二章 ソレア・サハ


 奈子たち四人がタルコプの街に着いたのは、二日後の夕方だった。
 途中、もう一度レクトン・ソルの私兵による襲撃があったが、これはエイシス、ハルティ、奈子の三人であっさりと撃退した。
 もっとも、奈子とハルティはいなくても結果は同じだったに違いない。エイシスの実力は、その大口通りのものだった。
 タルコプは、周囲を山に囲まれた、ルキアよりも少し小さな街だ。
 街道からも大きな街からも離れた辺境であることが幸いして、長らく戦火に巻き込まれていない平和な街らしい。
「その代わり、面白い物も儲け話も無いけどな」
 エイシスは笑って言った。
 ハルティとアイミィは、タルコプからさらに北にあるノミルという小国――アイサール家の親戚がいるらしい――を目指す予定だったのだが、その前に、自分たちもソレア・サハを訪ねると言う。
「ソレア・サハ・オルディカといえば、名高い魔術師で、占い師ですから。私達がこれからどうすべきか、何か助言が得られるのではないかと思いますし」
 そうハルティは言った。
 奈子にも異存はなかった。たった二日間だけの付き合いであっても、取り敢えず顔見知りが一緒というのは心強い。
 大通りから少し中に入った路地にあるソレアの家は、街の人に尋ねるとすぐに見つかった。どうやら、遠国からわざわざ訪ねてくる客も多いらしい。街の人も、その質問には慣れた様子だった。
 ソレアは一人暮らしだそうだが、それにしては大きく、なかなか立派な屋敷だ。
 先頭に立った奈子は建物の様子を少し観察し、それから扉のノッカーに手を伸ばした。
 奈子の手が触れる直前。
「どうぞお入りなさい。鍵は開いていますから」
 扉の向こうから聞こえた女性の声に、奈子はビクッと手を引っ込める。
 怪訝そうな表情でエイシスやハルティたちと顔を見合わせ、おそるおそるといった様子で扉を開けた。
 そこには、二十歳過ぎと思われる、美しい女性が立っていた。
 背が高く、腰の下まで伸ばした髪はきれいな銀髪だ。絹と思しき生地の、ゆったりとしたローブをまとっている。
 深い碧の瞳が、神秘的な雰囲気を際立たせていて、奈子は一瞬、見とれて言葉を失った。
「……ソレア・サハ……?」
 最初に口を開いたハルティの問いに、女性は小さく頷いた。
「マイカラスのハルトインカル・ウェル殿下と、アイミィ姫ですね。お待ちしておりました」
 そう言って静かに微笑む。
 奈子たちは驚いて、またお互いに顔を見合わせた。
「あ、あの……、私たちが来ることを……?」
「勿論、知っていましたよ」
 ソレアは平然と応えると、四人に中へ入るようにと促した。
 奈子たちは呆然とした表情で、それでも、ソレアの後に続く。
 豪華な、しかし派手すぎない造りの客間に通されると、テーブルの上には、熱いお茶を注いだカップが並べられていた。
「エイシス・コット、あなたも楽にしてください。ここは、安全ですから」
 ソレアは、固い表情で立っているエイシスに向かって言った。
 もっとも奈子が見る限り、エイシスは警戒していたというより、屋敷の立派さに戸惑って、緊張していたようだった。
 王族のハルティとアイミィなら別に気にしないだろうが、見るからに傭兵といった雰囲気のエイシスには、こういう場はあまり似合わない。
「すみませんが、ここで少しお待ちくださいな。私は、この方とお話がありますので……」
 ソレアは、奈子を指して言った。
 客間の奥にある扉を開け、奈子を手招きする。
 奈子とソレアが部屋から出ていったところで、残された三人は椅子に腰を下ろした。
「驚いたね。占い師なんて、どれほどのものかと思っていたが。ホンモノだよ、ありゃあ……」
 奈子とソレアが出ていった扉を見つめながら、エイシスがつぶやく。
 カップを口に運んだハルティは、感心したように言った。
「淹れたて……ですね。私たちが来ることだけではなく、ここに到着する時刻まで、わかっていたというわけですか」
「これまで、自称占い師ってのは山ほど見たが……」
「ええ。これほどの力を持った人は初めてです」
 しきりに感心する男二人には構わずに、アイミィはテーブルの上の自分のカップを見ながら、何か考え込んでいた。
「……どうして、三つなんでしょう」
 独り言のようなその言葉に、二人はアイミィの方を見る。何を言いたいのかわからないといった表情だ。
「私たちは四人で来たのに、お茶が三つしか出ていないじゃないですか」
 テーブルの上を指さして言う。
 確かに、カップは三つしかない。
「でも、ナコさんとは何か別に話があったみたいだし……」
「いや、そういえば妙だな」
 エイシスがもう一度、奥の扉の方を見た。
「気が付きました? ソレア・サハは、ナコさんだけ一度も名前を呼んでいないんです」


 奈子が通されたのは、立派な家具が並んだ他の部屋とは明らかに造りの違う地下室だった。
 絨毯を敷いていない石の床には顔料で複雑な魔法陣が描かれており、壁際に置かれた戸棚には様々な瓶や、分厚い本が並んでいる。
 何か、魔法の研究に使っている部屋だろうか? と考えた。
 部屋の中には一つだけ椅子が置いてあり、ソレアはその椅子に奈子を座らせた。
「これで、落ち着いて話が出来るわね」
 ソレアはそう言うと、短い呪文を唱えた。
 手の中に杖が現れる。長さは二メートル近く、瘤がたくさんある奇妙な木の杖だ。
 杖を手にすると急に、ソレアの表情が急に厳しいものになった。
「さあ、話してもらいましょうか。あなたは一体何者で、何が目的なのか」
 その口調が余りに厳しいので、奈子は驚いた。先刻までの優しげなソレア・サハとはまるで別人だ。
「あ、あの……」
「今日、マイカラス王国のハルティ王子と、その妹君が訪ねてくることはわかっていたわ。護衛に、エイシス・コットという傭兵がいることもね。私の力はいくつかの制約を受けている代わりに、占いや、予言に関しては並の魔術師より秀でているのよ」
 そこでソレアは一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。
「でも、私はあなたのことを知らないわ。今日の来客が四人だなんて、そんなはずはない。あなたは一体、何者なの?」
 ソレアの声には、怒りと、いくらかの怯えがブレンドされているようだった。
 どうやら、自分の力が及ばなかった奈子を警戒しているらしい。
「……い、いえ、別にアタシは、怪しいものじゃ……」
 しどろもどろに弁解しようとするが、しかしソレアの表情は厳しいままだ。
「十分過ぎるくらい怪しいわね。私の力は、そんな半端なものではないのよ。私のテリトリー内で私が予想できない出来事が起こるなんて、そう滅多にあることじゃないわ」
「あの、私は……」
「言っておきますけど、変な気は起こさないように。この部屋にいる限り、たとえあのファーリッジ・ルゥだって、私を傷つけることは出来ないんですから」
 ソレアの台詞の中に突然出てきた懐かしい名に、奈子は一瞬戸惑った。
「あ、アタシは、ファージ……ファーリッジ・ルゥに言われて、ここに来たんです!」
「ファージに……?」
 ソレアが疑わしげに言う。その口調には、奈子の言葉を信じた気配は微塵もない。
「あの子がここへ人を寄越すなら、前もって連絡があるはずだけど?」
「それが……」
 奈子は言い淀んだ。
 言うべきことははっきりしているのだが、その言葉がなかなか口に出せない。
「あなたがファージの知り合いだと言うのなら、その証拠を見せてちょうだい」
「証拠……?」
 奈子は一瞬考え、そして一つの品物に思い当たった。
 手を伸ばしてその名を呼ぶと、手の中に一振りの剣が現れる。
 この世界の平均的な剣よりもやや長めの、僅かに反りのある片刃の剣。
「この剣、ファージから貰った物なんですけど……有名な剣らしいんですけど、ご存じではありませんか?」
 剣を見たソレアの目が、大きく見開かれている。
「……オサパネクシ?」
 それは問いかけではなく、確認の言葉だった。
 奈子が小さく頷くと、ソレアは信じられないといった表情で、剣を手に取った。
「まさか、あの子がこれを手放すはずが……。あなた、これを一体どこで手に入れたの?」
「だから、ファージに貰ったんですってば!」
「そんなはずが……。一体、ファージは今どこにいるの?」
 その質問は、鋭い矢のように奈子の心に突き刺さった。
 一番大切な、そして一番辛い一言を言わなければならない。
「ファージは……死にました」
 瞬間、部屋の温度が何度か下がったような気がした。一瞬、ソレアの動きが止まる。
「死ん……だ?」
 ソレアが、引き吊った笑いを浮かべて言った。
「ちょっと……、なに馬鹿なこと言ってるの? あの子が死ぬわけないじゃない」
「だけど……本当なんです」
 奈子が答えると、ソレアの引き吊った笑みは、突然、怒りの表情に変わった。
「ふざけるのもいい加減になさいっ! 一体誰があの子を殺せるって言うのっ?」
 奈子の言葉を認めたくないのか、ソレアはむきになって叫ぶ。
「たとえ竜と闘っても、あの子が死ぬなんてあり得ないわ! だってあの子は……」
「だけど! ……本当なんですっ!」
 叫んだ奈子の目から、涙がこぼれた。
 こっちに来てからずっと堪えてきた涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って落ちる。
「本当に……、ファージは、ファージは……」
 それ以上、言葉を紡げなかった。ぎゅっと唇を噛む。
 そんな奈子を黙って見つめていたソレアは、やがて少し落ち着いた口調で言った。
「わかったわ。詳しく話してちょうだい。何があったのか……。最初から、全て」
 その言葉に促され、奈子は話し始めた。発端からこれまでの全てを。
 自分が、別の世界の人間であること。
 ファージの魔法の実験に巻き込まれ、この世界に来てしまったこと。
 ファージと共に、異世界からやってきた魔獣と闘ったこと。
 その魔獣の力を利用して、奈子が元の世界に戻れたこと。
 ファージに呼ばれて、再びこの世界へやってきたこと。
 二人で神殿の遺跡へ行ったこと。
 そこでエイクサム・ハルという魔導師と出会ったこと。
 エイクサムの魔法でファージが殺され、奈子も傷を負ったこと。
 一度は元の世界へ戻ったものの、ファージの仇を討つためにこの世界へやってきたこと。
 そしてファージが遺したメッセージに従い、ソレアに会いに来たこと。
 ソレアは黙って聞いていたが、奈子の話が終わると小さな声で訊いた。
「そのファージの腕輪、いま持ってる?」
 奈子は、腕輪をソレアに渡した。
 考えてみれば、初めからこれを見せれば話は早かったかも知れない。この腕輪には、ファージが奈子に宛てたメッセージが遺されているのだ。
 ソレアは、受け取った腕輪を念入りに調べている。
 ファージの腕輪は金で出来ていて、大きな青い宝石――サファイヤだろうか――がはまっていた。
「そうか……」
 しばらく腕輪を見つめていたソレアが急に、優しい、しかしどこか悲しげな表情でつぶやいた。
「あなたの言ったことは本当ね。ごめんなさい、疑ったりして。この世界の人間でないのなら、私の力が及ばないことがあっても仕方ないわよね」
「あ、あの……」
「ごめんなさいね。なまじ未来のことがわかるだけに、予想外の出来事が起こるとつい取り乱してしまうのよ。ナコちゃん……だったわね? なにも心配しなくていいわ。ファージがああ言った以上、私が出来る限り力になってあげるから」
「あ、ありがとうございます!」
 奈子は立ち上がって、大きく頭を下げた。
「それでナコちゃんは、これからどうしたいの? 私に出来ることなら、何でも力になるわ」
「アタシに、魔法を教えてください」
 奈子は、強い口調で言った。これはずっと考えていたことだ。
「闘いの技術は、一応身につけています。でも、エイクサム・ハルを倒すためには魔法の知識が必要です。少なくとも、あの男の魔法を防げるようにならないと……。ファージは言ってました。この世界ではアタシにも魔法が使えるはずだって。練習さえすれば……」
「……そうね、それは私の専門だし、全面的に協力出来るわ。そして……、無事に仇を討ったとして、その後は?」
「え?」
 その質問に、奈子は途方に暮れたような表情になった。
 ファージの仇を討つ。今の奈子にはそれが全てだった。
 その先のことなんて。
「先のことなんて全然考えて……」
 言いかけて、一つ大切なことを思い出した。
「……いえ、元の世界に戻るための、魔法の研究をします。ファージが研究していた転移魔法を」
「それは……、エイクサム・ハルを倒す以上に困難なことかもしれないわよ? ファージが長い時間をかけて、未だに完成していないのだから。一体何年かかるか……」
「それでも、やります。やるしかないんです。きっと戻るって、約束しましたから」
「約束? 誰と?」
「アタシの……」
 そこで、奈子は暫し考え込んだ。
 アタシの、何だろう?
 只の後輩……とはちょっと違う。
 幼馴染み?
 親友?
 それとも恋人?
(冗談じゃない。アタシはノーマルだっ!)
「……大切な人です。少なくとも、ファージと同じくらいに」
 その言葉で、ソレアが小さく微笑んだように見えた。
「最後にもう一つだけ。あなた、後悔はしていない? 死んだ人間のために、自分の生まれ育った世界、家族、友人、恋人、そういったものを全て捨てて……。帰れない可能性の方がずっと大きいのに。自分で、馬鹿なことをしたとは思ってない?」
 奈子は目を伏せて、ぎゅっと唇を噛んだ。
 しばらく間を置いて、小さくつぶやく。
「……まったく後悔していないと言ったら、嘘になります」
 それだけ言って、言葉を切った。
 肩が、微かに震えている。
「……でも、ここへ来なければ、きっと……もっと後悔したと思います。同じ後悔するなら、自分に恥ずかしくない生き方をしたい……。逃げたくありません」
 奈子の目は、涙で濡れていた。
 それでも、その口調からは強い決意が感じられる。
 ソレアは満足そうに頷いた。
「素敵ね、ナコちゃん。ファージが、あなたを頼りにした理由がわかるような気がするわ。私も、あなたのこと気に入った」
 そう言って、泣いている奈子の頭を優しく撫でてくれる。
「私もあなたとファージのために、出来るだけのことはするわ。これからは私が、この世界でのあなたの家族で、親友よ」
「ソレアさん……」
 奈子は、ソレアにしがみついて大声で泣き出した。
 そんな奈子をそっと抱き締めて、ソレアは哀れむような表情を見せる。
「ファージの馬鹿……。こんな子を巻き込むなんて……」
 ソレアが小さくつぶやいた言葉は、泣きじゃくる奈子の耳には届かなかった。


 奈子が泣き止んだのは、しばらく経ってからのことだった。
 鼻をすすりながら、それでも無理に笑顔を作る。
「ごめんなさい、もう大丈夫です」
「泣きたい時は、思う存分泣いた方がいいわ。でも、落ち着いたのなら上に戻りましょうか。そろそろ、お客さんたちも待ちくたびれているでしょうから」
 ソレアが扉に手を掛け、地下室から出ようとした時。
「その前に、一つ教えてください。ファージは何故殺されたんですか?」
 奈子は訊いた。
 ソレアの動きが止まり、扉に掛けた手を離して振り返る。
「ファージとエイクサム・ハルは、敵同士って雰囲気じゃありませんでした。それなのに何故……。ソレアさん、なにか心当たりはありませんか?」
「そうね……」
 ソレアは唇に指を当てて、考え込むような素振りをする。
「どう説明すればいいかしら……。あなたが神殿の地下で見た大広間は多分、ストレイン帝国の時代の、ランドゥの神殿跡ではないかしら。ランドゥの神々を祭るための、魔法陣の役目を果たす施設……」
「でもファージは、あれはファレイアの神殿だって……」
「それは地上部分の話でしょう? 王国時代、古くからのランドゥの神殿はそのほとんどが破壊されるか、封印されたの。多分、トリニア王国の人々は、ランドゥの神殿の力を封じるために、その上にファレイアの神殿を築いたのでしょう」
 ストレイン帝国で崇められていたランドゥの神々、トリニアで信仰されていたファレイアの神々、この二つは長く対立してきた宗教だ。
「ストレインやトリニアの時代、いわゆる王国時代には、今よりも遙かに優れた魔法技術があった。遠い昔に失われた、強大な竜騎士の魔法。王国時代の遺跡には、そうした力の秘密が隠されているの。エイクサム・ハルは、その力を今の世に甦らせようとしているに違いないわ」
 奈子は、拳にぎゅっと力を込めた。
「じゃあ……その力を、独り占めするため?」
「……それもあるだろうけれど。エイクサム・ハルがランドゥの遺跡を調べて力を手にするためには、ファージが邪魔だったのよ。ファージや私はファレイアの神の御名を持つことからもわかるように、古くはトリニア王国の魔導師の家系。ファレイアの教義では、ランドゥは暗黒神で邪神よ。私たちは、ランドゥの力を封印しなければならない立場にあるの」
「そんな……。トリニアとストレインの戦争って、千年も前の話でしょ? それなのに何故?」
 驚きと怒り、そして悲しみが微妙にブレンドされた表情で、奈子がつぶやいた。
 千年も前に滅んだ国のために何故、いま人が死ぬのか。死ななければならないのか。
 奈子には理解できない。
「たとえ何千年経っても、王国時代の大いなる力を利用しようとする者がいる限り、ファレイアの名を頂く私たちにはそれを阻止しなければならない義務があります。ナコちゃんがそれを理解するには、時間がかかると思うけれど……」
「理解できません、アタシには。どうしてそんなことのために、ファージが死ななきゃならなかったのか……。竜騎士の力って、そうまでして手に入れたいものなんですか? ファレイアとか、ランドゥの神々って、一体なんなんですか?」
「……力は、神々からもたらされた。王国時代の末期、その力は世界を一度滅ぼしかけた。そして……」
 言いかけて、しかしソレアは途中で言葉を切った。
「……多分、いくら口で説明したところで、すぐには理解はできないでしょうね。あなたも、ここで長く暮らせば少しずつわかってくるわ。一つだけ覚えておいて、人は、力を求めるものだって事を」
 そう言って、ソレアは地下室の扉を開けた。
「さあ、もう戻りましょう。いずれにせよ、エイクサム・ハルとの決着をつけるのは、まだ先の話よ」
 奈子は慌てて、階段を登っていくソレアの後に続いた。



「それにしても、よりによってマイカラスでクーデターとはな」
 テーブルの上に肘をついて――あまり行儀の良いことではないのだが――エイシスが言った。
「マイカラスの王と言えば、慈悲深くて、民にも慕われていると聞いていたけどね」
 ハルティとアイミィは黙っている。
 ソレアはすっかり冷めてしまったお茶を入れ直していて、奈子がそれを手伝っていた。
 水を入れたポットに向かってソレアが呪文を唱えると、それはたちまち熱い湯に変わる。
「単に欲に目が眩んだだけとも思えないしな……。マイカラスは土地こそ広いが大半は砂漠、経済的、軍事的には所詮小国だ。力づくで王位を簒奪したところで、大した儲けになるとも思えんが。前王の人気と、儲けを考えたら、割の合わん賭けだぜ?」
 ソレアは黙って、五つのカップにお茶を注ぎ分ける。
 奈子がそのカップをテーブルに運び、ハルティ、アイミィ、エイシスそれぞれの前に置くと、自分もアイミィの隣の席に着いた。
 カップを口に運びながら、ちらりと奈子の方を見たアイミィは、奈子の目が少し赤くなっていることに気が付いた。まるで、つい先刻まで泣いていたかのように。
 アイミィは不思議そうに見つめるが、奈子はソレアの方を向いているので視線には気付かない。
「……それとも、なにかレクトン・ソルに恨まれるようなことでもあったのか?」
「父は、他人の恨みを買うような人ではありません!」
 エイシスの言葉に対し、アイミィが大声で反論する。
「そうです。父が悪政を行っていたためにクーデターが起きたのならともかく、私にはそうは思えません」
 ハルティも口を開く。
「ならば、私には王の子としての責任と義務があります。国にはまだ、私に味方してくれる者もいることでしょう……」
 ハルティの言葉が終わらないうちに、突然、奈子が立ち上がった。
 椅子がガタンと大きな音を立て、ハルティとアイミィが、びっくりして奈子を見る。
「……そうよ、闘うべきだわ。理由もわからずに殺されるなんて、そんな理不尽なこと、許しちゃいけない。闘うべきだよ!」
 力強く言うと、拳でドンッとテーブルを叩く。
「ね、そうでしょ? アタシも一緒に闘うわ。いいでしょ、ソレアさん?」
 少しの間、黙って奈子を見つめていたソレアだが、やがて小さく頷いた。
「そうね、ナコちゃんがそうしたいのなら。勿論、私も手伝います……」
「エイシスも?」
 奈子が、エイシスに視線を移す。
「俺が? 何故? 俺が請け負ったのは、二人をノミルまで護衛することだぜ?」
「何故……って、あんた、こんなこと許しといていいの?」
「興味ないね。俺は、金で請け負った仕事をするだけの傭兵さ。ついでに言えば、必要以上にヤバイ仕事には手を出さないのが長生きの秘訣ってもんだ」
「あんたって……」
 奈子の眉が吊り上がる。今にもエイシスに殴りかからんばかりの形相だ。
 険悪な二人の様子を見て、ハルティが口を挟む。
「……無論、事が成った暁には、望むだけの報酬をお約束しますが」
「俺は基本的に、前金なしでは仕事を受けないんだがね。それにこの仕事は、何かヤな予感がするんだよな」
「それなら、私が前金を払いましょう。それならいかが?」
 そう言ったのはソレアだ。四人は揃ってソレアの方を見る。
「ソレアさん、どうして……」
「あんたに、そうまでする義理があるのか?」
 ソレアは、静かに微笑んで言った。
「……お願い、エイシス。ナコちゃんの力になってあげて」
「……」
 奈子が何か言いたそうに口を開いたが、結局、そのまま黙ってしまった。
「まあ、あんたがそう言うんなら……」
 エイシスは、ちょっと困ったように頭を掻いた。
「仕方ない。美しい女性の頼みを断っちゃ、男が廃るからな」
 ハルティとアイミィの顔がぱっと明るくなるが、対称的に、奈子は面白くなさそうにつぶやいた。
「アタシの言うことは聞かなかったクセに」
「ガキに興味はない……」
 言い終わらないうちに、バシッという音がしてエイシスが鼻を押さえた。
 指の間からぽたぽたと落ちた血が、真っ白いテーブルクロスに染みを作っている。それを見たソレアが顔を顰めた。
「誰がガキよっ!」
「……何だ、それ?」
 エイシスは鼻血を拭きながら、目の前に突き出された奈子の拳を見つめた。裏拳で殴られたのだが、あまりにも速い動作に何が起きたのか理解できていない。
 ハルティとアイミィは、きょとんとした顔で二人を見ている。
「最初に見た時から不思議だったんだが……。一体何なんだ、お前の技……?」
 奈子はその質問を無視して腰を下ろした。まだ少しお茶が残っているカップを口に運ぶ。
「……まあ、いいか」
 エイシスが小さく溜息をつく。
「それより、最初の問題だ。マイカラスの国王は民の信頼が篤い。そこでクーデターを起こしたところで、成功の可能性は高くはない。そんなリスクを背負ってまで、クーデターを起こした訳は何だ? マイカラスを手に入れたとして、レクトン・ソルは何を得ると言うんだ? あんたの力なら、それくらいのことは見通せるんだろう?」
 エイシスは、ソレアに向かって言った。
 ソレアは数秒間考え、それから口を開いた。
「何も得るものはありません。少なくとも、レクトン・ソルにとっては」
「レクトン・ソルにとっては……。では、他の者にとっては得るものがあると? レクトン・ソルの背後に、黒幕がいると言うのですか?」
 ハルティが驚きの声を上げる。
 ソレアはハルティを見て、それから他の全員を見回した。
「マイカラスは古い国よ。王家の血筋は千年以上も昔、トリニアの時代まで遡ることが出来る。そこには古い知識が残されている。古い知識は、すなわち力。それを必要としている者にとっては……」
 ソレアは、真っ直ぐに奈子を見つめて言った。
「マイカラスには、ランドゥの神殿があるわ。トリニアの時代に封印された、それ故に王国時代末期の戦争による破壊を免れた神殿が」
「ランドゥの神殿? そんなものが?」
 エイシスは驚いて、ハルティの方を見た。エイシスと目の合ったハルティが、微かに頷く。
「ええ、北のはずれの方に、王国時代以前の古い遺跡があります。でも、あれが封印されたランドゥの遺跡ということは、アイサール家の者しか知らないはずですが……」
「……ランドゥの神殿……まさか……エイクサム・ハル……?」
 奈子はその名を、絞り出すようにつぶやいた。
 握り締めた拳が、小さく震えている。
「……あいつが、マイカラスにいるって言うの……? あいつらが、黒幕……?」
 奈子の問いに、ソレアは静かに頷いた。
「エイクサム? 誰だ?」
 エイシスが首を傾げる。
「魔術師……よ。とても強い力を持った、ね」
「あんたよりも?」
「おそらく。エイクサムたちが遺跡で『竜騎士の血』を手にしていれば、今の私の力を遙かに凌駕するはずです。その力で貴族たちを操り、マイカラスを手中に納めようとしている。正確に言えば、目的はマイカラス王国ではない、マイカラスに遺された遺跡と、その遺跡に関する知識、外部の人間には洩らされることのない知識なのです」
「なんてこった……」
 エイシスが珍しく、深刻そうな表情でつぶやいた。
「ただでさえ分の悪い喧嘩だと思っていたが、よりによって、竜騎士の力を受け継ぐ魔術師とは……」
 ハルティやアイミィも、暗い表情になる。
「勝算はあるのか? 相手にそれだけ力のある魔術師がいるとなると、こっちもそれなりの戦力が欲しいところだが」
 エイシスが、腕組みをして言った。
「そういやソレア。あんたの知り合いに、凄い力の魔術師がいるって噂を聞いたことがあるが……。ほら、外見は十五、六の小娘のくせに、竜騎士の魔法も使えるって奴。そう、ファーリッジ・ルゥとかいう……」
 エイシスの言葉は、耳障りなガチャン! という音で遮られた。
 手を滑らせてカップを落とした奈子が、引き吊った表情をしている。
 エイシスの鼻血に続いてお茶の染みが広がったテーブルクロスを見て、ソレアが諦めたように言った。
「……これはもう駄目ね。取り替えましょう。アシランペ・エン」
 ソレアがクロスに手を掛けて呪文を唱えると、次の瞬間それは新しい布に変わっていた。
「ファージ、ファーリッジ・ルゥは今……ちょっとね……。力を借りることは出来ないの」
 テーブルクロスを替えながら、ソレアは出来るだけ何気なく言ったつもりだったが、エイシスとハルティ、そしてアイミィの三人は、急に俯いてしまった奈子の様子を不思議そうに見つめていた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.