三 ファ・ラーナの聖墓


 奈子の身体を包み込む光が薄れ、周囲の風景が見えてきたとき、困ったことに地面は足の下数メートルのところにあった。
「きゃ…」
 短い悲鳴を上げて落ちる奈子。
 地面に叩き付けられる衝撃に備えて身体をこわばらせたが、次に感じたのは地面や草原にしては妙に柔らかな感触と、「ぐぇっ!」というカエルのような声だった。
「え…?」
 上体を起こしてきょろきょろと辺りを見回す。
 濃い緑の風景。
 ここはどうやら、森の中を通る道のようだ。
 奈子の尻の下に、ちょうど車につぶされたカエルのような格好で、男がうつぶせになってのびている。
 そして、周囲には数人の人影があった。
 一人は若い女性。
 二十代前半くらいだろうか。
 淡い色の、長い金髪が特徴的な美人だ。
 そして、彼女を取り囲むように四人――奈子の下敷きになっているのを除いて――の男たち。
 こちらは、はっとするほど美しい女性とは対照的に、その人相といい、各々が物騒な武器を手にしていることといい、どう見ても堅気の人間とは思えない。
 彼らが直前までなにをしていたのかは推して知るべしだが、いまはみな一様に、いったい何が起こったのか…という表情で奈子を見つめている。
「え〜とぉ…」
 さて困った。
 こ〜ゆ〜ときは、どうしたらいいんだろう?
 奈子を見つめる男たちの目つきが、徐々に険しくなってくる。
 どうやら、笑ってごまかす――という雰囲気ではなさそうだった。
「あ〜、えと…、どうやら、お邪魔だったみたいですね〜」
 へらへらと笑いながら地面に手をついた奈子は、いきなり、バネがはじけるように飛び上がった。
 そのまま、一番近くにいた男の顔面に、ソバット風の後ろ回し蹴りを叩き込む。
 突然の出来事に、男たちの反応が一瞬遅れた。
 その隙にもう一人の男との間合いを詰めると、剣を持っている方の手首を左手でつかみ、右手で男の顎に掌底を打ち込む。
 男の身体が大きくのけぞったところで、鳩尾への肘打ちと脇腹へのボディフックの連発。
 とどめは全身のバネを使って、もう一度顎を狙ったアッパーカット。
 男の身体は一瞬宙に浮き、そのまま後ろに倒れた。
「て、てめぇ、いきなり何しやがるっ!」
 残る二人のうち、先に我に返った方が剣で斬りつけてくる。
 ガキィッ!
 奈子は、腰に差した短剣を抜いてその刃を受け止めた。
 さらに空いた手でもう一本の短剣を抜くと、男の剣を持った手に斬りつける。
 この短剣はファージに頼んで特注で作ってもらったもので、短剣といっても刃渡りは三十五センチほどあり、鉈に劣らない肉厚がある。
 奈子はいつも、その短剣を二本、腰のベルトに差していた。
 大振りの短剣を逆手に持ち、武器を持った相手の攻撃を受け止めながら反撃する――北原極闘流で『双牙竜』と呼ばれる技だ。
 古流武術の影響が濃い極闘流には、徒手格闘の他に、このような武器を用いた戦闘術もある。
 現代の日本では実際に使う機会などまずないし、道場でも普通は教えない技なのだが、個人的な興味から練習しておいたものが役に立った。
 この世界では剣による闘いが一般的なのだから、全くの素手ではやはり辛いものがある。
 奈子は普通の長剣も使えなくはないが、この方がより空手の技を生かした戦い方ができるのだ。
 奈子は手の筋を切られて剣を落とした男の股間を蹴り上げ、男が膝をついたところでこめかみに回し蹴りを叩き込んだ。
 これで、残るは一人。
(これは勝てそうだな。ひとつ、アレを試してみるか…)
 いきなり現れた正体不明の小娘にたちまち三人の仲間を倒され、残った男は警戒した様子で剣を構えている。
 と突然、
「ショウ・ウェブ!」
 男の手からリンゴ大の光球が放たれた。
 それを予想していた奈子は、右手の短剣を投げ捨てながらぎりぎりで魔法をかわす。
 そのまま踏み込んで顔面を狙った掌底を放ったのだが、踏み込みが浅かったのか、その手は相手にはわずかに届かない。
 しかし、
(よし、今だ!)
 奈子は右手に意識を集中する。
 ドンッ!
 目に見えない衝撃波が、男を大きくはじき飛ばした。
「やった!」
 初めて実戦で魔法を使うことができて、奈子の顔がほころぶ。
 ここ何ヶ月か、奈子は暇を見てファージやソレアから魔法による戦闘術を習っていた。
 理論上は、この世界にいる限り奈子にも魔法が使えるはずだったし、まったく魔法が使えないというのは、この世界ではいろいろと不自由だった。
 もっとも奈子の攻撃魔法などまだまだ未熟なものなので、こうした空手の技とのコンビネーションを練習していたのだ。
 地面に倒れている男たちを一瞥した奈子は、先刻放り投げた短剣を拾うと、呆気にとられて立ち尽くしている女性に向かって言った。
「さ、今のうちに逃げよう!」
「え…あ、そうね」
 我に返った女性の手を引き、奈子は走り出した。



「とりあえず、こ〜ゆ〜ときは女の味方をしておけばいいと思ったんだけど…、アタシ間違ってないよね?」
 しばらく走ったところで、恐る恐る訊いた。
 そう、奈子はなんの事情もわからないままに男たちをぶちのめしてしまったのだ。
 これでもし、奈子の早合点だったら目も当てられない。
 いくら、あの男たちに致命傷を与えてはいないといっても。
 その女性は、当然のことながら体力的には奈子より劣るようで、激しい呼吸を繰り返していて返事ができずにいた。
 そもそも体力お化けの奈子が辛くなるまで走り続けていたのだから、それに付き合わされた方はたまったものではない。
 奈子はその間に相手を観察した。
 年の頃は二十代前半。
 見た目だけならソレアよりも少し上…という印象を受けたが、ソレアは実際には二十九歳だというし、この世界の女性の年齢は外見だけでは判断できない。
 背は奈子よりやや高く、淡い色の長く伸ばした金髪が美しい。
 少し、ソレアに雰囲気が似てるかな…と奈子は思った。
 そのときになって気付いたのだが、長い剣を背負っている。
 この世界の標準的な長剣よりも十五〜二十センチくらい長めだ。
 意外だった。
 雰囲気といい、長いローブ風の衣服といい、とてもこんなものを持つような人物には見えなかった。
(これはひょっとして、余計なお世話だったかな。でも五対一じゃ…う〜ん、でも…)
 奈子が少し不安になり始めた頃、女性はようやく息を整えて微笑んだ。
「ええ、間違ってないわ。ありがとう、助けてくれて」
 はっとするような笑顔だった。
 自称ノーマル、の奈子が思わず赤くなるほどに。
「でも、事情も聞かないうちにいきなり襲いかかるなんて、ずいぶんと大胆なことするのね?」
 その言葉に責めているような雰囲気はない。
 むしろ面白がっているようだった。
「だって…まともにやったら四対一ってのはちょっと辛いっしょ? 多少卑怯でも、不意打ちでイニシアチブを取るしかないもの」
 複数の相手と闘うときは必ず先手をとり、相手が反撃の体勢を整える前に可能な限りの戦力を削ぐこと――奈子の先輩であり女子空手界の女王、北原美樹の教えだ。
「そうね、確かにその通りだわ」
 相手も納得してくれたようなので、奈子は安心する。
「あ、私はフェイリア・ルゥ。フェイリア・ルゥ・ティーナよ」
「アタシ…奈子。ナコ・ウェル・マツミヤ」
 この世界では、奈子は必ず、ハルティからもらった『ウェル』の名を名乗るようにしていた。
 ナコ・マツミヤだけでは、ここではあまりにも不自然な名になる。
 それに、運命の女神を表すウェルの名は、現在ではマイカラスの王家にだけ残るもので、とても貴重な、高貴な名だ。
 要するに、奈子のお気に入りなのだ。
(フェイリア・ルゥ…? ルゥといえばたしか、知識を司る女神…だっけ。魔術師の家系に多い名だって聞いた記憶があるけど…?)
 身近なところでは、ファージがその名を持っている。
 本名はファーリッジ・ルゥ・レイシャ、だ。
 それはともかくとして、フェイリア・ルゥ・ティーナという名前に、奈子は既視感を覚えた。
「フェイリア・ルゥ…ティーナ? どこかで、聞いたような気が…?」
「千年くらい前、王国時代の末期にフェイシア・ルゥ・ティーナという高名な魔術師がいたわ。それと混同しているのではなくて?」
 フェイリアの言葉に、奈子は「ああ、そうか」とうなずく。
 ソレアの書斎で読んだ本の中に、そんな名があったはずだ。
 ソレアから魔法の講義を受けているときにも聞いた気がする。
 それにしても…
「フェイリア・ルゥ、フェイシア・ルゥ…一字違いだよね。ひょっとして、ご先祖様とか?」
「そうらしいわ。詳しい家系は知らないけれど」
 フェイシア・ルゥといえば、トリニア王国に仕えていた高名な魔術師だったはず。
 その末裔でフェイリア・ルゥ…?
「じゃあ、フェイリア・ルゥも魔術師なの?」
 奈子の予想通り、答えはイエスだった。
 仕事柄ひとりで旅をすることが多く、その途中で野盗に襲われたのだそうだ。
 なんとなく面白そう…それだけの理由で、奈子はしばらくフェイリアと一緒に行動することにした。


 都会の夜に慣れた奈子にとって、この世界の夜はとても静かだ。
 それが、森の中での野宿となればなおさらのこと。
 聞こえるのは虫の音と、遠くで鳴く梟の声。
 そして、ぱちぱちとはぜる焚き火の音。
 そんなとき、不意にフェイリアが言った。
「そういえばあなた、いきなり空から降ってきたりして、いったい何をしていたの?」
 奈子は思わず、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。
 そういえば出会ってから半日の間、奈子は自分のことをほとんど話していない…というか、そもそも話せないことが多すぎるのだ。
 うっかり口を滑らせて、自分の素性がばれたら大変なことだ。
 そんなことがないように気をつけること――ソレアやファージに繰り返し言われている。
(あれ? でも…)
 どうして、ばれたらいけないんだろう?
 そりゃあ確かに「この世界の人間ではない」というのは大事かもしれないけど…なにがなんでも隠さなければならないというほどのものなのだろうか?
(まぁ、あの二人が秘密にしろって言うんだから、その通りにするけどね…)
 ただ、そのためにハルティやアイミィに嘘をつかなければならないことが少し辛いのだ。
 しかし、とりあえずいまは無難にごまかすしかない。
「え、いや…それが…、転移魔法に失敗して…」
「あらあら…」
 フェイリアが笑う。
「それで、本当は何処へ行こうとしていたの? こんなところでのんびりしていていいの?」
「実は、聖跡に行こうと思っていたんだけどね…」
「聖跡…?」
 フェイリアがぴくっと眉を上げる。
(あ、マズ…)
 その表情を見て、奈子はふたつの失言に気付いた。
 ひとつは、転移魔法は極めて高度な技で、それができるのはほんの一握りの専業魔術師だけということ。
 本来なら、奈子のような魔法もろくに扱えない小娘の手に負えるものではない。
 奈子の周りにいるのが、転移魔法など当たり前のようにこなすファージやソレアなのでつい失念してしまうのだが、彼女たちはこの世界でも規格外といってもいいほどの力のある魔術師だ。
 そしてもうひとつは、現在、聖跡の正確な場所を知る者もごくわずかだということ。
 聖跡という名やエモン・レーナの伝説は誰でも知っているが、聖跡の位置はトップシークレットだ。
「あ…あの、え〜と…」
「転移の失敗…聖跡…ふぅん?」
 うろたえる奈子を見て、フェイリアは含みのある笑みを浮かべた。
 奈子の額に冷や汗がにじむ。
(うぅ…これじゃあアタシ、どう見ても怪しい奴だよ…)
 フェイリアは明らかに、奈子がただの十五歳の少女ではないと気付いたようだった。
 まあ、それをいったら…武装した大の男四人を一瞬で倒したところから、既に普通の女の子の範疇をかなり逸脱している。
「聖跡って、あの聖跡よね? いったい何をしに?」
 フェイリアの顔は笑っているし、口調もごく普通なのだが、どこか、有無をいわせない迫力があった。
 ただでさえ嘘の下手な奈子のこと、ここは話せる範囲で正直に答えるしかない。
「ええと…その、なんとなく興味があって…。観光、みたいなもの?」
 我ながら、馬鹿な発言だと思う。
 これではフェイリアは納得しまい。
 しかし意外なことに、フェイリアはそれ以上深く追求してこなかった。
 ただ、こう言って笑っただけだ。
「それにしても、すごい方向感覚ね。ここは聖跡から四千四百テクトは離れているわよ」
(あぅ…)
 思わず赤面する。
 奈子の見当では一テクトはおよそ○・七キロだから、目的地から三千キロ以上の大外しだ。
 いくら、転移魔法においては物理的な距離が意味を持たないとはいえ、これはひどい。
 しかも、たどり着いた場所は聖跡となんの関係もない、奈子にとっても見知らぬ場所だし、転移の座標を狂わせる王国時代の魔法的な遺跡があるわけでもない。
 魔法に関しては初心者とはいえ、これは大失態というほかはなかった。
 もっとも、行き慣れたソレアの家やマイカラスの王宮が目的地の時でさえ、三〜四回に一回は目標を外す奈子だから、仕方のないこと…といえなくもない。
(それにしても、三千キロってのは新記録…)
 以前、ソレアの家に行こうとして、王国時代の都市マルスティアの遺跡に出てしまったことがあったが、それでさえ二千五百キロほどでしかないし、あの時はそこへ行ってしまうだけの理由があった。
 それが今度は、理由もなしに三千キロ…あれ?
 三千キロ…四千四百テクト?
 そのときやっと、奈子はフェイリアの発言が持つ重大な意味に気付いた。
「フェイリア・ルゥ…あんた、聖跡の場所を知ってるの?」
 四千でも四千五百でもなく、四千四百テクトとはずいぶんと正確な数字ではないか?
 フェイリアはすぐには答えず、ふふっと笑った。
「まだ、眠くはない? ナコ・ウェル」
 いきなり、そんな関係のないようなことを訊いてくる。
 奈子は小さくうなずいた。
「じゃあ、面白い話をしてあげましょうか。ちょっと長い話だけど…」
 そうして、フェイリアは話し始めた。



 その話を聞いた時、ディック――ディケイド・ファ・ハイダー――は、まず自分の耳を疑い、それから、冗談を言っているのだろうと思った。
 しかし、彼の前に立っている少女、フェイリア・ルゥ・ティーナの目は真剣だった。
 十年前、フェイリアの両親が死んだ時、当時七歳だったフェイリアは親戚であるハイダー家に引き取られた。
 以来、実の兄妹のように育てられた二人だが、ディックも今では二十一歳、フェイリアのことを『妹』とは思っていない。
 もっとも、フェイリアが彼のことをどう思っているのかはわからないが。
 ある日の午後、フェイリアから大事な話があると呼び出されて村の近くの森までやって来たのだが、そこで聞かされた話はあまりにも意外なものだった。
 ディックは、フェイリアの言葉の意味を飲み込むために数瞬の間を置き、それからやっと口を開いた。
「…聖跡へ行くだって? とんでもない!」
 思わず言った本人も驚くくらい大きな声を出してしまったが、それも無理はない。
「聖跡がどんなところか知らない訳じゃないだろう? それをフェア、お前一人で行くだなんて…。俺はおろか、親父だってあそこへは近付いたこともないんだ。冗談じゃない!」
「ちょっと…、そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない。少しは私の話も聞いてよ!」
 ディックにつられて、フェイリアの声も自然と大きくなる。
 その声に驚いたのか、近くの茂みから数羽の小鳥が慌てて飛び去った。
 ここは、村から少し離れた森の中にある、小さな泉のほとり。
 どんなに大声を出しても、二人の話を聞いているのは森に棲む鳥や獣だけだろう。
 それ故にフェイリアは、秘密を打ち明けるのにこの場所を選んだのだ。
 村の中でこんな話をしていて、もしも他の者に聞かれでもしたら、そしてそれが養父の耳に入ったりしたら、聖跡へ行くことなど許してもらえるはずがないのだから。
 聖跡へ行く――この計画をフェイリアはいままで誰にも言わずにいたのだが、それでもやはり黙って村を出るわけにもいかないので、『兄』であるディックに打ち明けたのだ。
 ディック兄さんなら私に味方してくれるかもしれない――そんな淡い期待もあったのだが、ディックの反応はフェイリアを失望させるものだった。
 勇敢な剣士であり魔術にも通じているディックや、その父エルケイアにとっても、聖跡は忌避すべき禁断の地であった。


 聖跡――それは、伝説の竜騎士エモン・レーナの墓所といわれている遺跡である。
 千年前まで、大陸で最大の勢力を誇っていたトリニア王国。
 その礎を築いた王・エストーラ一世の妻で、黄金竜を駆る竜騎士エモン・レーナ。
 しかしエモン・レーナは、彼女の親友で、トリニアの騎士団のリーダーであったクレイン・ファ・トームの裏切りにより、敵対していたストレイン帝国の軍に殺されてしまう。
 クレインはその罪によって死刑となったが、さらに彼女の魂は呪いをかけられて、永遠にエモン・レーナの墓所を護り続ける番人となることを命じられたのである。
 数百年の時が流れ、トリニア王国が滅びた後も、クレインの魂は依然として呪力に支配されて墓所を護り続けていた。
 稀に、墓荒らしの盗賊や腕自慢の剣士といった連中が墓所に侵入することがあったが、生きて還った者は無論いない。
 いつの頃からか墓所は聖跡と呼ばれるようになり、今はもう誰も近づく者もない不毛の荒野の中で、聖跡だけが昔の姿を保っているのだという。


「黄金竜の騎士であるエモン・レーナは、アール・ファーラーナ――戦いの女神の化身――と呼ばれるほどの強大な力を持っていた。そして、その力は彼女の肉体が滅びた後も失われることはなく、亡骸とともに聖跡に封印されているという伝説があるわ」
 フェイリアの言葉に、ディックの眉がぴくりと動いた。
 アール・ファーラーナ――トリニアの神話では、太陽神トゥ・チュと大地の女神シリュフの娘で、戦いと勝利の女神とされている。
 トリニアの時代、王国が危機に陥ると、女神が人間の戦士の姿で現れ、国を救うと信じられていたのである。
「エモン・レーナの力…」
 ディックがつぶやく。
「ねぇ兄さん、聖跡の周囲って今は不毛の荒野になっているけど、どうしてその中で聖跡だけが昔のままの姿で残っていられると思う? 千年以上もの間、クレインの魂を支配し続けている呪力は、何処からきていると思う? 全ては聖跡に眠るエモン・レーナの、いえ、戦いと勝利の女神の力なのよ」
 熱のこもった口調で語るフェイリアを見ながら、ディックは漠然とした不安を感じていた。
 いったい、何を考えているんだ。
 お前は何をしようとしている…?
 そして、その答えは一つしかあり得なかった。
「私は、その力を手に入れたいの。アール・ファーラーナの大いなる力を、私のものにしたいのよ!」
 フェイリアは、きっぱりと言った。
 真っ直ぐにディックの目を見つめて。
 強い意志が感じられる瞳で。
「だけど…何故だ。何故そうまでしなきゃならないんだ? 今だってお前は最高の魔術師なのに、それでもまだ不満なのか! 王国時代のエモン・レーナやレイナ・ディ・デューンのように、この大陸を征服しようとでも言うのか!」
 最後の方は、ほとんど怒鳴り声になっていた。
 フェイリアは少し悲しそうな顔をしたが、それでもディックから視線をそらさずに言った。
「…私は、父さんと母さんの仇を討ちたいの」


 それは、十年前のある嵐の夜だった。
 その日、フェイリアは親の使いで、一人で親戚のハイダー家を訪れていた。
 雨はちょうどフェイリアが着いた頃から降り始め、夕方には嵐となったので、結局フェイリアはそのまま泊まっていくことになった。
 その夜の嵐はそれまで誰も体験したことがないほど烈しいもので、村では十五人の死傷者が出た。
 ただし十五人とは、フェイリアの両親を数に入れなければ、の話だ。
 フェイリアの両親は、嵐の犠牲者ではなかった。
 家は嵐でもほとんど損傷を受けた様子はなく、扉と窓には鍵がかかっていた。
 しかし、家の中に残っていたのは『昨日までは人間だった肉片』でしかなかった。
 明らかにそれは人間の仕業ではなく、鍵がかかっていた以上、獣がやったことでもない。
 そうなると考えられるのは、魔物の仕業ということか。
 だが、フェイリアの父はこの地方でもっとも強い力を持つといわれた魔術師だ。
 それに、村には結界が張られていて、魔物が侵入できる筈はない――そう主張する者もいたが、彼らは単純な事実を見落としていた。
 フェイリアの父ほどの魔術師を殺せる魔物に対して、結界などなんの役にも立たないということを。
 あるいは認めたくなかっただけなのかもしれない。
 結界をいとも簡単にうち破り、最高の魔術師を殺せるだけの力を持った魔物の存在を。
 この事件の当時、ディックは十一歳だったが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。
 それは、フェイリアの瞳だった。
 両親の死を目の当たりにして彼女は少し怯えていたが、ディックの知る限り、フェイリアは葬儀の間じゅう一度も人前で涙を見せたことがなかった。
 おそらく、誰もいないところでは泣いていたのだろうが。
 そうして、じっと、子供には見るに耐えない両親の死体を見つめていた。
 恐ろしいほど真剣な瞳で――
 その表情には、両親の死に対する悲しみよりも、両親を殺した相手に対する怒りの方がより多く含まれているように思われた。
 一人遺されたフェイリアはハイダー家に引き取られたが、間もなく、ケリアの森に住む高名な魔術師ジェリアナースの元に弟子入りし――多分彼女は、その時既に自分の手で両親の仇を討つことを決心していたのだろう――異常ともいえるほどの熱心さで様々な魔術を学んでいった。
 もともとフェイリアの家は古くからの魔術師の家系で、素質にも恵まれていたのだろう。
 彼女は師匠も驚くほどの早さで多くの魔術を修得し、十五歳の時には一人前の魔術師となっていた。
 フェイリアはその後も、家にはたまにしか帰らずに大陸の各地を旅して歩いた。
 そうして、王国時代の魔法書を探し求めたのである。
 大陸には王国時代の遺跡が数多く存在し、その多くはトリニア王国の都市の跡である。
 戦争で破壊されたもの。
 人口の減少で都市としての機能を維持できなくなり、放棄されたもの。
 そして、魔物に征服されたもの…。
 バーパスやハレイトン等、王国時代の都市で現在でも人が住んでいるところもないわけではないが、そういった都市にしても、かつての繁栄の面影は何処にもない。
 ましてや放棄された都市にいたっては見る影もなく、歴史上最大の都市といわれたトリニアの王都マルスティアでさえ、今は近づくものもない廃墟であり、トリニアの騎士団の発祥の地であるモアなどは、西方の砂漠から入り込んできた流砂の中に埋没し、今ではその場所を知る者すらいないという。
 フェイリアは、王国時代の魔法に関する資料を探すためにそうした廃墟を訪れた。
 王国時代の大いなる魔法は長い戦乱の中でほとんどが失われ、ほんの一部分が現在まで伝えられているに過ぎない。
 古代の上位魔法を見つけだすこと、それがフェイリアの目的だった。

 しかしディックの両親は、フェイリアがこうした旅をすることにあまり良い顔をしなかった。
 魔物の支配地と化したコルシアを旅することはあまりにも危険であったから。
 ディックもフェイリアの旅には内心反対であったが、その理由は少し違っていた。
 確かに、古代の遺跡には様々な獣や魔物等が巣喰っていたが、フェイリアの魔法の前にはそれほど危険な存在とは思えなかった。
 時にはディックもフェイリアの旅に同行することはあったが、彼が剣の腕前――村の若者ではかなう者のない――を披露する機会など滅多になかった。
 その前に、フェイリアの呪文が全てを一瞬のうちに片付けてしまうから。
 しかし、魔物と闘っている時のフェイリアの様子には、ディックを不安にさせるものがあった。
 魔物との闘い――それは闘いですらはなく、一方的な虐殺のことも多かったのだが、フェイリアは怯えて逃げだそうとする魔物に対しても決して容赦せず、常にそこにいる全ての魔物を醜い肉片に変えていった。
 そんな時のフェイリアの表情…それは普段ディックが見慣れている優しい笑顔ではなく、どこか、背筋がぞくっとするような不気味な笑みを浮かべていた。
 フェイリアは魔物を殺すことに悦びを感じている――ディックはそう思っていた。
 これは、復讐なのだ。
 もっとも残酷な殺され方をした、彼女の両親の…。
 その恨みが、あのような歪んだ形で現れるのだろう。
 フェイリアの魔物に対する宿怨と、強大な魔力に対する欲望は、他人には理解できないほどの強さがあった。


「父さんと母さんを殺した奴を探し出すため、そしてそれを殺すため…、私にはもっと大きな力が必要なの。聖跡にはそれが存在する…」
 フェイリアが、静かな口調で言った。
「どうしても、か?」
「ええ、どうしても。私は聖跡へ行かなきゃならないの」
 ディックも、もうフェイリアを説得するのは無理だと感じていた。
 それでももう一度念を押してみる。
 同時に、彼は一つの決心をしていた。
「よし、わかったよフェア。それなら俺はもう止めない。その代わり、俺も一緒に…」
「駄目よ、兄さん。それはいけないわ!」
 フェイリアが慌ててディックの言葉をさえぎる。
「兄さんはハイダー家の跡継ぎ、つまり、いずれは村の長になる身だもの。それなのに聖跡へ行こうなんて、危険すぎるわ、絶対に駄目!」
「言ってることが矛盾してないか? その危険な聖跡に一人で行くと言ってるんだぞ、お前は…。わかってんのか?」
「わかってるわよ! わかってるからこそ、兄さんを巻き込みたくないの!」
「わかってるなら、行くのは止めるんだな。どうしても一人で行くと言い張るのなら、俺は腕づくでも行かせない」
「そんなこと、させない!」
 フェイリアの表情が微妙に変化し始めていることに、ディックは気付いた。
 そして、周囲の森の様子が先刻までとは違っていることにも。
 うるさいくらいだった鳥や虫の鳴き声がいつの間にか止み、森は不気味なほどの静寂に包まれている。
 フェイリアは両手の指を組んで複雑な印を結ぶと、決して大きくはない、しかし良く通る声で唱え始めた。
「風よりも速きもの
 炎よりも熱きもの
 大地よりも広きもの
 そして、清水よりも清きもの。
 我が言葉に応え、我の元に集え…」
 やがて、周囲の草木が、風もないのにざわざわと揺れ始めた。
 四大精霊の魔法…?
 ディックの顔がこわばる。
 フェイリアが、魔力の源となる精霊を召喚しているのだ。
「誰にも邪魔はさせない。たとえ兄さんにだって」
 まるで魔物と対峙している時のような瞳で、口調で、フェイリアは言う。
 彼女は本気だった。
 十年間、兄妹のように暮らしてきたディックに対してその恐るべき魔力を行使しようとしているのだ。
「フェア、お前…自分が何をしているのかわかっているのか?」
「ええ、わかっているわ。言ったでしょう? たとえ兄さんだって、邪魔はさせないって」
「フェア!」
「さあ、黙って私を行かせてくれるの? それともやっぱり腕づくで止める? 私はどちらでも構わないわ」
 フェイリアの声には、まったくためらいがなかった。
 ディックは思わず剣の柄に手をかけたが、まさか本当にそれを抜くわけにはいかない。
 確かに、この距離ならフェイリアの呪文よりもディックの剣の方が早いだろう。
 しかし、それはフェイリアを傷つけることを意味しており、そして、ディックにそんなことができる筈はないのだ。
 だが、聖跡へ行くことを許せば、フェイリアを永遠に失うことになるかも知れない。
 そんな考えがディックの頭をよぎったが、それでも、彼にできる選択は一つしかなかった。
「わかったよ、フェア。行けよ」
 そう言った瞬間、突然凄まじい突風が二人を包み込み、ディックは思わず目を閉じた。
 フェイリアが、召喚した精霊を解放し、それが本来あるべき世界へと送り返したのだ。
 風はほんの一瞬で止み、ディックが目を開けて最初に見たのはフェイリアの笑顔だった。
 それは、先刻までの狂気を孕んだ笑みではない。
 普段の、まるで妖精のような優しい笑顔だった。
 とりあえず、今のところは最悪の事態は避けられたらしい――
 ディックはほっと溜息をついた。


 陽はもうかなり西に傾いていて、朱く照らされた大地に二人の影が長く伸びている。
 二人とも、もう聖跡のことは口にしなかった。
 フェイリアは、いつもと同じように無邪気に笑っている。
 つい先刻、ディックに対して魔法を使おうとしたことなどまるで覚えていないかのように。
 しかしディックは、そんなフェイリアの様子に漠然とした不安を感じていた。
 フェイリアの心の奥底には、彼女自身も気付いていない闇の部分がある――と。
 先刻までのフェイリア、魔物と闘っている時のフェイリア、あれこそ闇に支配された彼女なのだ。
 いや、そういった心の中の闇は誰でも持っている。
 しかし…
 フェイリアの心の中の闇は、彼女の魔力と同様、比類ない強大なものに違いなかった。
 フェイリアは、自分の中の闇に気付いていないのだろうか。
 もしかしたら、その存在を知りながら、敢えて利用しようとしているのではないか。
 両親の復讐のために――
 本当にそうだとしたら、それは非常に危険な賭けだ、とディックは危惧する。
 考えることに集中するあまり、彼は自分がいつの間にか立ち止まっていたことに気付かなかった。
 フェイリアが数歩進んだところで振り返る。
 夕日に照らされた長い金髪が風になびき、それはまるで燃え上がる炎のように美しかった。
「…どうかしたの?」
「いや…、何でもない。」
 フェイリアは訝げにディックを見つめている。
 ディックは何となく視線を逸らした。
「兄さ…いや、ディケイド…」
「ん…?」
 ディックは、おやと思う。
 一緒に暮らすようになってから、フェイリアが彼を名前で呼んだことなどほとんどない。
「そんなに心配しないで。私は死なないわ、きっとここに帰ってくる」
 フェイリアの言葉に気負いは感じられない。
 しかし、その瞳には強い意志が秘められている。
「私…あなたのことが好きよ。たまに、夢見ることがある。あなたと結婚して、子供を産んで…幸せな家庭を築くの」
 正直、そんな生活に憧れる。
 だけど
 だけど…
「でもね、私にはまだ、やらなければならないことがあるの」
「…ああ」
 ディックは小さくうなずいた。
 もう、彼女を止めることはできない。
 だとしたら、彼にできることは待つだけだ。
 ディックは、彼女を信じることにした。
 この、美しい金髪の少女、愛しいフェイリア・ルゥ・ティーナを。



(ええ…と、それじゃあ…フェイリア・ルゥは…えぇえっ?)
 混乱した頭で、奈子は考える。
 訊きたいことはいくらでもあった。
 話を終えたフェイリアは、静かに目を伏せている。
「あんた…聖跡へ行ったことがあるのっ?」
 いまの話は、もう何年も前のことだ。
 フェイリアが聖跡へ行くために村を出たのなら、とっくに…。
 なんという偶然だろう。
 聖跡への転移に失敗して、そこで聖跡へ行ったことがある人間に出会うとは。
 いや、もしかすると偶然ではないのかもしれない。
 転移魔法の作用は、それくらい不安定なものだ。
 それにしても…あれ?
 ちょっと待てよ…?
(聖跡の中に入って、生きて還った者はいないんじゃなかったっけ?)
 少なくとも、世間の常識ではそうなっているはず。
 だとしたら、これは大変なことだ。
「実を言うと、昼間の連中は野盗なんかじゃないわ。そのフリをしていただけ。最初から私が狙いよ」
 不意にフェイリアが口を開いた。
「私が、聖跡から生還した数少ない人間の一人だから――」
 奈子は絶句する。
 やはりそうだったのだ。
 王国時代の強大な魔法技術の秘密を求めて、聖跡へと赴いた魔術師――。
 いったい、フェイリア・ルゥはそこで何を見たのだろう。
「最近はどこの国も、王国時代の遺跡の発掘に力を入れているわ。またあちこちで戦争が始まっているから、他国を凌駕する力が必要なのよ」
 なるほど、それで聖跡の秘密を知るフェイリアが狙われたのか…奈子はうなずく。
「最近、千年近くも行方がわからなかったレイナ・ディの剣が見つかったという噂もあるしね」
「へ、へぇ…」
 その言葉は不意打ちだった。
 奈子は声が裏返りそうになるのを必死にこらえて平静を装ったが、それでも冷や汗を隠しきれない。
 竜騎士レイナ・ディの剣――通称、無銘の剣は、いま奈子が持っている。
 だけどそれを人に知られるわけにはいかない。
 ソレアやファージに釘を刺されている。
 王国時代の竜騎士の剣、それは計り知れない価値を持つ。
 その存在を他人に知られたら、いろいろとやっかいなことになるのは明らかだ。
 奈子がレイナの剣を持っていることを知っているのは、いまのところソレアとファージ、そしてマイカラス国王ハルティ・ウェルをはじめとする数人だけだった。
「レ、レイナの剣のことはいいとして…、その…フェイリアは聖跡の中に…?」
 奈子は、話題をレイナの剣から聖跡に戻そうとした。
 聖跡の話に興味があったのも事実だ。
「もちろん行ったわ。聖跡こそ、王国時代の最大の力が封印されている遺跡ですもの」
「そ…それって大変なことじゃない!」
 奈子は興奮して叫ぶ。
「でも、そんな大変な話をどうしてアタシに? 先刻初めて会ったのに」
 本当なら、あまり人に知られてはいけないことではないのか?
 事実、昼間の男たちに襲われたのもそのことが原因なのだろう。
「それはね…」
 フェイリアが目をすぅっと細める。
 口元に、かすかな笑みを浮かべて。
「ナコ・ウェル。あなた、何もわけが分からずに殺されるのは嫌でしょう?」
「…え?」
 奈子には、フェイリアが何を言わんとしているのかわからなかった。
 でも、なんだかすごく物騒なことを言われたような気が…?
 奈子の顔に、緊張の色が浮かぶ。
「あ、あの…?」
 含みのある笑みを浮かべているフェイリアに、一瞬殺気を感じたのは気のせいだったろうか?
 フェイリアがゆっくりと立ち上がる。
 傍らに置いてあった剣を手に。
 反射的に奈子も立ち上がり、そして、気が付いた。
 そこにいるのが、彼女たち二人だけではないということに。
 周囲の森のそこかしこから、人の気配を感じる。
「これは…?」
「駄目ね、あなたちょっと鈍いわよ」
 狼狽して周囲を見回す奈子に向かって、フェイリアは言う。
 本当に、どうして気付かなかったのだろう。
 物音こそほとんどしないが、いまはこれほどはっきりと、多数の人間の存在を感じるというのに。
 いままでフェイリアの話に気を取られていたためだろう。
 気付かないうちに、取り囲まれていたのだ。
「こそこそしてないで、話があるなら出てきたらどう?」
 フェイリアの言葉は、周囲の森に向けられたものだ。
 その言葉に応えるように、武装した男たちが姿を現した。
 五人や十人ではない。
 ざっと見ただけでも四〜五十人はいる。
「これが、昼間の連中の本隊よ。こりない奴らね」
 見るからに追い剥ぎかなにかのようだった昼間の男たちと違い、今度の連中はもっと統制のとれた、軍人のようだった。
 だとすると、昼間のあれはカモフラージュなのだろう。
「私が何故狙われているのかもわからないのに、戦いに巻き込まれるなんて嫌でしょう? だから、あなたには話したの」
 ああそうか、先刻の台詞はそういう意味だったのか、と少し安心する。
 奈子は一瞬、フェイリアが敵になるのではないかと感じたのだ。
 それにしても…
 これはかなり、まずい状況ではないだろうか。
 四〜五十人の兵士たちが二人を幾重にも取り囲み、徐々にその包囲の輪を狭めてくる。
 困惑した様子の奈子をよそに、フェイリアは静かな笑みすら浮かべてその様子を見つめていた。
 一人の男が前に進み出てくる。
 周囲の兵士の様子や身に付けている物から推測するに、かなりの地位の人物らしい。
 どこかの正騎士だろうか。
 年齢は二十五〜六歳くらいだろう。
 見たところ職業軍人にしては背は人並みだし、体格はむしろ痩せている。
 しかし、その目つきは獲物を狙う猛禽のように鋭い。
「初めまして、フェイリア・ルゥ」
 よく通る声で、男は言った
(あ、結構いい声…)
 奈子が緊張感のない感想を洩らす。
「私は、サイファー・ディン。昼間は私の部下が失礼をしました。改めてお願いですが、我々に同行してはいただけませんか? 少々、お話を伺いたいのですが」
 サイファーと名乗ったこの男、口調は丁寧だが表情を見ればその本心は火を見るより明らかだった。
 否と言えば力尽くでも――である。
「話? 私は、あなた方が知りたいようなことなんて何も知らないわ」
「そんなことはないでしょう」
 フェイリアがきっぱりとはねつけても、サイファーは意に介する様子もない。
「聖跡に隠された秘密なんて私は知らないし、知っていても言うと思って?」
 フェイリアの口調には、どうも相手を挑発しているような響きがある。
 奈子ははらはらしながら二人のやりとりを見ていた。
「素直に話していただければ、余計な手間はかからないし、お互い怪我もせずに済むんですがね。もちろん、相応の謝礼もしますし?」
 ふん、と鼻を鳴らし、相手を小馬鹿にしたような笑みを浮かべるフェイリア。
 二人の間に緊張が高まってゆく。
 奈子は、風が頬をなでるのを感じた。
 どことなく、不自然な風だ。
 フェイリアを中心に渦を巻いている。
 口元には笑みを浮かべながらも、サイファーを睨み付けているフェイリアの横顔を見て、奈子ははっと気付いた。
 周囲に、何かぴりぴりとした『力』の存在を感じる。
 まるで、そこだけ空気の密度が高くなっているような。
 この雰囲気…知ってる。
 精霊魔法だ。
 フェイリアが、魔力の源となる精霊を召喚しているのだ。
 些細な魔法ならこんな準備は必要ない。
 自然界に普通に存在している精霊の力だけで事は足りる。
 それ以上の数の精霊を召喚することによって大きな力を行使する…『四大精霊の魔法』と呼ばれている珍しい能力だった。
「フェイリア…?」
 不安げな奈子に向かって、フェイリアはささやいた。
「ねぇ、ナコ・ウェル? もう一度私を助けてくれる気はある?」
「…五十対二なんて、無茶だと思う」
 奈子は素直な意見を述べた。
 奈子一人では十人を相手にするのも無理だろう。
「いいえ、その男だけでいいわ。残りは私がやるから。この中で手強いのは彼だけよ」
 フェイリアの口調には、あまり緊張感は感じられない。
 しかし奈子としては、その意見に素直に賛成はできなかった。
「いちばん強い奴の相手をアタシにやらせるのっ?」
「じゃあ、私の代わりに、その他大勢をまとめて相手にする方がいい?」
 フェイリアがからかうように言う。
 これでは、究極の選択だ。
 奈子は第三の選択を提案してみた。
「…大人しくついていくっていう選択肢はないの?」
 無論、それに対するフェイリアの答えは予想していたとおりのものだったが。
「それは無理ね。聞きたいことを聞き出した後は、生かしてはおかないでしょう。秘密は独り占めしたいでしょうから。それでもよければ?」
「…つまり、やるしかないってこと?」
 奈子は、腰の短剣の柄に手をかけながら言った。
「そうね。迷惑かけちゃうわね」
 奈子にとっては悲しいことに、その台詞は全然すまなそうに聞こえなかった。
 フェイリアはむしろ状況を楽しんでいるようにすら見える。
 そして、それまで手に持っていた長剣を鞘から抜いた。
 それは鋼というよりはまるで磁器のような、純白の刃だった。
「どうやら、交渉決裂のようだな。仕方ないが、力づくで連行させてもらう」
 サイファーも腰の剣に手をかけた。
 それを合図とするかのように、周囲の兵士たちもそろって抜刀する。
 奈子は、フェイリアとサイファーの間に入った。
 結局はフェイリアの言うとおりにするしかないらしい。
 徒手格闘を主とする奈子より、魔術師であるフェイリアの方が大勢を相手にするには向いているのだ。
 フェイリアが強力な魔法を用いるためにはこの男が邪魔だというのなら、奈子が抑えておくしかない。
 サイファーは姿勢を低くして、右手を剣の柄にかけている。
 それはまるで…
(居合い?)
 まさか…と思いつつも、左手はいつでも短剣を抜けるようにしておく。
 これまで見たことはないというだけで、この世界にも抜刀術がないとは言い切れない。
 突然、サイファーが左手を大きく振った。
 その手の中から、青い光が三本、矢のように飛び出す。
(避けきれない…!)
 奈子は一瞬も躊躇しなかった。
 放射状に放たれた三本の光の矢のうち、直撃するのは真ん中の一本だけだ。
 あとの二本はそれぞれ左右をかすめる軌道にある。
 それで多少の傷を負ったとしても、この際無視するしかない。
 真っ直ぐ奈子の胸をめがけて放たれた光の進路を塞ぐように、奈子は右腕で胸をブロックする。
 奈子はこの世界では『異質な』存在であり、それ故に魔法に対する耐性が一般人よりも高い。
 それほどの魔法でなければ、意識を集中することでダメージをかなり軽減できるはずだった。
 しかし、
 光の矢を腕で受け止めた瞬間、奈子は短い悲鳴を上げた。
 腕に、小さな短剣が突き刺さっている。
(やられたっ!)
 単なる魔法ではなかった。
 短剣を、魔法のエネルギーで包み込んで投げたのだ。
 魔法と思って防御すれば短剣で傷を負うし、短剣のつもりで盾や武器で受け止めれば魔法を防ぎきれない。
 顔や喉にでも命中しない限り、この攻撃そのものによるダメージなど致命的なものではないだろうが、相手に隙を作るには十分だった。
 奈子の一瞬の驚愕の隙をついて、サイファーが間合いを詰める。
 剣の間合いに入った瞬間、居合いの達人にも匹敵する速度で剣を抜いた。
 硬い金属がぶつかり合う音が響く。
 奈子が左手で抜いた短剣が、胴を薙ごうとしたサイファーの剣を受け止めている。
 ぎりぎり、剣が奈子に触れる数ミリ手前だった。
 間に合ったのは奇跡に近い…と自分でも思う。
 その攻撃があることを予測していなかったら、今頃まっぷたつだった。
 しかし、サイファーの攻撃はそれで終わらなかった。
 なにも持っていなかったはずの左手に、突然剣が現れる。
 奈子は後ろに飛び退く。
 その肩に、焼けるような痛みが走った。
 血飛沫が飛び散る。
 その後を追うように、また光をまとった短剣が放たれる。
 たたみかける攻撃にバランスを崩しながらも、奈子はサイドステップで短剣をかわす。
 しかし、その動きを読んでいたかのように、青い、灼熱の光線が奈子の腹部を直撃した。
 その衝撃で奈子の身体は数メートル吹き飛ばされ、地面に転がる。
(まずい…!)
 ダメージは小さくなかった。
 それにしても、なんという動きだろう。
 奈子もスピードには自信があったが、この相手は桁違いだ。
 この動きで立て続けにこんな多彩な攻撃を繰り出されたら、かわしきれるものではない。
 相手に先手をとられたのが痛かった。
 動きで上回る敵にこれだけ矢継ぎ早に攻撃されては、一度防戦にまわると反撃の糸口がつかめない。
(まずい…)
 サイファーが剣を構える。
(とどめに来る気だ…)
 奈子はまだ、地面にうずくまっている。
 かすり傷とはいえないが、ただちに命に関わるというほどの怪我でもない。
 速度を重視するために、一撃の威力を犠牲にしているのだろう。
 しかし、それでもすぐには立てなかった。
 呼吸を整える時間が欲しい。
 もちろん相手は、そんな余裕を与える気など毛頭ない。
 サイファーが飛び込んでくる。
 両手に剣を構えている。
 右か、左か。
 たとえそれがわかったところで、今の奈子にはそれをかわす力はない。
(このままじゃ…)
 殺される!
 心臓が、きゅうっと締め付けられるような感覚だ。
 それでいてなお、血が騒いでいる。
 命ぎりぎりの緊張感に、興奮している自分がいる。
 目にも止まらぬはずのサイファーの動きが、ひどくゆっくりと見えた。
 身体は動かなくとも、考える時間だけはあった。
 何かできないか…。
 立てなくても、あの攻撃をかわせなくても。
 手くらいは動かせないか。
 手くらいは…。
「…!」
 短い悲鳴が上がった。
 奈子ではない、男の声だ。
 サイファーの手から剣が落ちる。
 剣が、サイファーの肩を貫いていた。
 肩当てと胸当てをつなぐ、金属製の留め金を砕いて。
 厚い鋼の肩当てごと。
 奈子の手の中に、剣があった。
 その刃は向こうが透けて見えるほどに薄く、それ故に、並の剣が刃こぼれするほど硬い竜の鱗ですらも、やすやすと切り裂く。
 通称、無銘の剣――
 千年前の時代の伝説の竜騎士、レイナ・ディ・デューンの剣。
 数ある竜騎士の魔剣の中でも、最強と謳われる剣。
 奈子はひょんなことから、この剣を受け継ぐこととなった。
 ファージやソレアから、人前で使ってはいけないと言われていたが、こうするしかない。
 普段は、魔法のカードの中に封じてある剣を使うしか…。
 一見、剣を持っていないと見せかけて、次の瞬間には魔法で剣を呼び出す――先ほどサイファーが用いたのと同じ戦法だ。
 一瞬の沈黙の後、サイファーは信じられないといった表情で肩を押さえて飛び退く。
 指の隙間から、血が流れだしていた。
「油断した…」
 口元に、自嘲気味の笑みが浮かぶ。
「はっ!」
 大きく息を吐いて奈子は立ち上がった。
 大丈夫…意識を集中すればまだ動ける。
 サイファーに向かって剣を構えて、そのときはじめて周囲が妙に明るいことに気付いた。
 先刻までの、ささやかな魔法の明かりと月明かりだけではない。
 森が、炎に包まれていた。
 奈子とフェイリアを取り囲んでいた数十人の兵士たちが、炎に巻かれている。
 中心に、フェイリアが立っている。
 紅蓮の炎に照らされて、その美しい金髪もまた燃えさかる炎のように見えた。
 フェイリアが手にした剣をかざすと、燃えさかる炎はまるで操られるかのように、生き物のように兵たちを飲み込む。
(すっごい…今度から、エイカって呼んでやろ)
 その様子を横目で一瞥した奈子は、ふと、以前由維に勧められて読んだファンタジー小説のヒロインを思いだした。
 とにかく、これで…
「形勢逆転?」
 奈子はにやっと笑うと、サイファーに斬りかかった。
 サイファーは剣でそれを受け止めようとしたが、なんの抵抗もなくその刃を切り落とされて驚愕する。
 地面に転がって剣を避け、牽制に光の短剣を投げて奈子から距離をとる。
「くぅ…」
 サイファーは、腕に鳥肌が立つのを感じた。
 ほんの一瞬のこととはいえ、近頃これほどの恐怖を感じたことはない。
 彼の状況判断は一瞬だった。
 自分は手傷を負っているし、武器も尽きた。
 部下も、かなりの数が炎に巻かれ、怯えて戦意を失っている者も少なくない。
「退けっ! 退却だ!」
 その声を待っていたかのように、兵士たちがばらばらと逃げ出す。
 サイファーはそれを見ると、最後の置きみやげとばかりにもう一度魔法を放った。
 今度は奈子も余裕を持って、剣でそれを受け止める。
 レイナの剣は切れ味が鋭いだけではない。
 王国時代の最高の魔剣は、およそどんな魔法攻撃もその刃で受け止め、無効にしてしまえるように思えた。
 しかし奈子は魔法の強い光に目が眩んでしまい、ぎゅっと瞼を閉じる。
 一瞬後、奈子が目を開けたときには、サイファーの姿は見えなくなっていた。


「ふぅ…」
 大きく息をついて地面に座り込んだ奈子は、フェイリアに気付かれないうちにと剣をしまう。
 そのときになってやっと、受けた傷の痛みを思い出した。
「い…痛ったぁ…」
 闘っている最中は精神を集中していることと、アドレナリンの濃度が高まるために忘れているのだ。
(くぅぅ…ちょっち、マジ、きついわ…コレ)
 肩と腹の傷を押さえて、奈子はうずくまる。
 腕の傷だって、まだ出血している。
(早いとこ、手当てした方がいいな…)
 いや、その前に。
 フェイリアは?
 涙を浮かべた目で、奈子はフェイリアを探す。
 彼女は少し離れたところに立っていた。
 剣を一振りすると、燃えさかっていた炎はそれに応えるようにたちまちのうちに消える。
 そうして、フェイリアは奈子の方を振り向いた。
 かすかな笑みを浮かべて。
「あなたって、思っていたよりずっと強いわね。ただのアクセサリかと思っていたけど、その腕輪…ひょっとして本物?」
 フェイリアが言っているのは、奈子が左手首にはめている銀の腕輪のことだ。
 それは、マイカラス王国の紋章が刻まれた、騎士の証。
 マイカラスに限らずどこの国でも、それが奈子のような成人もしていない娘に与えられることは希有だ。
 ただの女の子のアクセサリだと思ったフェイリアの判断は妥当だろう。
「本物だよ。一応…ね」
 傷の痛みをこらえながら、奈子は無理に笑みを浮かべる。
「…フェイリアこそ、すごい魔法じゃない。精霊魔法でこれだけのことができる魔術師なんて…」
 滅多にいない。
 これなら、ファージにも匹敵するかもしれない。
 しかも精霊魔法で。
 ファージの力は極めて強力なものだが、もともと精霊魔法よりも戦闘向きとされる上位魔法を使うことが多い。
 精霊魔法では威力不足が否めないからだ。
 上位魔法で、しかも魔力の不足をカードで補うことも多いのだから、ファージの力が強いのは当然のこと。
 精霊魔法でそれに匹敵する力を持つとなると、フェイリアの力はとんでもないことになる。
 …あ、そういえば知り合いに一人いたっけなぁ。
 強力な、精霊魔法の使い手が。
 奈子はふと、あの赤毛の傭兵のことを思い出す。
 あれ、待てよ…。
 そのときなにか、奈子の記憶に引っかかることがあった。
 ――なんだっけ?
「天と地の精霊、力を司る者たちよ――
 我が呼びかけに応え、我の元に集え」
 奈子が記憶の引き出しを探っていると、フェイリアが再び呪文を唱え始めた。
 魔力の源となる精霊が、フェイリアの周囲に集まりだす。
「フェイリア…?」
 奈子は怪訝そうな表情をする。
 まだ、敵が残っているのだろうか?
 しかし、奈子はなんの気配も感じないし、フェイリアも周囲に注意を払っている様子はない。
 彼女の目は、真っ直ぐに奈子を見ていた。
 ザザ…
 自然にはあり得ない密度まで精霊の力が高まり、周囲の樹々の梢がざわめく。
 フェイリアが、これまでにない鋭い目をしていた。
「ナコ・ウェル、あなたの――無銘の剣を譲ってもらえないかしら?」
 殺気のこもった笑みを浮かべて、フェイリアは言った。

 やはり、見られていたのか――
 奈子の額から汗が噴き出す。
 ほんの一瞬のことだったのに、あの剣の正体を見破られてしまうとは…。
「じ、冗談でしょう?」
 奈子は戸惑いがちに言う。
 この剣は、簡単に人に譲れるようなものではない。
 そのくらい、フェイリアにだってわかっているはずだった。
 それでいてなお、剣を譲れという。
 それはつまり…
「何故あなたが無銘の剣を持っているのか…そんなことはこの際どうでもいい。私にはあの剣が必要なのよ。ずっと探していたわ。何年も、何年も――」
「だからって、あげられるわけがないじゃない。これはアタシにとっても大切な物だもの」
 傷の痛みに耐えながら、奈子は身体を起こした。
 このまま、最悪の事態に突入する可能性も否定できない。
 すぐ、動けるようにしておく必要があった。
「あなたの都合なんて、知ったことではないわ。剣を渡しなさい。死にたくなければ…ね」
 フェイリアはまったく動いていないのに、奈子は何かが顔に触れたような気がした。
 手を触れてみると、頬が切られて血が流れている。
「フェイリア!」
 不可視の『力』の動きを感じた。
 フェイリアの周囲から、殺気をはらんだ魔力が放たれる。
 精一杯の力で、奈子は跳んだ。
 一瞬前まで奈子が立っていた地面から、炎が吹き上がる。
 風が渦を巻き、炎を煽る。
 その風はまた、目に見えない無数の刃と化して奈子の身体を切り刻んだ。
「…!」
 一瞬、フェイリアと目が合う。
 間違いない。
 殺す気だ。
 なんの躊躇もなく。
(そんな…)
 傷ついた身体にむち打って、奈子は走り出した。
 この場は、とりあえず逃げた方がいい。
 足なら奈子の方がずっと速いのだから。
 背後から、かすかな声が聞こえた。
「この森の中で、私から逃げられると思って? 苦しみが長くなるだけよ」
 それでも、奈子は走るしかなかった。


 森の中を走り続けた。
 怪我のためか、気が急くわりにはなかなか進まない。
 地面が妙に柔らかく、足が取られるようだ。
 空気がなんとなく濃密で、身体にまとわりつくように感じる。
 それはまるで、水の中で走っているような。
 それでも逃げ続ける。
 フェイリアが放った魔法の矢が、機銃掃射のように追ってくる。
 横に跳んでそれをかわそうとした奈子は、不意にバランスを崩して倒れた。
 なにかに足首をつかまれたようだった。
 見ると、そこにかたまって生えていたシダに似た植物が、足にからみついている。
 その草を取ろうとして、奈子は小さく悲鳴を上げた。
 ただの草にしか見えないそれが、まるで意志を持った手のように奈子を捕まえているのだと気付いたから。
 恐怖に駆られて、力任せにそのシダを引きちぎる。
 立ち上がるために地面に手をつくと、今度はその手に周囲の草がからみついてきた。
「ひっ!」
 これではまるでオカルト映画だ。
 顔を引きつらせながら立ち上がった奈子は、大きな樹々が目の前に密集して進路を塞いでいることに気付いた。
 ほんの一瞬前まで、そんなところに樹など生えていなかったはずなのに。
「…な、なによ! これ!」
 奈子は方向を変えて走り出した。
 周囲の樹はざわざわと枝を揺らし、奈子の進路を妨害する。
 棘の生えた樹の枝が、顔や手を傷つける。
 奈子は、それでも足を止めなかった。
 本人は意識していないが、もしかしたら走りながら悲鳴を上げていたかもしれない。
(これが…)
 樹々の間に、わずかな隙間を見いだして走り続ける。
(これが…)
 走ってさえいれば、フェイリアは追いつけない。
 そのことだけを唯一の救いとして。
(これが、精霊魔法の力なのっ?)
 上位魔法は普通、魔力を物理的なエネルギーに変換して目標を攻撃する。
 それは単純明快で、直接的な効果をもたらす。
 同じことを精霊魔法でやろうとしても、フェイリアのように精霊を異世界から召喚しない限り、絶対的なエネルギー量が足りない。
 それが、精霊魔法よりも上位魔法が戦闘に向いている理由であり、それ故に『上位』魔法なのだ。
 だが、いま奈子を襲っているこれは、まるで次元の違うものだった。
 単純なエネルギーの比較では、確かに上位魔法が上だろう。
 しかしこれは、まったく別の――力だった。
 樹も、草も、土も、そして空気も。
 この森のすべてが、フェイリアに味方している。
 この森のすべてが、奈子の敵だった。
 無機物からも、奈子に対する敵意を感じる。
 フェイリアの意志がのりうつったかのように。
(こんなの…)
 奈子は泣きながら走る。
 なにがあっても、足を止めることはできない。
 この森から逃げなければ…ただそれだけを思いながら。
 ここにいる限り、世界が奈子の敵なのだ。
(こんなの、勝てるはずがない…!)
 不意に、樹上から大きな黒い影が飛びかかってきた。
 力まかせに奈子を地面に引きずり倒す。
 それは、豹によく似た獣。
 左肩に鈍い痛みが走る。
 奈子に覆い被さった獣は、奈子の肩に牙を突き立てたまま、首を大きく左右に振った。
 牙が深く喰い込み、肉が食いちぎられそうになる。
 悲鳴はもう声にならなかった。
 なんとか押しのけようとしても、力で野生の獣にかなうはずもない。
 ゴリッ!
 肉食獣の強靱な顎が、奈子の鎖骨を噛み砕いた。
(う…わぁぁぁっっっ!)
 奈子は無我夢中で、右手の人差し指と中指をそろえて、獣の目に突き入れた。
 ぐちゃ…血の混じった生温かい粘液があふれ出す。
 甲高い叫びを上げて、口を離す獣。
 それでも奈子は指を抜かない。
 指を曲げて、中の組織を掻き出すように手首をひねる。
 上になったまま暴れる獣の長い爪が、奈子の服と皮膚を引き裂く。
(…剣よ!)
 指を引き抜くと同時に、強く念じる。
 奈子の手の中に、剣が現れた。
 獣の、断末魔の咆哮が響く。
 それもすぐに止み、森の中は一瞬静寂に包まれた。
 ずるっ…死体となった獣の下から奈子が這い出し、よろよろと立ち上がった。
 自分が殺した獣を見下ろす。
 奈子の手も、顔も、そして身体中、べっとりと血で汚れていた。
 獣も、目の周りと首の周りが真っ赤に染まっている。
 どこまでが自分の血で、どれが返り血なのかもわからない。
(どっちでも同じか…)
 獣の血と奈子の血が混じり合っている。
「…アタシも、獣だよな…こんなの、年頃の女の子のカッコじゃないよ…。は…はは…」
 いつだったか、望んだことがある。
 獣になりたい、と。
 血に飢えた、一頭の獣に。
 奈子の闘いには、人の心など邪魔でしかなかった。
「はは…は…は…」
 乾いた笑い声を上げながらよろよろと歩きだした奈子は、まだ、手に血塗れの剣を握ったままなのを思い出す。
(…そう…だ)
 無銘の剣の力を借りれば、フェイリアにだって勝てるはずだ。
 こんな、傷だらけになって逃げ回らなくたっていいんだ。
 ――だけど、レイナの剣の力は強すぎて、アタシには加減ができない…。
(だったら…いっそのこと…)
 ――殺してしまおうか。
 そんな考えが当たり前のことのように浮かぶ自分にショックを受ける。
 ――冗談じゃない。
 そんなこと…できるわけがない。
(だけど…)
 だけどフェイリアは、自分を殺そうとしている。
 正当防衛ではないか?
 それは人を殺す理由にはならないのか?
(いや、ダメだ、そんなこと…)
 きっと…
 たとえ誰が許しても、
 たとえ由維が許してくれても、
 きっと、自分を許せなくなる。
 奈子は剣をしまった。
 フェイリアに対して、決してこれを抜かないと誓って。
 そして、またよろよろと歩き出した。


 何処をどう歩いたのかも定かではない。
 ただ、進まなければならないという衝動に従って歩き続ける。
 いつの間にか、森は静まり返っていた。
 もう樹も、草も、奈子の歩みを妨げない。
 朦朧としていた奈子がそのことに気付いたとき、
 そこから先に道はなかった。
 深い谷底へつづく断崖絶壁。
 これ以上進むことはできない。
(やれやれ…)
 奈子は絶望的な気持ちで谷底を見下ろした。
 月明かりではとても底までは見えない。
 ただ、足元に真っ暗な空間が広がっているだけのように見える。
(…罠だったのか…)
 森の樹々がどんなに邪魔をしても、必ずどこかに抜け道があった。
 最初から、奈子を行き止まりに誘い込んでいたのだ。
 案の定――
 振り返ると、そこにフェイリアがいた。
 どうりで、いつの間にか追ってくる姿が見えなくなったはずだ。
 彼女はここで待っているだけでよかったのだ。
「ずいぶん遅かったのね。待ちくたびれたわ」
 フェイリアはこれ見よがしにあくびなどしてみせる。
「もう逃げられないわ。道はないし、第一、その力も残っていないでしょう。 どう、気は変わらない?」
 奈子は黙ってフェイリアを見つめた。
 これからどうしたらいいのかわからないが、剣を渡してはいけないことだけは確かだった。
「それにしても、ひどい格好ね」
 傷だらけ、血塗れの奈子を見て、フェイリアは笑う。
「まだ、手当てすれば助かるわよ? いまなら特別サービス、私が傷跡も残らないように治してあげる」
「…ふん」
「それが答え? そんなに死にたいんだ?」
 フェイリアの周囲に、また精霊の力が集まりはじめる。
 奈子は意識のもうろうとした表情で、しかし、かすかな笑みを浮かべていた。
「…あんたの手は借りないよ。まだ、逃げ道はある…もう走る必要もないんだ」
 一瞬怪訝そうな表情をしたフェイリアを無視して、奈子は廻れ右をする。
 そして、そのまま崖から身を躍らせた。
「…ばかなっ!」
 フェイリアは慌てて崖に駆け寄る。
 下は闇に包まれ、奈子の姿は見えない。
「死ぬ気? 諦めたの…?」
 フェイリアは別に気にしなかった。
 それならそれで、あとで下に降りて剣を回収すればいい。
「どうせ結果は同じなんだから、さっさと剣を渡せばよかったのよ。そうすれば命くらいは助けてあげたわ」
 つまらなそうにつぶやいたとき、崖のはるか下の方で一瞬なにかが光った。
 それを見たフェイリアの表情が曇る。
(気配が…消えた?)
 まさか、転移魔法?
 そんなはずはない。
 ナコ・ウェルが転移魔法を使えることは、先刻の話でわかっていた。
 だから、このあたり一帯には転移などできないように結界を張っておいたのに――?
 確かにフェイリアは、空間転移の魔法を封じるための結界を張っていた。
 しかし当然のことながら、異なる次元への転移魔法などというものが存在するとは思いもよらなかった。



 奈子の家の近くにある、奏珠別公園の林の中――
 一人の少女が、雪の上に大の字に倒れていた。
 周囲の雪が、朱に染まっている。
 もっとも、いまは深夜だからそれを見つけて騒ぐ人間もいない。
 奈子は、空を見上げて大きな溜息をついた。
 今夜は月が明るくて、星はあまり見えない。
 雪の上に寝ているので背中が冷たい。
 それとも、失血のために寒く感じるのだろうか。
(アタシってば、向こうに行くたびに大怪我してるよな…)
 奈子がいま倒れている場所を、朝になって誰かが見つけたら大騒ぎになるだろう。
 半端な出血ではない。
 それでも、ファージにもらった治癒の魔法のカードを使えば、命に関わるというほどではなさそうだ。
 度重なる負傷の結果、そのへんの加減はなんとなくわかるようになっていた。
 だからといって、傷の痛みがやわらぐわけでもないのだが。
 しかしその痛みのおかげで、奈子は意識を保っていられる。
 こんなところで眠ってしまったら、朝までに凍死するのは明らかだった。
 傷の痛みなんて、いくらでも我慢できる。
 それよりも――
 いまは、心が痛かった。
 涙が一筋、頬を伝う。
(どうして…)
 どうして、フェイリアと争わなければならないのか。
 竜騎士の剣は、確かに貴重な品だろう。
 それにしても、ああも簡単に人の心を変えてしまうのか――。
(いや…待てよ…)
 そういえば、妙なことを言っていたっけ。
『私には、無銘の剣が必要なのよ。ずっと探していたわ。何年も、何年も』
 そうだ、そんなことを言っていた。
 フェイリアは、両親の仇を討つために『力』を欲していたのだ。
 レイナの剣が、彼女の求めていた力だというのだろうか。


 家に帰った奈子は、まず風呂場へ行って湯船に熱い湯を張った。
 血で汚れ、ぼろぼろになった服を脱いで鏡の前に立つ。
 身体じゅう、傷だらけだ。
(アタシ…)
 魔法で傷はふさいだとはいえ、湯船に身を沈めると熱い湯は傷にしみた。
(何やってるんだろう、アタシ…)
 涙があふれてきた。
 傷の痛みのためではない。
 涙を隠すように、奈子は頭まで湯に潜った。
(アタシ、なんのために闘ってるんだろう。こんなに、傷だらけになって…)
 何故、憎くもない相手と傷つけあわなければならないのだろう。
 どうして、格闘技なんてやっているんだろう――。
 空手を習いはじめたきっかけは、もう憶えていない。
 おそらく、特別な理由があったわけでもないのだろう。
 小さい頃から、身体を動かすことは好きだった。
(別に、格闘技でなくたっていいンじゃない…?)
 陸上だって、球技だって、大抵のスポーツは得意だ。
 空手なんて、やめちゃえばいい。
 闘う技術を身に付けているから、こんなことになる。
(でも…)
 そんなこと、できっこないのはわかっている。
 どうして格闘技が好きなのかも、本当はわかっている。
 勝つことが、快感だから。
 自分が、他人より優れていると実感すること、それは人にとって悦びだ。
 それには球技などよりも、格闘技の方がいい。
 アタシに倒されて足元にはいつくばる敵の姿は、優越感をくすぐる。
 だから格闘技が好き。
 でも、そのことを認めるのは少し辛い。
 自分が、そんなヤな人間だなんて。
 それでも、人に負けるのは嫌い。
 フェイリアに一方的にやられてことも、すごく悔しい。
 自分が人よりも劣る人間だなんて思いたくない。
 別に、自分が誰よりも強いなんて自惚れてるわけじゃないけど、でもやっぱり負けることは悔しい。
 フェイリアにだって、仕返ししてやりたい。
 彼女のこと、憎いわけじゃない。
 でも、負けるのは嫌い…。


 ややのぼせながら風呂から上がった奈子は、バスタオルを巻いただけの姿で冷蔵庫からスポーツドリンクの缶を取り出し、自分の部屋に戻った。
 裸のまま、ベッドにごろりと横になる。
(なんだかなぁ…)
 この倦怠感はなんだろう。
 由維がいれば、少しは気も晴れるのに。
 一、二年生はまだ春休みではないから、そう毎日来るわけにもいかないのだろう。
(だめだな、アタシ…)
 一人でいると、すぐ落ち込んでしまう。
「もう、寝ちゃお」
 奈子は裸のまま、ベッドにもぐり込んだ。
 体力を使い果たしているから、すぐに眠くなる。
 うつらうつらとしながら、フェイリアのことを思い出していた。
 レイナの剣をほしがるフェイリアの思いもわかる。
 殺された両親の仇を討つため、より強い武器が必要なのだ。
 しかし、何故この剣でなければならないのか。
 いったい、フェイリアの仇とはなんなのだろう。
 フェイリアは、聖跡から生きて還ってきたという。
 それだけの力があるのなら…。
 
 力を求めて聖跡へと旅立ったフェイリア。
 そしてサイファーたちも、聖跡の秘密を求めている。
 いったい、聖跡には何があるというのだろう。
(やっぱり、聖跡へ行かなきゃ…)
 最初のような、単なる好奇心ではない。
 聖跡へ行かなければならない。
 それも、できるだけ早く…。
 まるで、目に見えない誰かがそう促しているような…。
 そんな気がする。



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