六章 ユウナ・ヴィ・ラーナ


「馬鹿が……」
 レイナは、誰にともなく呟いた。
 王都マルスティアを占拠していたストレイン軍の敗色が濃厚なのは、誰の目にも明らかだった。
 ストレイン軍は、まだ相当の兵数を保っている。
 ストレインの兵は、トリニアの兵に劣らず勇敢だ。
 だが。
 指揮官の差だけが歴然としていた。
 マルスティアの西、数キロメートほどのところにある岩山の山頂で、レイナとトゥートは戦況を見つめていた。
 レイナの軍がマルスティアを制圧してから、六日が過ぎている。
 あの戦闘の翌日、後に続くストレイン帝国軍の本隊が到着すると、レイナは予定通り三日目には自分の兵をマルスティアから移動させた。
 表向きの理由は、トリニアの反攻に備えて兵を自由に動かせるようにしておく、というものだったが、占領から五日目、トリニア軍が総力を挙げて反撃に転じてきた時、レイナの軍は既に戦場にいなかった。
「このままでは、全滅しかねませんね」
 戦況を観察していたトゥートが呟く。
「全く無能な奴だ。不利と見たらさっさと後退すればいいものを、面子だけを気にして無理に踏み止まろうとするから、被害を大きくすることになる。ああいう将の下に付いた兵は不幸だな」
「しかし、後で問題になりませんか?」
 トゥートの心配はもっともだった。
 現在、マルスティアを占拠している軍を指揮しているのは、ストレイン帝国の第三皇子。それを見捨てて自分だけが先に引き上げていたなどということが本国に知れたら、レイナも只では済まされない。
 しかしレイナは気にした様子もなく、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「知ったことか。つまらん戦いで兵を失いたくない」
「しかし、レイナ様が参戦すれば、この戦いも勝てるのでは?」
「だろうな」
 そう答えたときのレイナの笑みには、付き合いの長いトゥートでも一瞬背筋が寒くなった。
 自身の勝利のためには、味方さえも見殺しにできる。
 それが、レイナの強さだった。
 あるいは、レイナにとってはストレイン本国も「敵」なのかもしれない。
「だが、皇子がいる以上、ここで勝っても私の手柄にならん」
 デューン家はストレイン帝国の名門の一つだが、レイナは血のつながりのない養女であり、国内での立場は弱い。皇子の下で戦っていたのでは、レイナがどれだけ戦果を挙げたところで、本国へは皇子の手柄として伝えられるのが目に見えている。
 だから、レイナは可能な限り一人で戦うようにしてきた。いくら皇子でも、自分が参戦していない戦いの戦果まで自分の手柄にはできない。
「本国が何と言ってこようと知ったことか。私の軍が無傷なら、今回の負けなどいくらでも取り返せる。それにしても……」
 レイナはもう一度、戦場全体を見渡した。
「あの馬鹿、ここまで無能とは思わなんだ。兵力は互角だろうに、こうまで一方的な戦になるとは」
「皇子殿下は、レイナ様が言うほど愚かでも無能でもありませんよ。まあ、名将は言えませんがね。……今回は、相手が強過ぎました」
 トゥートが一応弁護する。自分の能力に自信のあるレイナは、どうしても他人を見下す癖がある。
 レイナの能力はトゥートも認めるところではあるが、一応は将を諫めるのが副官の仕事でもある。
「強過ぎる? これがトリニアの実力だろう。緒戦の勝利は、相手の不意を付いたに過ぎん」
「五百年近くに渡って大陸を支配してきた、その歴史の力……ですか」
「何にせよ、先に兵を引き上げて正解だったな。マルスティアでは、あまりにも向こうに地の利があり過ぎる。たとえ勝ったとしても、被害は大きかった」
 先にマルスティアを離れたレイナの軍は、遙か後方の砦へと向かっている。たとえ今すぐにストレイン軍が総崩れとなり、トリニアが追撃部隊を出したところで、追いつくことはできない。
 レイナとトゥートだけが、戦況を見届けるためにここに残っていた。竜騎士である彼女たちだけなら、何があっても脱出できる。
「良い将だ、兵の動かし方に無駄がない」
 戦場を観察していたレイナが、珍しく感心したように言う。それは無論、敗走を続けるストレイン軍ではなく、敵のトリニア軍に対する評価だ。
「トリニア軍の総大将は、ユウナ・ヴィらしいです」
「ユウナ……。ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトか? 名家の令嬢のくせに、よくやる」
 半ば感心したように、半ば呆れたように、レイナは呟いた。
「わずか十八歳で最高位『青竜』の称号を与えられ、勝利の女神の化身とまで呼ばれる騎士です。その剣技はトリニア一。その上かなりの美人とか……。どうです、勝てますか?」
 トゥートが、意地の悪い笑みを浮かべてレイナの表情を伺う。
「美人かどうかで戦の勝敗が決まるのか?」
 やや呆れたように、レイナは言った。
「それに、勝てるか、とは私に訊いているのか? 言葉に気をつけろ。機嫌の悪いときなら首が飛んでいるぞ。一体誰が、私に勝てるというんだ」
 レイナは副官を睨みつける。
「私の首がまだつながっているということは、今日は機嫌がよろしい、と?」
「あの馬鹿が負けるところを見られたんだ、そう悪い気分じゃない。アンコールができないのが残念なくらいだ」
 二人は声を上げて笑い、どちらからともなく立ち上がった。
「そろそろ決着は付いたみたいですし、引き上げましょう」
 この場所は、戦場を見渡すには都合が良いが、竜が降りるには足場が悪いため、少し離れたところで待たせている。マルスティアに背を向けて歩き出そうとした二人は、その時初めて、そこにいるのが自分たちだけではないことに気がついた。
 いつから、いたのだろう。レイナもトゥートも、全く気配を感じなかった。
 そこにいたのは二人。
 一人は三十歳くらいの男。
 黒い髪に黒い瞳を持ち、身長こそトゥートよりやや低いが、よく鍛えられた均整のとれた体格をしている。
 もう一人はレイナと同世代、二十代半ばと思しき美しい女性。夕陽に照らされた銀髪が朱く染まっている。
 硬い表情の男とは対照的に、静かな笑みを浮かべていた。
 二人とも、トリニアの騎士の制服を身にまとい、剣を腰に差している。
 レイナは眉をひそめた。
 背後を取られていながら、まるで気付かなかったとは。
 いったい何者だろう。
 いったい、いつからここにいたのだろう。
「レイナ様、あの女……」
 レイナにだけ聞こえるように、トゥートがつぶやいた。レイナも小さくうなずく。
 女が着けているマントに、答えはあった。
 一度見たら忘れない、その刺繍。
 血の色をした赤地に、青竜の紋章。
 トリニア国民にとっては羨望の的であり栄光の象徴。
 敵にとっては恐怖と死をもたらすもの。
 それが『紅蓮の青竜』と呼ばれるその紋章だった。
「青竜の、騎士……」
 トゥートが呻くようにつぶやく。
 女のマントの留め金に、もう一つの答えが見つかった。
 トリニア建国以来の竜騎士の家系、名門中の名門ラーナ家の紋章が彫られた銀の留め金。
「はじめまして……ではないわね。レイナ・ディ」
 女の方が口を開いた。
 何の気負いも感じられない、ごく自然な口調だった。
「ユウナ・ヴィ……」
 喉の奥から絞り出すような声で、レイナはその名を呼んだ。
 間違いない。ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。トリニアの青竜の騎士だ。
 相手が何者かはわかった。しかし、「はじめましてではない」とはどういう意味だろう。
 レイナは記憶の糸を手繰る。
 トリニア侵攻以来、レイナがユウナ・ヴィとまみえたことはない。
 レイナの軍がトリニアに侵攻を開始した頃、ユウナ・ヴィは北の果てのアンシャス王国に滞在していたはず。
 しかし、ユウナの顔にはどこか見覚えがあった。
 今回の戦役よりもずっと昔のことだろうか。
 更に記憶を遡る。
 多分、まだ十代の頃なら顔を合わせていた可能性もある。駆け出しの騎士で、どこか辺境の戦場に派遣されていた頃だ。
 最近まで、ストレインとトリニアが直接戦火を交えることはなかったが、近隣の小国の戦争に援軍を派遣することはしばしばあった。いわばトリニアとストレインの代理戦争だ。
 そういった戦場のどこかで出会っていたのかも知れない。
「あそこで戦っているはずの貴様が、何故こんな処にいる?」
 レイナは、眼下に広がるマルスティアを振り返った。そこに展開している五万以上のトリニア軍を指揮しているのが、このユウナ・ヴィのはずだ。
「レイナと同じ理由じゃないかしら。ここは、戦場全体を見渡せる特等席だもの」
 ユウナはにこにこと笑いながら言う。その、妙に馴れ馴れしい様子が癇に障った。
「そんな理由のわけがあるまい?」
 確かに、全体の戦況は把握できるかも知れない。しかしこんな遠くからでは、兵を指揮することはできない。
「うーん、そうねぇ……」
 ユウナは唇に指を当て、考え込むような仕草をする。
「じゃあ、レイナに会いたくてわざわざやってきた、っていうのはどうかな? 兵は引き揚げても、あなたはきっとどこかで見ていると思ったから」
「ふざけるなっ!」
 無意識のうちに、レイナは剣の柄に手を掛けていた。ユウナに飛びかかろうとするのを、トゥートが押し止める。
「あら、ふざけてなんかいないわ」
 それまで腰掛けていた岩の上に立ち上がり、ユウナは言った。
「レイナに会ってみたかったというのは本当。興味があったわ。九年前は全く歯が立たなかった相手に、ようやく互角以上の戦いが挑めるようになったんだもの。マルスティアの戦場で会えると思ったのに、あなたはさっさと引き揚げちゃうし」
 ユウナの顔から、それまでの子供っぽい笑みが消えた。騎士としての表情になる。
 今にもユウナに飛びかかりそうなレイナの腕を押さえながら、トゥートはふと思った。この二人はよく似ている、と。
 レイナは腰までの黒髪。ユウナは背中の中程までの銀髪。
 獲物を射るような鋭い目をしたレイナに比べると、ユウナの方が幾分優しい顔つきをしている。
 そういった違いはあるものの、それでも二人はよく似ていた。
 歳の頃も、背格好もほとんど変わらない。
 そして何より、内面から滲み出る雰囲気がそっくりだった。
 一見、ユウナの方がずっと優しげで礼儀正しく見える。だが、レイナとの違いは、殺気を表に出しているか内に秘めているか、でしかない。
「レイナは覚えていないのかしら? あなたは私の婚約者を殺し、私にも瀕死の重傷を負わせたのよ」
「何だって?」
 叫んだのはトゥートだった。思わずレイナの顔を覗き込む。レイナは難しい顔をして、自分の記憶を探っているようだった。
「九年前……というと、アネプトゥの戦場? そういえば、そんなこともあったかもな……」
 レイナもやっと思い出した。彼女が初めて、大きな手柄を立てた戦いだ。あの時倒した何人もの騎士の中に、この顔があったように思う。
「それで、執念深く復讐に来たというわけか?」
「別に……」
 ユウナは、立っていた岩の上からとんと飛び降りた。
「別に、今更なんとも思っていないわ。昔のことだもの。本当に、ただ顔を見に来ただけよ。行こう、フレイム」
 ユウナは、これまで一言も発していない男の腕を取った。男の方が小さく呪文を唱え、二人の姿が消えていく。
 最後の瞬間、ユウナの声が聞こえた。「今度は戦場で……」と。
 レイナは力一杯、トゥートの手を振りほどいて叫んだ。
「何故、止めたっ!」
「勝てませんから」
 拍子抜けするくらいあっさりと、トゥートは答えた。振り向いたレイナは、鋭い視線だけで相手を射殺せそうな表情をしていた。
「何だと?」
「レイナ様とユウナ・ヴィの力は恐らく互角。しかし、私はあの男には勝てません」
 そう言って肩をすくめる。
「そんなに強いのか?」
「レイナ様は、ユウナ・ヴィしか見ていなかったのでしょう? 竜騎士の紋章は付けていませんでしたが、ユウナ・ヴィに匹敵する力の持ち主です。あの男、見た目通りの存在ではありません」
「ちっ」
 忌々しげに唾を吐いたレイナは剣を抜いて、先刻までユウナが立っていた岩に叩きつけた。硬い竜の鱗さえもやすやすと切り裂くその刃は、大きな岩を真っ二つに両断する。
「いったい何なんだあの女……。くそ、何だか妙な奴だったな。あれが勝利の女神の化身だと?」
「何かまだ、下心がありそうでしたね、過去の因縁以外に……。ひょっとして、ストレイン軍にも美しい騎士がいると聞いて、どっちが上か確かめに来たのかも知れませんよ。噂以上に美しい女性でしたね」
 茶化すように言うトゥートの喉元に、レイナの剣が突きつけられた。
「ふざけるのもいい加減にしろよ、トゥート?」
「いえ。別にふざけているわけでは……」
「あんな女より、私の方が数段上に決まっている。そうだろう?」
 トゥートは吹き出しそうになったが、喉仏に触れる冷たい切っ先を感じて、慌てて真面目な表情を作った。
「仰る通りで……」
 太陽は今まさに、西の山陰に沈もうとしていた。



<<前章に戻る
次章に進む>>
目次に戻る

(C)Copyright 2001 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.