二 四十六億年の旅


『仕事で四〜五日留守にします』
 ソレアの屋敷を訪れた奈子が見つけたのは、奈子に宛てた、美しい筆跡で書かれたメモだった。
 ソレア・サハ・オルディカはこの地方では名の知られた占い師である。
 その屋敷には遠くの街からも客が訪れ、また他国の貴族や、時には国王などからの呼び出しを受けることもある。
 ソレアが屋敷を留守にするのはそれほど珍しいことではない。
「な〜んだ、ソレアさんいないのか。せっかく久しぶりにこっちでのんびりできると思ったのに…」
 奈子の卒業式は終わったし、一年生の由維はまだ三学期の授業が残っている。
 だから、奈子はしばらくこちらで過ごそうと思って来たのに、いきなりこれである。
 考えてみると、落ち着いてこちらに来るのも久しぶりだ。
 なにしろ出席日数が足りなくて、年が明けてからは補習続きの毎日だったから。
 奈子はぶつぶつと文句を言いながらお湯を沸かし、ティーポットと自分用のカップを持って二階に上がる。
 ソレアの家に滞在しているとき、最近の奈子は書斎にいることが多い。
 本来、勉強と名の付くものは好きではないしあまり得意でもないのだが、それでもこの世界について書かれた書物を読むのは面白かった。
 まったく未知の世界の地理や、歴史や、文化。
 そう、特に歴史は興味深いものだ。
 ソレアの書斎には何千冊もの蔵書があり、奈子に読めるものに目を通すだけでも時間はいくらあっても足りない。
 たまには、一人というのもいいかもしれないな、と奈子は思う。
 ソレアはともかく、ファージがいたらゆっくりと本を読ませてなどもらえないから。
 もちろん、ファージとじゃれ合ってるのも、それはそれで楽しいのだが。
 書斎に入った奈子はポットとカップをテーブルに置くと、テーブルの上に置かれていた地球儀をなにげなく指で回した。
 直径三十センチ近いそれは、陸地を金で、海洋を白金でかたどった美しいもので、ソレアの話では今から千百年ほど前、王国時代の後期に作られたものらしい。
 高価な素材を使っていることから、学術的な目的ではなく装飾品として作られたと思われるが、それにしても十分すぎるほどに精密な細工だった。
 山脈の起伏まで再現されたそれは、奈子の世界の精密な地球儀と比較しても遜色はない。
 いわゆる『科学』はそれほど発達していないこの世界でも、人は魔法学的な手法によってこれだけの測量を行うことができたのである。
 奈子は地球儀をくるくると回す。
 地形は、奈子の世界とまったく違う。
 大きな大陸は二つだけ。
 赤道よりやや北に位置する『人の大地』コルシアと、南極付近にある『氷の大地』グラクトス。
 大陸は二つだけだが島の数は多く、グリーンランドに匹敵すると思われる大きな島もいくつかあった。
「異世界、なんだなぁ…」
 奈子はぼんやりとつぶやく。
 こうして星全体を外から眺めていると、ここが奈子の知る地球ではないということが実感できる。
 いくらここが異世界――剣と魔法の世界とはいえ、「世界は平らで大洋の果ては滝となっている」などということはないのだ。
 いっそ、そうであれば少しは気が楽なのに…。
 ときどき、奈子はそんな風に考える。
 ここが、まったくのお伽話の世界なら、少しは気が楽だったのに。
 だけどここは奈子の住む世界とほとんど変わらない物理法則に支配された、実在する世界であり、人々の営みも現実のものである。
 そう、現実だった。
 奈子が人を殺したことも。


 奈子の世界とほとんど変わらない、四十数億年の歴史を持つこの惑星。
 こちらの言葉で『ノーシル』と呼ばれる。
 今は使われていない古い言葉で、――真の、大いなる大地――そんな意味だ。
 奈子はこれまで、この世界の歴史――特に王国時代の歴史について書かれた本を何冊も読んできたのだが、最近見つけた本はちょっと違っていた。
 それは人の歴史ではなく、ノーシルの誕生、そして生命の発生と進化、そんな四十六億年にわたる歴史をわかりやすくまとめた本。
 『四十六億年の旅』そんな、金文字のタイトルが読める。
 王国時代の末期に記されたというその本を、書架から取り出して頁を開いた。



 今から四十七〜八億年前。
 そこにあるものは、ただ、希薄なガスだけだった。
 その大半が水素、残りはヘリウム、そして炭素や酸素、珪素や鉄はほんの少し。
 宇宙空間に漂う、一様な星間物質の雲。
 それは、遠い昔にその最期を迎えた星々の名残。
 きっかけは、外からもたらされた。
 ごく近くで――といっても数光年程度の距離のところだが――ひとつの大きな星がその一生を終えたとき、この空間の時計が廻りはじめた。
 大きな星は死ぬとき、想像を絶するほどの大爆発を起こす。
 その衝撃は広大な宇宙の隔たりを越えて、ここに漂っていたガスの雲に波紋を起こした。
 一様な薄いガスの中にむらが生じ、ガスの濃くなった部分はそれ自身の重力によってさらに周囲のガスを寄せ集め、より密度の高い、より大きな固まりへと成長していく。
 そうしてどんどん大きく、重くなっていた固まりの中心が、鉄よりも鉛よりも重くなったとき――
 ついに、星の中心に火が点った。
 現在も天空に輝く、太陽の誕生である。
 太陽が輝きはじめた頃、その周囲の残っていたガスも次第に小さな固まりにまとまりつつあった。
 こうして、太陽を巡る十三の惑星と、無数の小惑星が誕生した。
 その、内側から数えて三番目の惑星こそが、遠い未来に『大いなる大地』と呼ばれる星なのである。


 誕生から数千万年がたった頃、ひとつの異変がノーシルを襲った。
 当時、太陽系内にはまだ不安定な軌道を描く惑星も多く、そのうちのひとつ、ノーシルの半分ほどの大きさの天体が衝突したのである。
 砕け散ったその天体はやがてノーシルを巡る軌道に集まり、ノーシルに最初の、そして最大の月『ホル・チュ』が誕生した。
 この衝突はまた、ノーシルの内部にも大きな変化をもたらした。
 衝突の衝撃が引き金となって大規模な地殻の変動が起こり、無数の火山が噴火して灼熱の溶岩と火山ガスを吹き出した。
 溶岩は地表に起伏を作り出し、火山ガスに含まれる水蒸気は、やがて地表が冷えはじめると雨となって降り注ぎ、広大な海を作り出した。
 こうしてノーシルは、太陽系内で唯一、液体の海を持つ惑星となった。
 それは高温の硫化水素の海であったが、しかしそれこそが、ノーシルが他の惑星と異なる運命をたどるために必要なことだったのである。


 様々な有機物が溶けこんだ硫化水素の海。
 その中で起きていた気まぐれな化学反応が、ひとつの新しい分子を生み出した。
 その分子は、ただ一つの点において他の分子とは違っていた。
 周囲の海水に溶けこんでいる有機物を結合し、自分自身の複製を作り出すことができたのである。
 その奇妙な特性のため、その分子はまたたく間に増えていった。
 分子の複製を作る能力は、まだ粗末なものでミスも多かったが、それ故に分子は無数の変種を作り出す結果となった。
 変種の中のほんの一握りが、原型よりも優れた性質を持っていた。
 より速く、より精密な複製を作れるようになった分子。
 それはもう化学反応ではなく――生命活動というべきレベルに達していた。
 ノーシルの誕生からわずか一億年、煮えたぎった硫化水素の海の中で最初の生命が誕生したのである。


 小さなひとつの分子に過ぎなかった最初の生命は、長い時間をかけてゆっくりと変化していった。
 より大きな、複雑な、そして複製ミスの少ない強固な分子となり、それがやがてタンパク質の被いをまとうようになる。
 そのゆっくりとした進化のためには、無限に等しい時間をかけることができた。
 『生命』と呼ぶのもおこがましいほどの些細な存在ではあったが、彼らには、時間だけはいくらでもあったのである。


 さらに数億年が過ぎた頃、生命にとって最大の革命が起こった。
 それまでの生物は、周囲の海水に溶け込んでいる有機物を取り込んで生命活動を維持していたのだが、無機物と太陽光線から有機物を作り出すことができるようになったのである。
 光合成を行うことのできる生物は、それまでの生物よりもはるかに優れたもので、またたく間にその数を増やしていった。
 そして、光合成の副産物として排出される物質が、海と、大気の環境を大きく変化させた。
 硫化水素の海は、いつしか水とナトリウムを主成分とし、二酸化炭素と水蒸気の大気も、窒素と酸素に変わっていった。
 ノーシルに、青い空と青い海が生まれたのである。


 酸素は、それまでの生物にとっては有害な、劇薬にも等しい物質である。
 このとき酸素に対応できなかった生物の多くが死滅し、生き残ったわずかなものは、酸素のない深海へと逃げていった。
 しかし、酸素によってこれまでよりもはるかに大きなエネルギーを得られるようになった生物たちは、その進化の速度を速めていった。


 いまから八億年ほど前の時代、海は無数の生命に満ちあふれていた。
 その多くは、現存する原始的な藻類の祖先である。
 しかし、当時の陸上に生命の気配はなく、荒涼とした岩肌が広がっているだけの死の世界であった。
 穏やかな海の中は藻類の楽園。
 このままでは、生命がこれ以上の進化を遂げることはなかったかもしれない。
 しかしある日、突然に変化が訪れた。
 巨大な隕石――といっても、月ができたときの衝突に比べたらはるかに小さなもの――がノーシルに激突したのである。
 大気中に巻き上げられる大量の土砂と水蒸気が、ノーシルの穏やかな気候を激変させた。
 世界規模の大嵐が起こり、巨大な竜巻が大量の海水を吸い上げて大地に叩き付ける。
 その中にいた藻類はほとんどが死滅したが、ほんのわずかに、不毛の大地で生き延びたものがあった。
 生命はついに、海から陸へと広がったのである。
 そしてこの時、海の中にもひとつの変化が起こった。
 隕石が巻き上げた大量の塵が成層圏を漂い、太陽光線が海中まで十分に届かなくなったのである。
 弱い太陽光線の下では充分に光合成を行えない生物の中に、他の生物からエネルギーを横取りするものが現れた。
 単細胞生物ではあるものの、それはまぎれもなく『動物』であった。


 それから数億年の間はまた穏やかな時代が続き、生物たちはゆっくりと進化してその数を増やしていった。
 しかし、外見上大きな変化のなかったこの時代、生物たちの内部では着実に次のステップへの準備が進んでいたのである。
 遺伝子は、徐々にその複雑さを増していた。
 この時代に存在した生物はせいぜい百種類くらいのものだったが、その遺伝子はすでに何百万倍もの可能性を秘めていた。
 必要なのは、きっかけだけだった。
 それは、海底から噴出した多量のメタンガスという形で与えられた。
 大気中に放出されたメタンの温室効果によって、ノーシルの平均気温が数度上昇したことが引き金となり、生物たちは爆発的な進化をはじめた。
 細胞核の中で十分に進化していた遺伝子は、その無限の可能性を試しはじめたのである。
 生命の誕生から三十億年の間に誕生した生物はほんの百種類程度にすぎなかったが、それが、わずか一千万年ほどの間に十万種を越えるまでに数を増やした。
 この時代に、現存する全ての生物の原型が生まれ、そしてその何倍もの数の生命が、後世に子孫を残すことなく消えていった。
 世界中に満ちあふれる何百万種の生命、ノーシルが真の『生命の惑星』となったのはこの時代以降といってもよい。


 三億年くらい前の時代、海の生物の主役は、多様にそして高度に進化した魚類であった。
 海は魚の王国となっていた。
 それに対して、陸上はいまだに植物だけの静かな世界であったが、それもいまや時間の問題であった。
 陸近くに棲む魚の一部は、陸上でも生活できる両生類に近い性質を持ちはじめていた。
 動物の前には、新たな世界が広がっていた。


 生物は、きっかけを与えられればものすごい勢いで進化し、増えていく。
 地上に上がった動物は、両生類から爬虫類に進化し、かつてなかった巨大生物へと変化していった。
 一億年前、地上は巨大爬虫類の世界であった。
 そして、七千万年前――
 巨大爬虫類の進化が頂点に達したちょうどその時期、また、ノーシルの外から変化が訪れた。
 現在のコルシア大陸、バーパス地方に落下した巨大隕石である。
 成層圏まで巻き上げられた大量の塵は、簡単に落下せずに空を覆った。
 この星に、かつてない長い冬の時代が訪れた。
 巨大化しすぎたために環境の急激な変化についていけなくなっていた巨大爬虫類は、この異変に対応できなかった。
 地上に再び陽の光が戻ったとき、そこには巨大爬虫類の姿はなかった。
 この異変を生き延びたのは、巨大爬虫類の陰で密やかに生きていた哺乳類たちだった。
 哺乳類が、新たな地上の支配者となったのである。


 冬の時代が終わり、哺乳類は温暖な気候の中で繁栄を続けていた。
 その中の一種、霊長類はとりたてて優れた種ではなかったが、他の動物にはない二つの特徴を備えていた。
 長い指を持った器用な手と、体の割に大きな大脳である。
 それまで熱帯雨林の樹上で暮らしていた、もっとも進化した霊長類が、気候の変化で森を追われ草原で暮らしはじめた。
 それが、画期的な二足歩行のきっかけであった。
 身体を支えるという重労働から解放された前足は、器用さを増した『手』となった。
 手と指で複雑な作業をすることが、脳の発達を促した。
 森を追われた猿は、そうしてついにヒトへと進化を遂げたのである。


 それまでの動物の進化とは、すなわち遺伝子がより優れた形質へと変化することであった。
 しかし、多くの環境の変化の中で作り上げられた二重螺旋の遺伝子は、極めて強固なものであり、その変化はじれったいほどゆっくりとしか進まない。
 ヒトは、遺伝子を変化させない進化の道を選んだ。
 知能の発達、である。
 強固なDNAと異なり、大脳のシナプスは瞬時にその構造を変化させる。
 その情報は遺伝子のように子孫に受け継がれることはないが、『言葉』と『文字』がその代わりを果たした。
 他のどんな生物よりも速く進化できるようになったヒトは、必然的に地上の支配者となった。


 もともと小さな群で生活していたヒトは、やがてもっと大きな集団を作るようになり、集落から村、街、そして都市を築いていった。
 コルザ川下流域で見つかった遺跡は、そうした都市のもっとも古いものであり、今から十万年以上前のものと考えられている。
 その時代、既に都市を築くほどの文明が存在していたのだ。
 しかし、そのような古代文明と現在との間には、数万年の空白の時代があった。
 そうでなければ、現在の文明は遙かな高みに達していたはずである。
 十万年前、どのような災厄がノーシルを襲ったのか――それについては実のところよくわかっていない。
 何故なら、当時の痕跡がほぼ完全に破壊され尽くしているからである。
 その時代の地層を調べても、徹底的な破壊の痕が見られるだけで、そのとき具体的に何が起こったのかは伺い知ることができない。
 もっとも有力な説は、七千万年前に巨大爬虫類を絶滅させたのと同じような隕石の衝突であるが、これとて確証があるわけではない。
 はっきりしていることは、およそ十万年前にノーシルは大きな災厄に見舞われ、ノーシルの全生命は絶滅寸前に追い込まれたということと、その後数万年間もの不毛の時代が続いた後、ようやく回復に向かい始めたということだけだ。
 現存する全ての生命は、この災厄を生き延びたわずかな生き物たちの子孫である。
 人間たちが築いていた文明も失われた。
 人間の進化は一万年以上、すなわち原始時代まで逆行することとなった。
 生き残ったほんの一握りの人間たちは、数万年の時間をかけて、再び一からやり直さなければならなかった。
 人間が再び大きな文明を築くようになったのは数千年前、この星が歩んできた四十数億年の歴史を比べたら、つい先日のことと言っても過言ではないのである。



「ふぅ…」
 奈子は大きく息をつくと本を閉じた。
 既に時刻は夕方近く、ティーポットはいつの間にか空になっている。
 ずいぶんと読書に熱中していたらしい。
 この本は、これまで読んだことのあるこちらの世界の本とはずいぶん違っていた。
 奈子は時折、自分の世界の本を読んでいるような錯覚にとらわれる。
 それくらい、記述が…科学的なのだ。
 それはもちろん、王国時代の高度な魔法学によって得られた知識なのだが、これだけの厚さの本の中に、魔法や神々に関する記述が全くないのが不思議だった。
 奈子の世界とは違い、この世界は魔法が支配し、神々と呼ばれる存在も、その実体がなんなのかはわからないが、少なくともその力は実在しているのだ。
 それなのに、この世界や生命の成り立ちには、魔法も神々も関与していないというのだろうか?
 奈子の世界と同じように、この世界も物理法則によってのみ支配されているというのだろうか?
 この世界の魔法は、決して人間の知恵の産物ではないはずだ。
 人間以外の哺乳類や、爬虫類や鳥類でも魔法を使える生物はいる。
 植物は動物のように自らの意志で魔法を使うことはないが、オルディカやノルゥカルキといった、強い魔力を持つ草木は何種類も知られていた。
 この世界において魔法とは、当たり前のように存在する力ではなかったのか。
 いったい、この惑星の四十数億年の歴史のどこで、この力は生まれたのだろう。
 いま読んでいた本の記述が全て正しいとすると――
 この本には、十万年前までの歴史が記されている。
 だとすると、考えられることは一つ。
 この世界において、魔法も、神々も、十万年よりも新しい歴史しか持たないのだ。
「…まさか、ね」
 いくらなんでもそんなことはあるまい。
 こんど機会があったら、もう少し新しい時代について書いてある本を探してみよう。
 あるいは、ソレアやファージに訊いてみるか。
 今日はもう、これから新しい本を探して読むには頭が疲れている。
 ソレアは今日中には戻らないようだし、一度帰って出直すことにしよう。
 奈子は立ち上がった。
 自分の世界に戻るために、魔法陣のある地下室に向かいながら、明日はどこへ行こうかと考える。
 ソレアがしばらく留守にするのなら、一人でどこかへ冒険に行くのもいいかもしれない。
 この世界の中での通常の転移魔法は使えない奈子だが、向こうからこちらへ移動する際には、必ずしもここへ来る必要はない。
 目的地さえしっかりとイメージできれば、他の場所への転移も可能なのだ。
 例えば、ハルティやアイミィに会いに、マイカラス王国へ行くというのはどうだろう。
 それはなかなかいい考えのように思われた。
 こちら側で、ファージとソレアの次に親しい人間はこの二人だ。
 最近補習で忙しかったこともあって、二人にもしばらく会っていない。
「マイカラスなら前にも一人で行ったことがあるし、何とかなるか…」
 それとも他にどこか、行ってみたい場所はなかっただろうか?
 これまでにも、ソレアやファージが暇なときにはいろいろな場所へ連れていってもらっていた。
 王国時代の遺跡や、あるいは現在の大陸で栄えている都市など。
 その中でもう一度行ってみたい場所はあっただろうか。
 あるいは、その他にも…。
 しばらく考えて、ひとつ思い付いたことがあった。
 以前、本で読んで強く興味を引かれたにも関わらず、まだ行ったことがない場所。
 ソレアから、近付くことを固く禁じられている場所。
 そんな場所があったことを思い出す。
 聖跡――
 それは、伝説の竜騎士エモン・レーナの墓所。 
 今から千五百年前、トリニア国王エストーラ・ファ・ティルザーの妻であり、黄金竜の騎士であった人物。
 その生い立ちは謎に包まれ、『戦いの女神の化身』と呼ばれた竜騎士。
 この世界で最初の竜騎士であり、竜騎士の力をこの世にもたらした者。
 それが、エモン・レーナ。
 ストレイン帝国との戦の最中、親友に裏切られて命を落としたと伝えられるエモン・レーナの墓所は、大陸のはるか西、中央山脈のふもと近くにあるという。
 その場所は一般には知られていないのだが、一部の魔術師や歴史家たちの間では公然の秘密なのだそうだ。
 当然、ソレアやファージはそれを知っている。
 その話をしてくれたとき、ソレアはさらにこう付け加えた。
「聖跡は危険な場所よ。エモン・レーナの神聖な墓所を荒らす者がないようにと、不死の番人がそこを護っている。聖跡の中へ入って、生きて戻った者はいないわ」
 興味本位で近付いたりしちゃ駄目よ――ソレアはそう言ったのだが、駄目と言われるとよけい行ってみたくなるのが人情というもの。
 神の子と呼ばれた竜騎士の墓所、そこを護る不死の番人、なんとも幻想的な話ではないか。
 奈子はまだ十五歳、自制心よりも好奇心が勝る年頃だった。
「中に入らずに、遠くからちょっと見てみるくらい、いいよね?」
 奈子はソレアの書斎に戻ると、書架から聖跡の場所を記した地図を取り出した。



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