序 〜エモン・レーナ〜


 緑の萌える草原と、なだらかな丘陵。
 空は晴れて気持ちのいい風が吹いているが、上空は風が強いらしく、ちぎれた雲がかなりの速さで流れていた。
 なんとものどかな光景だ。
 ただしそれは、丘の麓を歩いている騎馬の軍勢を除けば、の話である。
 千騎近くはいるだろうか。
 その進路上には、それほど高くはない山々の連なりが見えている。
 軍勢を率いて先頭を行くのは、茶色い髪と日焼けした肌を持つ長身の若者。
 名を、エストーラ・ファ・ティルザーという。
 エストーラも、その後ろに続く者たちも、みな一様に緊張した面持ちをしている。
 周辺の部族との、小競り合いのような戦なら幾度も経験しているが、今回の戦は特別だった。

 前方から、こちらに向かって全速力で駆けてくる騎馬の姿を認めて、エストーラは馬を止めた。
 馬を駆っているのは、長い銀髪をなびかせた美しい娘。
 背に、長い剣を背負っている。
 今年でまだ十七歳なのだが、同世代の男たちとさほど変わらない長身と凛々しい顔立ちのために、もう少し年長に見える。
「エストーラ!」
 少女はエストーラの目の前で馬を止めて叫んだ。
「ストレイン帝国の奴ら、予想通りカルザの谷に向かってるよ。多分、八〜九千騎はいるね」
 その数字を聞いて、エストーラはやや難しい表情を見せる。
「思ったより多いな…。それで、雲の流れはどうだ、クレイン?」
「大丈夫。あたしらが向こうに着く頃には嵐になる」
 その少女――クレイン・ファ・トームはどこか嬉しそうに応える。
「そうか…。なら、予定通りやるしかないか」
「当然。帝国の連中には、一歩だってこのモアの地は踏ませやしない。たとえ相手が何万騎いたって、ね」
 クレインの強気な発言に、エストーラの口元がかすかにほころんだ。
 この二歳年下の従妹は、彼よりもずっと激しい性格をしている。
 部族の長の跡継ぎとして、時には慎重な行動をとらなければならないエストーラと違い、彼女を束縛するものは何もない。
 同じ年頃の他の娘たちと違って、村で織物や家畜の世話などをすることもなく、男たちと一緒になって剣を背負い、馬を駆っている。
 エストーラは、自分の思うまま自由に生きるクレインが少しうらやましい。
 まだ十九歳の若者にとって、病気の父に代わって部族を率いるという責務は少々重すぎた。
 しかし、投げ出すわけにはいかない。
 コルザ川を越えて、大陸南部への侵攻を始めたストレイン帝国からこの地を護るためには、何倍もの敵に対しても一歩も引くわけにはいかないのだ。
「サルトア・ヴィたちの部隊は配置についているか?」
「もちろん。後はあたしらが行くだけだよ」
 エストーラはうなずいた。
 彼我の戦力差は歴然としているが、それでも今回はつけいる隙がないわけでもない。
 はるか北の地から遠征しているストレイン軍は知らないだろうが、初夏のこの時期、この辺りの山地では、朝のうちは晴れていても午後から突然の嵐になることがある。
 今日がちょうど、そんな天候だった。
 エストーラたちは二千騎の軍勢をふたつに分け、突然の嵐に混乱するストレイン軍を挟撃する作戦を立てていた。
 予想では、嵐が来るちょうどその時刻に敵は狭い谷間を通過しているはずで、奇襲にはまたとないチャンスだった。
「さ、急ごう。チャンスは短いんだから、早く向こうに着いていないと…えぇっ?」
 エストーラを促して進軍を始めようとしたクレインは、不意に、驚きの声を上げた。
 クレインが指差す方向に目をやったエストーラも、そして周囲の男たちも、同じように驚愕の表情を見せる。
「な…なんだ、ありゃあ…」
 どこからかそんな声が聞こえる。
 その声にはやや怯えたような様子があった。
 彼らの右手にある丘の上に、一頭の竜がいた。
 竜はそれ自体かなり珍しい存在であるが、しかも、その竜は全身が黄金色の鱗で覆われていた。
 この地方で見られる竜は青銅色の鱗をしているのが普通で、そこにいた者たちは誰も、こんな黄金色の竜など見たことがない。
 その竜は、じっと彼らを見つめている。
 それだけでも充分に驚きに値する光景であったが、さらに驚くべきことに、その足元に一人の人間の姿があった。
 普通、竜は人間に近付こうとはしない。
 彼らは人間を遙かに凌駕する、この世で最強の存在であるが、人間の社会に干渉することはないのだ。
 そしてまた、人間も竜の側に寄ろうなどとは思わない。
 竜は人間に干渉しようとせず、人間から干渉されることを嫌う。
 竜の機嫌を損ねることは、人間にとってあまりにも危険なことであった。
 たとえどれだけの大軍を持ってしても、人間はただ一頭の竜すら倒すことが叶わないのだから。
「な…なによ、あれ」
 クレインが珍しく不安そうな声を洩らす。
 もちろん、その問いに答えられるものなど誰もいない。
 エストーラもまた驚き、そして怯えてもいたが、しかし彼は長としての責任を果たさなければならなかった。
 竜はただ黙ってこちらを見ているだけだったが、このまま無視して進むわけにはいかないように思われたし、かといってストレイン帝国の軍勢が迫っている以上、いつまでもここで時間を費やすわけにもいかない。
「よし、私が行ってみよう」
 馬は怯えて竜に近付こうとはしないので、エストーラは馬を下りて徒歩で丘を登り始めた。
「あ、あたしも行くよ!」
 少し遅れて、クレインも後に続く。
 さらに何人かがそれに続こうとしたが、それはエストーラが制止した。
 あまり大勢では、向こうに警戒心を抱かせるかもしれない――と。
 敵意がないことを示すため、エストーラは剣も馬の上に残してきた。
 そんなものは必要ない。
 万が一のことがあったら、竜相手にはどうせ剣などなんの役にも立たないのだ。
 エストーラとクレインは、ゆっくりと丘を登っていく。
 竜も、その足元の人影も、なんの動きも見せない。
「若い女…みたいだね」
 クレインが小さくつぶやく。
 近付くに従ってはっきりと見えてきたその人影は、確かに女のようだった。
 この地方では珍しい漆黒の髪は、腰まで届く長さがある。
 身につけている衣服も黒一色のため、竜の陰にいると遠くからではよく見えなかったのだ。
 その表情まではっきりと見て取れる距離まで近付いて、エストーラは足を止めた。
 恐らくクレインと同じくらいの年齢…まだ十代の後半くらいだろう。
 鋭い目で、真っ直ぐにこちらを見ている。
 その瞳も、髪の色と同じ漆黒だ。
 まるで闇夜のような、吸い込まれるような、黒。
 なにを考えているのかわからない。
 感情が読みとれない。
 しかし向こうはこちらの心の奥まで見透かしているような、そんな瞳だった。
 エストーラもまた、真っ直ぐにその少女を見つめた。
 少女の背後にいる巨大な竜も目に入っていなかった。
 しばらくそんな状態が続く。
 意を決してエストーラがなにか言おうとした瞬間、向こうが先に口を開いた。
「私は…エモン・レーナ」
 ややハスキーな声で、静かにそう言った。
「あなたたちの戦いに、力を貸してあげるわ」


 それが、後のトリニア国王エストーラ・ファ・ティルザーと、その妻エモン・レーナの出会いであった。
 そしてこの日は、大陸の歴史上初めて、人間同士の戦いに竜が加わった日でもあった。
 戦いの後、エモン・レーナはエストーラやクレインをはじめとする何人かの者に、竜騎士の力を授けた。
 やがてエストーラは近隣の部族と手を結び、反ストレインを掲げる連合軍を結成する。
 後の、トリニア王国連合である。
 この当時のストレイン帝国は大陸の七割を支配する史上最大の帝国で、それに刃向かうには、エストーラたちの軍勢はまだあまりにもささやかなものでしかなかった。
 トリニアの勢力がストレインと肩を並べるほどになるには、それから十年近い歳月が必要だったのだが、それを長いと見るか短いと見るかは人それぞれだろう。

 それは、奈子たちの時代より千五百年あまり昔のことであった。



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