その大山脈は、広大な大陸のほぼ中央を南北に走っている。
山脈より西は何処までも砂漠が広がっており、人は住んでいないという。
大陸の東半分だけが、現在、人間に与えられた土地だった。
山脈の東には深い森が広がっているが、ソレアの家から持ってきた地図を見ると、その中にぽっかりと、まるで森を丸く切り取ったような荒野がある。
地図が正しいなら、その直径は二〜三百キロはあるだろうか。
そこに、人は住んでいない。
獣も、鳥もいない。
一本の樹も、雑草すら生えていない。
完全な――死の世界。
その中心に、聖跡はあるはずだった。
奈子は一人、荒野を歩いている。
地平線の向こうに、大陸を分断する中央山脈がそびえている。
他に何も見えるものはない。
墓所をこの地に築くことは、エモン・レーナの遺志だったという。
当時はこの一帯も森が広がっていたらしいが、トリニアの王都マルスティアから千キロ以上も離れたこんな辺境の地に、なぜ…?
いまとなってはその理由はわからない。
エモン・レーナの死から千五百年が過ぎ、周囲の様子はすっかり変わってしまったが、聖跡だけは変わらずにそこにあった。
周囲に広がるのは、何もない荒野。
それなりの装備をしなければ、荒野を越えて聖跡にたどり着くことも難しいだろう。
なんの目印もなく、それでいて魔力の干渉が大きいこの地では、転移の魔法も容易ではない。
それ故に、奈子もまた少しばかり狙いを外してしまっていた。
家に戻ってから数日間はおとなしく怪我の治療と体力の回復に専念していたのだが、どうしても聖跡へ行くという衝動を抑えきれなかった。
動くのに支障がない程度に回復すると、奈子はいてもたってもいられず、またこの世界へとやってきた。
しかし、ただでさえ精度の悪い奈子の転移では、地図で見ただけの場所に正確にたどり着くのは難しかったようだ。
見渡す限り土と岩だけの荒野の真ん中に放り出された奈子は、太陽の位置と彼方に見える山脈の地形から、聖跡の方角の見当をつけて歩いていた。
それにしても、どうしてここにはこんな不毛の荒野が広がっているのだろう。
別に、雨が降らなくて砂漠化したわけではない。
実際、百数十キロ離れれば豊かな森が広がっているのだ。
地面もいまは乾いているが、土の部分を少し掘れば十分な湿り気がある。
それなのに、動物も、植物も、土の中の虫もいない。
おそらく、聖跡の魔力が何らかの影響を及ぼしているのだろう。
なんの目標物もないためどれほど歩いたのかもよくわからないが、半日休まずに歩き続けて、ようやく遠くに人工の建築物を認めた。
「聖跡…あれが、エモン・レーナの墓所…」
やっと、ここまで来た。
口元がかすかにほころぶ。
もう一息、と気合いを入れ直して歩きだした奈子だったが、やがて、小さく驚きの声を上げて立ち止まった。
すぐ目の前の地面に、足跡がある。
人の足跡と、蹄の跡。
ひとつやふたつではない。
何十、何百という集団のものだ。
真っ直ぐに、聖跡へと向かっている。
まだ新しい。
足跡の輪郭が鮮明なところを見ると、まだ数時間と経ってはいないのではないだろうか。
じっと足跡を観察していた奈子は、顔を上げて聖跡を見つめた。
誰か、奈子のすぐ前に聖跡へ向かった者たちがいる。
そして――
ここには、戻ってきた足跡はひとつもなかった。
荒野の中でそこだけ、石畳の舗装がなされている。
直径百メートルちょっとの八角形の形に。
その中心部に、王国時代の神殿を思わせる様式の建物がある。
建物そのものは、それほど大きなものではない。
以前訪れたレイナ・ディの墓所がそうであったように、ここも地上よりも地下の広がりの方が大きいのかもしれない。
レイナの墓所や、他の王国時代後期の遺跡と比べると建築技術ではやや見劣りがするが、それらよりも五百年近く古い時代のものなのだから仕方がない。
しかしそれでも、王国時代の遺跡の例にもれず、石造りの建造物にはこれっぽちも風化の痕がなかった。
いまでは失われた、高度な魔法によって護られているのだ。
この墓所は、千五百年前から変わらぬ姿でここにある。
中心部の建物を目指していた奈子は、その前に倒れている人の姿を発見して駆け寄った。
建物の中からそこまで、血のあとが続いている。
それは二十五歳くらいの男で、奈子はその顔に見覚えがあった。
「サイファー・ディン…?」
間違いない。
数日前、奈子が闘ったサイファーだ。
胸から腹にかけて、大きな刀傷がある。
この前とは違い、身に付けているものには、どこかの国か騎士団のものと思われる紋章があった。
もちろん、奈子には見覚えのないものだ。
サイファーの首に、指を当ててみる。
「…!」
まだ、生きていた。
迷わず、治癒の魔法のカードを取り出して手当てをする。
ほどなくして、サイファーは目を開けた。
「…生きてる…のか? 聖跡の中に入って、生きて外に出られたとは…。国に帰ったら自慢できるな…」
ぼんやりとした様子でつぶやいたサイファーは、そのときになってようやく目の前にいる人物に気が付いた。
「き、貴様は…何故ここにいる?」
信じられないといった様子で目を見開くが、まあそれも無理はあるまい。
もっとも、それについては奈子も同様だった。
「それはこっちの台詞よ。なんでこんなところにいるの? しかも、一人じゃないんでしょう?」
サイファーはしばらく奈子を睨んでいたが、やがて口を開いた。
「聖跡に調査隊を派遣することはずいぶん前から決まっていたことだ。聖跡についての詳しい情報を得るために、フェイリア・ルゥを追っていたのだが…。あの女も…一緒なのか?」
奈子は首を左右に振って、それから、いちばん気になっていたことを訊いた。
「いったい、聖跡の中で何があったの?」
「その前に…貴様、水を持っていないか?」
奈子がスポーツドリンクのペットボトルを渡すと、上体を起こしたサイファーはうまそうに飲み干した。
「クレイン・ファ・トームさ。聖跡の番人だよ。伝説の通りだったな…」
袖で口元をぬぐいながら話し出す。
「とんでもない強さだった。竜騎士の力が失われて千年近く、俺たちは真の竜騎士の力がどれほどのものなのか、すっかり忘れていたんだな…。兵は三百人以上もいたというのに…」
いったん言葉を切って、周囲を見回した。
「…戻って来れたのは、俺だけか。他に誰もいなかったか?」
「少なくとも、アタシは見かけなかった」
奈子は首を振る。
「今度は貴様が話す番だ。貴様は何者だ? 何故ここにいる?」
一瞬返答につまった。
さて、なんと説明すればいいのだろう。
「…そういえば、名前も言ってなかったっけね。ナコ・ウェル…よ」
奈子が左手でぽりぽりと頬をかく。
その様子を見たサイファーの眉がぴくりと動いた。
奈子の左手首に気付いたのだ。
「騎士…なのか? 貴様のような小娘が?」
小娘、と言われて奈子は少しばかりむっとした顔になる。
「その小娘にやられて逃げ出したくせに、なに言ってンの! これでもマイカラスの騎士だよ、一応…ね」
サイファーは軽く首をかしげる。
「マイカラス…、大陸東端近くの小国だったか? 小勢ながらも兵の強さはなかなかのもの…と聞いた覚えがあるが、こんな小娘が騎士だと?」
「そう言うあんたは何者よ?」
二度も「小娘」呼ばわりされて、奈子は唇を尖らせる。
「見たところ、一応騎士らしいけど?」
無論、奈子は相手を挑発してそう言ったのだが、効果てきめん、サイファーはたちまち気分を害した様子だった。
「貴様、この紋章を見てわからんのかっ!」
声を荒げて、左手首の金色の腕輪を奈子の顔の前に突き出す。
それは見事な細工で、それを持つ者の地位の高さを推測するには十分だったが、当然のことながら奈子には見覚えのない紋章だ。
「知らない、見たことない」
奈子は正直に答えた。
この世界を訪れるようになってまだ半年ちょっとの奈子は、マイカラス王国周辺以外の地理にはとんと疎いのだが、そんな事情を知らないサイファーは侮辱されたと感じたようだ。
「貴様ぁっ! アルトゥル王国の赤旗将軍である、このサイファー・ディン・セイルガートを知らんのかっ?」
サイファーは叫んで立ち上がった。
「なんだ、ずいぶんと元気じゃん」
奈子は笑う。
アルトゥル王国…さすがにその名は奈子も聞き覚えがあった。
たしか、大陸南西部の広い地域を支配する大国だ。
六年前のハシュハルド侵攻には失敗したものの、今なおその勢力は大陸有数だった。
「へぇ、これがアルトゥルの騎士団の紋章か、初めて見た。あんたってえらい人なんだねぇ」
「無知な娘だな…」
サイファーは呆れたようにつぶやき、また腰を下ろす。
そうして、訝しげな顔で奈子を見た。
「何故、助けた?」
「え?」
不意の問いに、奈子は驚いたような声を出す。
一瞬、なにを言われているのか理解できなかった。
「何故、敵である俺を助けた?」
「ああ、そのこと…」
サイファーの言わんとすることはわかったが、その答えはすぐには出てこなかった。
そういえば、何故だろう…?
奈子は困ったような顔で考える。
「殺す理由がないから…じゃダメ? アタシ、人が死ぬところを見るのって嫌いなんだ」
「そんな理由があるかっ!」
サイファーが叫ぶ。
彼にしてみれば無理もないことだった。
奈子の答えはどう考えても、戦を生業とするはずの騎士の台詞ではない。
しかしそう言われても、奈子としては困ってしまう。
多分、いまのが本心だ。
目の前に死にそうな者がいて、でも、まだ助けることができる――できるならば助けてやりたいと思うのが、人として自然な感情ではないか?
奈子だって、憎い相手を殺してやりたいと思うこともある。
そうして、実際に殺した相手がいる。
しかし、サイファーには憎むだけの理由がない。
たしかに、一度は刃を交えた相手だ。
危うく、殺されるところでもあった。
それでも憎しみがわかないのは、最後には引き分けに持ち込めたためだろうか。
いずれにしても、サイファーには理解してもらえない理由らしい。
「…ダメ? じゃあ…あんたのこと生かしておいて、聖跡の様子を聞き出したかったってことでどう? これなら理由として文句なしでしょ?」
それでもサイファーは、やや釈然としない表情を見せている。
「おかしな奴だな、貴様は」
どこか呆れたような口調だ。
「うん、よく言われる」
それは仕方がない。
「それでよく騎士になれたものだ」
呆れているのか感心しているのかわからないような口調で言う。
そのまましばらく黙って、ぽつりとつぶやいた。
「貴様、この中に入るつもりか?」
「うん…そのつもり」
「人が死ぬのを見るのは嫌いといったな? だったら止めておいた方がいい」
奈子にも、言わんとすることはすぐにわかった。
三百人からの兵が中に入り、戻ってきたのは一人だけ。
「いまや、中は屠殺場同然だ」
そう、それは容易に予想できること。
それでも、奈子は立ち上がった。
「でも…行かなきゃ。行かなきゃなンない」
建物の入り口に向かって歩きかけて、ふとサイファーを振り返った。
「体力が回復したら、あとは勝手にしなよ。アタシはもう知らんし。あ、食べ物とか…いる?」
「…必要ない」
「そう、それじゃ」
聖跡の内部へと入っていく奈子を見送っていたサイファーは、その背中に向かって叫んだ。
「おい、こんなところで死ぬんじゃないぞ! 今日は助けられたけどな、次に会ったときには決着をつけてやる!」
奈子は振り返ると、軽く手を上げて笑った。
「アタシはごめんだね。すごく痛かったもの」
奈子は聖跡の中へと足を踏み入れた。
内部は真っ暗かと思ったのだが、ところどころに魔法の明かりが灯っている。
先に入ったアルトゥル王国の兵たちが残したものだろう。
黒い石で造られた通路を、慎重に進んでいく。
今のところ、なんの気配も感じなかった。
通路を照らす明かり以外、数百の兵がここを通ったことを示す痕跡もない。
遺跡の中は、死んだように静まり返っていた。
奈子は思う。
もしかすると、すごく危険なことをしているのかもしれない。
何故、来てしまったんだろう。
ソレアからも、ファージからも、固く止められていた。
想像を絶する力を秘めた、最強の竜騎士の亡霊が護る墓所。
そこへ入り込んだ者は決して生きて帰ることはできないといわれ、事実、あの手練れのサイファー・ディンですら、いとも簡単に深手を負わされた。
どうして、ここまで来てしまったんだろう。
最初は、ちょっとした好奇心だった。
遠くから見てみるだけのつもりだった。
なのに…
どうしてここまで来てしまったんだろう。
行かなければならない。
聖跡の中へ。
誰かが、心の中で叫んでいる。
行かなければならない。
真実を、見つめなければならない。
嫌だ、行きたくない。
行ってはいけない気がする。
だけど…
誰かが、心の中で叫んでいる。
お前は、行かなければならない。
何故…
「最近ちょっと…分裂症気味かもしれないぞ、アタシ」
そんな独り言をつぶやいた奈子は、ふと壁の傷に目をとめた。
他に傷ひとつない石の壁につけられた、小さな、細い、しかし深い裂け目。
それはまるで、剣でも突き立てたような…。
不思議そうにその傷を見ていた奈子は、おもむろに腰の短剣を抜くと、力いっぱい壁に突き立てた。
ギィンッ!
耳障りな音と共に、火花が散る。
しかし、壁にはかすり傷ひとつつけられない。
普通の剣の打ち込みくらい、苦もなく受け止めることができる特製の短剣が、刃こぼれしているというのに。
「エクシ・アフィ・ネ」
奈子の手の中に、今度は無銘の剣が現れた。
暗いところでは、その刃はうっすらと光を発しているようにすら見えた。
もう一度、剣を壁に突き立てる。
王国時代の魔法で護られた、鋼よりも硬い石の壁に、剣は深々と突き刺さった。
奈子の目が大きく見開かれる。
もしかしたら…ひょっとしたら…そう思ってのことだったが、試した本人が一番驚いていた。
そうっと剣を引き抜く。
あとには、以前からあったものと寸分違わない細い傷跡が残った。
間違いない。
これは、レイナの剣でつけられた傷だ。
つまり…、聖跡が建設されてから五百年も後に、レイナ・ディ・デューンはここを訪れているのだ。
中へ入って、生きて還ったものはないといわれる聖跡。
しかし、世間には知られていないだけで、生きてここから出た者は、実は意外と多いのかもしれない。
レイナ・ディがそうだったように。
フェイリア・ルゥがそうだったように。
彼女たちはいったいここで何を目にしたのだろう。
その答えは、この奥にあるはずだった。
通路は少しずつ下りになっている。
どれくらい歩いただろう。
前方に、動くものの気配があった。
生存者だろうか?
しかし、
(…っっっ!)
それを目にした奈子は、辛うじて悲鳴を飲み込んだ。
正確に言えば、驚きと恐怖のあまり悲鳴も出せなかったのである。
それは、人に似た形をしていた。
二本の足で歩き、腕も二本。
しかし明らかに、生きた人間ではない。
それは一目でわかった。
その人影には、首から上がなかった。
「…っく…く…首っ…」
奈子としては逃げ出したかった。
剣を手にして迫ってくる、新鮮な首なし死体の相手なんてまっぴらだ。
しかし、足が動かない。
それが何であるか見当はついていた。
先ほどのサイファーに似た服を着ているところを見ると、アルトゥル王国の兵の一人らしい。
左手首には騎士の腕輪までしている。
(こ、これは…)
ここで殺された侵入者の死体を魔法で操り、侵入者に対する最初の防壁として再利用しているのだろう。
「こ…、こんなものまでリサイクルすなっ! …って、そ〜ゆ〜問題じゃないか」
奈子は、両手にそれぞれ短剣を握りながら言う。
軽口を叩くほど、余裕があったわけではない。
むしろその逆だ。
冗談めかした台詞でも口にしていないと、精神の平衡を保てそうになかった。
「う…」
死体が、手にした大剣を大きく振りかぶる。
「うわあぁぁっっっ!」
ほとんど悲鳴に近い叫びを上げながら、奈子は飛びかかった。
死体が振り下ろす剣を身体をひねってかわし、その剣を持った右腕を斬りつける。
ゴトリ…
重々しい音と共に、剣と、肘のすぐ上で切断された腕が床に落ちる。
奈子はそのまま、左右の短剣で脇腹と胸を斬りつけ、さらにひかがみを狙って下段蹴りを放った。
死体は、バランスを崩して倒れる。
奈子はその上に馬乗りになって、心臓の辺りに、両手の短剣を揃えて突き刺す。
既に死んでいるはずなのに、新たな血が噴き出して奈子の顔を汚した。
奈子は短剣を引き抜き、もう一度渾身の力を込めて叩き付ける。
それでも、死体は動きを止めなかった。
残った左腕を伸ばして奈子の首をつかむと、信じられない力で締め上げる。
「ぐ、ぅぅ…」
気管がいまにも潰されそうだった。
それでも、両手の短剣でめちゃくちゃに死体を刺し続ける。
短剣を引き抜くたびに、生臭い血が飛び散る。
「く…がぁ…ぁ」
息ができず、声にならない呻き声が漏れる。
意識が、ふぅっと遠くなりそうになったその瞬間、不意に、奈子の喉を締め上げていた手から力が抜け、ぱたりと床に落ちた。
そのまま、死体は動かなくなる。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
しばらく床に手をついて荒い呼吸を繰り返していた奈子は、やがて立ち上がると顔についた血糊を手の甲でぬぐった。
「…悪趣味なことしやがって…、クレイン・ファ・トーム…」
奈子の瞳に、危険な光が宿っていた。
薄暗い通路は、ときどき曲がりながら続いている。
どのくらい歩いただろうか、前方に、これまでよりも明るい光が見えてきた。
奈子は足を速める。
かすかに、人の叫び声も聞こえる。
それも一人ではない。
まだ、生き残りがいるのだろうか。
先刻の例もあるから、気配を殺して近付いていく。
通路の先は、大きなホールになっていた。
中に、十人くらいの剣を持った男たちがいる。
いずれも、アルトゥル軍の兵士だろう。
中央に一人、髪の長い、長身の女性。
そして、
そして…、
その周囲には、無数の死体が折り重なっていた。
流れた血で床は朱に染まり、生臭い、吐き気をもよおす血の匂いが充満している。
奈子は悲鳴を上げそうになるのを抑え、こみ上げてくる吐き気をこらえてホールの様子を観察した。
兵士たちは怯えているようだが、それでもまだ戦意を失わず、剣を構えて中央の女性を取り囲んでいる。
その女性は、淡い銀色の光をまとった長剣を手に、周囲の兵士たちを見回していた。
床に届くほどの長い髪も、うっすらと光に包まれている。
(クレイン…ファ…)
間違いない。
これこそが聖跡の番人、クレイン・ファ・トームだ。
国を裏切り、エモン・レーナを殺した罪で死刑となり、死後も聖跡に封印されて番人となることを命じられた騎士。
トリニア国王エストーラの従妹で、エモン・レーナの親友であったはずの女性。
なのに彼女がどうして裏切ったのかは、伝えられていない。
とにかく、その力はエモン・レーナをも凌ぐといわれた史上最強の竜騎士が、いま目の前にいるのだった。
貴族の娘が普段着に着るような簡素なドレスを身にまとっているが、それは手の中の剣とは妙にミスマッチだ。
口元には笑みすら浮かべている。
そうして、鋭い目で兵士たちを見つめていた。
狼を思わせる、鋭い目。
どこか無機的で、生き物の気配を感じさせない存在でありながら、その瞳にだけは強い意志の輝きがあった。
突然、兵の一人が剣を振りかぶってクレインに飛びかかる。
それを援護するように、残りの者たちが次々と魔法で攻撃する。
しかし、その魔法の炎はクレインに届く前にひとつ残らず霧散し、剣を持ったクレインの手がかすかに動いたと思ったときには、飛びかかった男の身体は両断されて床に転がっていた。
「つまらん…な」
クレインがつぶやく。
「三百人以上もいながら、歯ごたえのある奴は皆無か…。しばらくぶりの客なのだから、もう少し楽しませて欲しいものだ。ここでは他に暇つぶしがないからな」
口から出る言葉とは裏腹に、クレインは相変わらず笑みを絶やさない。
まるで、闘うこと、人を殺すことが心底楽しいといった表情で。
クレインが一歩前に出る。
威圧されるように、兵たちがじりじりと下がる。
一瞬、風が動いたように見えた。
瞬きひとつする間に、クレインの身体は五メートル以上も離れたところまで移動している。
そして、その途中にいた三人の兵士が、先ほどの男と同じように胴をまっぷたつにされて倒れていた。
残った男たちの間から、絶望の声が漏れる。
その声の方に向き直るクレイン。
常人の目には捉えられない動きで、次の瞬間にはさらに二人の命を奪っていた。
奈子は、その光景をただ黙って見ていた。
なんという動きだろう。
速さという点ではサイファーの動きも相当なものだったが、これはまるで次元が違う。
奈子は、ただ黙って見ていた。
何もできなかった。
声を出すことも、指一本動かすことも。
そこにいるのは、人間を超越した存在だった。
歯向かうことなど思いもよらない。
(冗談じゃない、こんなの…)
奈子は、廻れ右してその場から逃げ出した。
その惨劇を最期まで見届けることなどできっこない。
もう、見ていられなかった。
怖い…。
怖くて、見ていられない。
一刻も早く、この場を離れたい。
ただそれだけを思い、いつの間にか真っ暗になった通路の中をやみくもに走り続けた。
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