三章 マイカラスの闘い


 深夜、この家の誰もが寝静まった頃。
 明かりもつけずに部屋の中を歩くひとつの人影があった。
 暗闇の中でも目が見えているのだろうか。きょろきょろと周囲を見回すと、扉のひとつに向かう。
 足音はまったく立てない。
 その人影が、扉に手を掛けた瞬間。
 突然、明かりが灯り室内を照らしだした。
 それは、真っ黒い装束に身を包んだ男。
 顔を隠しているので、年齢などはわからない。左手に、短剣を握っている。
 暗闇に目が慣れていた男は、突然の明かりに驚き、目を細めて周囲を見回した。
 そして、背後に先刻まではいなかったはずの、髪の長い女性が立っていることに気がついた。
「この、ソレア・サハの家に忍び込むとは、いい度胸ですね。誰の差し金かしら?」
 腕組みをしたソレアが、静かな口調で言う。
 男は何も応えない。
「私には人を傷つけることは出来ませんが、幸い今夜は、そういうことが得意な方も滞在していますよ?」
 ソレアがそう言って笑うのと同時に、男は大きな窓の方へ走り出そうとした。が、その試みは未遂に終わる。
 窓の方へ一歩足を踏み出したところで、見えない壁にぶつかったかのように立ち止まった。
 自分の意志で止まったのではない。脚が動かないのだ。
「な、何だ?」
 覆面で顔を隠しているので表情は見えないが、それでも男が驚いているのがわかる。
「人を傷つけることは出来ませんが、捕まえることくらいは出来ますのよ」
 さも可笑しそうに言うソレアの背後で、扉が開いた。
「こんな夜中に、何やってるんだ?」
 扉からエイシスが顔を出す。その手には大きな剣が握られている。
 続いて、男が開けようとしていた扉が開き、奈子が姿を現した。
「何かあったの?」
 エイシスは、ソレアと、黒装束の男を交互に見た
「……夜這いか?」
「どうやったらこの状況で、そんな発想が出来るんですか?」
 エイシスの後ろにいたハルティが、小声で言う。
「私はこんな人、好みではありませんよ。それに、目的は私ではないようですし」
 とソレア。
「もうここまで手が回ったのか。王子を暗殺するにしても、たった一人で忍び込むとは、俺たちもなめられたものだな」
「そうね、もう少し数を揃えてくるかと思ったけど……」
 ソレアはそこで言葉を切り、あっと声を上げた。奈子の方に向き直る。
「ナコちゃん!、姫様を一人にしちゃ駄目!」
 奈子も、その言葉の意味をすぐに理解した。慌ててアイミィと二人で寝ていた寝室の方へ引き返す。
「あなた……囮にされたわね?」
 ソレアが、男に向かって言った。
 奈子が、短い廊下を一瞬で走り抜けて寝室へ戻ると、つい先刻までアイミィが寝ていたベッドは空になっていた。
 そして、眠っているアイミィを腕に抱えて、一人の男が立っている。
 寝室の入り口に背を向けていた男がこちらを振り返った時、奈子は思わず驚愕の声を上げた。
「……リューイ・ホルト?」
「おや、お前は……。妙なところで会うな」
 男はやや驚いたように言った。
 間違いない。ファージを殺したエイクサムの仲間の魔術師だ。
「……やっぱり……マイカラスのクーデターには、あんたたちが関わっていたの?」
 リューイは口の端を軽く上げて笑った。
「折角エイクサムに助けてもらった命だ。詰まらぬことに首を突っ込まない方がいい」
 それだけ言うと、アイミィを抱えたままリューイの姿がすぅっと消えていく。
「ま、待てっ!」
 奈子が慌てて短剣を抜いて飛びかかるが、一瞬遅い。短剣は空を切っただけだった。
「おい、どうした。何があった?」
 エイシスとハルティが部屋に入ってくる。
 そして、空のベッドを見て目を見張った。
「ごめんなさい……。アタシがここを離れたばっかりに……」
 奈子が涙目でそう言うのと、ソレアが部屋に入ってくるのが同時だった。
「どうしたの?」
 ソレアの質問に、エイシスが両手の掌を上に向けた。
「……遅かったみたいだ。そっちは?」
「やられたわ。帰りがけに、始末していった……。まあ、どっちにしろあの男は何も知らなかったでしょうけど」
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 泣きながら繰り返す奈子の肩に、ハルティがそっと手を掛ける。
「いえ、ナコさんの責任ではありません」
 そう言うハルティの顔も、心持ち青ざめていた。



「何故、連中は姫様を攫ったのかな?」
 路の上の小石を蹴りながら、奈子は言った。
「それはやっぱり、ハルティ殿下を誘き出すための人質でしょう? 王子に直接手を出すより、簡単でしょうから」
 ソレアが答える。
 アイミィが攫われた翌日、四人はマイカラス王国の王都へとやってきた。
 ハルティはここではあまりにも顔を知られているので、王都に住んでいるソレアの知り合いの家に隠れている。エイシスはその護衛だ。
 女二人だけの方が怪しまれない、ということで、奈子とソレアが王都の様子を偵察している。勿論、アイミィが捕らわれていそうな場所を探すために。
 マイカラスがいくら小国とはいえ、王都ともなるとそれなりに大きな街だ。ルキアやタルコプなど比べ物にならない。
 大きな石造りの建物が並び、主な通りは、石畳の舗装がされている。
 しかし街の規模の割には、通りを歩いている市民の数はそれほど多くはない。その代わり正規軍の兵士や、傭兵らしき連中の姿が目につく。
「前王は民衆に人気があったから。クーデターは起こしたものの、レクトン・ソルもその後が大変でしょう」
 周囲には聞こえないように、ソレアが小声で言う。
「それも、姫様を攫った理由の一つかしら」
「どーゆーこと?」
「確か、レクトン・ソルは数年前に奥さんを亡くしているはずよ。王子を亡きものにした後で残されたアイサール家の娘を妻にすれば、親アイサール派の人たちだって、公然と刃向かうことは出来ないでしょう?」
「そんな!」
 奈子の眉が吊り上がる。
「冗談じゃない! そんなこと、絶対に許さないわ」
「ナコちゃん、声が大きい」
 ソレアは、奈子の唇に人指し指を当てる。
「大丈夫よ。ハルティ王子が生きているうちは、姫様も無事でしょう。ナコちゃんも、あまり責任を感じないで」
「でも……」
「大丈夫」
 ソレアがもう一度繰り返す。
 ソレアの言葉には、なにか、人を安心させる不思議な力があるようだ。奈子の不安が薄らいでゆく。
「それよりも、問題はリューイ・ホルトが敵にいたってことよね」
 ソレアが一層声を落としてつぶやく。それにつられて、奈子の声も小さくなる。
「やっぱり、エイクサムもいる?」
「いる、と考えた方が自然でしょう」
 二人が通りの角を左に曲がると、大きな屋敷が視界に入った。
「ここが、レクトン・ソルの屋敷よ」
 見ると、門の周囲には、多すぎる位の兵士たちが警備している。
「ナコちゃん、今は騒ぎを起こしちゃ駄目よ」
 門の前を横切る時、奈子の表情が険しくなっていることに気付いたソレアが耳元で囁く。奈子は顔を顰めた。
「わかってる。わかってるから、耳に息かけないで」
「感じやすいんだ?」
 その言葉に、奈子は思わずソレアから一歩離れる。
「そ、ソレアさんって……。ソレアさんまで、そっちの人?」
 奈子の慌て振りが可笑しいのか、ソレアはくすくすと笑った。
「私は別に……。ファージとは違うわ」
「……って、ファージってやっぱり……?」
「別に女の子専門って訳じゃないけどね。七対三くらいで、女の子のほうが多かったかな」
「七対三って……、そんなにたくさん?」
 奈子は呆れたような表情を見せる。そんな話は聞いていなかった。
「そういえば、ナコちゃんの剣……」
 ソレアはふと、思い出したように言った。
「ファージが昔、好きだった男の子の形見だって知ってた?」
「えぇっ?」
 意外な言葉に思わず大声を上げたが、レクトンの屋敷の門からはもう離れていたので、特に気に止める者もいない。
「だ、だって、あの剣をくれた時、ファージは何も言わなかったよ? そんな大切な物を……」
「そうね、私も驚いた。ファージはその男の子のこと、本当に好きだったらしいから。きっと、ナコちゃんのことも同じくらい好きで、そして信頼していたのでしょう」
「それで……その男の子とは?」
 奈子は何気なく聞いたのだが、ソレアは、一瞬言葉に詰まった。
「……死んだわ、ずいぶん昔に。魔物からファージを護ろうとして、殺されたって聞いてる」
「そんな……」
 奈子は、俯いてつぶやいた。
「アタシってば、その同じ剣を持ちながら、ファージを護ることも出来なかった……」
「ナコちゃん……」
「アタシって……」
 奈子の目に涙が浮かぶ。
「泣かないで、あなたは悪くないわ。ナコちゃんは今、ここにいる、ファージのために。それだけで十分よ」
 ソレアは奈子の肩に手を置く。
「それに、今は泣いている場合ではないでしょう。私たちには、他にやらなければならないことがあるのよ」
「……ん」
 手の甲で、滲んできた涙を乱暴に拭う。
 角を曲がってレクトンの屋敷が見えなくなったところで、二人は一旦立ち止まった。
「あれだけ近付いても、屋敷の中に姫様が捕らわれているかどうか、わからなかったわ。かなり強力な結界が張られているわね。これでは中に転移も出来ないわ」
「エイクサムやリューイの力?」
「そうね……」
 ソレアは口に手を当てて考え込む。
「私が知っているあの二人の力は、こんなに強くないはずなんだけど……。これが王国時代の力……かしらね」
 少し悔しそうだ。
「どうするの? 王宮の方も行ってみる?」
「そうね、結界があるのは王宮も一緒でしょうけど、一応行ってみましょう」
 二人はまた歩き出す。
 今度の目的地は、レクトンの屋敷から一キロちょっと離れたところにある、マイカラスの王宮だ。アイミィが捕らわれているとしたら、このどちらかだろうというのが、四人に共通した意見だった。
 あまり人目に付かないように、裏道を選んで歩いていく。
 それでも幾度か兵士たちと擦れ違ったが、特に怪しまれている様子はない。これが、見るからに傭兵然としたエイシスが一緒だったら、事情は違っていただろう。
「ソレアさん、ソレアさんの占いの力って、とても、強いものなんですよね?」
 不意に、奈子が言った。
「だったら、これから起こることも、わかるんですか? 私たちの計画がうまくいくかどうか、レクトン・ソルを捕らえられるかどうか、そして、エイクサム・ハルを倒せるかどうか……」
「そうね、普段なら、かなりのことがわかるわ。でも、今は駄目……」
 ソレアは、小声で答えた。 
「ナコちゃんが関係者だから。私の占いの力では、ナコちゃんの未来はわからない。ナコちゃんが私たちの未来に影響力を持つ因子である限り、私自身のことも、王子や姫様のことも、未来はわからないの」
 第一、占いとか予言というものは万能ではない、それは無数の未来の中から可能性の一つを提示するに過ぎない――ソレアは、そうも付け加えた。
「さあ、もうすぐ、王宮が見えるわ」
 だが、ここを抜ければ王宮の近くに出るという路地で、奈子とソレアは三人の兵士に進路を塞がれた。
「お嬢さん方、こんなところで何をしているのですか?」
 言葉遣いは丁寧だ。が、兵士たちの鋭い目には、明らかに二人に対する疑惑の色が浮かんでいる。
 奈子が慌てて後ろを振り返ると、そちらも四、五人の兵士が立ち塞がっていた。
「どうも先刻から、何かを探っているようですが……、二人とも、王都の人間ではありませんね? あなた方は何者で、ここで何をしているのですか?」
 年の頃三十歳くらいの、精悍な顔つきの兵士が、一歩前へ出て尋ねた。
 他の者達は、剣の柄に手を掛けている。
 奈子も思わず腰の短剣に手を伸ばしそうになったが、ソレアがそれを止めた。
「心配しなくていいわ。私に任せて」
 静かに微笑んでそう言うと、ソレアは正面の兵士に向き直った。
 数秒間、何も言わずにじっとその兵士を見つめる。
「別に、怪しい者ではありませんわ。目的はあなた方と同じですから」
「何ぃ?」
 兵士たちが、怪訝そうな顔をする。
「レクトン・ソルに従う振りをしながら、実は彼らより先に行方不明の王子と姫を保護するために捜索している……、違いますか?」
「な、何故それを……」
「バカッ、黙っていろ」
 兵士の一人が思わず声を上げ、同僚に窘められる。
「どうやら、詳しく話を聞く必要がありそうですね。一緒に来ていただけますか?」
 大人しくついて来なければ、ただではおかない。そんな表情をしながらも、ソレアの前の兵士は静かな口調で言った。
「ええ、いいですよ。あなた方に指示を出しているのは、ニウム・ヒロ様でしょう? あの方に会わせていただければ、きっと疑いは晴れるでしょうから」
 ソレアが口にした名前に、兵士たちの間にまた動揺が走った。
「あなた……、魔術師ですね。それも、相当な力を持った……」
 ソレアは、無言で頷いた。



 周囲を屈強な兵士たちに囲まれて二人が連れて行かれたのは、街の外れにある立派な屋敷だった。
 大人しくついていっていいものかどうか、奈子は不安だったが、ソレアが黙っているので従うほかはない。
 屋敷の客間に通される。待っている間にソレアにいろいろと尋ねたいこともあったのだが、見張りが付いているので迂闊なことは口にできなかった。
 やがて、体格の良い初老の男性が姿を現すと、ソレアはにっこりと微笑んで立ち上がった。
 その男性は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに親しげな笑みを浮かべる。
「お久しぶりです。ニウム・ヒロ様」
「おお、ソレア・サハ殿ではないか。何故貴女がここに?」
 二人は顔見知りなのだろうか。奈子と見張りの兵士は、事情がわからずにきょとんとしている。
 その様子に気づいたソレアとニウムが、それぞれ事情を説明する。
「この方はニウム・ヒロ様といって、長年この国の騎士団で、剣術の指南役を務めている方よ」
「この女性は、お前も聞いたことがあるだろう、かの高名な魔術師ソレア・サハ・オルディカ殿だ」
「あの、お知り合い……ですか?」
 奈子と兵士が、異口同音に尋ねる。
「以前、儂が戦でレイアカルアへ遠征した時、随分と世話になってな。なにしろソレア・サハ殿の占いの力は、大陸でも指折りだからの。ところで、マイカラスへは何用で参ったのかな?」
「それは、言うまでもないでしょう?」
 それだけで、ニウムは納得した顔になった。
「ふむ、なるほど。……しかし、政治には極力関わりたくないと言っていた貴女が何故?」
「それが、そうも言ってられなくなりました。実は、ハルティ殿下は私達が保護しています」
「な、何ですとっ?」
 ニウムは驚き、椅子から腰を浮かしかける。
「そして今回のクーデターには、私とこの子、ナコの仇が関わっているらしいのです」
「ふぅむ……」
「そういうことですので、力を貸していただけますね?」
 椅子に深く座り直して、ニウムは頷いた。
「これは大変なことになった。詳しく話を聞かせていただこうか……」



 一時間ほど後、ニウムの屋敷を出た奈子とソレアは、王宮の間近までやってきた。
「駄目ね。やっぱりここも強力な結界が張られているわ」
 ソレアが嘆息混じりにつぶやいた。
「でも……」
 と奈子が言う。
「少なくとも、レクトン・ソルはここにいるみたいですね」
 王宮の周囲を、レクトンの屋敷よりも遥かに多い兵士たちが護っていた。
「そうね。どうする?」
「どうするもこうするも、予定通りやりましょうよ。結界が張られているのは予想してたことなんだし」
「できれば、エイクサムたちがいるかどうかを確認したいところだけど……」
「どうせあいつらとも、いつかは闘わなきゃならないんだし、いつだって同じですよ」
 奈子はそう言って、大勢の兵士達が固めている門の方へ歩いていく。
「正直に言って、今はまだあいつらとやりあいたくないの」
「アタシじゃ、勝てませんか?」
 奈子が振り返る。ソレアはすぐには答えない。
「……わからないわ。ただ、ひとつだけ言っておくけど、決して無理をしちゃ駄目よ。生きてさえいれば、何度でもやり直せるんだから」
「ソレアさん……、アタシの先輩みたいなこと言ってる」
「先輩?」
「アタシに闘い方を教えてくれた先輩の口癖。たとえ今日負けても、生きていれば、明日勝つことも出来る、って」
「でも、それが真実でしょう?」
 ソレアの言葉に大きく頷いて、二人は門に向かって歩いて行った。
 現在、王宮の門は開かれている。
 その門を平然とくぐろうとする二人を、警備の兵士たちが止めた。
「何だ、お前達は?」
「ここを通しなさい」
 ソレアが強い口調で言う。
「何だと? 一体誰の許しを得て……」
「私には、誰の許しも必要ありません」
 兵士たちの制止を無視して、門の中に足を踏み入れる。
「おい、待て……」
 兵士の一人がソレアの肩を乱暴に掴み、数人が剣に手を掛ける。
 だが、ソレアは平然と言った。
「ここを通しなさい」
 同時に、兵士は掴んだ肩を放す。
 周囲の兵士たちも、剣に掛けた手を下ろして道を空けた。
「では、通りますよ」
 ソレアはごく自然に歩いていく。その後に、幾分不安そうな奈子が続く。
 二人を、兵士たちは無表情に見送っていた。
「魔法で人の心を操ることが出来るって、こういうこと? エイクサムも、こうしてレクトン・ソルを操ったの?」
 門から十分に離れたところで、奈子が囁いた。
「そうよ」
 ソレアは直接城には向かわず、敷地内にある小さな建物のひとつを目指した。どうやら、庭師が道具類を置いている物置小屋らしい。
「すごく難しい魔法だって言ってなかった?」
「そうよ、魔法というのは、自分の体内に働きかけるのが最も容易で、逆に、他人の体内や精神に働きかけるのが最も困難なの。そこは相手の抵抗力が、最も強く働く場所だから」
「それなのに、あの人数を一度に操れるの?」
 奈子の質問に対して、ソレアは黙って手を開いて、持っていたものを見せる。
「これって……」
 そこには、十数枚の魔法のカードが握られていた。
「と、いう訳よ」
 ソレアが微笑む。
「カードには、魔力を補う物と、魔法を制御する能力を補う物の二通りがあって、これは前者の方。これによって、自分が制御出来る最大限の力を行使することができるわ」
「ファージもたくさんのカードを持っていたけど、一体この魔法のカードって、どうやって作るんですか?」
「植物の中にはいくつか、魔法的な力を持つものがあってね、例えば私の杖はオルディカという樹で作られていて、持つ者の魔力を増幅し、逆に自分へ向けられた魔力を削ぐことが出来る。カードは、そんな植物の一種、トゥルニの樹から作った紙に、耐火、耐水の加工を施したものよ。……さて、この辺りでいいかしらね」
 物置の影に隠れると、ソレアは杖を取り出した。地面に魔法陣を描き始める。
「これだけ強い結界を張られると、外から転移魔法で侵入するのはまず不可能だけど、術者が結界の中にいれば事情は違ってくるわ」
 魔法陣を描き終わると、その中心に杖を突き立てて、呪文を唱える。
 一瞬、魔法陣が光に包まれ、光が消えるとそこに二人の男が立っていた。ハルティとエイシスだ。
「無事に、王宮の中に入り込めたわ」
 辺りを見回している二人に、ソレアが告げる。
「……の、ようだな。我ながら無謀な作戦と思ったんだが……意外と上手く行くもんだ」
 感心したようにエイシスが言う。奈子は呆れた。
「言い出しっぺがそういうこと言っていいの?」
「ちょっとくらい無謀な作戦の方が、意表を突いてていいのよ」
「じゃあ、手はず通りに行くか。俺が正面で騒ぎを起こして、城内の兵士達を引き付ける。その隙に、あんたら三人が、抜け道を通って王の間を目指し、レクトン・ソルを討ち取る。いいな? じゃ、行くぞ」
 三人が頷き、エイシスと別れて城の裏庭の方を目指す。しかし数歩行ったところで、エイシスが不意に奈子を呼び止めた。
「あ、ナコ。ちょっと来い」
「なによ」
 奈子は立ち止まって、首だけエイシスの方へ向けた。
 側へ来たエイシスが小声で言う。
「わかってるな。今回は王子の命を護ることが最優先だし、ソレアは闘いには向かない。お前が、王子を護るんだ。それが戦士の役目ってもんだ」
 お前が、のところを特に強調する。
「わかってるよ。今度は、絶対に負けない」
「それからもう一つ。あまり思い詰めるなよ。もっと気楽に生きた方が人生楽しいぞ。俺みたいに」
「あんたは気楽すぎるんじゃないの? でも、ま、この闘いが終わったら、ちょっと考えてみるよ。じゃ、アタシは行くから、あんたも気を付けて」
 それだけ言うと、奈子は先に行ったソレアとハルティを追って走り出した。
 エイシスは、その背中に向かって言った。
「当然だ。生き残らなきゃ、報酬にありつけんからな」
 奈子は苦笑する。やれやれ、命の心配より、金の心配か。
 ソレアとハルティは、少し行ったところで奈子を待っていた。
「何だったの?」
「別に、何でもない」
 奈子はそれだけ言うと、二人と一緒に城の裏の方へ向かう。
 しかし、心の中で、エイシスの言葉を思い出していた。
(もっと気楽に……か、確かに、その方が楽かもね)
 しかし、それはこの闘いが終わってからのことだ、と思う。
(アタシは、気楽に闘うことなんて出来ない。アタシは今、獣になりたいんだ、一頭の、血に飢えた野獣に……) 


「さて、そろそろやるか?」
 門の近くまで戻ったエイシスは、城の建物の方を向いてつぶやいた。
 門のところにいる兵士たちは外ばかり警戒していて、中にいるエイシスには注意を払わない。
(まさか、コレを使うことになるとはね……)
 エイシスは、両手の指を組み合わせて複雑な印を結ぶと、ゆっくりと呪文を唱え始めた。
 決して大きな声ではない。しかしはっきりと、よく通る詠唱だった。
「天と地の狭間に在るもの
 力を司る者達よ
 我の呼びかけに答えよ」
 そこで一度言葉を切り、意識を集中して深く息を吸い込む。
「風よりも疾きもの
 炎よりも熱きもの
 大地よりも広きもの
 流れる清水よりも清きもの
 我が言葉に応え、我の元に集え……」
 エイシスを中心にして、風が静かに渦を巻き始めた。
 この時になってようやく、門の処にいる兵士たちもエイシスに気付いたようだ。
 ある程度の魔力を持つ者なら、エイシスを中心とした不自然な魔力の流れにすぐに気付くはずだ。
 そうして、城内の戦力を一人でも多く自分の処に集めること、それが目的だった。
「我は命ずる
 力ある言葉に従い
 汝らの力を解き放ち
 数多の世界より
 我の元に届けんことを
 ――光よ!」
 呪文の最後の一言と同時に、城門が白い光に包まれた。


 天地がひっくり返るかというような轟音が周囲に響いた時、奈子達三人はちょうど裏庭の茂みの中に隠された古井戸――にカムフラージュした城内への抜け道――に着いて、縄梯子を下ろしたところだった。
 爆発が起きることは予想していたとはいえ、そのあまりの大きさに三人はびくりと身体を震わせた。
「これ……エイシスの魔法? まさか、エイクサムかリューイが……」
 奈子は不安そうにつぶやいた。
 少しの間呆然としていたソレアが、左右に首を振る。
「いいえ、これは精霊魔法だもの。エイクサムの力じゃないわ」
「でも、精霊魔法って……」
 ソレアに疑問の目を向ける。
 奈子の知識では、精霊魔法は上位魔法に比べて力が劣るということになっている。
 手軽に細かな制御が出来るので、生活の中では多用されているが、戦闘に用いるとなると、その名の通り上位魔法の方が力は上だ。
 但し、それはあくまで一般論に過ぎない。
「四大精霊の魔法とはね……。珍しいもの、見ちゃった」
 ソレアが感心したようにつぶやく。
「四大精霊の魔法……?」
「大陸中を探しても使える者は数えるほどしかいない、強力な精霊魔法よ。詳しい説明は後。それより急ぎましょう。この分なら、エイシスの方は大丈夫そうだし」
 ソレアが奈子を促す。
 ハルティは、既に縄梯子を降り始めていた。奈子も慌ててそれに続き、最後にソレアが降りる。
 それは、実際には使われていない枯れ井戸だった。井戸の底は真っ暗だったが、ハルティが呪文で小さな光を作り出す。
「それで、抜け道っていうのは?」
「確かこの辺りに……、あった」
 周囲の石を叩いて調べていたハルティが石の一つを押すと、それはぐぅっと奥に引っ込み、大人一人がやっと通れるくらいの狭い横穴が開いた。
「ここを通れば、誰にも気付かれずに王の間まで行くことが出来るはずです。この道のことは、レクトン・ソルも知りません」
「じゃあ、行きましょうか。アタシが先頭を行きますから、殿下はその後に。ソレアさん、後ろをお願い」
 その提案にソレアは黙って頷いたが、ハルティが異を唱える。
「それは危険です。私が前を行くべきでしょう」
「王子……」
 横穴に身体を半分滑り込ませた奈子が、振り返って言った。
「レクトン・ソルの狙いは、あなたの命なんですよ。それに、魔法を使えないアタシが後ろにいて、何の役に立つんですか。アタシは女だけど、戦士なんです。あなたに前を歩かせるわけにはいきません」
「魔法を使えない……?」
 ハルティの怪訝そうな表情で、自分の失言に気がついた。ソレアも軽く眉をひそめている。
 この世界では、人によって力の差はあれ、まったく魔法を使えない者など皆無なのだ。これでは、自分は普通の人間ではないと宣言してしまったようなものだ。
「ナコさんって、一体……?」
「……その話は、後。今はそれどころではないでしょう?」
 奈子が内心の動揺を隠しながら言う。
「……そうですね」
 あまり納得した様子ではなかったが、ハルティが一応引き下がったので、奈子は横穴を進み始めた。
 石造りの横穴は、大人一人がやっと通れるくらいの幅だったが、意外と天井は高く、百八十センチほどの身長のハルティでも、ぎりぎり身を屈めずに歩くことが出来た。
 長らく使用されたことがないのだろう、足元には厚く埃が積もっており、所々水も溜まっていて、かび臭い匂いが充満している。
 しばらく進むと上へ昇る狭い階段がある。どうやら王宮の建物の中へと通じているらしい。
 奈子は、慎重に周囲の気配を探りながら進んで行った。
 その間にも何度か外で爆発音が響き、天井からぱらぱらと砂が降ってくる。奈子は、頭に積もった砂を手で払い落とした。
「派手にやってるなあ。あいつの報酬から、城の修理代を引いた方がいいんじゃない?」
「まあ、建物だけの被害なら、いいじゃないですか」
 ハルティが苦笑する。
「そんな甘いこと言ってると、あいつ好き放題やっちゃうよ。……ところでソレアさん、魔法で、この先の様子とか透視できない?」
 奈子が後ろを振り返って尋ねる。
「できなくもないけど……。もし城内にエイクサムがいたら、こんな処で魔法を使うと見つかってしまうわ」
「そっか……。このまま行くしか、ないか」
 敵に気付かれずに中枢まで入り込めなければ、こちらに勝ち目はない。見つかる危険は冒せない。
 前を向いてまた歩き出した。途中でまた何度か階段を昇る。
 やがて一際大きな爆発音が響いた時、三人は、通路が行き止まりになっている処に出た。
「この向こうが、王の間です。隠し扉になっているはずです」
 ハルティが抑えた声で言う。
 奈子はごくりと唾を飲んだ。
「レクトン・ソルがここにいるとして……、当然、護衛とかもいるんだろうね?」
「それは当然でしょう。そしてあるいは、エイクサム・ハルも……」
 ソレアの言葉に、奈子の肩がぴくりと動く。
 目を閉じて、大きく深呼吸をした。
「ナコちゃん。第一の目的は王子を護り、レクトン・ソルを捕らえること。わかってるわね?」
「わかってる、わかってるよ……」
 奈子は、行き止まりの壁をじっと見つめながら言った。
「でも……あいつがいたら、私は絶対に許さない……」
 壁に手をつき、爪を立てる。
「私は……、エイクサムを、殺す」


「ええい、エイクサム・ハルは何をしておるのだ!」
 玉座に座ったレクトン・ソルは、誰に言うとでもなく忌々しげにつぶやいた。
 前王の娘アイミィを手中に納め、後は王子を片付けさえすればなにも問題はないはずだった。
 そう思っていた時に起こった爆発は、今も断続的に続いている。敵はたった一人という報告だったが、にも関わらずいまだに取り押さえることができずにいる。
 前王に味方する者たちを警戒して市内に多数の兵を配置し、城内の守りが手薄になっていたことを後悔した。
「まったく、あの男め……肝心な時に役に立たず、何のための魔術師だ。そもそも、あいつが持ちかけた話ではないか」
 彼が一番あてにしている魔術師は、今朝から姿を見せていない。
 まさか裏切られたのでは……、そんな思いが頭をよぎった時、突然、壁の一部が爆発し、ぽっかりと穴が開いた。


 ハルティの魔法が壁を破壊するのと同時に、奈子とハルティは王の間へと飛び込んだ。
 ソレアは後ろに控えて魔法で部屋の入り口を閉ざすと同時に、魔法で出来るだけ多くの兵士の動きを止める。
 奈子は、目の前に立っていた兵士を殴り倒し、室内を見渡した。
 王の間は、さすがにかなり広い。
 一段高くなった玉座に着いている、やや太り気味の年輩の男がレクトン・ソルだろうか。
 その傍らにローブの男が一人。その前に、立派な体格の剣士風の男が四人。
 その他、周囲に十人ちょっとの兵士たちがいるが、奈子が目的とした人物は見当たらない。
 奈子は小さく舌打ちすると、周囲の兵士たちは無視して、玉座の方に向かった。
 壁を破る前に、ソレアは十枚以上のカードを用意していたから、この連中は任せておいてもいいだろう。それよりも、王子を護らなければならない。
 王子はと見ると、奈子より先にレクトンの方へ向かっている。
「ハルティ・ウェル! まさか、王子自らこんな処まで来るとはな……」
「私には、アイサール家の跡継ぎとしての責任と義務がある。レクトン・ソル・ターサル、王の名において貴様を成敗する」
 高らかにそう宣言すると、ハルティは剣を抜いた。
 レクトンの近くにいた四人の剣士が、ハルティを取り囲むように散開する。
 周囲にいる他の兵士たちは動かない。いや、動けないでいる。ソレアの魔法に身体を縛られているのだ。
 だが、この四人にはソレアの力は及んでいない。つまり、相当の実力があるということだろう。
 奈子は、四人のうち一番近くにいた男に向かって走り出した。
 剣の間合いに入った瞬間、男は振り向き様に剣を抜いて水平に薙ぐ。
 しかしその剣の軌跡上に、既に奈子の身体はなかった。
 身を沈めて男の足元に滑り込んだ奈子は、両脚で男の膝の辺りを挟み込むと、身体を捻って男を床に引き倒す。
 俯せに倒れた男が身体を起こそうとするより先にその背に乗ると、首の下に腕を差し入れ、力一杯喉を締め上げた。
 人間、首を鍛えることはできても、喉は鍛えようがない。身長百六十二センチの奈子より優に頭一つ分は大きい男も、裸締めで簡単に失神してしまった。
「女の子相手に何も出来ずにやられるなんて、頼りになるボディガードをお持ちだこと」
 奈子は、男の背を踏みつけながら立ち上がった。レクトンに、からかうような目を向ける。
 レクトンの顔が、怒りで赤く染まった。
「そっ、その小娘を先に始末しろっ!」
 レクトンの命令に従い、残った三人のうち二人が奈子に向かってくる。
 唾を飛ばし腕を降り上げて命令するレクトンを見て、奈子は心の中で笑った。怒りに我を忘れて事の本質を見失うとは、大した男ではないな、と。
 レクトンにとって、今は王子を始末することこそが大事なのである。それなのに簡単に挑発に乗って、戦力を奈子に向けてしまった。
 ハルティも、剣の腕は一流である。ファージやエイシスのようなとんでもない相手ならともかく、ちょっと腕が立つ、程度の相手に一対一なら、滅多なことはあるまい。
(レクトンがこの程度の男って事は……、やっぱり、黒幕はエイクサムか)
 心の中で呟きながら、奈子はフットワークで二人の剣士との間合いを取る。
 敵の目を自分に向けたのはいいが、徒手格闘を主とする奈子には、剣を持った二人を同時に相手にするのは少々荷が重い。
 特に、今のように相手との体格差がある場合、打撃で一撃で仕留めるのは難しい。
 筋力で男に劣る奈子は、必然的に関節技に頼ることが多くなるのだが、複数を相手にする時の関節技は自殺行為である。
 かといって、剣を抜く気もなかった。
 正直な話、空手や柔術に比べると、剣の扱いにはそれほど自信がない。慣れている分、素手の方がましだ。
 それに、剣では手加減が出来ない。
 奈子は、仇以外の相手を殺す気はなかったし、また殺せるとも思えない。
 エイクサムたちを殺すのは、ファージを殺したからだ。恨みもない人間を殺すなど、出来そうもない。
 奈子は時間稼ぎに徹しようとしたが、相手の男たちは予想よりも強い。二体一で闘う時のコンビネーションを身に付けていた。
 奈子が相手との距離を取ろうとすると、一人がその逃げ道を塞ぐように回り込んでくる。
 かといって反撃に転じようとすれば、もう一人がすかさず奈子の背後を狙う。
 ハルティの様子を見る余裕はほとんど無かった。二人は奈子に一瞬も休む隙を与えず、剣で、魔法で、交互に攻撃を仕掛けてくる。
 二人とも、魔法による攻撃は大した物ではない。奈子でも簡単に防御できる程度のものだったが、牽制として上手く使っていた。
 魔法攻撃を防御したり、かわすことに気を取られていると、次の剣の攻撃をかわし切れない。
 今のところ、驚異的な反射神経で辛うじて深手を負わずにいるが、それでも一分と経たないうちに、奈子は数箇所から血を流していた。
 奈子が剣も魔法も使わないことを悟ったのか、男たちは剣の間合いを保ちつつ、じわじわとダメージを与えてくる。
 そのため奈子は、反撃の機会を見出せないまま、体力を消耗していく一方だった。
 いっそ、一気に片をつけようとしてくれれば反撃の隙もできるのだが、今のところその様子はない。
 このままではいけない、と、半ば相打ち覚悟で間合いを詰めようとした奈子だったが、自分で思っている以上に疲労していたのか、一瞬、足がもつれた。
 目の前の相手はその隙を逃さず、大きく剣を振りかぶる。
 だが、男はその剣を振り下ろすことはできなかった。
 奈子が思わず目を閉じそうになった瞬間、男の身体が突然炎に包まれた。
 悲鳴を上げる間もなく、その身体がまるで蝋でできているかのように、融けるように崩れていく。
 奈子も驚いたが、もう一人の男はもっと驚いたらしい。一瞬先に我に返った奈子は、振り返りざま、男の鳩尾に左右の拳を叩き込んだ。
 続けて、鳩尾への前蹴り、そして流れるように、とどめの後ろ回し蹴りへとつなぐ。
 男はその場に崩れ落ち、ぴくりとも動かない。
「なんだ、やっぱり一対一なら強いな、お前」
 突然の声に驚き、奈子はその声の主を見つめる。
 額と肩口から血を流して、大きな剣を担いでいる男を。
「エイシス……いつの間に?」
「向こうの方が、大体片付いたんでね、でも、こっちももう終わりかな?」
 エイシスの視線を追って奈子が振り向くと、ハルティの剣が、敵の剣士の胸を貫いていた。
「片付いた……って、一人でこの城の兵士を全部やっつけたの?」
「まさか。大広間にみんな集めたところで、出入口を崩して塞いでやったのさ。出てくるまでの間、しばらく時間稼ぎにはなるだろ? 相手は何百人もいるんだから、効率よくやらないとな。てな訳で城を少しばかり壊しちまったが、まあ、不可抗力ってことで……」
 エイシスの言葉に、ハルティの口元が微かに綻ぶ。
 剣に付いた血を振り落としたハルティは、レクトンに詰め寄って行った。
「これで終わりだな、レクトン・ソル」
 レクトンも、傍らに立っている男も、かなり動揺している様子だ。それでもまだ、レクトンは虚勢を張るのをやめようとしない。
「な、何を言うか。まさか忘れた訳ではあるまい。こっちは、お前の妹を人質に取っているんだ。今すぐ、抵抗を止めろ」
 ハルティが立ち止まる。エイシスが、その横に歩み寄った。
「殿下……」
「大丈夫だ、わかっている」
 ハルティは小声で言うと、レクトンを睨み付けた。
「残念だが、その脅しは通用しない。私は王子であり、国と、国民に対して責任を負っている。時には、肉親の情より優先しなければならないものがある」
「くっ……」
 きっぱりと言い切るハルティに、レクトンの顔色が変わる。
「し、しかし、妹を目前にして、同じ台詞が言えるかな? ヘルファン!」
 レクトンは、傍らの男に小さく合図をする。男は小さく頷き、その身体がすぅっと消えていった。
「ナコちゃん!」
「はいっ!」
 すかさずソレアが短い呪文を唱える。
 一瞬、奈子の視界は真っ暗になり、身体が浮き上がるように感じた。
 そして次の瞬間、奈子の身体もその場から消えていた。


 視界が戻って最初に、一瞬前までレクトンの傍らにいた男の背中が目に入った。
 考えるより先に身体が動く。奈子の上段蹴りは狙い違わず延髄を捉え、男は声もなく倒れた。
 それから奈子は、周囲を見回す。
 かなり豪華な造りの、客間のような部屋。室内に置かれた椅子に、一人の少女が座っていた。
「ナコ……さん?」
「助けに来ました、姫様……」
 アイミィが、信じられないといった表情でゆっくりと立ち上がる。
「ハルティ様も無事です、御心配なく。今、レクトン・ソルを追い詰めたところです」
「ナコさんっ!」
 アイミィが、奈子にしがみ付いてくる。
「すみません、アタシが姫様の傍を離れたばっかりに、危険な目に会わせてしまって……。でも、もう大丈夫です、姫様……」
 そっと、両手をアイミィの肩に置く。
「怪我はありませんか?」
「ええ、昨夜からずっと、この部屋に閉じ込められていただけですから。ただ……」
「……ただ?」
「いえ、大したことではないんですが……ペンダントを……」
「ペンダント?」
 そうだ。アイミィは確か、由緒ありそうな、古いペンダントを身に付けていた。それが今はない。
 もしかすると……。
 奈子は考える。
 人質よりも、そのペンダントこそが、エイクサムやリューイの目的だったのではないだろうか? それを手に入れたから、もうレクトン・ソルに味方する必要がなくなったのでは、と。


「残念ながら、いくら待っても姫様はここへは来ませんよ」
 レクトンの眼前で、ソレアが静かに言う。
「な……、一体、何をしたのだ、貴様……?」
「この城にしろ、あなたの屋敷にしろ、これだけの結界を張られると、外部の者は転移することが出来ません。例外は、結界を張った者とその仲間。つまり、あなた方が転移するのと同調すれば、私達もあなたの屋敷内へ転移することが可能になる訳です。あなたは、私たちのために自分で鍵を開けたようなものですよ。今頃はもう、姫様は救い出されているはずです。つまり……」
「レクトン・ソル、あなたは、もう、終わりということだ。大人しく裁きを受けるがいい」
 ハルティがソレアの言葉の後を継いだ。
 レクトンは拳をぎゅっと握り締め、唇を噛んでいる。
 一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう? レクトンは自問した。
 そうだ、あの男だ。エイクサム・ハルと名乗る魔術師、あの男が現れた時から、何かが狂ってしまったのだ。 
「あなたには、逃げ道はありませんよ。間もなく、この城は囲まれるはずですから。国内の主だった者たちに、王子の名で、勅命を伝えておきました。逆賊レクトン・ソルを討ち取れ、とね……」
「なんだと……?」
 握り締めた拳が、ぶるぶると震えている。
「あなたは、エイクサム・ハルに見捨てられたんですよ。彼は、ランドゥの神殿さえ手に入れれば、マイカラスなどに興味はなかったんです」


 アイミィを連れて、部屋から廊下に出ようとした奈子は、屋敷内が騒がしくなっているのに気付いた。アイミィが不安そうに尋ねる。
「何かあったんでしょうか?」
「心配はありません。姫様と王子に味方する者たちでしょう。表向きレクトン・ソルに従う振りをしながら、王子や姫様を助けようとしている者たちが、大勢いるんです。ただ、乱戦になる前に姫様を救い出さないと危険ですから、私たちは先に来たんです」
 奈子は、廊下から逃げるのを諦めた。
 屋敷内で戦闘が起こっているとなると、その中を突破したのではアイミィの身に危険が及ぶかも知れない。
 持っていたカードの中から長いロープを取り出すと、その端を部屋に置かれていた大きなベッドの脚に結びつけた。
 閉ざされていた窓を蹴り開けると、ロープを外に放り出す。ここは三階だが、ロープは十分地面まで届いている。
「ここから脱出しましょう。姫様は、私の背におぶさってください」
 カーテンを細く引き裂き、手に巻き付けながら奈子が言う。
 アイミィがそれに従うと、奈子は、やはり裂いたカーテンで、アイミィと自分の身体をしっかりと結び付けた。
「じゃ、行きますよ。ちょっとの間ですから、目を閉じていてください」
 窓から身を乗り出したところで、背中のアイミィに向かって言った。
 アイミィは、目を閉じて頷く。
 奈子はロープを掴むと、窓の外に飛び出した。
 手に巻いた布が、たちまち焦げ臭い煙を発する。
 奈子としては、あまり時間をかけるわけにはいかなかった。
 所詮は女の腕力、二人分の体重をいつまでも支えている自信はない。躊躇せずに、一気に滑り降りる。
 手に巻いた布が焼き切れ、掌に痛みが走った瞬間、足が地面に着いた。身体を屈めて、着地の衝撃を吸収する。
「大丈夫ですか、ナコさん?」
 アイミィが心配そうに尋ねる。
「へーきへーき、さ、急ぎましょう」
 奈子は、アイミィの身体を結んでいた布を短剣で切ると、アイミィの手を引いて走り出した。が、建物の陰に廻ったところで、十数人の男たちとぶつかった。
 全員が鎧を身にまとい、剣を手にしている。
 先頭にいた初老の男が、アイミィの姿を認めて嬉しそうに言った。
「おお、姫様、ご無事でしたか。ナコ殿、ご苦労であった」
「え……? ニウム・ヒロ様、ナコさんのことをご存じなんですか?」
 アイミィが、ニウムと奈子の顔を交互に見る。
「姫様を助け出すために、力を貸してもらったんですよ」 
「詳しい話は後にして……、姫様、早く脱出しましょう。レクトン・ソルを捕らえるまで、取り敢えず私の家においでください。この者たちを護衛に付けますから」
 ニウムは、アイミィの手を取って歩き出し、そして、立ち止まったままの奈子に気が付いた。
「さあ、ナコ殿もご一緒に」
 だが、奈子は何故か、あさっての方向を見ている。そして、妙に険しい表情をしていた。
「……姫様、先に行ってください。私は、まだやることがありますから」
「ナコ……さん?」
 奈子はアイミィの問いかけを無視すると、ニウムに向かって言った。
「早く、姫様を連れてここから離れて。それから、あなたも姫様に付いていてください」
「何か、あったのですかな?」
 実は、奈子が歩き出そうとした時、視界の隅に、何か引っかかるものがあったのだ。
 それは一瞬で見えなくなったが、決して見間違いではない。
「まだ……、ちょっと手ごわい相手が残ってたみたいです……、アタシが、相手をしますから」
「ナコ殿一人で大丈夫かな。何人か、残した方がいいのでは……」
「あなたの使命は、姫様を護ることでしょう? 一人も、戦力を割いてはいけません。これは、アタシの個人的な闘いです、一人にしてください」
「先刻言っていた、仇というやつですか?」
 ニウムは、大体事情を察したらしい。半ば強引にアイミィの手を引くと、他の男たちを指揮して即座に撤退を始めた。奈子一人を残して。
 アイミィはそれに逆らおうとしたが、力強いニウムの手で腕を掴まれては、どうしようもない。
 さすがにあの男はよくわかっている、と奈子は思った。
 今は、アイミィの安全が何よりも優先するのだ。ここにレクトンがいないのなら、これ以上の戦闘は無意味だ。少なくとも、奈子以外の者にとっては。
 アイミィたちが十分に離れたのを確認して、奈子が口を開いた。
「いるんだろ? 出て来いよ」
 その言葉が終わらないうちに、奈子の前に一人の男が現れる。
 リューイ・ホルトだ。
「折角の人質を放っておいて、何してたんだ?」
「別に人質など、我々にはどうでもいいことだ。エイクサムが出かけていて退屈だったのでな、ちょっと様子を見に来ただけだ。レクトン・ソルは失敗したようだが、所詮、その程度の男だということ……。何だ? お前、笑っているのか?」
 奈子の表情の変化に気付いたリューイが、訝げな顔をする。 
「そうさ、会いたくて会いたくて仕方がなかった相手が、今、目の前にいるんだから。わかってンだろ? アタシは、アンタらを殺しに来たンだよ」
 歪んだ笑みを浮かべる奈子の手の中に、一振りの剣が現れた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.