翌日の日曜日は、雨だった。
 朝から降り続いていた雨は、夜にはかなり激しい降りになっていた。
 雨の中、さおりは重い足取りで歩いていた。
 先刻まで、父親と会っていたのだ。


 昨夜遅く、みさとが電話で連絡を取って、急遽今日会うことが決まった。
 生まれてから一度も会ったことのない父親だが、みさとはちゃんと連絡先を把握していたらしい。
 みさとはついてこなかった。「あの人は私のこと怖がっているから」と笑っていたが、どこまで本当なのかはわからない。
 初めて会う父親は、ごく普通の人間だった。高級そうなスーツをきちんと着こなして、待ち合わせのレストランに現れたその男性は、実際の歳は四十前後のはずだが、外見はもう少し若く見えた。
 まあまあ、ハンサムだと思った。
 さおりに対してやや戸惑いがちの笑みを浮かべて「初めまして」と言った時の第一印象は、悪いものではなかった。
 それに対して自分がどんな挨拶を返したのか、ひどく緊張していたので思い出せない。
 ただ、さおりに対して恐怖感や嫌悪感を抱いている様子は感じられなかった。それどころか「こんな可愛い娘を持つチャンスを失くしたのは残念だな」などと言って笑っていた。
 そして、みさとと出会って結婚した当時の話を、少しだけしてくれた。
 みさとはずっと、自分の素性を隠していたのだという。
 ちょっとした不注意から秘密がばれたのは、二人が結婚してみさとの妊娠が判明した後のこと。
 父親がその時どれほどショックを受けたのかは想像するしかないが、とにかく彼は、そのままみさとを捨てて逃げ出したらしい。
 自分の秘密を隠していた母親。それを知って逃げ出した父親。どちらが悪いのか、さおりには判断がつけられなかった。
 さおりが父親と一緒にいたのは、一時間ちょっとのことだったろうか。レストランで食事した後、西の台の地下鉄駅まで送ってくれて、そこから家までのタクシー代をくれた。歩いてもそれほど時間のかかる距離ではないし、まだバスもある時間だったのだけど。
 そこまで親切にしてくれながら家の前までは送ろうとしなかったことが、少し心に引っ掛かった。どうやら父親は、みさとに会うのを嫌がっていたのではないだろうか。もっとはっきり言えば、みさとのことを恐れていたようにすら思える。
 そこで、ふと、昨夜のみさとやティルの姿を思い出した。
 剣を手にした、戦いの姿。
 人間にはない、不思議な、強い力を持つ者たち。
 普通の人間がすんなり受け入れられるものではないのかもしれない。
 さおりはタクシーには乗らず、雨の中を歩いて帰った。
 歩いて、いろいろと考えたかった。
 自分のこと、母親のこと、父親のこと、そして徹や美里のこと。
 父親との会話の細かいところは、ほとんど憶えていなかったが、ひとつだけはっきりと記憶に残っている言葉があった。
『君は可愛いし、こんな娘を持てたら確かに幸せだろうな。……だけど、自信がないんだ。人間ではない存在。そのことを知りながら、この先ずっと家族を愛することができるのかどうか、僕には自信がない。なにしろ家族っていうのは一生のことだからね』
 そうだ。
 確かにそうだ。
 羽根のことを知りながらもさおりを好きだと言ってくれる徹だって、いつかは気持ちが変わるのかもしれない。
 そして美里は?
 そう、美里にも見られてしまったのだ。
 次に会った時、美里はどんな反応を示すのだろう。そもそも、会ってくれるのだろうか。
 美里も徹も昨夜は気を失ったまま、みさとが家へ送っていったらしいので、さおりは詳しいことは知らない。そういえば、はぐれてしまった浩一はどうしただろう。一緒に連れ帰ったはずのティルも、朝には姿が見えなかった。
 歩きながら、さおりは何度も溜息をついた。
 明日は月曜日、学校へ行くのは憂鬱だ。
 空を見上げる。
 昨夜のきれいな月が嘘のように、強い雨が降り続いていた。



 雨は翌日も降り続いていた。
 大雨洪水警報が発令されるような天候の下、気は進まなかったがさおりは学校へ行った。
 休み時間に徹が傍に来て、ぽつりと「あまり気にすんなよ」とだけ言ってくれた。
 少し素っ気ないような態度だったが、それはいつものことだ。クラスメイトに冷やかされたりするのが嫌なので、お互い学校でベタベタするようなことはない。
 その日は結局、短縮授業で昼前に下校することになった。学校の近くを流れる奏珠別川の水かさが、危険水位まで上がってきたからだ。
 こんなことなら最初から休めばよかったかもしれない。そんなことを考えながら、さおりは一人で家路についた。
 仲のいい友達も、徹も、学校からの帰り道は方向が違うし、今日は寄り道して遊びに行くような状況でもない。
 雨は既にピークを過ぎているようで、空はいくぶん明るくなりはじめていた。とはいえ、まだ傘なしで歩けるほど小降りにはなっていない。
 水たまりを避けながらのろのろと歩いていると、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、こちらに駆けてくる浩一の姿が目に入った。飛沫が上がってズボンの裾が汚れてもお構いなしだ。
「どうしたの、そんなに急いで」
「いや、話があったから追いかけてきたんだ。今日は、学校じゃそんなヒマなかったしな」
「話?」
 一瞬、全身の筋肉が緊張する。あまり嬉しくない話題のような気がした。
「一昨日のことだけどさ……」
 ほら、やっぱり。
「みんなとはぐれた後、いったいどうしたんだ? 俺もよく憶えてないんだよな。記憶が曖昧で、気がついたら家にいた、って感じで」
「えっと、その……」
 さて、困った。
 いったい、どう答えたらよいのだろう。なんとかアドリブで切り抜けなければならないが、嘘をつくのは上手な方ではない。
「神山もなにも言ってなかったし。それにお前ら、今日はなんかよそよそしかったよな。なにかあったのか?」
「い、いや、別に……」
「さては、暗がりで二人きりになった神山が、ケダモノと化して襲ってきたのか? そうだな?」
「な、なに考えてンの。そんなことあるわけないじゃない」
「じゃあ、ケダモノと化した東野先輩が以下同文」
「……それは、微妙にありそうな話ね」
 思わずそう答えた後で、浩一と目が合って二人同時に吹き出した。
「心配してくれてありがと。……でも、別になんでもないんだ」
「そうか? ならいいんだけど」
 浩一はそこでこの話題を打ちきり、さおりと並んで歩き出した。
 少し気まずかったが、帰り道が一緒だから仕方がない。浩一の家は、徹や美里よりもずっと近所だ。
 街の中を流れる奏珠別川の橋を渡る。
 普段はそれほど水量も多くない清流だが、今日は茶色く濁った水が渦を巻いていた。生まれてからずっとこの街に住んでいたさおりも、今まで見たことがないほどの増水だ。今すぐ氾濫する、というほどではないが、これ以上増水が続くようなら危ないかもしれない。
 二人は橋の上で少し脚を止めて、物珍しげに濁流を眺めていた。浩一はいつも持ち歩いているカメラを取り出して、川に向かってシャッターを切っている。
「こうして見てると……なんだか、怖いね」
 轟々と渦巻く濁流は、不安が渦巻くさおりの心境と重なって見えた。
「そうだな……と、なんだ、あれ」
「え?」
 橋の上から身を乗り出して、浩一が指差す方向を見た。
 木の枝や枯れ葉に混じって、黒っぽいゴミのようなものが流されている。それが橋の下をくぐる時、さおりはその正体に気がついた。
「大変、仔猫だよ! このままじゃ溺れ死んじゃう!」
 その台詞が終わらないうちに、浩一が走り出していた。土手の上を通って、流されていく猫を追いかける。さおりも少し遅れて後に続いた。
 水流は普段よりもはるかに激しいが、それでも走れば追いつけないことはない。雨に濡れた草の中を走って靴やソックスがびしょ濡れになるが、そんなことを気にしてはいられない。
 流されていく仔猫を追い越すと、浩一は川岸に打ち上げられていた二メートルほどの流木を拾った。空いている方の手で土手に生えた草に掴まり、流れに身を乗り出して腕を伸ばす。
「やった!」
 遅れて追いついたさおりは、思わず飛び上がって歓喜の声を上げた。仔猫はちょうどうまい具合に、浩一が持っている木の枝の、二股に分かれたところに引っ掛かった。
「よーし、そのまま、じっとしてろよ」
 浩一はゆっくりと、枝をたぐり寄せる。仔猫はただ引っ掛かっているだけだから、慎重にやらないと外れて流されてしまうかもしれない。
「よしよし、こっちだ」
 仔猫を掴まえようと、浩一は手を伸ばした。小さな生物がその手の中にすっぽりと収まった瞬間。
 大きな水音と、浩一の短い叫びが同時に上がった。
 足元が滑って川に落ちたのだ。
 そのまま流されていく。
 今日の増水は、仔猫はもちろん人間にとっても危険な状態だった。服を着たまま泳げるような状況ではないし、当然、足が届くような水深でもない。
 頭で考えるより先に、身体が動いていた。
 次の瞬間、さおりの身体は渦巻く水面の上にあった。
 翼を広げ、流れに速度を合わせて浩一に手を差し伸べる。
 掴まえてしまえば、後は簡単だった。手が触れた瞬間、翼の魔力で浩一の身体も羽根のように軽くなり、簡単に水から引き上げることができた。
 仔猫を抱えたままの浩一を吊り上げ、土手の上に降ろす。
 咳き込みながら水を吐きだした浩一が顔を上げ、さおりと目が合った。
 その目が、丸く見開かれる。
 さおりの背には、翼が広げられたままだった。
「つ、月城……?」
 浩一の視線は、真っ直ぐに翼に向けられている。状況が理解できずに、混乱している様子だ。
 これでおしまいだ、とさおりは思った。
 誤魔化しようもない。日中の明るさの中で、この至近距離ではっきりと見られてしまったのだから。
「月城……その……な、なんなんだ?」
「……」
 なにも、答えられなかった。
 さおりはそのまま地面を蹴ると、浩一を残してその場から飛び去った。



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