は、急いでいるさおりの耳には届かなかった。



 昨日と同じ場所で徹と待ち合わせて。
 やっぱり美里も来ていて。
 浩一と合流して、四人で展望台へと向かった。なぜか徹が浩一のことを睨んでいるようにも見えたが、さおりは特に気にとめなかった。
 土曜日のせいか、さおりたち以外にもいくつかの人影がある。噂を聞いて見物に来た人たちだろうか。やっぱり世の中、けっこう暇人がいるようだ。
 今夜は満月。
 昨夜に比べると風があって、雲が少し出てきているけれど、月の周りはまだ綺麗に晴れている。
 明るい月光が降りそそいでいた。
 背中がむずむずする。
 満月のせいだろうか。その感覚は昨夜よりもさらに強い。
 さおりはみんなから少し離れて、樹の陰になる位置に立った。今夜、月光の下にいることは危険だった。
 そして、残念でもある。せっかくの素敵な月夜に、思う存分翔ぶことができないなんて。
 小さく溜息をつく。
 そんなさおりの耳に、かすかな金属音が届いた。
 キィ……キィ……
 錆びた金属がこすれ合う音。ブランコの音のようだ。
 こんな時刻に、誰がブランコで遊んでいるのだろう。何気なく、音のする方へと歩いていった。
 キィ……キィ……
 音が、だんだん近づいてくる。
 水銀灯の青白い光の下、小学校高学年くらいの女の子がブランコを揺らしているのが見えた。
 茶色がかった短い髪の、ややボーイッシュな雰囲気の女の子。目が大きくて、活発そうで、なかなか可愛らしい子だ。
 一瞬、女の子と目が合った。こちら見て、にこっと笑う。反射的にさおりも笑みを返した。
 ブランコの揺れが、だんだん大きくなってくる。
 見ている方がはらはらするくらいに大きくブランコを揺らし、一番高く上がったところで女の子の身体が空中に飛び出した。
「――っ!」
 危ないっ――思わず悲鳴を上げそうになる。
 しかしさおりはその声を呑み込んだ。
 驚きのあまり、声が出なかった。
 女の子の背後に、純白の翼が広がっていたから。
 月明かりを浴びて真珠色に輝く、大きな翼。
 翼を広げた女の子は、さおりの前にふわりと音もなく着地した。
 驚愕に目を見開く。
「あ、あ、あなた……」
 女の子は、悪戯な笑みを浮かべてこちらを見つめている。
 その時、不意に理解した。
 最近の『妖精』の噂の主は、さおりではなくてこの子なのだ、と。さおりはいつも、周囲に人の目がないか十分に気をつけていた。噂になるほど頻繁に目撃されていたとは考えにくい。
「ふふっ」
 突然、女の子が回れ右して走り出した。考えるよりも先に身体が動き、さおりも後に続く。
 女の子の後を追って、公園の背後に広がる森の中へと入っていった。



「あれ、さおりは?」
 美里に訊かれて、徹はきょろきょろと周囲を見回した。
「……あれ?」
 いつの間にか、さおりの姿が見当たらない。つい先刻まで、すぐ傍にいたはずなのに。
 浩一も気づいたのか、怪訝そうな表情を浮かべている。
 ひょっとして、翼が現われそうになって慌てて隠れたのだろうか。そんなことを考えた徹の耳に、かすかな音が聞こえてきた。
 キィ……キィ……
 錆びた金属のこすれ合う音。
 音が聞こえてくる方向を見る。
 少し離れたところで、無人のブランコが揺れていた。たった今まで、誰かが遊んでいたかのように。
 その光景に、奇妙な既視感を覚える。
 ぞくり……。
 えもいわれぬ寒気がした。腕に鳥肌が立つ。
「月城は……森の中だ」
 徹はつぶやく。なぜか、そう感じた。
 空を見上げる。
 もうずいぶんと高くまで昇った月が、煌々と輝いている。
「急いで連れ戻さないと。手分けして捜そう」
 それだけ言うと、徹は走り出していた。
 詳しく事情を説明している時間も惜しかったし、どう説明すればいいのかもわからなかった。



 女の子は、森の樹々の間を器用にすり抜けて飛んでいた。
 走っていては追いつけない速度だ。さおりも翼を広げて後を追っている。
 いったい何者なのだろう、あの女の子は。
 さおりと同じ、翼を持つ者。
 一年前、さおりを捜していた徹が出会ったという少女だろうか。
 話を聞きたかった。
 この翼はいったいなんなのか。
 自分たちは何者なのか。
 きっと、あの子は知っている――そう思った。
 月明かりに照らされた巨木の森の中を、二人は縫うように飛んでいく。
 いつしか周囲は、見慣れた奏珠別の山の景色ではなくなっていた。
 日本では見ることのできない、常緑樹の巨木。
 不自然なほどに大きな羊歯。
 月明かりの下で淡い燐光を放つ花。
 いずれも、さおりが住む街には存在しないものだ。
 どのくらい飛んでいたのだろう。森の中にぽっかりと開いた空き地に、女の子は着地した。
 翼をたたんで、促すようにこちらを振り返る。
 さおりも、少し離れたところに降り立った。
 柔らかな草を踏む感触。
 森の樹々と青草の香り、そして降りそそぐ月光が心地よい。
 空気が違う。
 普段いる場所とは、なにかが根本的に違う場所。
 どういうわけか、いつものように翼をしまうことができなかった。さおりは邪魔にならないように、少女を真似て背中側に翼をたたんだ。
 一歩、距離を詰める。
 女の子はにこっと微笑んだ。
「おかえりなさい、サオリ」
「え……?」
 驚いて、その場に立ち止まった。見知らぬ相手にいきなり自分の名前を呼ばれるというのは、心穏やかなことではない。
「あ、あたしを知ってるの? あなた……誰?」
「アタシ? アタシの名前はティル。サオリの仲間だよ」
「仲間……?」
 そう。
 確かに仲間だ。
 同じ、翼を持つ者。
 さおりが出会った、たった一人の『仲間』だった。
「サオリのことを、迎えに行ったの。サオリがいるべき場所はこっちだから」
 子供っぽい無邪気な笑顔で、ティルと名乗った少女は言った。
 一瞬、さおりの身体が強張った。
「……な、なに、それ? あ……あたしの家は、あたしの住んでいた街は、奏珠別よ」
「人間の街は、人間だけが住む場所……そうでしょ? 人間以外の存在にとっては、あれほど居心地の悪い場所はないもん」
「あ、あたしは人間よ」
「自分でも信じちゃいないくせに」
「――っ」
 ショックだった。
 きっぱりと言い切られるのは、やっぱりショックだった。
 自分でもわかっていたこと。
 最初からわかっていて、だけど考えないようにしていたこと。
 アタシハ ニンゲンデハナイ――
 わかっていた。
 だけど、考えたくなかった。
 唯一そのことを知っている徹が触れないのをいいことに、考えないようにしてきた問題。
 認めるのは嫌だった。
 認めてしまえば、もう戻れない。普通の女の子として生きてきた十数年間が、すべて壊れてしまうような気がしていた。
「でも……だけど。これまでずっと、あの街で暮らしてきたんだもの。大切な友達だっているもん」
 さおりは言った。
 声が、震えていた。
「人間の心なんて移ろいやすいもの。サオリの秘密を知ったら、周りの人間たちはどう思うかしら」
「す、少なくとも神山は気にしていない。この羽根を好きだと言ってくれてるもん」
 それだけが、拠り所だった。
 それだけを支えに、この一年間を過ごしてきたのだ。
 もしも、初めて翼を見た時の徹がさおりのことを拒絶していたら、そのまま奏珠別の街で暮らすことはできなかっただろう。
「本当かなぁ」
 ティルが小馬鹿にしたような口調になる。
「サオリの父親みたいな人間もいるよ。むしろあの世界じゃ、その方が多数派でしょ」
「――っ!」
 それは、あまりにも予想外の台詞だった。
「あ……あたしのパパのこと、知ってるの?」
 さおりだって知らない。生まれる前に母親と離婚した父親のことなんて。
 家には写真すらなかった。ひょっとしたらみさとは持っているのかもしれないが、さおりは見たことがない。母親の方からなにも言わない以上、こちらからは訊きにくい話題でもある。
「知ってるよ。サオリの母親を化物呼ばわりして逃げていった男でしょ」
「……」
 さおりは、なにも言えなかった。
 どうしてこの少女は、そんなことを知っているのだろう。
 父親のことも、母親のことも。
 ひとつしか考えられない。
 さおりが人間ではないのなら。
 それなのに父親が普通の人間なのだとしたら。
 さおりの母親だって、人間であるはずがない。
 人間ではない存在。
 さおりが生まれ育った世界とは、少しだけ異なる場所に暮らす者。
 だけど。
 こちらが、本来の場所なのだ。
 今いるこの場所こそが、さおりやみさとが本来いるべき場所なのだ。
 さおり自身は初めて訪れる場所であっても、本能が、魂が、全身の細胞のひとつひとつがそのことを知っていた。
「さあ、行こうよ」
 ティルが手を差し伸べてくる。
「みんな、待ってるよ。サオリがこっちに帰ってくるのを」
「みんなって……」
 みんなって誰?
 それを訊くこともなく、さおりは無意識のうちに腕を上げていた。
 ティルの手を取ろうとする。
 指が触れた、その時――
「月城!」
 背後から、名前を呼ぶ声がした。
 びくっと身体が震え、指が離れる。
 反射的に、声のした方を振り返った。
「月城……」
 森の樹々が途切れるところに、徹が立っていた。
 ここまで走ってきたのか、全身汗だくだ。
 そういえば一年前にも、こんな姿を見たことがある。
 そして……
「――っ」
 さおりは息を呑んだ。
 徹の斜め後ろに、美里が立っていた。真っ直ぐに、こちらを見つめていた。
「美里……さん!」
 思わず、両手で口を押さえた。
 今の、自分の姿を思い出した。翼を露わにしたままの、自分の姿を。
 見られた。
 見られてしまった。
 これまで徹だけが知っていた秘密を。
 さおりは視線を逸らした。美里がいったいどんな目で自分を見ているのか、直視する勇気はなかった。
 草を踏む音が近づいてくる。
 駆け寄ってきた徹は、ティルとさおりの間に立ちふさがった。
「おい、お前! 月城をどこへ連れて行くつもりだよ?」
 荒い息をしながら、怒った声で訊く。
 ティルが笑って応える。
「連れていく? 違うよ。さおりは帰るんだよ」
「月城の帰る場所は、こっちだよ」
 さおりの腕を掴もうとする徹に向かって、ティルは手のひらを向けた。
 一瞬の閃光。
 徹の身体が、草の上に転がった。
「かっ、神山っ!」
 助け起こそうとするさおりの腕を、ティルがしっかりと掴まえる。
 さおりよりも華奢で小柄なのに、その力は意外なほどに強かった。
「放っておいても、怪我なんかしてないよ。手加減したもの。邪魔だから、ちょっと気絶してもらっただけ」
「でも……」
「……ふぅん」
 さおりの声に、もう一つの声が重なる。
 気がつくと、いつの間にか美里がすぐ近くに立っていた。さおりではなく、ティルを見つめている。
「美里……さん……」
「面白いことするじゃない? あんた……何者か知らないけどさ」
「人間では勝てない相手。それだけわかれば十分でしょ?」
「そうね」
 美里はわずかに肩をすくめた。
「私はそこで寝てる単純バカとは違うけど。ちょっと……さおりと話してもいい?」
「いいけど、早くしてよね」
「すぐ済むよ」
 そう言って、美里はさおりの方に向き直った。一歩、近づいてくる。
「さおり」
「……美里、さん」
 美里は、すごく真剣な表情をしていた。あまり感情は表に出ていないが、怒っているようにも見える。
「さおり、あんたさぁ」
 耳を塞ぎたかった。
 聞きたくない、聞くのが怖い。
 いったい、なにを言われるのか。
 しかし。
 ザッ!
 まったく不意に、美里の脚が振り上げられた。
 千切れた草が舞う。
 爪先が、横にいたティルの腹にめり込んでいた。
「油断しすぎだよ、バカ」
 美里が脚を下ろすと、ティルの身体はその場に崩れ落ちた。
 地面についた脚をもう一度高く振り上げ、倒れたティルの背中に踵を叩きつける。
 短い、くぐもった悲鳴が上がった。
「私は、手加減なんかしない。さおりを守るためなら、見ず知らずのあんたを傷つけることなんかなんでもない。……それにどうやら、怪我させても警察沙汰になる相手じゃないようだし?」
「美里さん……」
「ところで、こいつって何者?」
「力いっぱい蹴飛ばしてから訊くのもどうかと思うけど……」
「いいじゃん、さおりのためなんだから」
「あの……えっと……あ、あたしにも、よくわからないの……」
「ふぅん? ま、いいや。さっさと戻ろう。ここはどうも、私らが長居すべき場所じゃなさそうだから」
 美里はあっさりとした口調で言った。
 さおりの背から生えている翼のことには触れもせず、気を失っている徹を爪先で小突いている。
「こいつは置いていきたいところだけど、そうもいかないか」
 しぶしぶ、といった様子で徹を担ぎ上げ、さおりの方へ手を伸ばす。
「さ、帰ろう?」
「あ、あの……えっと……」
 どうして?
 どうして美里は、なにも言わないのだろう。
 翼を目の当たりにしているのに。
「あ、あのね、美里さん……その……あ、あたしの、こと……なんだけど……」
 さおりの台詞は、眩い閃光によって遮られた。
 美里の身体は抱えていた徹ごと吹き飛ばされ、草の上に転がる。
「美里さんっ!」
 いつの間にか、ティルが身体を起こしていた。
 苦しそうに呻き声を上げて立ち上がると、唇の端についた血を手で拭う。
「人間のくせに……いい気になるな」
 右腕を、真っ直ぐ前に突き出した。手の中に小さな光が生まれたかと思うと、次の瞬間それは剣のような形に伸びていった。
「殺してやる!」
 まだいくぶんふらつく足取りで、美里の方へと歩いていく。
「だめっ! やめて!」
 さおりは慌てて、ティルの前に立って両腕を広げた。
「……どきなよ」
「いや!」
 ティルはさおりを睨みつけ、剣を鼻先に突きつける。
 足が震えたけれど、さおりはその場を動かなかった。
「どけ!」
「いや! 絶対にどかない!」
「サオリ、あんたも痛い目に遭いたいの?」
 冷たい目をしたティルが言う。
「……それでも、どかない」
「そう、だったら……」
 ティルが、剣を持っていない方の手を上げた。さおりに触れようとしたその時。
「こら、子供が遊んでていい時間じゃないわよ」
 突然割り込んできた声。二人はほとんど同時に、声が聞こえてきた方に顔を向けた。
 さおりが息を呑む。
 いつの間に現われたのか、一人の女性が立っていた。美里よりもずっと年上の、大人の女性だ。
 その女性は、少しさおりに似た面影を持っていた。
 ティルが、緊張した面持ちで唇を噛んでいる。
「……ママ」
 さおりはなんとか、それだけの言葉を絞り出した。驚きのあまり、他の言葉が出てこない。
 そこにいたのは月城みさと、紛れもないさおりの母親だった。
「さおり、何時だと思ってるの。さっさと帰りなさい」
「いや、あの……ママ?」
 この状況下で、いつもと同じ母親の口調。それだけに戸惑ってしまう。
 普段となにも変わらない態度と、初めて見る母親の姿。
 みさとの背には――大きな翼が広がっていた。
「ママ……」
 真珠色の光沢をまとった、美しい翼。
 身長の違いのためだろうか、ティルやさおりの翼よりもひとまわり大きく、力強さが感じられる。
 そしてもう一つ、ティルやさおりとは大きな違いがあった。
 二人の翼が純白であるのに対し、みさとのそれは深紅の羽根が混じって、縞模様を描いている。どこか血の色にも似て、さおりは本能的な禍々しさを覚えた。
「ティル……だっけ? 人の娘を勝手に誘惑しないの」
 みさとはかすかな笑みを浮かべて言った。
「まったく、高嶺のジジイどもも図々しいわね。彩羽の私を追放したくせに、娘が純羽だと知ったら、手のひらを返して連れ戻そうとするんだから」
「……ママ?」
 さおりは首を傾げた。
 いったい、なんの話をしているのだろう。
 漠然とわかるような気もするが、さおりを無視して話しているのでさっぱり詳細が見えてこない。
「高嶺の……いや、純羽の歴史は、もう終わっているのよ。こうして彩羽の子まで攫っていっても、高嶺は人口を維持できていない。自分たちの時代はとっくに終わっているのに、いつまでも過去の栄光にしがみついて、みっともないったらありゃしない」
「う、うるさい! あんたなんか、彩羽のくせに……高嶺は永遠の存在だよ!」
 ティルが叫ぶ。ひどく取り乱した様子で。
 みさとはふっと小さな笑いを漏らした。
「さおり、ちょっと離れてなさい」
 わけもわからずに、さおりはその言葉に従った。震える脚をなんとか動かして、数歩後ろに下る。
 ティルはその場に立ったまま、みさとを睨みつけていた。
「ねえ、どうして高嶺の民が彩羽を忌み嫌うか、知ってる?」
 美里が片手を上げる。その手の中に、ティルが手にしているのと同じような光の剣が現われた。
 しかしその剣が放つ光は、ティルのものよりもずっと眩い。
「彩羽はね……純羽よりもはるかに強い力を持つのよ」
 次の一瞬の動きは、さおりの目には見えなかった。
 ただ、目も開けていられないほどの眩い光が爆発したように感じただけだ。
 数秒後、涙を潤ませながら目を開けると、ティルが草の上に倒れていて、その前にみさとが立っていた。
「……ママ?」
「大丈夫、怪我なんかさせてないわよ。ちょっと気を失ってるだけ。子供相手に本気になるはずないでしょ?」
 小さなティルの身体を片手で抱え上げる。そしてもう一方の手で、近くに倒れていた徹も。
「さおりはみーちゃんを連れてきて。これ以上遅くならないうちに帰るわよ」
「えっと、いや、……あの」
「なぁに? 徹くんを運ぶ方がいいの?」
「いや、そういうんじゃなくて」
 いったい何がどうなっているのか、全然わからない。
 さおりを蚊帳の外に置いて、話が進んでいるような気がする。
 しかし、さおりとしても早く家に帰りたかった。ここの空気はとても心地よいけれど、それでもここにはいたくない。
 自分が帰るべきところは、ここじゃない。
 さおりは、倒れている美里の身体に腕を回して翼を広げた。
 翼がその力を発揮し、自分の身体と、抱えている美里の身体が、重さを感じないほどに軽くなる。
 軽く地面を蹴ると、二人の身体は宙に浮いた。一足先に舞い上がった母親の後を追って、森の樹々の梢よりも高く上昇する。
 西の空に傾きはじめた満月が、翼を広げた二人を照らしていた。
「ねぇ、ママ?」
 並んで飛びながら、みさとに声をかける。
 詳しい話を聞きたかった。
 いったい、この翼はなんなのか。
 ティルは、そしてなによりみさとは、いったい何者なのか。
 先刻のみさとの台詞に出てきた高嶺とか彩羽という言葉は、いったい何を意味しているのか。
 全部、知りたかった。知らなければならなかった。
 これは、自分自身のことでもあるのだ。いつまでも、目を逸らしたままでいいはずがない。
 母親の顔がこちらを向く。
「……ごめん。今は話したくないわ。いつか、ちゃんと話すから」
 みさとは寂しそうな、そして悲しそうな表情をしていた。母親のこんな顔を見るのは初めてだった。
 だから、それ以上なにも訊けなくなってしまった。
 いろいろと、辛いことや悲しいこともあったのだろうとは推測できる。そのすべてを「昔話」として娘に語るには、まだ新しすぎる記憶もあるのかもしれない。
「それより、さおり?」
 さおりが口をつぐむと、今度はみさとの方から話題を変えてきた。
「……あなた、自分の父親に会ってみたい?」



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