まだ、生きているのだろうか。
それともこれが、死後の世界というものか。
ぼんやりとした頭で考える。
意識が朦朧として、記憶が曖昧だ。
いったい、何があったのか。
ここはどこで、何をしているのか。
どこまでが現実で、どこからが夢なのか。
……わからない。
(慌てなくてもいい。ゆっくりと、一つずつ順番に思い出して……)
自分に、そう言い聞かせる。
思い出せることから、一つずつ。
千年前のマルスティアでの戦闘を見ていて、トリニアの竜騎士ユウナ・ヴィに出会ったこと……あれは夢だ。
では、レイナの墓所の遺跡でアルワライェと闘ったことは?
由維と喧嘩して、泣いたことは?
ハルティの即位の式に出席したこと。
空手の日本選手権で優勝したこと。
更に記憶を遡る。
由維とキスしたこと。
ファージの敵を討つため、人を……殺したこと。
(夢じゃない……。そう、夢じゃない)
みんな、現実だ。
少しずつ、意識がはっきりしてくる。
石造りの天井が見える。
冷たい石の感触が、背中に伝わってくる。
身体も、少しは動かせそうだ。
一度、深呼吸する。
そうして身体を起こそうとした奈子は、下腹の痛みにうっと顔をしかめた。
アルワライェにやられた傷に手をやる。
傷は塞がっていた。
服にべっとりと付いた血糊が、赤黒く固まっている。
傷に響かないようにゆっくりと上体を起こし、そのまま床に座り込んだ。
周囲を見回すと、床には血の痕の他に、たくさんの金属片が散らばっている。
「あぁ……」
意識と記憶は、ずいぶんとはっきりしてきた。
少し離れたところにある血の痕、あれはきっとアルワライェのものだ。
そして、この散らばる金属片は――
奈子は自分の手元を見た。
刃を折られた剣の柄が落ちていた。
「オサパネクシ……折られちゃったんだ……」
あの瞬間、何があったのかはよくわからない。
だが、アルワライェに致命傷を与える前に剣は折られ、同時に奈子自身も、恐らくは魔法による攻撃を受けたのだ。
「どうして……助かったんだろ」
致命傷だったはずの傷は塞がっている。まるで、魔法で治療したかのように。
(……魔法?)
ふと思い付いて、自分のポケットを探った。
魔法のカードが、何枚か減っていた。治癒の魔法を封じたカードだけが。
(失血が致命的になる前に、半分無意識のままカードを使ったのか……?)
そうとしか考えられない。
大量の血を流したためか、全身がだるい。
意識も少しぼんやりする。
それでも、命は助かったのだ。
「……そうか、助かったのか」
涙が溢れ出してきた。
しかしそれは、嬉し涙ではななかった。
手の中の、折れた剣に目をやる。
「剣、折られちゃった……ファージに貰った、大切な剣なのに……」
初めてこの世界に来た時、魔獣と闘うためにファージから渡された剣。
その後も、何度も何度も命を救われた剣。
だけど、この剣は。
「ファージの、恋人の形見なのに……」
奈子と知り合うずっと以前、ファージを守るために命を落とした男性の持ち物だったという。
ファージは何も言わないが、ソレアから聞かされた話だ。
「弱い……よぉ……」
溢れ出る涙が止まらない。
「何で、こんなに弱いんだろ、アタシ……」
これで、由緒あるマイカラスの騎士だなんて。
馬鹿みたいだ。
いったい何をやっているのだろう。
剣は、騎士の魂だというのに。
「これじゃ、ファージにもハルティ様にも、合わせる顔がないよ……」
奈子は、拳を床に叩き付けた。
涙が床に落ちる。
ぎゅっと唇を噛んだ。
血が滲むほど、強く。
ひどい屈辱だった。耐えられない。
もう一度、床を殴る。
「こんなアタシ、何の価値もない。いっそのこと……」
死んでしまえばよかった。
無様に生き恥を晒すくらいなら。
「……あのまま、死んでしまえばよかった」
奈子は、のろのろと立ち上がった。
「そうだよ……そうだよ。何のために、生きてるっていうんだ……弱いヤツは、死ねばいい……。そうだ……」
そう。
奈子が死ぬか、それとも――
「……あいつが死ぬか、だ」
奈子の目が、妖しく光った。
「……殺してやる」
溢れていた涙が、ぴたりと止まる。
「殺してやる……今度こそ、殺してやる」
口元が引きつって、不自然な笑みを浮かべる。
壁に手を付きながら、奈子はゆっくりと歩きだした。
「……殺してやる……殺してやる……」
ただ、それだけを繰り返しながら。
奈子の精神状態は、普通ではなかった。
本当なら、一度引き返して、ファージたちと合流して出直すべきなのだが、今の奈子にはそんな考えは全く浮かばない。
アルワライェを殺す。ただそれだけを考えていた。それはちょうど、ファージの仇を討つことだけを考えてエイクサムを追っていた時に似ていた。
「殺してやる……今度こそ……」
何度も何度も、その言葉をつぶやいて。
何処をどう歩いてきたのかよくわからないが、気が付くと、通路の前方に扉があった。
扉の前に、数人の人影が立っていて、奈子は一瞬体を固くする。しかしよく見ると、それは生きた人間ではなかった。
青銅のような金属でできた像だ。
通路の両側に四人ずつ。
六人が男。二人が女。
いずれも、剣を持った戦士の姿をしている。
レイナ・ディの墓所を護るといった意味があるのだろうか。
通路の真ん中に立っていると、八人に睨まれているように感じる。
「あれ……?」
像の一つに見覚えがあるような気がして、奈子は近付いた。
背の高い、やや痩せ気味の男性の像だ。
「トゥート……?」
間違いない。
夢の中に出てきた、レイナ・ディの副官だった竜騎士だ。
しかし、その像は夢で見たトゥートよりも、ずいぶん歳を取って見えた。夢の中では三十前の青年だったはずだが、この像は四十歳前後と思われる。
「あ、でも、それでいいのか」
本で読んだ話では、レイナは三十代半ばで病のために命を落としたという。そしてトゥートはレイナより何歳か年上だった。
(ふぅん……)
奈子は芸術のことなどわからないが、ここに並ぶ像は、奈子の世界の基準でも見事なもののように思われた。
「死んだ後も、こうして腹心の部下たちが護ってくれてるわけだ。……あれ?」
像を詳しく観察していて、ふと気付いた。
トゥートが腰に差している剣は、本物だ。
恐る恐る手を伸ばし、それを抜いてみる。
その剣は、千年も前の物とは思えない、研いだばかりのような輝きを放っていた。
(さすが、王国時代の逸品)
王国時代の遺跡などに、ほとんど風化の痕が見られないことは奈子も知っていた。高度な魔法の力で保護されているためだ。
「少しの間、これ、借ります。……アタシの戦いのために」
剣を手に、奈子はトゥートの像に向かって小さく頭を下げた。
それから、前方の扉の方に向き直る。
この像が護っているということは、きっとこの奥が墓所の中心部に違いない。
そう考えて、扉に手を掛ける。
と、扉の向こうに、人の気配を感じた。
頭で考えるより先に、反射的に金属製の扉を蹴り開ける。
剣を振りかざして中に飛び込もうとして。
しかし、奈子は呆然とそこに立ち尽くした。
一瞬、目に映ったものが信じられないといった表情で。
それが夢でも幻でもないと確認して、奈子はゆっくりと訊いた。
「……なんで、あんたがここにいるの?」
「まさか、マルスティアの中とはね……」
ソレアは、やや呆れたような口調でつぶやいた。
どうりで、今まで誰も見つけられなかったはずだ。
戦争の末期、激しい戦場となったマルスティアは、以後、近付く者もいない。
都市は破壊され尽くし、大地は有毒な瘴気に覆われ、戦争に用いられた魔物が徘徊する禁忌の地。それが、現在のマルスティアだった。千年経った今でも、人が住める土地ではない。
まさかそんな場所に、レイナ・ディの墓所があるとは誰も思わないだろう。
もっとも、そんな土地にどうやって墓所を築いたのかは依然謎だったが。
「ま、行ってみればわかるか」
ソレアは、お茶のカップを口に運んだ。
今いるのは、自分の家の居間。ここが一番落ち着く。
とその時、
「ソレアッ!」
いきなり乱暴に扉が開かれ、ファージが飛び込んできた。
「ちょっとファージ、その扉は樫の最高級品なのよ。もうちょっと丁寧に扱ってよね」
家具や食器に人一倍愛着を持っているソレアは、嫌な顔をする。
「それどころじゃないっ! ナコが、いないんだ」
「いない? どういうこと?」
「こっちへ呼ぼうとしたのに、捕まらないんだ」
レイナの墓所の位置がわかったので、ファージは、奈子をこちらへ呼ぶために地下室へ行っていた。そこには、転移の指標となる魔法陣がある。
「ファージの次元転移に引っかからない。ということは……」
「もう、こっちに来てるんだよ。自分で転移しようとして、失敗してここに来られなかったんだ」
「ちょっとファージ、落ち着いてよ……苦しいから」
興奮したファージは、いつの間にかソレアの襟首を掴んでいた。
「落ち着きなさい、座標の固定に失敗したって、全くランダムな場所に出るわけでもないでしょう? この世界で、ナコちゃんとの縁が深い場所。ここでなければマイカラス、それともルキアの街……」
「私、マイカラスへ行ってくる! ソレアはナコの気配を捜して!」
言うが早いか、ファージは部屋を飛び出していく。
ソレアも腰を上げた。
地下室に降り、魔法陣の中心に座って目を閉じる。
(さて……何処にいるかしらね……)
転移魔法に失敗した場合、多くはその人に縁のある場所に出ることが多い。意識のどこかに、その場所のことがあるからだ。
それ以外では、強い魔力を持った土地。その魔力が、転移魔法に干渉することがある。
後者だとすると、見つけ出すのは難しい。なにしろ可能性のある場所が多過ぎる。
しかし前者であれば、この世界で奈子が知っている土地はそれほど多くはない。
最初に滞在した街ルキア。
二度目の時に訪れた神殿の遺跡。
ソレアの屋敷のあるタルコプの街。
それからマイカラスの王都。
徐々に意識を広げて、奈子の気配を探ってゆく。だが、それらしき反応はない。一番可能性が高いと思われたマイカラスの王宮も無反応だ。
(他に、ナコちゃんに関わりのある場所、それとも人物……)
土地だけでなく人物に範囲を広げても、候補はそんなに多くない。
(そういえば……あの男もいたわね)
ソレアは、一つの可能性に思い当たった。
そこは、ちょっとした広さの部屋だった。特に何も置かれてはおらず、正面に、更に奥へ続く通路が見える。
「……なんで、あんたがここにいるの?」
奈子はもう一度繰り返した。自分の前に立つ男に向かって。
「それはこっちの台詞……と言いたいところだが、それほど不思議でもないか。お前も一応マイカラスの騎士だもんな、ナコ」
奈子の癇に障るにやにや笑いを浮かべながら、男は言った。
「なんであんたがこんな処にいるのっ? エイシス!」
奈子は叫んだ。
目の前の男の名は、エイシス・コット・シルカーニ。
職業はフリーの傭兵。マイカラスのクーデターの際、奈子たちに雇われて一緒に戦った男だ。
その体格に相応しい大剣を片手で操り、強力な精霊魔法の使い手でもある。
腕は間違いなく一流だ。しかし性格には、少なくとも奈子にとっては多少の問題があった。
金に汚く、好色でちゃらんぽらん。それが奈子が抱いている印象。どちらかといえばストイックなタイプが好みの奈子としては、腕は認めるものの、どうにも虫の好かない相手だった。
「それにしても、どうしてソレアやファーリッジ・ルゥは一緒じゃないんだ? 本来なら、マイカラスの騎士団が揃って来たっておかしくないだろうに。何故一人でこんな処に?」
「いいから、先にアタシの質問に答えろよっ!」
こめかみに青筋を立てて奈子は叫ぶ。しかしエイシスは相変わらず飄々とした態度だ。
「そんなに頭に血を昇らせるなって。それでなくても、血が足りてないんだから」
「な……」
何故、そんなことを知ってるんだ? 奈子はその言葉を飲み込んだ。
確かに、着ている服は血塗れだ。だが、それが返り血ではなく奈子の血だと、どうしてわかるのだろう。
それに何故、こんな処で会っても驚かないのか。
不意に、一つの回答が浮かぶ。
考えたくないことではあるが。
「あ、あ、あんたが……手当してくれたの?」
エイシスは黙って、相変わらずにやにやと笑っている。
それが、答えだった。
奈子はぎりぎりと唇を噛む。
どうして、よりによってこんな男に命を救われるのだろう。
「どうして……?」
絞り出すような声で訊いた。
「やっぱ、知り合いが死ぬのはあまり気分のいいもんじゃないだろ。特に、将来有望な美少女の場合は」
「むさ苦しい男だったら、見捨てるとでも言うのっ?」
「かもな」
エイシスには全く悪びれる様子がない。
「命の恩人に対して、他に何か言うことはないのかな? ん?」
「誰がっ!」
命の恩人どころか、親の仇でも見るような目で、奈子はエイシスを睨んだ。
本当に、むかつく男だ。
もういい。こんな奴を相手にしている場合ではないと、エイシスを無視して奥へ進もうとした。
その手を、エイシスが掴まえる。
「何処へ行く気だ?」
「離せよっ! アタシは追ってる奴がいるんだ。あんたなんかに関わってるヒマはない!」
だが、エイシスの大きな手は、しっかりと奈子の腕を掴まえて離さない。
「悪いことは言わん、大人しく帰るんだな。どうしてもと言うんなら、軍隊でも連れてくることだ」
「あんた、いったい……」
「俺は、仕事でここにいるんだよ。遺跡の調査の護衛、ということでね。部外者を通すわけにはいかない、わかるだろ?」
「仕事……?」
その言葉に、奈子は振り返る。
「まさか、あの男に雇われてるってこと? どうして? あの男はマイカラスの……」
「マイカラスの敵、か? しかし、俺の敵じゃない。この前は、お前とハルティが雇い主だった。今はアルワライェが雇い主。金払いはなかなかいいよ」
「……そう」
奈子が小さくうなずくと、エイシスは手を離した。
「わかったなら、帰れよ。なんなら出口まで送ってやるぞ?」
「つまり、今のあんたはアタシの敵ということだ。……そういうことだよね?」
奈子は、手に持っていた剣を構えた。目つきが尋常ではなかった。
さすがに、エイシスも緊張した表情になる。
「おい、ナコ……」
「アタシは、アルワライェを殺す。邪魔するなら、あんただって殺してやる!」
「殺す、って言ったのか? お前が?」
「そうさ! みんな殺してやる、アタシの邪魔をするなっ!」
奈子の剣幕に、エイシスは眉をひそめた。
いったい何があったのだろう。
これは、エイシスが知っている奈子ではない。
以前、人を殺したショックに打ちひしがれていた少女とはまるで別人だ。
「おい、ちょっと待て……」
奈子は最後まで聞いていなかった。
いきなり、エイシスに斬りかかってくる。
エイシスは後ろに飛び退くが、奈子はそれを追って続けざまに剣を振り回す。
(馬鹿な……)
別に好かれているとは思っていなかったが、本気で斬りつけられるほど嫌われる覚えもない。
だが、奈子の剣には明らかな殺意があった。
全く手加減なしだ。
奈子の三度目の打ち込みを、エイシスは背負っていた大剣を抜いて受け止めた。もう、素手でかわせる状態ではない。
奈子の剣の腕は決して一流とはいえなかったが、かといって遊び半分であしらえるほど未熟でもない。何より、本気の相手は怖い。
奈子は、息もつかず立て続けに剣を打ち込む。もう、型も何もあったものではない。
奈子の攻撃はことごとくエイシスの剣に受け止められてしまうのだが、それでも奈子は剣を振り続けた。
風を切る音。
剣がぶつかり合う音。
そして二人の荒い呼吸だけが響く。
何とか、傷つけずに止める手はないか。そんなエイシスの考えが、それが隙を作る原因になってしまった。
奈子は見抜いていた。エイシスに、自分を傷つける気がないということを。
そして、そこにつけ込む気でいた。闘いは、甘さを見せた方が負けなのだ。
剣だけでは勝てないことはわかっている。いくらなんでも腕が違い過ぎる。だが、奈子には奈子の武器があった。
「ふっ」
一瞬間を置いて息継ぎをした奈子は、渾身の力で剣を打ち込んだ。
耳障りな金属音を立ててその斬撃を受け止めたエイシスの剣は、奈子の手から剣を弾き飛ばす。
その瞬間、エイシスに油断が生まれた。奈子はそれを狙っていた。
遠距離で魔法。
中距離で剣と魔法の複合技。
そして至近距離では剣中心の闘い。
それがこの世界の白兵戦の基本だった。魔法の防御に自信のある者は、相手の剣を奪えばそれで勝利を確信してしまう。
だが、奈子にはこの至近距離から、もう一つ武器があった。それも、剣よりも素早く繰り出せる武器が。
エイシスだって奈子の技を知らないわけではないが、慣れていない分どうしても反応が一瞬遅れてしまう。この世界には、奈子が使うような高度な徒手格闘術は存在しないのだ。
エイシスの懐に飛び込んで、奈子は拳を繰り出した。
北原極闘流の奥義、衝。
格闘家としては小柄だった極闘流の創始者が、自分より大きな相手を倒すために編み出した必殺の拳。
全身で生み出した運動エネルギーを、一点に集中して打ち込む。
バンッ!
何かが破裂したような音が響き、二人の間に閃光が走った。
弾き飛ばされた奈子の身体が、壁に叩き付けられる。
「つ……」
エイシスは微かに顔をしかめると、自分の脇腹を押さえた。
それからゆっくりと膝をつき、歯を喰いしばって全身を貫くような痛みに耐える。
口の端から、一筋の血が流れていた。
「……っの、バカ野郎が……。思わず、本気でやっちまったじゃねーか……」
横目で、奈子の方を見る。壁に叩き付けられた時に頭を打ったらしく、倒れたまま動かない。まさか、死んではいないだろうが。
一瞬のことだったので、手加減をする余裕もなかった。それに、本気でなければ彼の方が無事では済まなかった。
激痛で、呼吸をするのも辛い。肋骨が何本か折られたようだ。
「……ったく。強過ぎんだよ、オメーは……」
意識のない奈子に向かって、エイシスはつぶやいた。
「え……?」
気が付くと、城の廊下らしき場所に立っていた。
厚いガラスが填められた大きな窓がちょうどすぐ側にあり、外の風景が見える。
外は真っ白だった。数メートル先も見えない猛吹雪だ。
城内の空気も冷たい。
ガラスに映った自分の姿を、奈子は不思議そうに見つめた。
自分では絶対に着ることのない、ひらひらのスカートに大きな白いエプロン。まるで、どこかのメイドのような姿だ。
熱いお茶の入ったポットとティーカップを乗せた銀のトレイを持っているところを見ると、本当にメイドなのだろう。
(夢……だな。また、夢の続きだ……)
そう納得した。
奈子はまた歩き出す。お茶を持っていかなければならない。
(でも、何処へ……?)
それはわからない。しかし、足は勝手に動いていく。夢の中の自分はわかっているのだろう。
(何か、変な夢……)
夢を見ながら、それが夢であることを認識しているということはたまにある。しかし、何かがおかしい。
(ま、いいや)
最近の夢は、どこか変わったものばかりだ。
奈子は、ひときわ立派な扉の前で足を止めた。
軽く、扉をノックする。
中からの返事を待って扉を開けた。。
「レイナ様、午後のお茶をお持ちしました」
(……!)
自分の台詞に、驚いた。
予想外の名前。まさか、この向こうにいるのは――。
驚愕が顔に出ないように気を付けて、奈子は室内に入った。
そこは広い部屋で、窓際に、こちらに背を向けて一人の女性が立っている。
奈子はテーブルにトレイを置いた。
ポットからカップにお茶を注ぎ、ティースプーンに半分の蜜を溶かす。
濃いめのお茶にスプーン半分の蜜、それが、この城の城主の好みだった。
そう、この城の城主。
「レイナ様、お茶が入りました」
意識せずとも、口が動いた。外を見ていた女性が、こちらを振り返る。
レイナ・ディ・デューン。
間違いなかった。
(やっぱり、夢の続きか……。あれから随分たったんだな)
前に夢で見たレイナは二十五、六歳だったが、今、目の前にいる女性は三十台の半ばだ。
それでも、まだ充分に美しかった。強い意志の感じられる鋭い瞳は変わっていない。
「今日は寒いので、少し熱めにしておきました。火傷をなさいませんようお気をつけ下さい」
普段の奈子なら舌を噛みそうな言葉が、何故かすらすらと出てくる。
レイナは奈子の顔を見て微笑むと、カップを手に取った。
「まだ、秋の十日というのに、この吹雪か……」
カップの縁が唇に触れる直前、小さな声でつぶやく。
秋の十日。奈子の世界の暦でいえば、九月の中旬に相当する。この当時レイナが治めていた土地が大陸の北部とはいえ、これは異常なことだった。
「トリニアもストレインも、大陸が焦土と化すまで戦い続けて、その結果がこれだ」
レイナはやや自嘲気味に言った。
そう。この時代、もうトリニアもストレインも存在しない。都市は消滅し、数え切れない人間が死んだ。
生き残った人間は、ごく僅かだ。
戦争の最後で用いられた、恐ろしい魔法の後遺症が、この吹雪だった。
核戦争後の『核の冬』の話は、奈子も聞いたことがある。それと似たようなものらしい。
この冬は何年も続き、戦争を生き延びた人の多くが飢えと寒さで死んでいった。
長い長い冬の時代。暗黒の時代。
大陸の歴史の中で、もっとも暗い時代に、奈子はいるのだった。
「この城にはまだ蓄えもあるが……今年の収穫が望めないとなると、またあちこちで戦が始まるな」
充分な蓄えのない国は、よそから奪うしかない。
レイナの言葉は奈子に聞かせるためというより、むしろ独り言のように聞こえた。
「自分たちの住む世界を滅ぼして、それでもまだ戦うことを止めないんだ、人間は。結局、人間には過ぎた力なのかも知れないな、この、魔法というやつは……。
先人から受け継いだこの力、人間には分不相応だったんだ。いっそ、魔法なんてない方が平和だったとは思わんか?」
最後の一言だけ、レイナははっきりと奈子に向かって話しかけた。真っ直ぐにこちらを見て、奈子の返答を待っている。
「……それでも、戦争はなくならないと思います」
奈子は答えた。
「魔法が使えず、剣を取り上げたとしても、人間は戦うことを止めません。拳で殴り、歯で噛みついて……。きっと、戦い続けます」
きっとそうだ……と、奈子は思った。彼女自身が、人間は素手で戦えることの証だった。
過去、武器を取り上げられた民衆は、素手で闘う技を身に付けた。手を鎖でつながれた奴隷は、足だけで闘う技を考え出した。
生きている限り、人は争うことを止めようとはしない。
「そうだな……」
奈子の答えを、レイナは面白そうに聞いていた。
「しかし、そんな戦いで世界が滅びることはあるまい? どんな動物だって戦いはする。大人しい草食動物だって、発情期には雌を奪い合って争うんだ」
レイナはそこで一旦言葉を切り、カップに残ったお茶を飲み干した。
「だが、それで世界が滅ぶことはあるまい? それは、分相応の力で戦うからだ。人間だけだ。種も、世界も滅ぼしてまで戦うのは。人間だけが、不自然に大き過ぎる力を手にしてしまった」
お茶をもう一杯、とカップが差し出される。奈子はそれを受け取って、ポットからお茶を注いだ。
「竜騎士として、二十年間戦い続けた私が言うことでもないけどな。戦い続けて、勝ち続けて。全ての敵を倒せば、平和が訪れると思っていた。その結果がこれだ……」
それきり、レイナは黙ってしまった。外を見ながら、何も言わずに二杯目のお茶を飲み干す。
「レイナ様……」
「お前、名は何という?」
じっと、何かを考え込んでいるようだったレイナが、不意に口を開いた。
この人は、自分の侍女の名前も知らないのだろうか。そんな疑問を抱きながらも奈子は答える。
「奈子……、ナコ・ウェル・マツミヤと申します。レイナ様」
「ナコ……か。よし、ナコ、お前にこれをやろう」
レイナは、傍らに置いてあった剣を無造作に掴むと、奈子に向かって放った。反射的にそれを受け止める。
「……! レイナ様、この剣……」
それは、レイナがいつも身に付けていた剣だった。
あの、トリニアの老騎士が『無銘の剣』と呼んでいた、竜の鱗をも簡単に切り裂く剣だ。
「私にはもう必要ない。だが、これからのお前には、これが必要になるだろう。わざわざ遠くから来てくれたんだ、持っていくがいい」
レイナは、優しく笑っていた。若い頃には、決して見せることのなかった表情だった。
「レイナ様、あ、あの……」
「遙かな未来を担う、異界の戦士の行く末に光のあらんことを……」
「……!」
奈子は目を見開いた。
何だって?
今、なんて言った?
遙かな未来? 異界の戦士?
「レ、レイナ様……」
奈子の言葉を遮って、レイナは奈子の肩に手を掛けると、額に軽くキスをした。
「自分を信じて、正しいと思う道を行きなさい」
優しく、耳元で囁く。
その瞬間、奈子の視界は真っ白になり、何も見えなくなった。
「アタシ……気絶してた?」
頭を押さえながら、奈子は身体を起こした。
意識が戻って最初に目に入ったのは、部屋の中央に膝をつき、脇腹を手で押さえているエイシスの姿だった。口元に、血を拭った痕がある。
「ほんの、短い時間な」
妙にぶっきらぼうに、エイシスは答える。
「そっか……」
(また、夢でも見てたかな?)
今回は、どんな夢だったのかよく覚えていないけれど。
床に座り込んだまま、奈子は自分の怪我の様子を調べた。
エイシスの魔法を受けたのがちょうど右胸の下あたりで、服が破けて血が滲んでいた。どうやら、肋骨も折れているようだ。内臓のダメージはわからない。
壁に叩き付けられたに肩を強く打ったらしく、左腕が上がらない。脱臼まではしていないようだが、しばらくはまともには動かせまい。
あとは、後頭部に大きな瘤。触ってみると、手に少し血が付いた。
(大丈夫、まだ……闘える)
無事な右手で身体を支え、よろよろと立ち上がる。
傍らに、先刻エイシスに弾き飛ばされた剣が落ちていた。
少し考えて、その剣を拾う。
大きく一つ深呼吸をして。
「どうする? もう一度、やる?」
エイシスの方を見た。
「バカ野郎が……」
エイシスは忌々しげにつぶやく。
「死ぬぞ、今度こそ……」
「うん、そうかも知れない。でも……この闘いだけは、どうしても譲れないんだ。そういうことって、あるっしょ?」
奈子は、エイシスの前へ歩いて行った。エイシスも立ち上がり、奈子を見下ろす。
「あんたも、どうしても譲れないって言うんなら仕方ない、決着つけようよ。でも、そうじゃないんなら……お願い、行かせて」
奈子は、真っ直ぐにエイシスを見つめた。真剣な表情だったが、どこか、微かな笑みを浮かべているようにも見えた。
、困ったように奈子を見ていたエイシスは、やがて、ぽつりと言った。
「馬鹿が……」
「ありがと……助けてくれて。感謝してる。お陰で、もう一度闘える。アタシは死なないよ、生きて還って、どうしても会わなきゃなんない人がいるから」
奈子は一歩下がると、にこっと笑った。
それから回れ右して、奥の通路へと向かう。その背中に、エイシスの言葉が投げかけられる。
「感謝してるんなら、態度で示せってんだ。一発やらせてくれるとか、な」
通路に入りかけていた奈子が、ぴたりと止まった。しゃがんで、足下に落ちていた石のかけらを拾うと、振り向きざまに投げつけた。
エイシスは、ひょいと首を傾げてその石をかわす。と、もう一つの石が額にコツンと当たった。初めから、二個の石を持っていたらしい。
「このスケベ! 変態! やっぱあんたとは、一度きっちり決着付けなきゃなんないみたいだね。首根っこ洗って待ってな!」
吐き捨てるように言うと、奈子は奥へと向かおうとして、ふと思い出したように振り返った。
エイシスの脇腹の傷を指して訊く。
「その傷、痛む?」
「痛てーよ。ちびのくせに馬鹿力だな」
「アタシはちびじゃない、あんたがでかすぎるんだろ」
そして今度こそ、真っ直ぐに奥へと向かっていく。
その後ろ姿をエイシスが見送っていた。
「なんか、先刻までとは随分違うな……頭でも打ったか?」
しかしこちらの方こそが、彼が知っているナコ・マツミヤだった。
(だんだん、わかってきた……)
奈子は心の中で呟いた。
何がと尋ねられても、多分口では上手く説明できない。
だけど、少しずつわかってきた。
あれは夢、でも、夢じゃない。
奈子は自分の右手を見た。
一振りの剣を握っている。
それはいつの間にか、先刻拾ったものとは違う剣になっていた。
(そう、夢じゃなかった……)
それは、夢の中でレイナから渡された剣。
二十年近くに渡って、レイナが愛用し続けた『無銘の剣』。
その刃は、金属とは信じられないくらいに薄い。向こうが透けて見えるほどだ。
だが、その薄い刃は強い魔力に支えられ、決して折れず、曲がらない。
そして、その薄さ故に、どんな物でも切り裂くことができた。
これだけの魔剣でありながら、どんなに調べても、何処にも何の銘もない。
誰が造ったのかも伝えられていない。
それ故に、無銘の剣と呼ばれる。
これこそが、竜騎士レーナ・ディ・デューンの剣だった。
その剣が、どうして奈子の手の中にあるのか。
夢の中で受け取ったものが、どうして実際にここにあるのか。
それは、深く考えないことにした。
そんなことはどうでもいい。
重要なことはただひとつ。
確かにこの剣は、これからの奈子の闘いに必要なものなのだ。
通路は突然開け、奈子は広間に出た。
本当に広い。小さめの体育館くらいはある。
床は、白と黒の大理石が美しい市松模様を描いており、天井と壁には、植物を模したと思われる彫刻が彫られている。
この広間の一番奥に、一段高くなった場所があった。
玉座、だ。
直感的に、奈子はそう思った。
そして――
こちらに背を向けて、玉座を調べている男の姿がある。
赤い髪の男。
アルワライェ・ヌィといっただろうか。
奈子は、真っ直ぐに歩いて行った。しんとした広間に、乾いた足音が響く。
「エイシスか? 何かあったのか?」
奈子に背を向けたまま、アルワライェが訊く。
何も応えず、奈子は足を進めた。
返事がないのを訝しんだアルワライェが振り返る。
「……」
一瞬見せた驚きの表情はすぐに失せ、先刻と同じ人懐っこい笑顔を浮かべた。
「やぁ、生きてたんだ。元気だったかい?」
「おかげさまで……」
奈子も平然と応える。
「ここまで来たということは、あのエイシス・コットに勝ったということか。大したものだね」
大げさに手を広げるジェスチュアで感心してみせるアルワライェだが、奈子はその台詞を無視した。実際には、エイシスに勝ったわけではない。エイシスは、アルワライェとの契約に反したことになるからだ。
「随分と熱心に調べ物をしていたようだけど、何か見つかった? 大いなる力の秘密とやらは、あったの?」
奈子は、やや皮肉めいた口調で訊く。
アルワライェの返事はわかっていた。
ここは、この遺跡は、そんな目的のために築かれたのではないのだ。
「いいや。特に、これといったものはないね」
予想通り、アルワライェは肩をすくめてみせる。
「レイナ・ディの墓所。かなり信憑性の高い情報だから期待していたんだけどね。ひょっとしたら、ここも本物じゃないのかな。レイナの墓所といわれている遺跡は、大陸中に十カ所以上あるからね」
「人の城にまで忍び込んで、散々騒ぎを起こして、ぼったくりの傭兵まで雇って何の収穫もナシ? あんた馬鹿じゃないの?」
「王国時代の遺跡探しなんて、大抵こんなものさ。百のうち一つが本物なら、残り九十九が無駄足だって構わない」
「馬鹿みたい」
奈子はもう一度繰り返した。できれば、この男を怒らせたい。そうすれば、少しは付け入る隙もできる。
「今回は運がなかった、それだけさ。でもこれで、君と争う理由もなくなったわけだ。僕は帰るよ」
それじゃ、と奈子に向かって手を振る。
その時。
「ただで帰れると思っているの?」
奈子の目が鋭く光った。剣を握った右手に、ぎゅっと力を込める。
「あんたに闘う理由がなくても、アタシにはあるんだ。アタシのプライドをずたずたにした報い、まさか五体満足で帰れるとは思ってないでしょーね?」
不思議そうな表情でこちらを見ていたアルワライェは、やれやれ、と小さく首を振った。
「プライドなんてそんな、腹の足しにもならない物のために」
奈子はふと、この男がエイシスを雇った理由がわかったような気がした。
この二人、どことなく物の考え方が似ている。何処で知り合ったのかは知らないが、きっと、たちまち意気投合したことだろう。
「可愛い顔して怖いこと言うね、君は。仕方がない、今のうちに殺しておこうか」
その言葉が終わらないうちに、奈子は床を蹴った。アルワライェが、ほんの一瞬だけ殺気のこもった表情を見せていた。
奈子が剣を振る。その刃が触れる寸前、またアルワライェの姿が消えた。
だが、奈子も今回はそれを予期していた。
僅かに身を屈め、高く跳躍する。奈子の垂直跳びの記録は、同じ学校のバレー部やバスケ部の選手を大きく上回る。
一瞬遅れて、アルワライェが姿を現す。その手を狙って、奈子は剣を振り下ろした。ところが、アルワライェは短剣を持っていない。
そのことに気付いた時には、もう遅かった。
奈子の動きはアルワライェの予想外だったはずだが、アルワライェの行動も前回とは違っていた。
アルワライェの手の先から、放射線状に細い光が幾筋も飛び出す。光の幾本かは、奈子の脚を貫いた。
ジャンプして空中にいなければ、胴体を貫かれていたはずだ。
「……くっぅ」
着地の衝撃で脚に激痛が走る。それでも奈子はなんとか踏みとどまって、剣を構え直した。
「……貴様ぁ!」
アルワライェの顔が、怒りで歪んでいる。これだけはっきりと、感情を表に出すのを見たのは初めてだ。
「よくも……よくも……この小娘が……」
アルワライェの右腕は、肘の下あたりで切り落とされていた。鮮血が流れ滴っている。
奈子は口元に、引きつった笑みを浮かべた。
「いいね、その顔。そーゆー表情を見たかったんだ。少しは、先刻のアタシの屈辱もわかった?」
軽口を叩きながらも、奈子は相手を冷静に観察していた。
アルワライェには、先刻までのへらへらとした様子は微塵もない。絶対の自信があった攻撃を躱され、予想もしなかった深手を負わされ、完全に頭に血が昇っている様子だった。
次の攻撃は、もっと直接的なものになるに違いない。
奈子はそう読んでいた。
「死にやがれっ!」
アルワライェの左手から、青白い光が放たれる。
それを予期していた奈子は、僅かに上体をひねって顔を狙ってきた魔法をかわす。なびいた髪が、じゅっと音を立てて蒸発した。
奈子はそのまま、相手に向かって大きく踏み込んだ。
剣を突き出す。
レイナの剣は、何の抵抗もなくアルワライェの肩を貫いた。
しかし同時に、アルワライェが微かに笑った。まるで般若面のような、不気味な笑みだった。
「……!」
突然の激しい衝撃に脇腹を打たれ、奈子は床に転がった。
衝撃と痛みで、息ができない。
「馬鹿が。貴様ごときがこの僕に勝てると思っているのか? いい気になるな!」
奈子には、何が起こったのかわからなかった。
何故。
アルワライェは正面にいたのに、いきなり側面から攻撃を受けたのだ。
床に転がって苦しみ悶える奈子の目に、一つの物体が映った。
(手、アタシが切り落としたあいつの腕!)
切り落とされた腕を媒体にして、魔法を放ったのだ。
「腕一本切り落としたくらいで、勝ったつもりになっていたのか?」
アルワライェが再び、狂気に満ちた笑いを浮かべる。奈子は、身動きができなかった。
「僕の右手の償いはしてもらうよ。すぐに殺しはしない。生きたまま手足を引き千切ってやる!」
アルワライェは、奈子の手から落ちた剣を拾い、それを振りかぶった。
思わず目を閉じる。
しかし、剣は振り下ろされなかった。代わりに、アルワライェが怪訝そうな声を上げる。
「この剣……?」
アルワライェは眉をひそめ、手の中の剣をまじまじと見ていた。
「貴様、この剣を何処で……」
この言葉が終わらないうち、手から剣が落ちる。彼の手は、赤い光の矢に貫かれていた。
「な……っ?」
顔を上げると同時に、更に数本の光がアルワライェの身体を貫いた。鮮血を噴き出し、身体がぐらりと傾く。
「チ・ライェ・キタイ!」
遠くで、叫んでいる声が聞こえる。奈子にとっては懐かしい声が。
周囲に、青白い光球が出現した。
アルワライェの顔が、はっきりとわかるくらいに青ざめる。
「ちぃぃっ!」
次の瞬間、竜をも貫く光が、アルワライェ目掛けて放たれた。同時に、アルワライェが消えていく。灼熱の光線は、石の床に深い穴を穿った。
(あぁ……助かった……)
急に緊張が解けて、奈子の身体から力が抜けていった。
意識が遠くなって、そのまま眠ってしまいたくなる。
ぱたぱたと、こちらへ駆けてくる足音が聞こえた。
(ファージ……来てくれたんだ……)
あれは、ファージの声だった。ファージの魔法だった。
(ホントに、いつもぎりぎりなんだから……)
ぼんやりとそんなことを考えていた奈子の耳に、全く意外な声が飛び込んできた。
「立てよ、少しでも騎士としての誇りがあるなら、そんな無様な姿を晒してんじゃない」
その声で、たちどころに意識が戻る。
奈子は反射的に飛び起きた。全身を襲う痛みに、思わず叫び声を上げそうになるが、ぐっと歯を喰いしばって声の主を睨む。
「ふん、プライドだけは騎士か」
皮肉めいた口調。
その声の主は、長身で銀髪の女騎士。
「ダルジィ・フォア……」
どうして今日は、ムカつく奴にばかり助けられるんだろう。そう、奈子が思った時。
「ナコ、無事で良かったー」
いきなり、背後から抱きつかれた。
ちょうど、怪我をしている脇腹にその手が当たり、奈子は悲鳴を上げる。
「っ……! そこは……あんまり……無事じゃないっ」
「なにさ、このくらい。心配かけた罰!」
苦悶する奈子をよそに、ファージは抱きしめる腕に更に力を込めた。悲鳴はもう声にならない。
「おいおい。助けに来た人間が、とどめを刺してどうする」
聞き覚えのある男の声に首を巡らすと、騎士の一人ケイウェリもそこにいた。ケイウェリが呪文を唱え、とりあえずの応急処置をしてくれる。
「良かった、心配したんだから……」
「あ、ありがと、ファージ……ごめんなさい」
ファージの顔を見た瞬間、思い出した。
謝らなければならないことがある。
「ファージ……ごめんなさい……アタシ、謝らなきゃならない……実は……」
言いかけた奈子の口を、ファージは自分の唇を重ねて塞いだ。困ったことに、今の奈子には抵抗する体力が残っていない。
「ん……く……」
何とか身体を離そうとして悪戦苦闘する奈子を、ダルジィは呆れ顔で、ケイウェリは苦笑しながら見つめている。
「いいの。そんなことより、ナコが無事だっただけで」
ややしばらくして奈子を離したファージは、おもむろにそう言った。奈子はまだ、何も話していないのに。
「ファージ……?」
「来る途中、これ、拾った」
そう言って、ポケットから取り出した小さな金属片を見せる。
「ファージ……ごめん……」
「ううん」
ファージは首を左右に振った。
「……だって、ずっと昔に死んじゃった奴だもん。いま生きてるナコの方が何倍も大事。それに、思い出ならこれで十分」
ファージは、小さな破片をポケットにしまって小さく笑った。
「ところでナコ……」
まだ気まずそうにしている奈子を見て、ファージの方から話題を変えてくる。
「敵は、入り口で縛られてた二人と、今のあいつだけ?」
「え? う、うん」
奈子は、とっさに嘘をついてしまった。
どうやって抜け出したのかは知らないが、エイシスはファージたちとは出会わなかったらしい。
それなら、黙っていた方がいい。
金で雇われただけとはいえ、今回のエイシスはマイカラスの敵ということになってしまう。
奈子が言わなければ、誰もそれを知る者はない。
「大切な剣を折られ、敵の首領は取り逃がす、か。まあ、お子様じゃこのくらいが精一杯か」
これ以上はないというくらい嫌みたっぷりの声に、奈子はぴくりと反応する。
「取り逃がしたのはあんたも同罪だろ、オバさん。文句があるなら、もっと早く来たらいいだろ。神経痛が痛くて走れなかったか?」
「毛も生え揃ってないような小娘がよく言うね?」
「スレた年増は嫌みも下品だね。毛に白髪が混じってるようなババァよりはマシ」
火花を散らして睨み合う二人。
口元は笑っているが、二人とも目には殺意が溢れている。
どちらが先に手を出すか、そのタイミングを計るように、手が小刻みに震えていた。まさに一触即発だ。
巻き添えを喰ってはたまらないと思ったのか、いつの間にかファージとケイウェリは二人を遠巻きにしている。
「何なのあの二人……。言い返すナコもナコだけど、ダルジィも大人気ないというか……ねぇ?」
「まあ、ねぇ」
そう応えるケイウェリは、何となく、笑いを堪えている様子だった。
(げに恐ろしきは、女の嫉妬かな……)
「何か言った?」
「いいや、別に」
ケイウェリはそう言って、小さく肩をすくめてみせる。
多分彼だけが、ダルジィが奈子を目の敵にする真の理由を知っていた。
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