そこは、山中の深い森の中を通る一筋の細い道だった。
普段はほとんど通る者もいないのだろう、ちょっと見には、獣道と間違えてしまうような荒れた道だ。
太陽は既に西の山陰に沈み、辺りには夕闇が立ち込めつつある。
リリ、リリ……
控えめに響いていた虫の音が、草を踏む足音と同時に静まりかえった。
足音の主は、すぐに姿を現した。
急速に明るさを失いつつある森の中を、急ぎ足で歩く一つの人影。
背はあまり高くなく、フードの付いたマントのために顔は隠れている。
かなり暗くなった森の中を、明かりも持たずに歩いていたその人影は、ふと、その歩みを止めた。
息を殺して、何やら周囲の気配を探っているように見える。
そぅっと、腰のベルトに差した短剣に手を掛ける。
普通の人間なら何も気付かなかっただろうが、彼女ははっきりと自分以外の存在を感じ取っていた。
頭上からいきなり、大きな黒い影が飛びかかってくるのと、彼女が短剣を抜くのは、ほとんど同時だった。
相手を目で確認するより先に、短剣を握った手をその影に叩き付ける。
ギャンッ!
甲高い獣の悲鳴が上がり、影は数メートル飛び退いて着地した。
それは、体長二メートルくらいの、豹に良く似た獣。
鼻の辺りから、血を流している。
彼女は止め金を外してマントを足元に落とすと、短剣を構え直した。
やや茶色がかった瞳の鋭い目で、獣を睨み付ける。
獣は喉の奥で低い唸り声を上げながら、目の前の敵を見つめていたが、やがて、くるりと踵を返して森の奥へと走り去っていった。
草を踏む軽い足音が遠ざかる。
その足音が聞こえなくなって、彼女はほっと息を洩らした。
短剣の血を拭き取って鞘にしまう。その場に腰を下ろすと、そのまま仰向けになった。
樹々の梢の隙間から、幾つかの星が瞬いているのが見えた。
「まだ……四日……か」
寂しげな声で、小さくつぶやく。
そう、彼女――松宮奈子――がこの世界に来てから、四日が過ぎていた。
自分でこちらへ転移したのは初めてのため、出現場所がどこになるのか不安だったが、幸いそこは最初にファージと出会った街、ルキアの近くだった。
奈子が最初にこの世界に来た時に、一週間ほど滞在していた街だから、ある程度事情はわかっている。
『タルコプの街に住むソレア・サハ・オルディカという占い師を訪ねるように――』
それが、ファージが奈子に遺したメッセージだった。ならばまずは、その言葉に従うべきだ。
ルキアの街で、食料など、旅に必要な物を買い込んだ。お金は、以前ファージから相当な額の金貨を貰っていたので問題はない。
地図を買って調べたところ、ルキアからタルコプへ行くには二通りの道があるらしい。
一つは、街道を通っていく方法。街道は大きな道で迷う心配もないが、山地を大きく迂回していくため、徒歩では半月以上かかる。
もう一つは、街道が迂回している山を越えていく道。この場合、必要な時間は街道の半分以下だ。
奈子は、この道を選んだ。
一刻も早く、タルコプの街に着きたかった。
事情のわからない異世界で、誰も頼れる者もなく一人きりでいる時間は、少しでも短くしたかった。
だが、この山道はひどい処だった。
獣道同然の荒れ果てた道で、奈子はしばしば道を見失った。
森の中には危険な動物も多く、肉食獣に襲われたのも先刻が初めてではない。
山道に入ってからというもの、奈子の神経は自分でも信じられないくらい鋭く研ぎ澄まされていた。小さな野ネズミの動きさえ、はっきりと感じ取れる。
自分にこんな感覚があるとは驚きだったが、そうでなければ、とっくにこの森の中で獣達の餌になっていたはずだ。
「今日は、ここで野宿……かな?」
ぽつりと言って、奈子は起きあがった。
ベルトに付けたポーチの中から、向こうの世界から持ってきた一巻きの釣糸を取り出す。その端を樹の枝に結んで、周囲の樹々の間に糸を張り巡らした。
それが終わると今度は小さな鈴をいくつか取り出し、糸に結び付ける。
そうして、円形に張り巡らした糸の中心にある大きな樹にもたれかかり、マントで身体を包んだ。
幸い今は夏だから、こうして野外で寝ていても寒いことはない。
この辺りの気候がどんなものかは詳しく知らないが、少なくとも、奈子が住んでいた札幌よりは暖かいようだ。
空を見上げると、東の山陰から明るい月が昇りかけていた。
西の空には、細い三日月がかかっている。
初めて見た時は驚いたが、この世界には三つの月がある。だから空を見上げれば、大抵いつでも月が見えるのだ。
しばらく空を見つめていた奈子は、やがてそっと目を閉じた。
考えてみると、こっちに来てからぐっすりと眠った記憶はない。少しうとうとしては、すぐに目を覚ます。それを朝まで繰り返すのが常だった。
敵の襲撃に備えて鈴を付けた糸を張り巡らしてはいるが、実際にはそんな物がなくても、生物が近付けばその気配ですぐに目を覚ました。
野生動物の睡眠とは、きっとこんなものなのだろう。
一頭の獣になりたい――奈子は思った。
敵を倒すための、鋭い爪と牙を備えた獣に。
(人の心を持ったまま人を殺せるほど、アタシは強くない……)
復讐のためには、心は不要だった。
夢と現実の狭間を漂うような眠りからはっきりと覚醒すると、辺りはもう明るくなっていた。
空はきれいに晴れ渡っている。谷間には朝靄がかかっているが、山の陰から太陽が昇りかけているので、間もなくそれも消えてしまうことだろう。
遠くで盛んに、小鳥の鳴く声がする。
奈子は張り巡らせた釣糸を回収すると、カロリーメイトとポカリスェットで簡単な朝食を済ませた。
さて出発しようかとマントをたたみ始めた時、背後――ルキアの街の方――から人の気配がした。
振り向くと、若い男女がこちらへ歩いてくる。この山道に入ってから人間と出会うのは初めてだったので、奈子は少し驚いた。
手を止めて、二人を観察する。
男の方は二十歳くらいで、身長は百八十センチくらい。ちょっとクセッ毛の金髪。
腰から長剣を下げている。
顔は美しさと精悍さを兼ね備えて、かなりハンサムだった。
奈子の世界でなら、二枚目俳優かモデルとしても通用しそうだ。正直に言って、かなり好みのタイプだった。
女の方は、多分奈子と同年代――十代半ばくらいで、腰まで届くストレートの金髪。背は、男の肩にやっと届くくらい。
こちらも人目を惹く美少女だ。
奈子は、二人が兄妹か、少なくとも親戚だろうと推測した。髪の色も目の色も同じで、顔もどことなく似ている。
二人とも妙に急いでいる。やや疲れた表情からすると、ろくに睡眠も取らずに夜通し歩いていたのだろうか。
近くまで来て道端の奈子に気付いた二人は、一瞬驚いた様子だったが、そのまま何も言わずに早足で通り過ぎていった。
二人の姿が見えなくなるまでそのまま見送っていると、女の子の方が、何度かこちらを振り返るのが見えた。
(あからさまに、訳アリって感じ……)
奈子はそう思ったが、考えてみれば特別な理由もなしにこんな道を通る者もいない。
よほど急いでいるのか、人目を避けているのか。
この道の利用者の統計を取ったら、きっと、お訪ね者と間諜と密輸業者がトップを争うことになるに違いない。
「駆け落ち……かな?」
しばらく考えて、ふと思いついた。
兄妹か従兄妹かは知らないが、近い血縁関係にある二人が愛し合ってしまい、親や親戚の反対にあって家を飛び出した――そんなところだろうと想像する。
妙に急いでいるのも、背後を気にするのも、追っ手を心配してのことだろう。
(由維だったらやっぱり『恋愛に血のつながりなんて関係ありません』とか言うのかな)
以前、「恋愛に性別なんか関係ない!」と言い切った後輩のことを思い出し、慌てて頭を振った。
(今は、向こうのことを思い出してちゃダメだ。泣きたくなるから……)
二人の姿が見えなくなったところで、奈子も歩き出した。
まだ陽が登ったばかりなので涼しく、頬を撫でる風が気持ちいい。
柔らかな草を踏みしめながら歩いて行く。
数百メートル歩いたところで、ふと、道端に咲いている数輪の小さな花が目に留まった。
葉は無く、高さ十センチくらいの茎の先端に、美しい花が咲いている。
奈子は何気なく手を伸ばして、その一輪を摘み取った。
花はきれいな星型をしていて、まるで宝石のオパールのような不思議な色をしている。見る角度を変えると、光の加減で花弁の色が変化した。
「へぇ、きれいな花……」
この花弁の色、自然のものとは思えない。
香りも確かめようと、鼻を近付けた時。
「――?」
遠くから、女の子の悲鳴が聞こえた。
奈子は耳を欹てる。
何人かの男の声。そして、金属がぶつかり合う音。
奈子は咄嗟に走り出した。
数百メートル走って、人の姿を見つけた。
鬱蒼と繁っている樹々がちょっと疎らになった処があり、そこに先刻の男女がいる。
そして周囲を、二十人近い武装した男達が取り囲んでいた。
そのうちの数人が、剣を抜いて金髪の男に切りかかっているが、男の方も、女を背後に庇いつつ、自分も剣を抜いて相手の攻撃を受け止めている。
奈子は立ち止まって暫し考え込み、それからごく自然な態度で歩き始めた。
歩きながら、二人を取り囲んでいる男達を観察する。
最初は、野盗の類かと思った。しかし揃いの武装や統制の取れた動きは、むしろどこかの軍隊のように思われる。
考えてみれば、まともな旅人などほとんど通らないような道には盗賊もいるはずもない。
三十メートルくらいまで近付いたところで、男達も奈子に気が付いた。
リーダーと思しき男が何か合図をすると、後ろに控えていた二人の男が剣を抜き、集団から離れて奈子の進路に立ちふさがる。
奈子は構わず、二人の目の前まで歩いていった。
「今、取り込み中だ。離れていろ」
剣を構えながら、男達の一人が言う。
奈子は無視して歩を進める。
「おい、聞こえないのか? 止まれと言って……」
男が奈子の肩に手を掛けようとした瞬間、右拳が男の鳩尾にめり込んだ。
「ぐっ……」
男が腹を押さえて前屈みになったところで、すかさず左フックを顎に叩き込む。
顎が砕ける音がした。
「き、貴様っ、何を……」
もう一人の男が剣を振りかぶる。奈子はそれが振り下ろされるより速く相手の懐に飛び込むと、剣を持っている手を自分の右腕で抱え込んだ。
そのまま身体を捻って相手の腕を伸ばし、肘の関節を極める。左手の掌底でその肘を打った。
伸ばされた関節は、意外なくらい脆い。肘が折れる鈍い音は、男の悲鳴でかき消された。
関節を極めていた手を離すと、男は、あり得ない方向に曲がった腕を押さえてうずくまる。
奈子は、苦悶の声を上げている男を無視して歩き出した。
その場の全員が、驚いた表情で奈子を見つめている。襲われていた二人も、そして、二人を襲っていた男たちも。
自分に集まる視線を無視して、奈子は進んでいった。
「何者だ、貴様……?」
男たちのリーダーと思しき男が口を開く。
「……それはこっちの台詞だよ。こんなところで何をしているの? たった二人を二十人で取り囲むなんて、まっとうな人間のすることじゃないよね?」
奈子は、からかうような調子で言った。
「貴様には関係ないことだ。それとも、この二人の関係者か?」
「別に、そういうわけじゃないけど。関係ないって言うんだったら、通してくれない? アタシは急いでるの」
「な……!」
男たちの間から、意表を付かれたような声が上がる。多分、奈子を二人の仲間だと思っていたのだろう。
「ふむ……。そうだな、通してやれ」
リーダーらしき男は、ちょっと考えてから答えた。
「しかし隊長……」
奈子に近いところにいた男の一人が、抗議の声を上げる。その男は既に剣を抜いていた。
「いいから、通してやれ、と言ってるんだ」
隊長と呼ばれた男は、一語一語、区切るように言った。
(隊長……ねぇ。ふぅん……)
奈子は心の中でつぶやいた。山賊、盗賊の類が、リーダーを隊長と呼ぶとは考えにくい。やはり、軍隊かそれに近い組織なのだろうか。
前にいた三人の男は渋々といった面持ちで隊長の言葉に従い、左右に別れて道を開ける。
しかし、奈子が男たちの間を通り過ぎた瞬間、一人が動いた。
奈子の胴を薙ぐように、水平に剣を振る。
だが、そこに奈子の身体はなかった。何が起こったのか理解する間もなく、その男は側頭部に強い衝撃を受けて失神した。
男が倒れると同時に、奈子が立ち上がる。
残った二人の男にも、目の前で何が起こったのか理解できなかった。
奈子は、上体を前屈させて剣を避けると同時に、右手を地面について身体を支え、左足を蹴り上げたのだ。
『逆回し蹴り』と呼ばれる特殊な蹴りである。奈子の世界でもそれほどポピュラーな技ではないのだから、高度な徒手格闘技が存在しないこの世界では、初めてで見切ることは困難だろう。
奈子は立ち上がると、隊長を冷やかな目で見つめた。
「物分かりのいい振りをして、油断したところを後ろから切りつけさせるとは……、随分と男らしい戦法ね?」
「貴様だって、始めからやる気だったのだろう? でなければあれをかわせるはずがない」
相手は悪びれる様子もなく応える。お互い様だ。
奈子だって最初から、あの二人を見捨てて通り過ぎるつもりはなかった。事情は知らないが、弱いものいじめを見過ごせる性格ではない。
「妙な小娘だが……、お前達では無理だ、下がっていろ」
後半は、奈子の近くにいた二人の男に向けられた言葉だ。じりじりと前に出てきていた男が動きを止める。
「隊長、私がやりましょうか?」
それまで隊長の横で黙っていた、目付きの鋭い男が言った。
「そうだな。ナムシク、お前に任せるか。残りの者は、二人の始末を急げ!」
奈子たちのやりとりを呆気に取られたように見ていた十数人の男たちは、隊長の言葉で我に返った
ようだ。当初の目的であった二人に向き直る。
そして、ナムシクと呼ばれた男ひとりが奈子に近付いてくる。
この男、体格はそれほど大きいわけではないが、目付きが鋭く、構えに隙がない。
(こいつ……強いな)
並の相手と手強い相手、その違いは気配でわかる。
ナムシクは剣の柄に手を掛けながら、徐々に間合いを詰めてくる。
三メートルくらいまで近付いたところで。
「ラィ・アル!」
突如、叫んだ。魔法の呪文だ。
奈子の左右に、長さ三十センチほどの光の矢が、十数本出現する。
慌てて後ろに飛んで魔法を避けるが、これで先手を取られてしまった。奈子の体勢が崩れた隙に、ナムシクが飛び込んで剣を抜いた。
さすがにこれをかわすのは不可能だ。奈子は腰の短剣を抜き、辛うじて剣を受け止める。
ギィンッ!
金属がぶつかり合う音が響き、奈子の手から短剣が落ちる。ナムシクの剣は予想以上の鋭さと重さで、短剣を持っていた手が痺れてしまったのだ。
短剣を拾っていては、次の攻撃をかわせない。
「くっ!」
奈子は短剣を諦め、一歩踏み込んで貫手でナムシクの喉を狙った。
だが、正確に喉仏を狙った奈子の左手は、突然目の前に現れた、直径三十センチくらいの光る円盤に遮られた。
(魔法の……楯?)
奈子の一瞬の驚愕を見逃さず、ナムシクは再び剣を振る。
幸い間合いが近かったため、刃が顔に触れる寸前に、剣を持ったナムシクの右手を押さえ込むことができた。
しかし次の瞬間、奈子の右胸に焼けるような痛みが走った。
一瞬、身体から力が抜ける。
「な……っ?」
奈子の胸に、短剣が深々と突き刺さっていた。それを握っているのはナムシクの左手だ。右手の剣はフェイントだったのだ。
ナムシクの顔に、残忍な笑みが浮かぶ。刺さった短剣を軽く捻って、一気に引き抜いた。
「うあぁぁっっ!」
激痛に奈子の顔が歪み、開いた傷口から鮮血が飛び散る。
胸を押さえてその場に膝をついた奈子を、さらに蹴りが襲う。
鉄板が縫いつけてある固く重い靴でまともに顔面を蹴られ、奈子の身体は一回転して地面に叩き付けられた。
後頭部を強く打って、意識が遠くなる。首の骨が折れなかっただけでも運が良かった。
口と鼻から、血が滴っている。
立ち上がろうとしたが、身体が痺れて言うことを聞かない。
倒れている奈子の目に、あの二人の男女が映った。
四、五人の男たちに囲まれているが、金髪の男は女を背後に庇いながら、剣で相手の攻撃を捌いている。ちょっと見ただけでも、かなりの使い手とわかった。おそらく、一対一なら周囲の男たちの大半は問題にもならないだろう。
だが、所詮は多勢に無勢。おまけに女を庇いながらでは、防戦一方になるのも仕方がない。深手ではないが、いくつか手傷も負っているようだ。
このままでは長く持つまい。もっとも、それよりも奈子の最期の方が先と思われた。
「小娘のくせに、剣も魔法も使わずによくやる。本当ならもう少し楽しみたいところだが、今は忙しいのでな……」
ナムシクが剣を振り上げる。
(アタシ、ここで死ぬのかな……)
奈子はぼんやりと考えていた。
無理すれば身体は何とか動きそうだったが、あの剣をかわせるとは思えない。
不思議と、恐怖は感じなかった。
ただ、この世界へ来た目的も果たせずに死ぬのが少し悔しいだけだ。
その時。
少し離れたところから、男の声が聞こえた。
「死にたくなければ、俺を雇わないか? 嬢ちゃんよ」
(え……?)
どこから聞こえた声だろう。奈子は頭を巡らして、声の主を探した。ナムシクを見ると、なにやらあらぬ方向を向いている。
力を振り絞って上体を起こしナムシクの視線を追うと、道の上に赤毛の男が立っていた。
背はかなり高い。百九十センチ近くはある。
無駄なく鍛えられた身体をしていて、背中に大きな剣を担いでいた。
厚手の皮の鎧と薄汚れたマント、そして無精髭という姿から察すると、旅の剣士といったところか。年齢は二十五から三十の間だろう。
「何だ、お前は?」
最初に口を開いたのはナムシクだった。
奈子のことは無視して、その男の方へ向き直る。
「俺は、エイシス・コット、傭兵だ」
男は、ナムシクではなく奈子に向かって言った。
ナムシクなど眼中にないといった雰囲気で、にやにや笑いを浮かべている。
「どうだ、俺を雇わないか? かなりヤバそうな状況だから、相場の二割増しってところで手を打つが?」
ナムシクの目が離れた隙に、奈子はふらつきながらも立ち上がった。ナムシクとの距離を空ける。
動いたために、胸の傷の出血がひどくなる。
何が起こったのか理解出来ないといった面持ちでエイシスと名乗った男を見つめ、それから、ふと思い出したように背後を振り返り、あの二人がまだ無事でいるのを確認した。
周囲の男達は、一瞬呆気に取られていたようだが、隊長が何か指示を出したのか、数人がエイシスを取り囲むように移動してくる。
「どうする?」
やや下品な印象を受けるにやにや笑いを浮かべたまま、エイシスが問いかけてくる。
剣を構えてじりじりと間合いを詰めていくナムシクも、周囲を取り囲む男達も、まったく気にしている様子がない。
「……自信は、あるの?」
「なきゃ、声なんか掛けねーよ」
不思議と、助かったという思いはなかった。むしろ、邪魔をされたという気持ちが強い。
しかし。
「……いいわ。あんたを雇う。あの二人を助けてあげて」
奈子は背後の男女を指さして、小さな声で言った。
「……二人? あんたは?」
エイシスが驚いたように言う。
「アタシは……、自分の身は自分で護れる。いや……そうでなきゃならないんだ」
応えながら、奈子は一枚のカードをエイシスに向かって放った。
「相場ってのがどのくらいか知らないけど、これで足りる?」
エイシスはそのカードを器用に空中で受け止めると、小さく呪文を唱えて内容を確認した。短く口笛を吹く。
「こいつは豪勢だな。よし、商談成立だ」
エイシスは面白そうに言うと、初めてナムシクの方に向き直った。
「聞いての通りだ。俺が相手になる」
エイシスがそう言うのと、ナムシクを含む五人が一斉に飛びかかるのは同時だった。
だが、男たちの剣がエイシスの身体に触れることはなかった。
四人の男たちは、まるで見えない壁にでも衝突したかのように跳ね飛ばされる。
そして。
いつの間に抜いたのか、奈子には見えなかった。エイシスの大きな剣が、ナムシクの身体を貫いていた。
跳ね飛ばされた男たちは、地面に倒れてぴくりとも動かない。
動揺した様子の周囲の兵士たちから、驚嘆の声が上がる。
エイシスは、ナムシクの身体から剣を引き抜くと、ゆっくりと歩き出した。
「さて、まだやるかい? こいつが一番の使い手だったんだろう?」
ナムシクの死体を剣で指す。
エイシスの言葉に、兵士たちは緊張の面持ちでじりじりと後退った。
ただ一人、隊長だけがその場に踏みとどまっていたが、明らかにエイシスに気圧されている。
「……、貴様っ!」
隊長が剣に手をかけるのと同時に、エイシスが片手を上げた。
「雷よ!」
エイシスの手から放たれた青白い雷光が、隊長の身体を吹き飛ばす。
それをきっかけに。
残された兵士たちは一斉に背を向けて逃げ出した。
その様子を、エイシスは満足そうに、二人の男女は呆然として見ている。
そして奈子は、
目の前が暗くなって、崩れるようにその場に倒れた。
奈子が意識を取り戻すと、目の前に癖のある金髪が見えた。
人の体温を感じる。
数秒経って、やっと、あの金髪の男に背負われているのだと気付いた。
横に、その妹らしき金髪の少女。そして前には、エイシスとかいう傭兵が歩いている。
奈子がなにか言おうとした時、横の女の子が奈子に気付いた。
「あ、気がつきました? 怪我は、大丈夫ですか?」
その言葉で、エイシスも金髪の男も足を止める。
「降ろして……。もう、大丈夫だから」
地面に降りると、膝に力が入らなくて一瞬よろけた。それでもなんとか踏みとどまる。
辺りを見回すと、いつの間にか夕方になっているらしい。空が朱く染まっている。
胸の傷は少し痛んだが、どうやら塞がっているようだ。誰かが魔法で治療してくれたのだろうか。
服には、乾いた血がべっとりとこびりついている。
相当出血したためか、全身がだるい。それでも、なんとか歩くことは出来そうだった。
「……ちょうどいい草原もあるし、今日はここで野営するか」
「……そうですね」
エイシスの言葉に、金髪の男もうなずく。明らかに、奈子の身体を気遣っている様子だ。
男たち二人は薪を拾いに行き、奈子と女の子がその場に残された。
「あの……、今のうちに、着替えた方がよろしいのでは?」
男たちの姿が見えなくなったところで、女の子が言った。
確かに、その通りだ。奈子はその言葉に従った。
血で汚れた服を脱ぎ、カードの中から着替えを取り出す。
「あ……危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
女の子が頭を下げる。
「アタシじゃない。礼は、あの傭兵に言いなよ」
奈子は、なんとなく不機嫌だった。
「でも……あなたが助けてくれなければ、きっとエイシスさんが来る前に、私たちは捕まっていました。それに、エイシスさんを雇ってくれたのも、あなたです。私たちは今、お金もあまり持っていませんし……。本当に、お礼の言いようもありません」
奈子は無言で、女の子の様子を観察した。
歳は多分同じくらい。背は、奈子よりも少し低い。
瞳は淡いグリーン。美しいストレートの金髪は腰まで届いている。
全体に上品な雰囲気が漂っていて、良家のお嬢様といった印象だ。そういえば、着ている服も上等そうな仕立てになっている。
「あんた……、名前は?」
「え……あ、すみません、アイミィ・ウェルと申します。そして、兄がハルティ・ウェル」
やっぱり兄妹か、と奈子は小さく頷いた。
「あの……失礼ですが、あなたは?」
アイミィと名乗った女の子が聞き返す。
「奈子……、ナコ・マツミヤ」
奈子がそう答えた時、エイシスと、アイミィの兄ハルティが戻ってきた。
腕一杯の薪を抱え、さらにエイシスは兎に似た小動物をぶら下げている。
「いいもん捕まえたぜ。これで、晩飯がちょっと豪勢になるな」
言いながら、積み上げた薪に魔法で火をつけた。
「さて、落ち着いたところで、きちんと自己紹介しておくか」
食事が終わり、四人が焚火を囲んでいたところで、エイシスが口を開いた。
辺りは、すっかり暗くなっている。
「俺は、エイシス・コット・シルカーニ、傭兵だ。本当は、マイカラスへ向かう途中だったんだがね」
「マイカラス……?」
奈子が首を傾げる。聞き覚えのない地名だ。
「ルキアの西にある小国だよ。今はどことも戦争をしていないし、王が内政に力を入れているから、小さい割には豊かな国だな」
エイシスはそう言いと、ハルティの方を見た。
ハルティはその視線の意味を察して、口を開く。
「私は、ハルティ・ウェル、そして妹のアイミィ・ウェル。タルコプの北の、ノミルの街に向かうところです」
「で、先刻の連中は……?」
エイシスの問いに、ハルティは口を閉ざしてうつむいた。
「ま、俺は金で雇われているだけだから、別にどうでもいいがね。この娘は、一応あんたらの恩人だろう?」
奈子を指さして言う。
「別に、アタシは人の事情なんてどうでも……」
言い掛けた時、それまで黙っていたアイミィが口を開いた。
「……私たちは、マイカラスから来たんです。私の名は、アイミィ・ウェル・アイサール。マイカラスの……」
「王女……か?」
「え……?」
エイシスの呟きに、奈子は驚きの声を上げる。
「じゃあ……、お兄さんって……」
「マイカラスの第一王子、ハルトインカル・ウェル・アイサール殿下……だな」
エイシスに言われ、ハルティが仕方なくといった風に小さく頷く。
「マイカラスの王子と王女が、こんなところを二人だけでうろついていて、あんな連中に襲われているとなると……」
一瞬考えて、エイシスが言った。
「クーデター、か?」
ハルティとアイミィの顔に緊張が走る。
「何故それを……」
「マイカラスへ向かう途中だと言っただろう? マイカラスのレクトン・ソル・ターサル候が、兵を集めているという情報があってな。マイカラスみたいな平和な小国で、有力な貴族が私兵を集める理由なんて、そういくつもあるわけじゃあない」
エイシスは、相変わらずのにやにや笑いを浮かべながら言った。
「……その通りです。父も母もレクトン・ソルの手の者に殺され……、私たちだけが何とか脱出できたのです。でも、ここで追っ手に見つかって……」
「まあ、アイサール家の正当な跡継ぎが生きているうちは、レクトン・ソルも枕を高くして眠れんだろう。てことは……」
エイシスは、顎に手を当てて何か考えている。
「あんたら二人をレクトン・ソルに突き出せば、二、三年は遊んで暮らせる……か?」
アイミィの顔が青ざめ、ハルティは緊張した面持ちで、傍らに置いた剣をちらりと見た。
奈子は無言で立ち上がった。ゆっくりとエイシスに近付くと、いきなり顔面を狙ってローキックを放つ。
しかし、目にも止まらぬその蹴りを、エイシスの太い腕はがっちりと受け止めていた。
「おいおい、冗談だって。もう金も受け取ったし。金をもらった以上、仕事には責任を持つさ。この商売、信用第一だからな」
相変わらずにやにやと笑いながら応えるエイシスを、微かに目を細めて見て。
右手をその顔に向かって突き出した。
「オサパネクシ、エクシ・アフィ・ネ」
呪文と同時に、奈子の手の中に青い炎に包まれた剣が現れた。
その剣先は、エイシスの鼻先に突き付けられている。さすがのエイシスも、やや驚いた様子だ。
「この剣……。お、おい……」
「つまらない冗談を言うな、アタシは今、機嫌が悪いんだ」
「あの日か?」
エイシスのからかうような口調に、奈子は反射的に剣を突き出した。
「……冗談の通じん奴だなぁ」
ぎりぎりのところでその剣を躱したエイシスが苦笑する。頬に、うっすらと紅い筋が走っていた。
「あの……ナコさん、そのくらいで……」
アイミィが見兼ねたように声をかけると、奈子はやっと剣を引いた。
「そう言えば、俺はまだお前の名前を聞いてないぜ?」
「別に、必要ないっしょ?」
剣をしまいながら応える。
「今回は、一応お前がスポンサーだからな。雇い主の名前くらいは知りたいよなぁ?」
奈子は数秒間エイシスを睨んで、それから、小さくつぶやいた。
「ナコ。ナコ・マツミヤ……」
「……? 変わった名前だな。『神々の御名』は?」
エイシスが不思議そうに訊く。
『神々の御名』とは、ミドルネームのように見える部分、ファーリッジ・ルゥ・レイシャの『ルゥ』、エイシス・コット・シルカーニの『コット』などだ。
この大陸の古くからの風習で、家系や誕生日によって決まる、その人の守護神にちなんだ名がつけられることになっている。
ちなみに、『ルゥ』は真理を司るファレイアの神ルーィンのことで、古い魔導師の家系に多い名だ。
この世界では、他人は名前と御名で呼ぶのが普通である。
神々の御名は何百種類もあって、学者でもなければその全てを覚えている者もいないだろうが、それらは必ず三音節以内という共通点がある。つまり『マツミヤ』は御名ではあり得ない。
「アタシは異国の出身だから……」
奈子はそう誤魔化した。
ごく僅かではあるが、大陸の南部を中心に、神の御名を持たない民族もいると聞いたことがある。
「アタシは、ナコ・マツミヤ。タルコプの街の、ソレア・サハという人を尋ねる途中……」
奈子は、エイシスの方を見ずにそう言った。
「まだ、眠らないのか?」
真夜中を過ぎた頃、エイシスが不意に口を開いた。
焚火はまだ小さく燃えており、パチパチと音を立てている。
ハルティとアイミィはマントにくるまって眠っていて、火の側に座ったエイシスが、時々、思い出したように薪をくべている。
奈子は、少し離れた樹の幹に寄り掛かって目を閉じていた。しかし眠ってはいない。
「あんたが起きているからね、エイシス・コット」
目を閉じたまま応える。
「やれやれ、先刻のことをまだ気にしてるのか? 冗談だって言っただろう?」
奈子は黙っている。
「いい加減信用してくれよ。怪我もしてるんだし、眠らなきゃ身体が持たないぞ」
「あんたは眠らないの?」
「俺は護衛だからな。それに俺は、二日や三日は眠らなくても平気だし」
「アタシも平気。だから気にしないで」
「いいや、気になるね」
エイシスは手にした小枝を二つに折り、火にくべながら言った。
「お前には、色々と興味を引かれるね、ナコ」
目を開いた奈子は、訝げな表情でエイシスを見た。
エイシスが、いつものにやにや笑いを浮かべながら奈子を見ている。
「例えば、それほど裕福そうにも見えないのに、あんな大金をポンと出すこととか」
「……あのお金は友達から貰った物だし、この国のお金の価値ってのがよくわかってないだけよ」
「剣も魔法も使わずに、奇妙な体術で闘うこととか」
「あれは……アタシの生まれ育った地方に古くから伝わる、闘いの技術……」
「かといって、剣を持っていないわけじゃない。あの剣……」
エイシスはそこで一旦言葉を切った。
「炎の魔剣オサパネクシ、だろ? 王国時代より後の作としては、最高の魔剣と言われている……。百年くらい前から行方がわからなくなっていたはずなんだが、一体どこで手に入れたんだ?」
「そんな凄い剣なの? あれ……」
奈子は驚いて、逆に訊き返した。
「あれも友達から貰った物だし、剣の由来については何も聞いていない……」
「そして、その、誰も信用しない、誰にも心を開かないといった態度……」
面白そうに言うエイシスに対し、奈子は怒ったような顔になった。
「なによ、あんたには関係ないっしょ。放っといて」
「死んだのか。その、友達とやら。で、その仇を追っていると?」
奈子の表情が、一瞬だけ強張った。きつい目でエイシスを睨みつける。
「あんた、傭兵なんかやめて占い師にでもなったら? その方がよっぽど儲かるんじゃない?」
奈子の言葉と同時に、焚火にくべた枝がパチッとはじける。
エイシスが手に持っていた枝で焚火をかきまぜると、火の粉が舞い上がった。
しばらく黙ってその火を見つめていたエイシスが、再び口を開いた。但し、顔は焚火に向いたままだ。
「昔、お前と似た女がいたよ。腕のいい魔術師でね、いい女だったな」
奈子は、言葉の意味がわからないといった表情でエイシスを見つめた。いきなり、何を言い出すのだろう。
「小さい頃に両親を殺されて、ずっと、その仇を追っていたんだそうだ。魔術も、そのために身につけた……」
炎に照らされたエイシスの表情からは、いつものにやにや笑いが消えていた。どこか、寂しげな笑みを浮かべている。
「初めて会った時は、今のお前そっくりだった。自分以外の全てが敵といった雰囲気で、研ぎ澄まされた抜き身の剣みたいに、触れれば切れそうだったよ」
「……で、その人は……?」
「さあな……。止めたんだけど、結局行っちまった。当時俺はまだガキで、引き留めるにも彼女を助けるにも、力が足りなかった。きっと、もう生きちゃいないだろうな……」
それきり、エイシスは黙ってしまった。
奈子も黙って、エイシスを見つめている。言うべきことが何も思いつかなかった。
近くの草むらで鳴く虫の音が、急に大きくなったような気がした。
エイシスがそれきり何も言わないので、奈子は目を閉じた。
虫の声と、焚火の音だけが聞こえている。
「眠ったのか?」
しばらく経って、エイシスが小声で尋ねた。
返事はない。奈子は黙って、目を閉じている。
「そっか……」
微かに笑みを浮かべて、エイシスがつぶやいた。
「多分、ろくに寝てなかったんだろう? 今夜くらいはゆっくり眠るといいさ」
結局その夜、奈子は夜が明けるまで一度も目を覚まさなかった。
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