終章 奈子と由維


「ったく、あの女ってば、ムカつく!」
 奈子は手近にあったクッションを投げつけた。
「ナコちゃん、あんまり動かないで。傷の手当をしてるんだから……」
「だってあのババァったら……」
「ババァは言い過ぎでしょう?」
 奈子の肩の傷に薬を塗りながら、ソレアは言った。
「ダルジィ・フォアはまだ二十二、三歳のはずよ?」
「ピチピチの十五歳、のアタシから見たら十分オバさんだよ」
「あら」
 ソレアの指が直に傷に触れる。奈子は小さく声を上げた。
「二十三のダルジィがオバさんなら、私は何なのかしら?」
 普段通りの優しい笑顔のまま、奈子の傷を押さえる手に力を込めた。
「いっ……痛い! ソレアさん、痛いってば!」
「あら、何か言った? 年のせいか、最近耳が遠くって」
「え? だっ……だって! え? ソレアさんって、いくつ?」
 目に涙を浮かべながら奈子が訊くが、ソレアは答えない。禁断の答えを口にしたのは、別の声だった。
「今年で二十九……だっけ?」
 と、ソファに横になったままお茶を飲んでいたファージ。
 いきなりその手の中のティーカップが割れて、顔をびしょ濡れにする。お茶が気管に入ってしまったのか、ファージは激しく咳き込んだ。
「二十九……ええぇぇぇぇっっ?」
 奈子は、ソレアのことを二十歳そこそこくらいに思っていた。どうやっても、二十五を越えているようには見えない。
「なぁに、その声? 何か不満でも?」
「騙されちゃダメだよナコ。ソレアくらいの魔術師なら、見た目の歳くらいいくらでも誤魔化せるんだかムギュッ」
 顔面にクッションの直撃を受けて、ファージがひっくり返る。
「はい、手当は終わり。でもナコちゃん、気を付けてよ。今回もこの前も怪我ばっかり。ひとつ間違ったら大変なことになるわよ?」
「……はい」
「いいじゃないの、結局こうして無事だったんだから。終わり良ければ全て良しってね」
 ファージは、クッションを指の先でくるくる回して遊んでいる。
「それに、貴重な宝物も手に入れたんだし」
 宝、とは言うまでもなく、『無銘の剣』レイナの剣のことだ。
「ね、あの剣……どうしたらいいのかな?」
「別に、ナコがそのまま持ってりゃいいじゃん」
「でも……」
 トリニア王国の時代の竜騎士の剣。
 現存する物はごく僅かで、値段の付けようがないほどの価値を持つ。中でも、レイナ・ディの剣となればなおさらだ。
 レイナの死後、千年近くの間行方のわからなかった剣が、今は奈子の手の中にある。
 夢の中で、レイナから渡された剣。
 無論、奈子はあれがただの夢とは思っていない。あの一連のレイナ・ディの夢には、何か意味があるはずだった。
「千年の時を越えて、レイナ・ディから直接賜った物なのだから、大切に持っていなさい。きっと、あなたの役に立つわ」
「それにしても……何故、アタシが?」
 何故奈子が、剣を譲られたのか。それを説明できる者はここにはいない。
「きっとナコ、レイナに気に入られたんだよ」
 奈子の隣に移動してきたファージが、けらけらと笑う。
「レイナは美少女、美少年好きで有名だったらしいよ。王国時代の女騎士にはそういう趣味の人が多かったそうだけど。ところでナコ、今晩はゆっくりしていけるんだよね?」
「え?」
 ファージが、必要以上に身体をすり寄せてくる。
 そういえば、今回はファージと二人でゆっくり話をする暇もなかった。
 だけど。
「あ、いや、アタシ今日は急いで帰らなきゃなんないの、ゴメン……」
「あら、でも夕食くらいは食べていけるんでしょう?」
「ゴメン、ソレアさん。アタシすぐに帰んなきゃ」
 ファージがひどく残念そうな顔をする。
 でも、ゆっくりしている場合ではない。
 まだ、やらなければならないことがある。
 それはとても大切なことだった。



 奈子が家に戻ると。
 留守番電話にメッセージがあることを告げるランプが点滅していた。
 急いで再生ボタンを押す。
 仕事先の母親からの伝言が二件。
 そして、三十秒間何の声も入っていない伝言が一件。
 それでテープは止まった。
(由維……)
 最後の沈黙は由維に違いない。
 いつもなら奈子の携帯にかけてくる由維だけど、何故かそう確信した。
 受話器を取って、由維の家の番号を押す。
 一回目の呼び出し音で、すぐに相手が出た。
「あ、あの、松宮ですけど……」
『……』
 返事はない。しかし、受話器の向こうから微かな息づかいが聞こえる。
「由維、由維でしょ? お願い、話を聞いて」
『……今……そっちに行く』
 感情を押し殺した冷たい声と共に切れた電話に、奈子は少なからずショックを受けた。
(由維……まだ怒ってる……)
 当然だ。
 小さく溜息をつく。
 許される筈のない裏切り。
 だけど。
 だけど……。
(由維のいない家は……広すぎる……)
 謝らなきゃならない。
 簡単に許してもらえるとは思わないけれど。
 それでも、許してもらわなければならない。
 奈子には、由維が必要なのだ。
 三分と経たないうちに、階下から玄関が開く音が聞こえた。
 由維だ。
 由維は、この家の合鍵を持っている。
 小さな足音が、ゆっくりと階段を上ってくる。
 奈子の鼓動が早くなった。
 キィ……と小さな音を立てて、奈子の部屋のドアが開いた。
(由維……)
 そこには瞬きもせず、じっと自分を見つめる冷たい瞳があった。奈子の掌がじっとりと汗ばむ。
 由維の目を見た瞬間、いくつも用意していた謝罪の言葉が、一つも出てこなくなった。
 いくら謝っても、どうにもならない。
 そう感じた。
 由維は何も言わず、静かに近付いてくる。
 奈子は、ただ立ち尽くしていた。
「奈子先輩……」
 由維の言葉を聞くのが、怖いと感じたのは生まれて初めてだった。いったい、この後に続く言葉は何なのだろう。
「奈子先輩…………隙ありっ!」
 さっと手を伸ばして両手で奈子のシャツの襟を掴んだ由維は、柔道の小内刈りの要領で奈子の足を払った。
 突然のことに何が起こったのか理解できない奈子は、バランスを崩して後ろのベッドに倒れ込んでしまった。由維が、そのまま上に馬乗りになる。
「……っ?」
「えへへ……もう逃げられない」
 ぺろっと小さな舌を出して、由維は笑った。
「……えっと……由維?」
 由維が、笑っている。
 いったい、何が起こったのだろう。なんだか不自然な笑みだ。
「あの後、色々考えたんですよ、私。結局、私がぐずぐずしてるから、他の男に先を越されるんですよね。で、出た結論が……」
 先刻とは違う意味で、続きを聞くのが怖かった。
 由維が何を考えているのか、わかったような気がした。
「待ってても埒があかないって。私の方から、奈子先輩を押し倒しちゃえばいいんだって」
(あああぁぁぁっっ、やっぱりぃっ!)
「いくら奈子先輩だって、もう逃げられませんよ」
 奈子の上に馬乗りになった今の体勢は、総合格闘技でいうところのマウントポジション、上になった者が絶対有利の体勢だ。よほどの技量がない限り、下から抜け出すことは難しい。
「あ、あのね、由維……」
 奈子は、無駄だと思いつつ由維を説得しようとした。が、それはやっぱり無駄だった。
 上になった由維がいきなり、唇を重ねてくる。
「ん……んん……」
 それは、これまで経験した中で一番激しく、濃厚なキス。
(ち……ちょっと……由維……)
 いったい、女の子同士のキスはこれで何度目だろう。
 奈子がやや諦め顔になる。
 本音を言えば、由維の機嫌を取るためにはこのくらい仕方がないと、帰ってくる前から覚悟はしていた。まさか、ここまで激しくとは思わなかったが。
(でも、これで許してくれるんだよね? 由維……)
 それならば、
 それなら、キスくらい何度でも。
 しかし次の瞬間、奈子は自分の認識の甘さを思い知らされた。
 由維の手が、奈子のシャツのボタンを外し始めている。
(……! いくら何でも、そ、それはシャレになんないって!)
「私、今日という今日は本気だから」
 由維の目が据わっている。
 これ以上はないというくらい、本気の目だった。
「いや、あのね? ちょっと……」
「抵抗したら、無理やり犯しますよ?」
「ここまでのは無理やりじゃないとでも?」
「えーい、うるさい!」
 シャツのボタンを半分ほど外した由維は、奈子の胸の谷間に唇を押しつけた。
「ちょっ……ダメ……」
 これ以上は、本当にまずい。
 このままでは本当に、一線を越えてしまいかねない。
 ついうっかり、その気になってしまいそうだ。
(だめだよ……由維……ダメ……)
 正直なところ、本気を出せばこの体勢から逃れることも難しくはない。
 しかし、そうしていいものかどうか、奈子は迷っていた。
 もし、ここで本気で由維を拒んだら、もう二度と、許してはもらえない――そんな気がした。
 でも、だからといって。
(女同士でこんなこと、いいはずがない……)
「奈子先輩……」
「……あっ」
 由維がぺろりと、奈子の胸を舐めた。無意識のうちに声が出る。
「そろそろ、観念しました?」
「いや……そういうわけじゃない……けど……」
 だけど、抵抗するわけにもいかない。そんなジレンマに陥っていた。
(誰か、助けてー)
 無駄と知りつつ、心の中で叫ぶ。
 驚いたことに、その祈りは通じた。
 また、奈子の服を脱がす作業を再開していた由唯が、突然動きを止める。
「ん……?」
 軽く、首を傾げて。
「……! ヤダ! もう、こんな時に!」
 怒ったような、泣いているような、あるいは恥ずかしがっているような。
 そんな複雑な表情で叫ぶと、由維はベッドから飛び降りた。何事かと驚いている奈子を置いて走って部屋から出ていく。
「何……? 何があったの?」
 奈子はのろのろと身体を起こす。どこかで、ばたんとドアが閉まる音がした。
「なんか知らんけど、助かった……」
 ほっと息をつくと、立ち上がって壁に掛けた鏡を覗く。
「あーあ、由維の奴ぅ……」
 見ると、胸の間にくっきりと朱いキスマークが残っていた。遠くからでもかなり目立つ。
「明日は何曜日だっけ……まさか体育はないだろうね?」
 鏡の横に掛けてあるカレンダーと、机の前に張ってある学校の時間割を交互に見る。残念ながら、ここではツキははないようだった。
「しゃーない、体育はズル休みだ」
 このまま人前で着替えをしたら。
 ちょっとまずい。
 女の子同士の着替えは、意外とこういうことに目ざといのだ。
 溜息をつきながらシャツのボタンを留めて。
「ん?」
 そこでふと気が付いて、もう一度カレンダーを見た。
 頭の中で、簡単な暗算をする。
 そして、ぷっと吹き出した。
「はは……なんだ、そうだったのか……」
 由唯が突然逃げ出した理由がわかって、堪えきれない笑いが、くっくと唇の端から漏れた。



 見るからに不機嫌そうな表情で部屋に戻ってきた由維が見たのは、お腹を抱えて笑っている奈子の姿だった。
「うるさい! 笑うな!」
 ぷぅっとふくれっ面になって、奈子の足を軽く蹴飛ばす。
「ははは……ごめんごめん。これで許して」
 奈子は由維の肩に手を掛け、ちょんと軽く、唇が触れ合うキスをする。
 それから、少しだけ心配そうに訊いた。
「大丈夫? お腹痛くない?」
 仏頂面の由唯は、黙って首を左右に振る。
 由維は小柄で、小学生に見られることもままあるけれど。
 それでもやっぱり、思春期の女の子だったのだ。



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