雨の中を家まで飛んで帰ってびしょ濡れになったさおりは、そのままバスルームへと直行した。
気分は、どん底まで落ち込んでいる。
シャワーを浴びているうちに、涙が溢れてきた。
見られてしまった。
人間ではない姿を、見られてしまった。
これまでずっと、徹以外の人間には隠してきた秘密を、知られてしまった。
いったい浩一はどう思っただろう。
あの、驚愕に凍りついた表情が目に焼き付いている。
もう、隠し通すことはできない。
今まで通りの生活を続けることはできない。
浴室を出たさおりは、バスタオル一枚の姿でソファーに座ってうつむいた。
「どうしよう……どうしよう……」
唇から泣き声が漏れる。
「もう、学校にも行けない……」
クラスメイトに知られてしまったから。
学校に行けないどころか、この街にもいられなくなるだろう。
人間の街は、人間以外の存在を受け入れるほど寛容ではない。
ティルの言葉が思い出される。
「もう……友達にも会えないよ……」
「どうして?」
背後からの突然の声に、さおりは驚いて跳び上がった。身体に巻いていたバスタオルが落ちて、しかも翼まで飛び出してしまう。
美里の声だ。慌てて振り返ろうとしたところを、それよりも早く後ろから抱きしめられてしまった。
「み……美里さん……どうしてここに?」
「ちょうど、さおりがシャワーを浴びてる時に来て。みさと先生に入れてもらった」
耳元でささやかれる。唇が耳たぶをくすぐる。
美里の唇はそのままうなじへと移動して、さらに背中の方へ下りていく。
「あ……あ……、あのっ!」
「やっぱり綺麗だね。この羽根」
ちょうど肩胛骨のあたり、翼の付け根にキスされて、さおりは身体を震わせた。翼が出ている時、そこはひどく敏感になっている。
「やっ……あんっだめ!」
「ん〜、可愛い声。みさと先生に教えてもらったんだ。この、翼の根元部分が感じやすいんだって?」
「やぁんっ! どぉして?」
じたばたと暴れて、ようやく美里の腕から逃れることができた。振り返ると、美里がさも可笑しそうに笑っている。
状況が理解できなかった。美里はどうして、普段通りにこうしたスキンシップを求めてくるのだろう。いや、正確にいえば、普段よりも少し積極的だ。だけどそんなのは、さおりが予想していた反応ではない。
一昨日の夜、翼を生やしたさおりの姿を目にしているのに。
そのことをまるで当たり前のように受け入れている。
どうして?
「美里さん、もしかして……」
ひとつだけ。
ひとつだけ、考えられることがあった。
「その……まさか、知ってたの? 前から……」
「もちろん?」
拍子抜けするくらいあっさりと肯定されて、さおりはいっそう驚いた。
「ど、ど、どーして? それにいつから?」
「今さらなに言ってるかなぁ」
呆れたような声。
「初めて会った夜。さおりは空飛んでて、倒れている私を見つけたんでしょ?」
「――っ!」
さおりは言葉を失った。
確かに美里の言う通りなのだが、まさか見られていたなんて。あの時はてっきり、気を失っていたものとばかり思っていた。
「朦朧とした頭で思ったよ。ああ、天使が迎えに来たんだって。もちろん、最初は夢かと思ってたけど」
「けど?」
「さおりってば居眠りしている時、しょっちゅう羽根を出しっぱなしにしてる」
笑いを堪えながら美里は言った。
「う、うそぉっ?」
「ホント」
「じゃ、じゃ、じゃあ……どうして? どうして何も言わなかったの?」
「バレてることに気づかずに、必死に隠そうとしてるさおりの様子が可笑しいんだもの」
「そ、そーじゃなくて! ……だって、ヘンでしょ? 羽根が生えてるなんて」
「いいんじゃない? 私は、ちょっと変わった女の子の方が好きだよ」
話がぜんぜん噛み合っていない気がする。だけど、いつものようにさおりをからかう美里の態度に、少しだけ安心した。
理由はよくわからないけれど、急に涙が出そうになった。
その時、不意に玄関のチャイムが鳴る。
玄関へ向かおうとしたさおりは、今さらのように自分の格好を思い出した。シャワーを浴びた後で、服を着ていないどころか今はバスタオルすら巻いていない。
「私が出るから、さっさと服を着なさい」
そう言って出ていった美里は、すぐに、また意味深な笑みを浮かべて戻ってきた。
「例の、新聞部長」
「え?」
心臓が大きく脈打つ。ブラウスのボタンを留めていた手が一瞬止まった。
「追い返す?」
「……ううん、出る」
さおりは急いで服を着終えると、大きく深呼吸した。
今、浩一に会うのは怖い。だけど、ここで逃げてはいけないと思う。
結果がどうなるにしろ、きちんとしておきたい。そうするべきだ。
さおりが玄関へ行くと、大きな紙袋を持った浩一が、複雑な表情をして立っていた。何を考えているのか、どうにも読みとれない。
「あ、あの……」
「これ」
戸惑っているような、怒っているような、あるいはなにか思い悩んでいるような。そんな表情で、浩一は紙袋から取り出した荷物を差し出した。
さおりの傘と鞄だった。
雨の中に放り出していったはずなのに、汚れはきれいに拭き取られている。
「……あ、ありがとう」
躊躇いながらも、さおりは荷物を受け取った。浩一は、もう一方の手も差し出した。
「それと、こいつ」
それは、小さな声で「にゃあ」と鳴いた。
小さな仔猫。焦げ茶色の毛はすっかり乾いていて、浩一の手の中で毛糸玉のように丸まっている。
「俺ンち、親が猫アレルギーだからさ。迷惑じゃなければ……」
「……ん」
深く考えずに、仔猫を受け取った。今後、この家で飼えるのかどうかはわからないけれど。
「そして……これ」
「え?」
二度、三度、さおりは目を瞬いた。
傘と鞄はわかる。
仔猫もまだいい。
だけどもう一つ紙袋の中から取り出したものを見て、まったくわけがわからなくなった。
それは、大きな花束だった。鮮やかな深紅の薔薇を中心とした、色とりどりの花々。
「え、えっと……」
その意味が理解できずに戸惑っていると、浩一は小さく深呼吸して言った。
「俺、月城のことが好きだ」
「……は?」
「だから、俺と付き合ってくれないか?」
「え…………と……、えぇぇっ?」
数秒遅れてようやく、言われていることの意味を脳が理解した。次の瞬間、さおりは目を丸くして大声を上げていた。
「な、な、なにを言い出すのよ突然……」
「突然じゃねーよ。俺、前から月城のことが気になっていて……でもお前ってこーゆーことに鈍いから、さりげなくほのめかすくらいじゃ全然気づかねーし」
好きな女の子相手に、きっぱり「鈍い」と言うのもどうかと思うが、残念ながら反論はできない。確かに、ぜんぜん気づいていなかった。
しかし考えてみれば、文芸部のさおりを強引に新聞部に引き込んだのも浩一なのだ。あれは実は部員不足のためではなかったのかもしれないと、今さらのように思った。
「おまけに神山ってライバルもいたし……どうしようかと思ったけど、先刻のあれだろ? これはもう運命だって思ったね。やっぱり女の子は、羽根が一番だよな」
「……は?」
「メイドもいい、ネコ耳はもっといい! ウサ耳も捨てがたい。だけどやっぱり一番は羽根だよ、うん! なぁ、そう思うだろ?」
「え……いや、あの……?」
羽根が生えていることの理由とか、本来いちばん重要であるはずのことはまるで無視している。
美里といい徹といい、どうしてこんな性格の人間ばかりが集まっているのだろう。それとも、さおりの感性の方が間違っているのだろうか?
どう反応したらいいのかわからずに固まっているさおりの手を握った浩一は、満面の笑みを浮かべて言った。
「俺、月城のこと大切にするから。羽根だって、毎日ブラッシングしてやるよ」
「いや……あのね?」
「それとも月城、……俺のこと嫌いか?」
「そ、そんなことはない……けど……」
「じゃあ問題はないな」
いや、問題はいろいろあると思う。そのことを口にする前に、多分いちばん大きな問題が玄関に飛び込んできた。
「待てやコラ!」
いきなり、扉を壊しそうな勢いで飛び込んできた徹が、そのまま浩一の背中に蹴りを入れた。
「てめぇ、誰に断って月城を口説いてんだ、あァ?」
浩一の服の襟を掴み、血走った目で凄んでいる。
「少なくとも、お前に断る必要はないと思うが」
「月城は俺が先約だぞ」
「先に告白すればいいってもんじゃない。ずっと、いい返事をもらえずにいたくせに」
「……っ、てめぇっ!」
図星を指された徹が逆上する。対照的に浩一は余裕ありげな笑みを浮かべた。
「言っておくが、俺の羽根好きは神山の比ではないぞ」
「オタクな自慢してんじゃねーよ! 俺だってなぁ、月城の羽根に一目惚れしてんだからな!」
いまにも取っ組み合いになりそうな雰囲気の中にあって、さおりはただおろおろとするばかりだった。論点が妙な方向にずれていることにも気づかない。
そこへ、別な声が割り込んでくる。
「こーゆー場合はアレだよ、日本古来の決着のつけ方。それぞれがさおりの手を両方から引っ張って、先に離した方が勝ちという……」
「……日本古来っていうのは、微妙に違うと思うけど」
この状況を楽しんでいるようにしか見えない美里の態度に、さおりは小さく溜息をついた。
「だったら、男らしく決着をつけたら? もう、雨もほとんど止んだみたいだし」
美里が拳を前に突き出して、殴るような動作をする。徹と浩一はお互いに顔を見合わせた。
「……やるか?」
「望むところだ」
「どっちが勝っても恨みっこなしだぞ」
昔の熱血少年マンガの登場人物のようなノリで、二人が玄関から出ていく。一番の当事者のはずなのに、さおり本人の意思はすっかり無視されていた。
取り残されたさおりの肩に、美里の手が置かれる。
「いやいや、青春だねぇ。若いっていいねー」
「いや……あの、あたし……もう、わけがわかんないんだけど」
「どっちが好き?」
からかうような口調で訊かれる。さおりは小さく首を振った。
「……わかんない」
「どっちも、嫌いじゃないんでしょ?」
「うん……まあ」
「じゃ、私らは奥でお茶でも飲んで、のんびり待ちましょ。私としては、先刻の続きをしたいかな」
美里はさおりの肩を抱いて、居間へ戻るように促した。台詞の後半は、耳元に唇を寄せてささやいてくる。
その悪戯な表情を見て、ようやく、さおりも気がついた。
「……美里さん、ですね? 神山を呼んだの」
考えてみれば、あまりにもタイミングがよすぎる。浩一が来たところで、美里が徹に電話したに違いない。
おそらく美里は、浩一の気持ちに気づいていたのだろう。この状況で二人が顔を合わせれば、喧嘩になるのは当然。その間に美里が漁夫の利を得るというわけだ。
美里の顔が近づいてくる。からかうような笑みが消えて、優しく微笑んでいる。
「みんな……さ、さおりのことが好きなんだよ。誰も、さおりを傷つけようなんて思わないから」
肩に置かれた手が、とても温かい。
「美里……さん……、あたし……あたし……」
涙が溢れてきた。
悲しいんじゃない。その反対。
みんな、いい人だ。美里も、徹も、浩一も。
自分は幸せだ、と思う。母親が経験したのとは違う未来を、期待してもいいのではないかと思ってしまう。
際限なく涙を流している顔を見られるのが急に恥ずかしくなって、腕の中の仔猫を抱きしめて顔をすり寄せた。
頬を伝う涙を、仔猫のざらざらした舌が舐めてくれる。
そして反対側の頬には、美里の柔らかな唇が押しつけられていた。
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