まだ、道路脇に積もった雪は人の背よりも高い。
それでも、三月になると新しく降る雪よりは解ける雪の方が多くなる。
それが、北海道の三月の風景。
そうしてやっと、人は長い冬の終わりを感じる。
三月の上旬といえば、関東ならもう桜が咲き始めていることだろう。
桜イコール春、それが一般的な日本人の感覚かもしれないが、しかし札幌で桜が満開になるのは五月の上旬、まだ二ヶ月も先の話だった。
すなわち、北海道の桜は初夏の訪れを告げる花である。
北国の春は雪解滴の音とともに始まる。
しかしそれでも、三月といえば卒業のシーズンであることは日本全国共通だ。
そしてこの日、札幌市南区奏珠別にある私立白岩学園中等部でも、卒業式が行われていた。
友達同士、あるいは仲の良かった後輩との別れを惜しむ生徒たちの姿。
卒業式の後、校内のあちこちで見られる光景だ。
そんな生徒たちの群れの中に、ひときわ多人数の女生徒の集団があった。
その中心で、セーラー服の少女たちに囲まれているのは…、
女生徒たちの憧れの的。
白岩中のヒーロー。(決して、アイドルではない)
いうまでもなく、松宮奈子である。
「松宮先輩、たまには遊びに来てくださいね」
「私のこと忘れちゃヤですよ」
口々に、そんなことを言う少女たち。
感極まって泣いている者もいる。
「お前らちょっと大げさじゃない? これきり会えないわけでもないのに…」
奈子が呆れたように言う。
奈子の進学先は私立白岩学園高等部。
すなわち、いまいる中等部の校舎の隣であり、直線距離にして百メートルも離れていないばかりか、渡り廊下でつながってすらいる。
「その気になれば休み時間だって会えるじゃん。そんな大げさに、泣くほどのことかね?」
という奈子の疑問はもっともといえばもっともだ。
「いや…せっかくの卒業式ですから、ちょっとそれらしく盛り上げようかと」
二年生の一人が笑って言う。。
つまり、これは『感動的な卒業式ごっこ』だった。
やれやれ、とをすくめた奈子は、
「高等部に可愛い女の子がいても、浮気しちゃダメですよ」
からかうようなその台詞の主を睨み付ける。
視線の先にいるのは、宮本由維。
奈子の幼なじみで、後輩で、親友で、かつ恋人(自称)である。
高等部の新入生のうち、中等部出身者は全体の三分の一ほどでしかなく、残り三分の二は他の中学の出身で、初めて見る顔ということになる。
だから、由維の心配ももっともなことといえなくもないが、奈子にはひとつ引っかかる点があった。
「何故、そこで女の子に限定するんだ?」
「え? だって…ねぇ?」
由維は周囲の女の子たちに同意を求める。
そこにいた十数人の少女たちは、全員そろってうんうんとうなずいた。
ただ一人、奈子を除いて。
「と、ゆ〜ことです」
「ちょっと待て、お前ら!」
男子生徒に恨まれるほど女の子にモテる奈子だが、男子との間の浮いた話はこの三年間でひとつもなかった。
「多数決で決まったことですから」
「やかましいっ!」
そんな、姦しい集団の外で、やや戸惑ったように立っている一人の男子生徒がいた。
ずいぶんと前からそこでなにか言いたげにしているのだが、なかなかそのきっかけがつかめずにいる。
まあ、並の神経の男では、この集団に割り込む度胸はあるまい。
しかしやがて意を決すると、大きく深呼吸をしてから叫んだ。
「松宮先輩、お話があります!」
それまできゃあきゃあとさえずっていた少女たちが水を打ったように静まったかと思うと、一斉に声のした方を向く。
十数人の女子の注目を浴び、その男子生徒は少したじろいだ。
そこにいた女の子たちの過半数は、その男子生徒を知っていた。
二年A組、斉藤紀明。
真正面から顔を見合わせることになった奈子にとっても、よく見知った顔だ。
男子空手部の二年生で、三年生が引退した後の新主将。
中学二年生としてはかなり良い体格をしている。
百七十五センチを越えていると聞いたことがあるから、奈子より十五センチ近く背が高い。
精悍な顔つきで、まあハンサムといっていいだろう。
女の子たちがささっと左右に分かれて作った道を、斉藤は真剣な表情で奈子に近付いてくる。
その緊迫した雰囲気を、女の子たちは息を飲んで見守っている。
奈子の目の前まで来た斉藤は、もう一度小さく深呼吸すると、手に持っていたものを差し出した。
白い、飾り気のない封筒。
「松宮先輩、これ、読んでください」
驚きの声を上げたのは、奈子ではなくて周囲の女生徒たちだった。
「どうして男子がここに…?」
そんな、驚愕混じりのささやき声が聞こえる。
(なぜここで驚くんだっ? アタシが男子にモテたらそんなに意外かっ?)
とは思ったが、それは口には出さずにいた。
どうせ、みんなまた首を縦に振るに決まっている。
奈子は封筒を受け取りながら、斉藤の顔を見た。
(年下ってのも悪くないか…?)
顔はなかなかいい。
たしか、斉藤はけっこう女子に人気があったはずだ。
奈子の男性の好みの第一条件は「強い男」なのだが、斉藤はまだ発展途上とはいえ、三年生が抜けた後の空手部では文句なしに最強、将来性は十分だった。
(うん、悪くない。しかし…そっか…斉藤の奴…それならそうと、早く言えばいいのに)
顔がにやけそうになるのを必死にこらえて、奈子は封筒に目を落とす。
と…
「…え?」
横にいた女の子が、奈子の手元を覗き込んだ。
「…果たし状…?」
女の子たちは互いに顔を見合わせ…、
十秒後、一斉に吹き出した。
「なんで、こんなことになっちゃったのかなぁ…」
空手着に着替えた奈子は、絶望的な表情で天井を仰いだ。
ここは、学校の格技場。
普通なら卒業式の日に使われることなどないはずの場所だが、いまは試合場を一面残して、あとはギャラリーで満員だった。
それだけならまだしも…
『さあ、世紀の一戦! 日本最強の女子中学生対中学空手の次代の星。白岩中格技場から実況生中継でお届けいたします! 会場は既に満員となっておりますので、どうぞお近くの校内モニターでご観戦ください』
何故、放送部がビデオカメラまで持ち出して中継なんかしているんだろう?
それだけならまだいい。
いや、よくないけど…
しかもその上…
『実況はわたくし、放送部二年の神奈川直美。解説はおなじみ、格闘技研究同好会の前会長、三田昭夫先輩。そして特別ゲストとして空手部顧問の吉原先生にお越しいただいています』
「止めろよ、教師ならさ!」
奈子がゲスト席の吉原に向かって叫んだ。
「生徒の自主性を重んじる教育、それが白岩学園の精神だ」
吉原は悠然と椅子に座っている。
「ホンネは?」
「中学最強の女子の技が男子に通じるのかどうか、一人の空手家として興味がある!」
やっぱりね…。
奈子はがっくりと肩を落とす。
結局のところ、この学校の関係者は生徒も教師も、本質的にお祭り好きなのだ。
校長や理事長はさすがにここにはいないが、どうせモニターで中継を観ているに決まっている。
「松宮先輩、がんばって〜!」
女の子たちの黄色い声援が聞こえる。
かと思うと、
「斉藤! 男の意地を見せてみろ!」
そんな、男子の声も多い。
会場の雰囲気は、プロレスやK―1と大差ない。
観客にとっては単に面白いイベントでしかないのだ。
奈子と、斉藤紀明にとっては『決闘』であったとしても。
(なんで、こんなことになっちゃったのかなぁ…)
少し離れたところでウォーミングアップをしている斉藤を見る。
すべての元凶はあいつか――?
いや、違う。
奈子はかぶりを振った。
いちばん悪いのは、あいつだよ…。
放送席の横のVIP席に座っている、茶髪で小柄な女の子。
奈子がきつい目で睨んでも、その少女はまるで気付いていないといった様子でにこにこと笑っていた。
『さて、突然の決闘と相成ったわけですが、いったい原因はなんなんでしょう、三田先輩?』
試合開始までの間を持たせようと、放送席ではそんな話題を持ち出した。
奈子が、いちばん触れて欲しくなかったことだ。
『それなんですがね…実は』
自他共に認める格闘技オタクの三田が、わけ知り顔で話し出す。
(三田ぁ、てめぇ後で殺す!)
奈子は心の中で三田に向かって中指を立てる。
『そもそもの発端は、斉藤くんが一年C組の宮本由維ちゃんに交際を申し込んだことなんですね』
観客の間から「おぉ〜!」と歓声が上がる。
「いいぞ〜、斉藤!」
「この命知らず!」
「抜け駆けすんじゃね〜!」
何人かの男子が無責任にはやし立てる。
『それは…勇気がありますね〜。いろいろな意味で』
(ど〜ゆ〜意味だよっ?)
奈子の癇にさわったのが、直美が心からそう思っているらしいということだ。
『そうですね。普通に考えればいい返事がもらえる確率はほとんどありませんし、なによりこの学校でいちばん危険な人物を怒らせる可能性もあるわけですから』
三田の言葉に観客の多数がうなずいたことが、さらに奈子を怒らせる。
『それに対する宮本ちゃんの返事がなんと、「いいよ、奈子先輩に勝てたらね」だったというからさあ大変!』
『なるほど、それで斉藤くんは松宮先輩に決闘を申し込んだというわけですね?』
『それだけでも称賛に値する勇気ですね』
『先生はどうお考えですか、このことについて?』
『男子たるもの、惚れた女のために闘うくらいの覇気が必要だな』
「吉原先生、あんたそれでも教師〜?」
ついに奈子が耐えきれずに口を挿む。
「教師に向かってあんたはないだろう、松宮?」
「だったら教師らしくしてよ。お願いだから、さ」
奈子としては、もう笑えばいいのか、泣けばいいのかわからない。
唯一の救いは、卒業式に出席するために珍しく札幌に帰ってきていた両親が、式が終わると同時にとんぼ返りで東京に戻っていたことだろう。
女の子を奪い合って校内で決闘し、それが全校放送されたなんて両親に知られたら…。
考えただけで怖い。
このときの奈子には、ギャラリーの中にちらほらと混じっている父兄の姿は見えていなかった。
いよいよ試合開始、ということで場内の興奮はさらに高まる。
審判を務める男子空手部の元主将・高杉が二人を手招きする。
『さあ、間もなく試合開始ですが、三田先輩はこの勝負の行方をどう予想しますか?』
『松宮は確かに中学女子日本一ですが、斉藤くんが身長で十五センチ、体重で二十キロ弱上回っていますからね〜。打撃格闘技でこの差は大きいですよ』
三田がもっともらしく解説する。
『ポイントで勝負がつく公式試合ならともかく、今回は時間無制限、KOまたはギブアップのみの特別ルールです。パワーとスタミナで勝る斉藤くんが有利なのは否めないでしょう。二年生とはいえ昨年秋の新人戦では全道大会準優勝、十分な実力があります。僕の予想では七対三で斉藤くん有利ですね』
『なるほど、先生の予想は?』
『まあ、常識的に考えればこの体格差でしかも男子と女子、火を見るよりも明らかな勝負なんだが…』
吉原は面白そうににやにやと笑っている。
『なにしろ北原極闘流の女子選手の強さは、そんな理屈など通用しないからね』
吉原や斉藤、そして高杉は、日本有数の空手団体、聖覇流に所属している。
北原極闘流はもともと聖覇流から別れた団体で、今でも交流は多い。
男子の大会では層の厚さで聖覇流の優位は動かないのだが、女子はここ数年、北原極闘流が圧倒的な強さを見せていた。
『高等部の北原美樹先輩とか?』
『そう、そして松宮は北原のお嬢さんの愛弟子だからね。より実践的な闘いほど強さを発揮する。このルールなら六対四で松宮…かな』
『なるほど…さあ、いよいよ試合開始です! 勝負の行方は、そして由維ちゃんをものにするのはいったいどちらかっ?』
高杉の「始め!」の合図と同時に飛び出したのは斉藤の方だった。
一気に間合いを詰め、その勢いを殺さずに体重を乗せて左右の突きと中段の回し蹴りを叩き込む。
奈子はそのラッシュを腕でブロックするが、彼我の体重差のためにバランスを崩す。
『おおっと、これは予想外。先手をとったのは斉藤くんです!』
「ああん、どっちを応援したらいいんだろう?」
列の一番前で観ている女生徒の一人が困ったような声を上げる。
そのまわりの女の子数人が、その子を睨む。
「どっちって…あんた松宮先輩を応援しないの?」
「え〜、だって…さあ」
女の子は小さくなって答えた。
「もし松宮先輩が負けたら、宮本は斉藤くんと付き合うことになって、そ〜なると松宮先輩はフリーってことになるんでしょう?」
「あ、そっか…」
そ〜ゆ〜考え方もあったか…と、そこにいた女の子たちはそろって考え込んでしまう。
「でも…さ」
「ねぇ…?」
「うん…」
「松宮先輩が負けるところなんて、見たくないよね…」
結局、それが結論となる。
そしてその間、試合場では誰も予想しなかった展開を見せていた。
『いったい、誰がこんな展開を予想したでしょう? 松宮先輩、防戦一方です! 斉藤くん、息もつかせぬ猛攻!』
試合が始まってからずっと、攻めているのは斉藤だけで、奈子はほとんど攻撃らしい攻撃を見せていない。
しかもそれは相手の疲れを待って隙をつくといった作戦ではなく、斉藤の攻撃を受けるのが精一杯で反撃する余裕がないように見える。
さすがにクリーンヒットはほとんどないが、動きの速い奈子にしては珍しく、相手の攻撃をほとんどかわせずに辛うじてブロックしているといった雰囲気だった。
『これはいったい…? 先手必勝、防御のひまがあったら反撃しろ、が極闘流の信条のはずなんですがね。ましてや「頭より先に拳から生まれてきた」といわれるほど手の早い松宮が…』
斉藤有利、という予想をした三田にも、これはさすがに意外なようだ。
吉原にも、審判をしている高杉にも、そしてギャラリーにも戸惑いが見られる。
『やはり、男子が相手ということで勝手が違うんでしょうか、先生?』
『いや、松宮は男子相手の組み手なんて慣れているはずだ。「男相手に勝てないなら、空手なんて何の役にも立たない」が北原のお嬢さんの信念だからな…』
『じゃあ、これは松宮先輩の作戦?』
『それにしてもおかしいな。防御に徹する作戦なら、相手の攻撃はまともに受けずに受け流さなければならない。ほら、斉藤の突きをかわせずに腕でブロックしているだろう? 斉藤の方がパワーは上なんだから、あんな受け方をしていてはすぐに腕が動かなくなってしまう』
奈子のことをよく知っている人間ほど、奈子らしからぬ闘いに違和感を感じていたのだが、その点でいちばん戸惑っているのは、実は奈子本人だった。
何故だろう、いまいち気合いが入らない。
そのせいか動きにキレがない。
何故? 負けてもいいと思っているから?
ううん、そんなことはない。
勝ってしまっていい闘いなのかどうか、という問題についてはかなり疑問があるが、なんであれ負けることは嫌いだ。
なのにどうして、こんなに、闘いに集中できないんだろう。
斉藤の上段回し蹴りを避けきれずにブロックした奈子は、バランスを崩して大きくよろけた。
その隙を狙って斉藤はボディへのフックを連打。
奈子を応援する女生徒の一部から悲鳴が上がるが、それは辛うじて肘で受け止める。
だが、ガードが下がったのを見て、斉藤はすかさず上段の回し蹴りを放った。
これまで斉藤の攻撃を受け続けてボロボロになっていた腕はこの動きについて来れず、ガードが間に合わない。
まずいっ!
そう思う間もなく顔面にまともに蹴りが入り、奈子の身体は大きく飛ばされた。
しかし審判は、ダウンではなく場外と判定する。
観客のあちこちから溜息が漏れる。
数秒間倒れていた奈子は、やがてふらつきながらも立ち上がった。
口元の血を、道着の袖で拭う。
やれやれ、なんてことだ。
このアタシが、さ。
「おかげで、やっと少し本気になってきたよ」
奈子の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
まったく、なんてことだろう。
いままで本気になれなかった理由がやっとわかった。
斉藤の技が、怖くなかったからだ。
殺気がないから。
確かに、奈子を倒そうという気迫は本物だ。
しかし、それは試合で奈子に勝とうということであって、真に命を懸けた闘いではない。
やれやれ…
奈子は苦笑する。
いつの間にか、殺気のない相手には本気になれなくなっていたなんて。
危険な闘いばかり経験しすぎたためだろうか。
大丈夫か? と問う審判を無視して、奈子は場内に戻った。
今日、初めて見せる危険な笑みを浮かべながら、斉藤を睨み付ける。
そう、こいつは敵だ。
由維にちょっかいを出した…。
斉藤まで一メートルほどの距離まで近付いて、観客には聞こえないほどの小さな声で言った。
「ひとの女に手ぇ出して、まさかただで済むとは思ってないだろうね?」
斉藤の背筋に、ぞくっと冷たいものが走る。
生まれて初めて、本当の殺気というものを感じた。
審判が試合を再開するが、斉藤は自分から仕掛けるのをためらう。
本気になった奈子は、その一瞬の躊躇を見逃しはしなかった。
ドォン!
バスドラムを力いっぱい叩いたような音が響く。
一瞬、二人の動きが止まる。
ゲスト席の吉原が慌てて立ち上がった。
「馬鹿っ! こんなところで『衝』を使うなんて…!」
奈子の右拳が、斉藤の鳩尾にめり込んでいた。
斉藤の顔からは、完全に生気が失せている。
奈子が右手を引くと、斉藤の身体がぐらりと傾いた。
しかし、奈子の目からはまだ殺気は失せてはいない。
「松宮、待てっ!」
「奈子先輩、ダメッ!」
そんな、吉原と由維の制止よりも先に、奈子は左肘を顔面に打ち込んだ。
そのまま両手で斉藤の頭をつかみ、顔面に膝蹴りを叩き込む。
斉藤の身体は一回転して、床の上に仰向けに倒れた。
そのまま、ぴくりとも動かない。
完全に意識を失っている。
顔が、血で真っ赤に染まっていた。
しん…
城内が静寂に包まれる。
教室のモニターでそれを見ていた奈子の親友、亜依が小さくつぶやいた。
「あのバカ…やりすぎ」
奈子は、どこか満足げな表情で斉藤を見下ろしている。
真っ先に我に返ったのは、やはり顧問の吉原だった。
「やりすぎだ、馬鹿!」
奈子に向かってそう怒鳴りながら、駆け寄って斉藤の容態を見る。
「死んじゃいないよ、いちおう手加減したもの」
奈子の口調はまるで人ごとだ。
「松宮…お前どういうつもりだ?」
審判を務めていた高杉に保険室へ連絡するよう指示すると、吉原は立ち上がった。
「お前なら、ここまでやらなくても勝てただろうが!」
「だって先生、これは試合じゃないよ。決闘だもの」
奈子は、吉原を睨み付けるようにして言った。
「ひとにケンカを売るなら、それくらいの覚悟で来るべきだよ」
この闘い、公式の記録では無効試合とされたが、斉藤はそれからしばらくの間、決して奈子と由維には近寄ろうとしなかった。
卒業式は午前中で終わったのに、奈子が家に帰ったのはもう夕方だった。
しばらく職員室で説教されたあと、後輩の女の子たちと昼食を食べて、ゲームセンターとカラオケボックスをはしごしていたからだ。
夕方になってようやく由維と二人きりになってから、奈子はずっと、どこか不機嫌そうだった。
「奈子先輩…先刻からなんか怒ってます?」
夕食の準備をするために、セーラー服の上にエプロンをつけながら由維が訊く。
「…わかってるっしょ?」
奈子がぶっきらぼうに応えると、由維は小さく溜息をついた。
「嫉妬ですね。斉藤さんに告白されたとき、すぐに断らなかったから」
「そんなんじゃない!」
「わかってます。冗談ですよ」
由維が悪戯っぽく笑うと、奈子はますますむっとした顔になる。
「なんであんなこと言ったの? 斉藤と付き合う気なんてこれっぽちもなかったくせに!」
「まあ、奈子先輩が斉藤さんに負ける可能性なんて、最初からありませんでしたしね」
「だったら、何故!」
奈子にはその答えはわかっていた。
実のところ、最初からわかっていたのだ。
奈子ひとすじのはずの由維が、何故あんなことを言ったのか。
「ただ、見たかっただけなんだな。アタシが、由維のために闘うところを…」
そう言うと、乱暴にソファに腰を下ろす。
由維は悪びれた様子もなく、にこにこと笑っている。
口の前で、両手を合わせて。
「ひとの女に手ぇ出して、ただで済むとは思ってないだろうね…」
由維のつぶやきに、奈子の顔がさぁっと青ざめた。
斉藤以外の誰にも聞こえないように言ったはずなのに。
「保健室に様子を見に行ったとき、斉藤さんが教えてくれたんですよ〜」
「あ、あの野郎! 今度会ったらマジで殺す!」
「嬉しいな。こうでもしないと、奈子先輩なんにも言ってくれないんだもの」
「あ…あのさ…」
由維は心底嬉しそうだが、奈子は心底うろたえていた。
正直言って、なんであんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。
気付いたときには、口にしてしまっていたのだ。
まさかそれを、よりによって由維に知られてしまうとは…。
「そんなことのために、斉藤をたきつけたの? いまさら、言葉が必要なの? アタシと由維の間に…さ」
キスだって何度もしているのに…とは口に出さなかったが。
「好きな人からの愛の言葉って、生きていく上で必要なビタミンなんですよ。恋する女の子にとっては、ね」
由維はそう言ってけらけらと笑う。
「わがままな奴」
奈子が呆れたように言う。
「女の子って、わがままな生き物なんですよ」
由維も奈子の隣に腰を下ろした。
奈子にぴったりと寄り添って、肩のあたりに頬をすり寄せ、
「…ね?」
大きな瞳で、上目づかいに奈子を見た。
「もぉ…」
奈子は由維の肩にそっと手を回す。
そして、ゆっくりと唇を重ねた。
「ん…」
由維はぴくりと身体を震わせ、唇の隙間から舌を入れてくる。
最近やっとディープキスに慣れてきた奈子は、以前のように慌てずに、しばらく由維の好きなようにさせておく。
内心、
(こんなこと、慣れちゃっていいのかなぁ…)
とは思っていたのだが。
しばらくそのまま互いの唇と舌の感触を楽しんでから、奈子は由維から離れた。
「今日はここまで」
由維の唇に人差し指を当てて。
「そろそろご飯にしてよ。アタシもうお腹ペコペコ…」
「うん」
由維も別に不平は言わずに、立ち上がってキッチンへ向かった。
「何分くらい?」
由維の背中に向かって訊ねる。
「ん〜、三十分くらい、かな?」
「じゃあ、アタシちょっと走ってくるから」
そう言って奈子も立ち上がる。
夕食前の軽い運動は奈子の日課だった。
奈子はトレーニングウェアに着替えて外に出た。
道路にはまだ雪が残っていて走りにくいが、そんなことはどうでもいい。
走ってくる、というのは由維から離れる口実に過ぎなかった。
とりあえず、ぷらぷらと歩いて近所の公園へと向かう。
(やばかったなぁ…先刻は)
由維とキスしているとき、奈子は何度その先に進みそうになったことか。
最近たまに、キスだけでは我慢できなくなってしまう。
(実はアタシって、すごくエッチなのかなぁ…)
まだ十五歳なのに、こんなことでいいんだろうか。
公園のフェンスにもたれかかって、はぁっと大きく溜息をついた。
どうしてだろう。
そりゃあ、由維のことは大好きだ。
単純な友情とか恋愛感情とか、そんな言葉だけでは表せない、大切な存在だ。
(でも女同士だし…)
奈子は最近まで「自分はノーマルだ」と信じ込んでいたため、同性と抱き合ったりキスしたりということにはどうしても後ろめたさを感じてしまう。
にもかかわらず、
気持ちいいのだ。
由維をぎゅっと抱きしめて、唇を重ねるという行為が。
そして
そして…
もっと気持ちのいいことを、したいと思ってしまう。
(さすがに…それはまずいよなぁ)
キスだけならまだ冗談で済むけど…さすがにその先は。
どうしてだろう。
ファージとのキスだったら、それほど強い衝動を感じないのに。
(まぁ、まったく感じないわけではないんだけど…)
もぉ、どうしたらいいんだろう。
このままだと、いつか由維のことを襲ってしまいそうだ。
由維の気持ちを無視して。
由維は…、キスだけで満足している。
それに、いまのところその先は考えていないようだ。
以前、奈子が何度か冗談で手を出したとき、由維はそれを拒んだ。
別に、それイヤなわけではなく、漠然とした恐怖感があるだけのようではあるが。
(アタシのこと、さんざん挑発しておいて、いざその気になったら怖じ気づくんだもんな〜。ずるいよなぁ…)
由維にとっては、奈子のそばにいることが幸せであり、いまのところそれ以上のことは望んでいないのだった。
(まだ十三歳だしね…その方が自然か)
不自然なのはきっと自分の方だ、と奈子は思う。
「奈子、こんなとこでなにやってンの?」
不意の声に驚いて、奈子は飛び上がるようにして振り返る。
すぐ後ろに、大きなゴールデンリトリーバーを連れた、奈子と同世代の女の子が立っていた。
「亜依…」
(ふ、不覚。このアタシが背後を取られて気付かないとは…)
よほど深刻に悩んでいたらしい。
そこにいたのは、同じクラスの沢村亜依。
奈子とは一年生のときからのクラスメイトだ。
「犬の散歩?」
「うん」
亜依はうなずいたが、クラスでいちばん小柄な亜依と、体重四十キロはありそうなゴールデンの組み合わせでは、傍目には亜依が犬に引きずり回されているようにしか見えない。
どう考えても力では犬の方が上だろう。
「いっそのこと、橇でもつないで、それに乗れば楽なんじゃない? まだ雪は残ってるんだし」
「それも考えたけどね〜。でも、いちおう年頃の女の子としましては、札幌市内の住宅街で犬橇ってのはちょっとね…」
(マジだな、こいつ…)
「ところで奈子…」
亜依がいきなり話題を変える。
「昼間のアレ、すごかったね〜」
奈子は思わず頭を抱えた。
「い、言わないでよっ。自分でもちょっとやりすぎたかなって思ってるんだからさっ!」
赤い顔で叫ぶ。
「まぁ、いいンじゃない? 自分の恋人にちょっかい出されたら、誰だって怒るのが普通でしょう?」
「こ、恋人って、あのね〜! アタシは別にレズってわけじゃ…」
「うん、それは知ってる」
亜依はあっさりと奈子の言い分を認めた。
「レズじゃなくて、奈子ってば両刀だもんね?」
「亜依っ!」
「やきもちじゃないんなら、どうしてあそこまでするの? 斉藤くんを病院送りにする必要はなかったと思うけど?」
「そ、それは…」
奈子は結局、この意見にうまく反論することはできなかった。
亜依の足元では、ゴールデンが退屈そうに欠伸をしている。
「でも、ホントすごかったよね。自分より大きな男子を一撃だもの。どうしたらあんなに強くなれるんだろ?」
「強く…か」
奈子は独り言のようにつぶやく。
「人はどうして強くなりたいって思うんだろう?」
亜依はきょとんと、奈子の顔を見つめた。
「どしたの奈子、急にマジになっちゃって」
「ん…別に。ただ、ちょっとやりすぎたかなって反省してんの」
奈子はそこにしゃがむと、ゴールデンの背をなでた。
お返しとばかり、ゴールデンはその大きな舌で奈子の頬をべろりと舐める。
「ひょっとして奈子、落ち込んでる?」
「落ち込んでるっていうか…、時々、わかんなくなるんだ。どうして格闘技なんてやってるんだろう、強くなってどうするっていうんだろう…って」
ふぅん…とつぶやいた亜依は、不意に、なにかを思い付いたような顔になる。
「いいこと、教えてあげようか? 元気が出るかもよ」
「いいこと?」
奈子が顔を上げた。
「どうして奈子が、女の子にモテるのか」
奈子は、こいついきなり何を言い出すんだろう…といった表情を見せる。
「格好いいからとか、強いからとか、胸が大きいからとか、いちばんの理由はそんなことじゃないんだよ」
「三番目のは、同性の場合あんまり関係ないんじゃ…」
犬をなでていた手を止めて、奈子は立ち上がった。
「奈子といるとね、すごく安心できるんだ」
「安心?」
亜依の言わんとすることがすぐには理解できずに、奈子は訊き返す。
「例えばさ…いま突然、あたしが通り魔にでも襲われたとしたら、奈子は助けてくれるでしょ?」
「当然じゃない」
「そう…当然だよね、奈子にとっては。当然のように助けてくれる。あたしを護るために戦ってくれる」
亜依は真っ直ぐに奈子の顔を見て、にこと微笑んだ。
男だったら放っておけないような笑顔で。
「奈子は、大切な人のためなら少しも迷わずに、自分の命を懸けてでも戦ってくれる。奈子にはそんな信頼感があるの。だから、みんな奈子の大切な人になりたいって思うのさ」
「そ…そうなの?」
「だから、奈子が強くなろうとするのは、人を傷つけるためじゃない、大切な人を護るためなんだよ」
どこまで信じていいんだろう?
でも、亜依の無邪気な顔を見ていると、そうかなって思ってしまう。
「少しは、迷いが解消できたかな?」
「うん…」
(そういえば以前、ハルティ様にもそんなことを言われたっけ…)
ときどき、自分に自信が持てなくなるときがある。
だから人にそう言ってもらえると、なんとなく安心できる。
「落ち込んでちゃダメだよ。あたしは、元気な奈子が好きなんだから」
「へ?」
気が付くと、亜依の顔がすぐ目の前にあった。
避ける間もなく、ちゅっと唇が触れる。
「あ、あ、亜依〜! いきなりなにすんのよっ!」
顔中真っ赤にした奈子が、手で口を押さえて叫ぶ。
亜依はぺろっと舌を出した。
「元気づけてあげたんだから、お礼してもらわなきゃね」
「あ、あんたもそっちの趣味だったのっ?」
「三年間同じクラスで、今さらなに言ってンの。まさか、気付いてなかったの?」
「あ、アタシ、亜依だけはノーマルだと思ってたのに〜。あぁ〜親友に裏切られた〜!」
わめき散らす奈子を無視して、亜依の足元に寝そべったゴールデンは大きな欠伸をしていた。
予定より十五分くらい遅れて、奈子は家に戻った。
家の中からは美味しそうな匂いが漂っている。
エプロン姿で出迎えた由維は、ふと、不思議そうな表情で奈子を見つめた。
「…また、浮気してましたね?」
「な、なによいきなりっ?」
困ったことに、それがある意味事実だから奈子は思いっきり狼狽する。
由維は自分の頬を指差した。
「ほっぺたに口紅がついてますよ」
「え! うそっ?」
慌てて頬に手を当てて、はっと気付いた。
亜依にキスされたのは、頬じゃない…。
しまった!
「ふぅん…やっぱりね」
由維がジト目で睨んでいる。
(うう…またやっちゃったよ。アタシってばかなりマヌケ…)
以前にもこんなことがあったっけなぁ。
いったい何度目の失態だろう。
「他の女の子の匂いがするから、もしかしたらって思ったら…」
由維は料理の腕が抜群なだけあって、嗅覚も鋭い。
「あ、いや、あの、これは…その…」
なにかうまい言い訳はないかと、いまさら考えたところで後の祭り。
完っ璧に墓穴を掘ってしまった。
由維は泣き出すだろうか、それとも怒るだろうか。
奈子は恐る恐る由維の顔を見たが、
「ま、いいや。ご飯にしよ」
「へ…?」
拍子抜けするくらいあっさりとした口調で言うと、由維は居間へと戻っていく。
別に、気にもしていないという素振りで。
それとも、もうこんなことは慣れっこなのか。
しかし、
(…! これは…本気で怒っているなぁ…。近いうちになにか埋め合わせしないと…)
夕食の味噌汁を一口飲んだ奈子は、目に涙を浮かべながら思った。
由維の様子は普段となにも変わらないのに、いつの間にか奈子の味噌汁には、ねりワサビがたっぷりと入れられていたのだ。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 1998 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.