五 記憶の万華鏡


 奈子は、まったく明かりのない闇の中を走り続けた。
 一寸先も見えない。
 まるで墨の中にいるようなもの。
 どれだけ走ったのかもわからない。
 闇の中を走っているわりには、不思議とつまづいたり壁にぶつかったりはしなかったが、錯乱している奈子はそのことに気付きもしない。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 自分が何処にいるのかもわからない。
 しかし、ふと我に返ったとき、奈子は太陽の下にいた。


(そんな…ばかな…)
 はじめは、聖跡の外に出られたのかと思った。
 そうではない。
 目の前の光景は、聖跡の周りに広がる荒野ではない。
 畑と林の間にまばらに家が建っている、どこかの村の中だった。
(そんな…?)
 畑仕事をしたり、道端で談笑している人の姿も見える。
 その人たちが奈子に注意をはらう様子はない。
 道端に咲く花のまわりには蝶が舞っているし、空には鳥も飛んでいる。
 聖跡から走って行ける距離に、こんな風景があるはずはなかった。
 しばらく呆けたような表情で歩いていた奈子だったが、やがて気が付く。
 道端の花を摘もうとした手は花をすり抜け、思い切って村人に話しかけてみても、向こうはこちらに気付きもしない。
 これはおそらく、幻影なのだ。
 さもなければ、奈子が夢を見ているのか。
 この状況ではどちらでも同じようなものだが。
(なんなんだ、いったい…)
 道の向こうから、金髪の小さな女の子が歩いてくる。
 大きなバスケットを両手で抱えて。
(どこかで見たことがある…ような?)
 奈子は首をかしげる。
 少女はもちろん奈子には気付かず、すぐ横を通りすぎていく。
 数秒間考えて、ふと気が付いた。
 あの顔、瞳、髪の色。
 間違いない、フェイリアだ。
 子供の頃のフェイリア・ルゥだ。
 まだ七〜八歳といったところだろう。
 両手で抱えた大きなバスケットを持てあますように、ちょこちょこと歩いてゆく。
 母親の言いつけで、親戚のハイダー家へ荷物を届けにいくところだ――何故か、奈子にはそれがわかった。
 不意に、周囲の光景が家の中へと変わる。
 フェイリアと、ハイダーのおばさんと、従兄で四歳年長のディケイド。
 外は雨になっていて、強い風も吹きはじめていた。
「今日は泊まっていきなさい」とおばさんが言い、フェイリアもうなずく。
 そんな光景を、奈子は見ていた。
 奈子は、もう気付いていた。
 これは…過去の幻影だ。
 そう、フェイリアの両親が殺された日の…。
 また、違う景色が広がった。
 真夜中の、村はずれ。
 外はひどい嵐で、横殴りの雨が叩き付けるように降っている。
 もちろん、それを見ている奈子にはなんの影響もない。
 その、激しい嵐の中を歩く人影があった。
 二十代半ばくらいの女性だ。
 剣士らしき服装で、この嵐を気にする様子もなく平然と歩いている。
 長い、漆黒の髪が大きく風にたなびいている。
 その女剣士は、真っ直ぐに一軒の家へ向かっていった。
 フェイリアの家へ。
 真夜中のことだから、扉は閉ざされて閂が掛けられている。
 女剣士は一瞬の躊躇もなく腰の剣を抜いた。
 重い木を金属の枠で補強した扉は、音もなくまっぷたつになって倒れる。
 恐ろしい切れ味の剣だった。
 奈子の持つ、無銘の剣に匹敵するかもしれない。
 それは、漆黒の刃だった。
 中世の暗殺者は、暗闇で剣が光らないようにその刃を黒く塗ったというが、それとは違う。
 闇に溶け込むような色でありながら、その剣には確かに金属の光沢があった。
(もともと、黒い色の金属…?)
 これまでにこの世界の様々な剣を見たが、こんな色の刃は初めてだった。
(それにしても、この女…。いったい何をしようと…?)
 考えるまでもないことだった。
 フェイリアの両親は、嵐の夜に何者かに殺されたのだ。

 家の中に入った女剣士は、フェイリアの両親に剣を突きつけていた。
「レイナ・ディの墓所がどこにあるのか知っているだろう? 教えてもらおうか」
 フェイリアの父親の誰何の声を無視して、女は言った。
 感情のこもらない声だった。
 長い、漆黒の髪に黒い瞳。
 この地方では珍しい。
 女性にしては背が高い。
 百七十センチはあるだろう。
 顔はたしかに美しかったが、それはどこか作り物めいた、無機的な美しさだ。
 その目は、どこまでも鋭く、そして冷たかった。
 見つめられただけで、身体の芯まで凍りつきそうな錯覚におちいる。
「いったい、お前は何者だ? 何故そんなことを訊く?」
 フェイリアの父の声も、やや震えているようだった。
 この女には、なにか、見る者を不安にさせるような雰囲気がある。
「レイナ・ディの、無銘の剣を探している。レイナ・ディの墓所の正確な位置、知っているのだろう?」
「そんなことを訊くために、こんな夜中に人の家に無断で入ってきたというのかっ?」
 フェイリアの父は高名な魔術師で、王国時代の歴史に詳しい。
 こういった用件の客が訪れることは稀にあるが、しかし今回の来訪者はあまりにも無礼であり、そして不自然だった。
「礼儀知らずな輩の相手をする気はない、と言ったら?」
「死んでから後悔することになるだけだ」
 その台詞と同時に女の横の空間に出現したものを見て、フェイリアの父は驚きの声を上げた。
 それは、鋭い牙が何列にも並んだ、巨大な怪物の口。
 まるで、竜かなにかのような…。
 その光景を見ていた奈子は、思わず目を閉じた。
 このあとに起こることを見たくなかった。
 フェイリアの両親は、巨大な魔物に喰い殺された姿で発見されたのだ。
 そんなもの、見たくない。
 しかし、どんなにしっかりと目を閉じても、両手で目を覆っても、その光景を消すことはできなかった。
 直接、頭の中に伝わってくるように。
 顔を手で覆って泣き叫ぶ奈子の目の前で、フェイリアの両親は、ただの血と肉の塊となっていた。


 もしかすると、気を失っていたのかもしれない。
 いつの間にか、目の前に広がる幻影はまったく別の光景になっていた。
 何もない荒野。
 これはおそらく、聖跡の周囲に広がる荒野だ。
 だだっ広い荒野の中、
 白っぽい岩と土だけの大地を歩く二人の人間の姿があった。
「やれやれ、行けども行けども岩ばかり。いったいいつになったら聖跡に着くんだ?」
 不平たらたら、といった様子で文句を言うのは、まだ十代前半と思しき黒髪の少年。
 その身体には不釣り合いな長剣を背負っている。
「歩くのが嫌なら帰ればいいでしょう。別に私が連れてきたわけではないわ。あなたが勝手についてきたのよ、アークス?」
 その台詞の主は、少年よりも三〜四歳年長の少女。
 長い、淡い色の金髪が、荒野を渡る乾いた風になびいている。
 奈子は、この少女には見覚えがあった。
 フェイリア・ルゥだ。
 奈子が会った現在のフェイリアよりも五〜六歳は若く見える。
 十七〜八歳といったところか。
 ということは…
 これは、フェイリアが村を飛び出して、聖跡に向かったときの光景なのだろう。
 一緒にいるのは、従弟のアークス・ファ・ハイダーだろうか。
「ちぇ、冷たいこと言うんだな。フェア姉のことが心配で、わざわざついてきたっていうのに」
 アークスは口を尖らせる。
「どうせ、兄さんの言いつけでしょう? ついてくるなって言ったのに、まさかあんたをお目付役にするとはね…」
 諦めたような、呆れたような口調のフェイリアだった。
 これで、奈子にはだいたいの事情が飲み込めた。
 フェイリアから聞いた話では、彼女は一人で聖跡に行くつもりで、ついてくると言った従兄、ディケイドを固く止めたという。
 しかしディケイドは、フェイリアを一人で聖跡に行かせたくなかった。
 そこで、フェイリアには内緒で、弟のアークスに後をつけさせたのだろう。
 無論、まだ半人前のアークスに、フェイリアを護る護衛の役目を期待しているわけではない。
 むしろ、その逆だ。
 口ではなんと言っても、フェイリアがこの従弟を可愛がっていることは端で見ている奈子にもわかる。
 アークスが一緒では、フェイリアもあまり危険なことはできない。
 きっと、ディケイドはそんなことを考えたのだろう。
 なかなかの策士だった。

 真っ赤な夕陽が地平線に沈みかける頃、二人の行く手に聖跡の建物が見えてきた。
 疲れ果てていたアークスも、これを見て足を速める。
 二人が聖跡に着いたとき、周囲は既に真っ暗になっていた。
 鳥の声も虫の音もない聖跡の夜は、とても静かだ。
 しかしアークスの耳は、かすかな、人のすすり泣く声のような音を捉えていた。
 知らず知らずのうちに、腕に鳥肌が立つ。
「フェア姉…あれ、なんの声だ?」
 フェイリアは、目を伏せてじっとその声を聞いている。
「きっと…聖跡の番人、クレイン・ファ・トームが嗚咽の声でしょう。永遠に聖跡を護らなければならない、己の呪われた運命を嘆く声…」
 アークスの耳元でささやく。
「もっとも…ね」
 不意に、フェイリアの顔に笑みが浮かぶ。
 からかうような調子で。
「あれは、嬉し泣きだという説もあるわ。新たな獲物がやってきたことが嬉しくて嬉しくてたまらない…そんな泣き声」
「新しい獲物って…まさか、おれ達?」
 フェイリアがうなずくと、アークスの顔色がさっと青くなった。
「あら…怖いの?」
 フェイリアはくすくすと笑う。
 アークスの顔がかっと赤くなる。
「ば…バカ言え! たとえどんな魔物が相手だろうと、おれの剣にかかれば…」
 そう虚勢を張って、背負っていた剣を抜く。
 まるで磁器のような光沢を持つ、真っ白い刃。
 しかしその長剣は、それほど体格が良いわけではない少年にとっては、少し長すぎるように思われた。
「相変わらずはったりだけは一流だけどね…」
 からかうような、それでいてどこか哀しげな口調でフェイリアは言う。
「アークスはここで留守番よ」
「な…!」
 その言葉は、少年にはまったく予想外のものだったようで、次の言葉が出てくるまでに数秒間を要した。
「……何故っ?」
「危険だから」
 フェイリアはあっさりとしたものだ。
「足手まといになるだけよ。今回の相手はいままでとは違う、桁違いに強いもの」
「フェア姉は、いつもおれを半人前扱いするんだな!」
 アークスが怒るのは無理もない。
 この年頃の少年は、子供扱いされることをひどく嫌う。
「実際、半人前だもの。仕方ないわ」
「フェア姉がなんと言おうと、おれはついて行くよ。一人で行かせたんじゃ、あとで兄貴にどやされちまう」
 アークスは強い口調で言った。
 聖跡の番人が怖くないと言ったら嘘になる。
 しかし、いくら姉がアークスなど足元にも及ばない力を持っているとしても、一人で聖跡に入らせるなど思いも寄らないことだった。
 兄の思惑はともかく、彼としては一応、フェイリアを護るためについてきたつもりなのだ。
「別に、これ以上なにも言う気はないわ」
 アークスの前を歩いていたフェイリアが振り返った。
「いや…あと一言だけ、ね」
 そう言うなり、素早く呪文を唱える。
 しまった…、アークスがそう思う間もなく、彼の身体は指一本動かせなくなる。
 どんなに力んでみたところで、身体は石のように固まって動かない。
 唯一自由になるのは口だけ。
 アークスにできるのは、ただ叫ぶことだけだった。
「ちくしょ〜! これだから魔術師ってヤツは嫌いなんだ〜!」
「私が戻るまで、そこでおとなしく待ってなさいね〜」
 悪戯な笑みを浮かべてそう言い残し、フェイリアは聖跡の中へ向かう。
 背後ではまだアークスがなんだかんだと彼女の悪口を叫んでいるが、もうそんなものは気にも止めない。
 ここから先は、彼女一人の戦いだ。
 フェイリア自身、無事に帰れる自身などまったくない。
 そんな場所に、この、生意気だけど可愛い弟を連れて行くつもりは毛頭なかった。


 夜とはいえ、外は月明かりでそれなりに明るかったが、聖跡の内部は闇に包まれていた。
 フェイリアは、明かりの呪文を唱えて先へ進む。
 物音ひとつしない。
 先刻までかすかに聞こえていた泣き声は、いつの間にか止んでいた。
 なんの気配もない。
 聖跡の中の空気は、ひんやりと冷たい。
 カビや埃の匂いすらない。
 聞こえるのは、彼女自身の足音だけ。
 だが、それも当然のことだ。
 ここには、生きているものは誰もいないのだから。
 死んだ場所。
 時の静止した場所。
 千数百年前から変わらぬ姿を保ち続ける聖跡――
 しかし、ここへ入り込んだ人間が皆無というわけではなかった。
 その証が、通路の向こうから音もなく近付いてきている。
 白骨化した、剣士の死体。
 三百年以上前に滅んだ、ある王国の紋章が入った鎧をまとっている。
 手には、大きな錆びた剣。
「ふん、芸のないことね」
 フェイリアは怯える様子もなく、つまらなそうに鼻を鳴らした。
(こんな雑魚を差し向けるとは、舐められたものね…)
 オルディカの樹で作った魔術師の杖を高く掲げ、フェイリアは呪文を唱える。
「天と地の狭間にあるもの、
 力を司る者たちよ――
 我、フェイリア・ルゥの命に従え。
 魂を持たぬ古の者、
 炎を以て在るべき姿へ還せ――」
 呪文の詠唱が始まるやいなや、剣を持った白骨は歩を速めてフェイリアに迫る。
 しかし、上段に構えたその剣が振り下ろされるより早く、フェイリアの前の空間に突如生まれた炎が、旋風のように巻いて死体を包み込んだ。
 炎の中で死体の形は崩れ、たちまちのうちにわずかな塵へと姿を変える。
 炎が消えたあとに残った灰を踏みにじりながら、フェイリアは挑発するように叫んだ。
「こんなつまらないことしてないで、姿を見せたらどう? 一応、仮にもトリニアの竜騎士だったんでしょう、プライドはないの?」
 フェイリアの声が、石の壁に反響する。
 それに応えたのは、高い嘲笑の声だった。
「元気のいいことだな。エモン・レーナの墓所を土足で汚す者よ――」
 声のした方に向き直ると、小さな炎が宙に浮いていた。
 それが一瞬、大きく燃え上がったかと思うと、次の瞬間には人の姿となった。
 長い銀髪をたなびかせ、フェイリアに鋭い視線を向けている。
「…クレイン・ファ・トーム…」
 伝説にある通りの、最強の竜騎士の姿がそこにあった。
「久しぶりの客だな…」
 どこか嬉しそうな口振りだった。
「名乗るがいい。墓標に刻む名が必要になる」
 フェイリアは一瞬、身体中の血が凍るような気がした。
 そこにあるのは、圧倒的な力だった。
 確かに人の姿をしてはいるが、そこには生きているものの気配はない。
 ただ、恐るべき力だけが存在していた。
 それは、力を持った人間、ではない。
 人間の形をした力――だった。
(まさか…これほど、とは…)
 フェイリアは唇を噛む。
 自分の力には自信があった。
 伝説の竜騎士相手でも、何とかなるのではないか…内心そう思っていた。
 とんでもない思い上がりだ。
 ほんのちょっと、人より優れた魔術の才能があるからといって、自惚れていたのだと思い知らされる。
 竜騎士の力が失われ、竜が滅んで数百年――。
 人は、それがどれほど恐ろしい力を持った存在であったのかを忘れてしまっていた。
「どうした、怖じ気づいたか?」
 相手の心を見透かしたように、クレインが嘲う。
 その言葉で、恐怖に染まっていたフェイリアの瞳に光が戻った。
 そうだ、こんなところで終わるわけにはいかない。
 エモン・レーナの力の秘密を手に入れなければならないのだ。
 両親の仇を討つために。
 誰よりも強くなるために――。

「天と地の狭間に在るもの
 力を司るものたちよ
 我の呼びかけに応えよ
 我は命ずる
 力ある言葉に従い
 汝らの力を解き放ち
 数多の次元より
 我の元に届けんことを――」
 フェイリアを中心として、風が音もなく巻きはじめる。
 クレインは、その様子を面白そうに見つめていた。
「フェイリア・ルゥ・ティーナの名において命ずる。
 我の前に立ちふさがるすべてのものに
 滅びの審判を下さんことを」
 最初の一撃がすべてだった。
 いまなら、クレインはこちらの力を舐めている。
 クレインを倒すチャンスは一度だけだ。
 小さく息を吸い込み、真っ直ぐにクレインを見据える。
 クレインはなんの行動も起こしていない。
 最初は、こちらの好きにさせようというのだろう。
 絶対の自信の現れだ。
(でも…その自信が命取りよ)
 竜騎士はたしかに想像を絶する力を持つが、決して不死身の存在ではなかった。
 その肉体は、しょせん人間のものでしかない。
 倒せる、いまなら…。
 フェイリアは、一気に力を解放した。
「炎よ!」
 クレインの身体を、灼熱の炎が丸く包み込む。
 それは既に、炎と呼べるレベルを超えていた。
 周囲の壁は王国時代の魔法で護られているはずなのに、それが熔ける間もなく蒸発する。
 その炎は、聖跡の地下に出現した小さな太陽だった。
 空間そのものを燃やしながら、すべてを無に帰していく。
 人間の身体など、灰も残らない。
 …はずだった。
 しかし、
「ふむ、ちょっと…暑かったか?」
 その声は、たしかにクレインを包み込んだ球状の炎の中から聞こえた。
 己の勝利を確信していたフェイリアの表情が、驚愕に歪む。
「これなら、もっと薄着で来るべきだったかもな」
 そんな台詞と同時に、炎はなにかに吸い込まれるかのように消えていった。
 そして、クレインは先ほどとなにも変わらずにそこに立っている。
「そ…んな…」
 自分の見ているものが信じられなかった。
 たとえ結界を張ったところで、耐えられるような熱ではなかったはずだ。
「なにも驚くことではあるまい?」
 当たり前のことのように、クレインは言う。
「こんな、児戯に等しい技でこの私を倒そうというのか? 青竜の騎士であるこの私を」
 これが、竜騎士というものだ――そう、クレインは笑った。
「信じられないと言うのなら、もう少し竜騎士の力というものを見せてやるか」
 簡単に死んでもらってはつまらんぞ…と、これ以上はない不吉な言葉だった。
 フェイリアは、周囲でかすかに空気が動いたように感じた。
 次の瞬間、
「っ…!」
 周囲の空気が、無数の刃と化してフェイリアの身体を切り裂いた。
 血飛沫が舞い、フェイリアの身体がぐらりと傾く。
「倒れるのは、まだ早いな」
 クレインの手の中に光が集まり、銀色の球体をつくり出した。
 その光は、十数本の細くて長い針と化してフェイリアを貫き、倒れかかった彼女の身体をそのまま背後の壁に縫い止めた。
 肺を貫かれ、フェイリアの口から血が泡となって溢れる。
 続けて、なにか不可視の力が身体の中を通り抜けたように感じ、フェイリアは絶叫した。
 その力は肉体を傷つけることなく、直接、彼女の『命』をずたずたに切り裂いた。
 それは、『死の力』と呼ばれる、現在では失われた魔法だった。
 本来、魔力を直接に人の命に対して作用させることは不可能に近い。
 そこは、外部からの魔力に対してもっとも強い抵抗力が働く部分だから。
 そのため、戦闘に用いられる魔法とは、魔力を熱や、雷や、衝撃波といった物理的な力に変換して目標を破壊することを目的とする。
 しかし、クレインの力はそんな理屈を無視して、直接フェイリアの魂を苛んでいた。
 それは、圧倒的な力の差の証。
 身体を壁に縫い止めていた光の針が消えると、フェイリアの身体はその場に崩れ落ちる。
 痛いとか、苦しいとか、
 既にそんな次元ではなかった。
「人は皆、苦しみながら死んでいく。哀しいものよな…」
 言葉とは裏腹に、クレインの顔には笑みすら浮かんでいる。
 高く掲げた右手の中に、一振りの剣が現れた。
 銀色の光をまとった、美しい長剣。
「そろそろ、楽にしてやるか」
 クレインが静かに近付いてくる。
 フェイリアはもう、指の一本すら動かすことができない。
 自分に意識があるのかどうかすら、定かではない。
 彼女にできるのは、ただ、殺されるその瞬間を待つことだけ。
 少なくともそれで、この苦しみからは解放される。
 別に、死にたいわけではなかったが、どうせ結果が同じなら、いつまでも苦しみたくはなかった。
 そんなフェイリアの意識を現実に引き戻したのは、彼女を呼ぶ少年の声だった。
「フェア姉っ!」
 叫び声と同時に、クレインとフェイリアの間に、赤い炎が走った。
 クレインが顔を声の方に向ける。
 フェイリアはもう目も見えなかったが、声の主が誰かはわかっていた。
(…ア…クス…)
 なんということだろう。
 あれほど言っておいたのに、結局彼はフェイリアを追ってきてしまったのだ。
 来ちゃ、駄目。
 逃げなさい、すぐに。
 そう言いたかったが、声を出す力すら残っていない。
(こんなことなら…もっと…強い結界を張っておけば…)
 いまさら悔やんでも仕方がない。
 あの弟の性格を考えれば、結界が解けると同時に彼女を追ってくることなど予想できることだったのに。
 なのにどうして…。
(まさか…)
「なんだ、お前は」
 興味なさげに、クレインが訊ねる。
 アークスは答えずに、背負っていた剣を抜いた。
「フェア姉には手を出すな。今度はおれが相手だ!」
 剣を握る手に力を込めると同時に、磁器を思わせる白い刃が深紅の炎に包まれる。
 鮮血の色をした炎に照らされ、アークスの頬を流れる汗がまるで血のように見えた。
「竜の剣、か。子供がそんな玩具を振り回すと怪我するぞ」
 クレインは剣を持ったまま、アークスに向き直る。
(やめて、やめてっ!)
 薄れゆく意識の中でフェイリアは叫ぶが、それは叶わぬ希望だった。
 竜の剣、と呼ばれるその剣は、古くからハイダーの家に伝わる名剣だったが、アークスの腕前で使いこなせるようなものではない。
 フェイリアを歯牙にもかけないクレインに、アークスが勝てる可能性など万に一つもなかった。
(やめて…アークスを…殺さないで…)
 無駄と知りつつ、フェイリアは心の中で叫び続ける。
 どうして、アークスを聖跡に連れてきてしまったのか。
 どうして、あんな簡単に解ける結界しか張らなかったのか。
 認めたくはなかったが、その理由はわかっている。
 どこか、心の奥底でそれを望んでいた。
 アークスが、側にいてくれることを。
 いざというときに、力になってくれることを。
 それが、大切な弟を危険にさらすこととわかっていながら。
(自分勝手な…私…)
 その代償が、これだ。
 大切な肉親を、失うこと。
 唯一の救いは、アークスの死をこの目で見ずに済むということだろう。
 それよりも、彼女の命が尽きることの方が先なのは間違いなかった。


 ……
 ………
 フェイリアが目を開けて最初に見たものは、白みはじめている空だった。
 雲が、墨を流したような模様を描いている。
 そして、黒髪の少年が彼女の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「ア…クス…?」
 二、三度瞬きして、見ているものが幻影ではないと確認する。
「大丈夫…?」
 アークスがささやく。
 どうやら、夢でも幻でもないらしい。
「どうして…?」
 思うように動かない身体で、それでもなんとか首を少し動かして周囲を見ると、そこは聖跡の外だった。
 石畳の舗装の上に毛布を敷いて、フェイリアはその上に寝かされている。
(何故…?)
 何故、自分とアークスはここにいるのだろう。
 どうして、あの聖跡から生きて出られたというのか。
 まさか、アークスがクレインを倒したはずはあるまい。
「…何故? アークス…?」
 フェイリアの問いに、少年は小さく首を振る。
「…わかんない。でも、クレインが見逃してくれたんだ。――私の気が変わらないうちに、その女を連れて出ていけ――って」
 彼自身、何が起こったのか理解できていないようだ。
 アークスの話を聞いても、フェイリアにはにわかには信じられなかった。
 クレインは、そんな甘い性格ではない。
 これまで、聖跡に侵入して生きて還ったものはいないはずだった。
 何故、自分たちは見逃してもらえたのか…。
 わからない。
 わからない。
 だけど…
「ありがとう…。アークスに助けられたわね」
 フェイリアはそっと、弟の手を握った。


 奈子は、その光景をずっと見ていた。
 彼女は傍観者でしかない。
 何もできない。
 ただ、眼前に繰り広げられる光景を見ているだけ。
 不意に、フェイリアとアークスの姿が消えた。
 そこに広がっていた聖跡の風景も。
 すべて、闇に融けるように消えていった。
 奈子は、暗闇の中に取り残される。
 なにも見えない。
 なにも聞こえない。
 無にも等しい闇の中で、奈子は考える。
 先刻から続くこの幻影は、いったい何なのだろう。
 それは、何年も前の、過去の風景だ。
 いったい、誰が、なんの目的でそんなものを見せているのか。
 そもそも、自分はいったい何処にいるのだろう。
 ここは、本当に聖跡の中なのか。
 いったい…
(なにも、不安に思うことはない)
 誰かが、耳元でささやいた気がした。
(ただ、黙って見ていればいい)
「誰?」
 しかし、奈子の声に応える者は誰もいない。
 幻聴だったのだろうか?
 完全な闇の中。
 なにも見えず、なにも聞こえず。
 自分がどこにいるのか、立っているのか横になっているのかもはっきりしない。
 こんな状況では、自分の独り言と他人の声の区別もあやふやになる。
(ひょっとしてアタシ、おかしくなっちゃったのかなぁ…)
 聖跡に入ってから、あまりにも衝撃的な光景を目にしすぎた。
 自分の正気にすら自信が持てない。
 いったいどこまでが現実で、どこからが幻影だというのだろう。
 自分は本当に聖跡へやってきたのだろうか。
 もしかして、それすらも夢ではないのか。
 もしかして…
 すべては、夢なのではないだろうか。
 この、異世界での冒険のすべてが。
 ファージのことも、ソレアのことも、ハルティやアイミィや、エイシスのことも。
 本当の自分は、家のベッドの中で寝ぼけているのかもしれない。
 まさか…
 まさか、そんなことはあるまい。
 奈子は苦笑する。
 アタシはそんなに想像力の豊かな人間ではない、と。
(気弱になっちゃダメだ。もっと、意識をしっかり持たないと…)
 自分に言い聞かせる。
 奈子の目には、また、新たな光景が映し出されていた。


 そこは、戦場だった。
 何千、何万という兵士たちが、激しい戦いを繰り広げている。
 奈子は、その光景を空から見おろしていた。
 戦いは地上だけではなく、空の上でも行われていた。
 巨大な竜を駆る、騎士たち。
 奈子の眼前で、四頭の赤い竜が、一際大きな黄金色の竜を取り囲んでいた。
(エモン・レーナ…)
 奈子はつぶやく。
 五百年近いトリニアの歴史の中で、黄金色の竜を駆る騎士などただ一人しかいない。
 戦いと勝利の女神、エモン・レーナ。
 だとするとこれは、トリニアの建国間もない頃の、トリニアとストレインの戦いなのだろう。
(それにしても、四対一なんて…)
 いくらエモン・レーナが強い力を持っているからといっても、この状況では苦しいだろう。
 本来、竜騎士同士の戦いは、相当な力の差がなければ二対一でも勝つことは難しい。
 ストレイン帝国の四人の竜騎士は、執拗にエモン・レーナを攻めたてる。
 なにしろ、トリニア王国の象徴的な存在であるエモン・レーナを追いつめているのだ。
 ここでエモン・レーナを討ち取れば、トリニアに与える打撃は大きなものになる。
 エモン・レーナの出現以来、大陸の勢力図は一変していた。
 それまで大陸全土を支配する勢いだったストレイン帝国は、エモン・レーナの夫エストーラを王とする新興国トリニアとの戦いに相次いで破れ、その領土は最盛時の三分の一にまで衰退している。
 すべては、この女騎士から始まったのだ。
 ストレイン帝国軍がエモン・レーナ一人に戦力を集中するのも無理のないことだった。
 エストーラ王率いるトリニア王国軍の主力と相対する軍勢からも竜騎士を割き、エモン・レーナの別働隊にぶつけたのだ。
 作戦は成功した。
 開戦時、トリニアの竜が二騎だったのに対し、ストレインが投入した竜は六騎。
 ストレイン軍も被害を出したが、副官を失って四対一となってからはさしものエモン・レーナも防戦一方だった。
 ストレインの騎士たちは勝利を確信する。
 ついに、あのエモン・レーナを倒せるのだ、と。
 しかし、その幻想は長くは続かなかった。
 なんの前触れもなく出現した雷のような光に貫かれ、一騎の竜が甲高い叫び声を上げて墜落していった。
 何事が起きたのかと驚く騎士たちの前に、一騎の竜が現れる。
 まるで山上の湖のような、深い、蒼の鱗。
 トリニア王国の竜だった。
 その竜を駆るのは、長い銀髪を風になびかせた美しい女騎士。
「クレイン・ファ…」
 騎士の一人が、怯えたようにつぶやく。
 それは、不吉な名だった。
 エモン・レーナやトリニア王エストーラをも凌駕する力を持つという、トリニア最強の竜騎士。
 クレイン・ファ・トームの名は、ストレイン帝国の人間にとっては死神にも等しいものだった。
「遅いぞ、こら」
 疾風のように出現したクレインに向かって、エモン・レーナが拳を振り上げてみせる。
「援軍を待たずに一人で先走ったくせに、なに言ってる」
 クレインが怒鳴り返す。
 二人は、顔を見合わせて笑った。
 彼女たちは、最高の、そして最強のコンビだった。
 一人が、二人になったとき、この戦いの決着はついていた。


 奈子は、溜息をついてその光景に見とれていた。
 エモン・レーナとクレイン・ファ・トームはあまりにも強く、そして、竜と共に空を翔る姿はあまりにも美しかった。
 そして、また、恐ろしくもあった。
 人間がこれほどの力を持つということが。
 幻影はその後、いくつもの違った戦場を映し出した。
 竜騎士の力は、時には何千という兵士を、時にはひとつの都市をも一瞬で消滅させた。
 圧巻は、ストレインの帝都ミレアスの最期だった。
 大陸最大の都市といわれたミレアスが灼熱の光に包まれ、あとには、なにも残らなかった。
 都市のあった場所は巨大なクレーターと化し、奈子の奈子の記憶が確かなら、千五百年後の現在、そこは大きな湖となっているはずだった。
 怖い…
 奈子は暗闇の中で、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる。
 いつまでこんなことが続くのだろう。
 どれだけ、人が死ぬところを見なければならないのだろう。
 ひとつ、気付いたことがある。
 これまで見てきたのは、すべて、人が傷つき、死んでいく光景だ。
(こんなの…もう、十分だよ。もう見たくない!)
 こんなこと、もう耐えられない。
 そう、奈子は思った。
 しかし、もっとも凄惨な光景はこの後だった。


(どこ、ここ…?)
 今度の幻影はいきなり屋内から始まったので、一瞬、それが何なのかわからなかった。
 少し考えて、これは中世の鍛冶屋の仕事場だろうと推測する。
 煮えたぎる金属で満たされた炉。
 ふいご、鎚、金床のような、奈子にも見覚えのある機具。
 まだ柄のつけられていない剣。
 そんな中に、人の姿があった。
 しかしそれは…
(…!)
 奈子はそこで、信じられないものを見た。
 思わず口を押さえる。
 炉の横に、山と積み上げられた人間の死体。
 どれもこれも、原型をとどめないほどに焼けただれている。
 そして、一人の男が、その死体をひとつずつ炉の中に投げ込んでいた。
 髪に少し白いものが混じった、初老の男。
 その男もまた、身体にひどい火傷を負っていた。
 顔は憔悴し、目だけが血走ってぎらぎらと輝いている。
 男は狂ったように、死体を投げ込み続ける。
 いや、間違いなく狂っているのだ。
 そうでなければ、こんなことできるはずがない。
 奈子はたまらず外に出た。
 外の光景を一目見て、小さく声を上げる。
 そこは、破壊され尽くした街だった。
 以前はかなり大きな街だったに違いない。
 それがすべて廃墟と化している。
 建物はことごとく崩れ、動くものは何もない。
 まだあちこちで煙が上がり、通りには無数の死体が散乱していた。
 その死体をついばむはずの野犬やカラスの姿すらない。
 なんという光景だろう。
 奈子の知識の中でこれに一番近いものをあげるとしたら、歴史の教科書で見た、原爆投下直後の広島や長崎の光景だろうか。
 きっと、大きな戦争があったのだろう。
 王国時代の戦争なのは間違いない。
 それより前でも後でも、ひとつの都市をここまで破壊し尽くせるほどの力は存在しない。
 気は進まなかったが、奈子はもう一度先刻の建物の中に戻った。
 この辺りでは、この男が唯一の生者らしい。
 狂った男は、剣を鍛えていた。
 死体を焼いて溶かした鋼で。
 何かぶつぶつとつぶやいている。
 魔法の呪文だろうか。
 この世界で剣を作るときは、魔法の助けを借りるのが普通だ。
 男はときおり、呪文以外にも独り言をつぶやいた。
「まだだ…まだだ…もっと強く、もっと鋭く…この世の全てのものを切り裂けるほど…。そうでなくては、あの魔物は倒せん…」
 鳥肌が立つような、不気味な声だ。
 血走った目で、鎚を握った手から血を流しながら剣を鍛える。
 どれだけの時間が過ぎただろう。
 その剣はだんだんと形になってゆく。
(…)
 認めるには抵抗があった。
 しかし、奈子はその剣を知っていた。
 男が鎚を打ちつけるたびに、鋼は引き延ばされてゆく。
 薄く、薄く。
 限りなく薄く。
 それでも、恐ろしい魔力に護られたその剣は、曲がることも、折れることもない。
 かつては、竜騎士の一人がその剣を持っていた。
 千年の時を経て、その剣はいま奈子の手の中にある。
 狂った男が無数の死体から造り出した、呪われた剣。
 その剣には、銘が残っていなかった。
 残せるはずがない。
 こんな…こんな剣に、銘をつけられるわけがない。
 それ故に、剣は遠い未来まで『無銘の剣』と呼ばれ続けた。
 それは紛れもなく、竜騎士レイナ・ディの剣であった。
 いったい、この街で何があったのだろう。
 どうして、男はこのような狂気の剣を鍛えているのだろう。
 レイナは、どういった経緯で剣を手に入れたのだろう。
 しかし、その疑問に答えてくれるものはいなかった。


 ああ、そうか。
 不意に、奈子は悟る。
 記憶…だ。
 これらの幻影は全て…
 ここにあるのは、聖跡が建設されてからこれまでの、大陸の歴史なのだ。
 でも、誰が、何のために…?



 ぼんやりと、視界が戻ってくる。
 黒い、石造りの通路。
 今度は幻影ではない。
 間違いなく、聖跡の中だ。
 目の前に金属製の重々しい扉があり、その上にひとつ、魔法の明かりが周囲を照らしている。
 背後を振り返ると、真っ黒な通路がどこまでも続いている。
 いったい、どこをどう歩いてここまで来たのだろう。
 あれから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
 そして、外に戻るにはどうしたらいいのだろう。
 奈子はとりあえず、目の前の扉を調べてみることにした。
 扉には、鍵はかかっていない。
 力を込めて押すと扉はかすかに開いて、隙間から淡い赤い光がもれ出てくる。
 広い部屋だった。
 部屋の中央部に、天井まで届く直径一・五メートルほどの赤い光の柱が三本立っていて、その光が他に光源のない室内をぼんやりと照らしている。
 三本の柱は、十数メートルの間隔で正三角形を描くように配置されていて、その中心に、一抱えほどもあるなにかの結晶――まるで水晶のような――が浮かんでいた。
 部屋の入り口に立った奈子は、息を殺して室内を見渡す。
 なんの気配もない。
 誰もいない。
 しかしここは、明らかになにか特別な場所だ。
 恐る恐る足を踏み入れる。
 慎重に、周囲に気を配りながら、いちばん近くにある柱に近付いていった。
 それが、ネオンランプのような光を発する中空の管なのか、それともレーザーのような実体のない純粋な光なのか、ここからではよくわからない。
 近付くにつれて、その光の中にぼんやりと、影のようなものが見えることに気が付いた。
 奈子は少し歩を速める。
 柱のすぐ前まで来て、それが人影であるとわかった。
「…!」
 思わず、小さく叫んでしまう。
 それは、髪の長い女性の姿だった。
 全裸で光の中に浮かんでいる。
 まるで、水の中を漂っているかのように…。
 それが誰か気付くまでには、少し時間が掛かった。
 特徴のある、鋭い目を伏せていたためだ。
 しかし、足元まで届くほどの長い銀髪は――
 紛れもなくクレイン・ファ・トームの姿だった。
 女性としてはかなり長身で、手足もすらりと伸びた、見事なプロポーションだ。
「どういう…こと?」
 奈子はそうっと手を伸ばしてみた。
 光のいちばん外側に触れたところで、それ以上手を伸ばすことはできなくなる。
 ガラスやアクリルのような固体の感触ではない。
 しかし、何らかの力場が外部のものの侵入を拒んでいるようだった。
 柱の中のクレインは、ぴくりとも動かない。
 まるで作り物であるかのように。
 まったく、生命の兆候が見られない。
「いったい…あれ?」
 目を凝らして観察していて、奇妙なことに気付いた。
 クレインの身体を透して、ほんのかすかに、向こうが透けて見える。
「…!」
 それでわかった。
 ここにあるものは、実体ではない。
 それは、クレイン・ファ・トームの精密な立体映像だ。
 先刻までの夢のような幻影とは違う。
 間違いなく、奈子は自分の肉眼でこの光景を見ている。
 それは、まるでホログラフのような、クレインの映像だった。
「何故…どうして?」
 光の柱の中に浮かぶ、クレインの姿。
 それにどんな意味があるのか、いまの奈子には想像もつかない。
 そういえば…
 同じような光の柱はあと二本あることを思い出した。
 最初に、左手にある柱に近付いてみる。
 その柱の中には、何もなかった。
 ただの、光の円柱が床から天井まで伸びているだけだ。
(ここにも、なにかあると思ったのに…)
 奈子はやや拍子抜けして、三本目の柱に向かう。
 近付いていくと、その中にも人影らしきものが見えた。
 急に、心臓の鼓動が速くなる。
(何故だろう…)
 行ってはいけないような気がする。
 でも、いまさら引き返すわけにはいかない。
 奈子は深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、意を決して足を進めた。
 そこに見えているのも、やはり全裸の女性の姿らしい。
 クレインよりもずっと若い、見たところまだ十代半ばの少女だ。
 背も低い。
 高い位置に浮いた形になっているので正確には比べられないが、奈子よりも少し小柄ではないだろうか。
 歳の割に胸は大きく、メリハリのあるプロポーションだ。
 いちばん長い部分で背中のなかほどまである濃い色の金髪には、いまひとつまとまりがない。
 クレインの映像と違い、この少女は目を見開いている。
 しかし、その目に生気は感じられない。
 ガラス玉のような、焦点の合わない作り物めいた瞳がこちらを見つめている。
 その瞳は…
 それは…
「い…いやあぁぁぁっっっっ!」
 それが誰であるか気付いたとき、奈子は両手で顔を覆って悲鳴を上げていた。


「な…何よこれ…。どうして、こんな…」
 そんな奈子のつぶやきは、ほとんど泣き声になっていた。
 自分が見ているものが理解できない。
 いや、理解したくない。
「いや…いやだ、こんなの…」
 それが何なのか、知ってはいけない気がする。
 知ってしまったら、奈子の中でなにかが壊れてしまう。
 奈子は、その場から逃げ出すように、じりじりと後ずさった。
 それでも、視線は目の前の光の柱に釘付けになったまま、逸らすことができない。
 そんなもの、見たくないのに!
「ここは、何人も立ち入ることの許されない、エモン・レーナの墓所。それを土足で汚すことは許されぬ罪…」
 不意の、背後からの声に、奈子ははじかれたように振り向く。
 部屋の入口に、背の高い、長い銀髪の女性が立っていた。
 口元に残忍な笑みを浮かべ、鋭い目で奈子を見つめている。
「…クレイン…ファ…」
 奈子には、ただそれだけをつぶやくのが精一杯だった。
 紛れもない、先刻までアルトゥル王国の兵士たちをなぶり殺しにしていた聖跡の番人。
 クレイン・ファ・トームがそこにいた。
「覚悟はできておろうな?」
 クレインの手の中に、剣が現れる。
 銀色の光をまとった、細身の長剣。
 今日だけでも、何百人もの命を奪った…。
 クレインが目をすぅっと細める。
(殺される…)
 奈子はそう直感した。
 謝って済むような状況ではない。
 クレインは、聖跡へ足を踏み入れたものを決して許さない。
 フェイリアやレイナのようなごく少数の例外もいないわけではないが、自分がその一人になれるとは思えなかった。
 だけど…
 ただ、手をこまねいて殺されるのを待つわけにはいかない。
 息絶える最後の瞬間まで、闘うことをあきらめてはいけない。
 そう、自分に言い聞かせる。
「これって、いったい何? 聖跡って一体なんなの? ただの、墓所ではないんでしょう?」
 奈子は叫ぶが、それは答えを期待した問いかけではなかった。
 ただ、ほんの何秒か時間を稼ぎたかっただけ。
 その間に奈子は、呪文を声に出さずに防御結界を張る。
 ソレアが、最初に教えてくれた魔法。
 奈子がまず憶えたかったのは攻撃魔法だったのだが。
 しかしソレアはそれを許さず、
「ナコちゃんの戦い方って、いつも危なっかしくって見てられないわ」
 そういって防御の魔法を第一に教えた。
 自分の身を守ることさえできれば、剣だろうと素手だろうと、奈子の戦闘力は水準に達しているのだから、と。
 奈子の初歩的な魔法が竜騎士相手に役に立つかどうかは疑問だったが、とにかくできるだけのことはしなければならない。
 おそらく、半端な結界ではクレインの攻撃を防ぐことはできまい。
 そこで奈子は全身を防御することをあきらめ、首、胸、脊髄などの急所に力を集中して、不可視の魔法の盾を作り出す。
 クレインの攻撃をなんとか致命傷にならない程度にそらして、その隙をついて反撃する。
 それが、奈子の選んだ戦術だった。
 無茶なことやってるな…自分でもそう思う。
 勝てるはずもないのに。
 相手は、トリニア王国五百年の歴史の中でも最強といわれていた竜騎士なのだ。
 だけど…
 だけど…
 なにもせずに死ぬのはいやだ。
「なにか言ったらどう、クレイン・ファ・トーム?」
 挑むような口調で言う奈子の手に、剣が出現する。
 無銘の剣、竜騎士レイナ・ディの剣。
 そう、あの呪われた剣だ。
 しかし、奈子自身の力はクレインの足元にも及ばないだろうが、その武器には竜騎士を倒すだけの力があるはずだった。
 当てることさえできれば…。
 緊張した面持ちで、奈子は剣を構える。
「アタシが勝ったら、聖跡の秘密、話してもらうよ」
 クレインは、そんな挑発的な奈子の様子をどこか面白そうに見ていた。
「笑止。跳ねっ返りの小娘が騎士の真似事とは…」
 クレインは何故か笑いをこらえているようで、その台詞はどこか不自然だった。
 まるで、芝居の台本でも読んでいるかように。
「…?」
 しかし、そんなことを気にしている場合ではない。
 奈子は、なすすべもなくクレインに殺された兵士たちの姿を思い出す。
 ほんの一瞬でも隙を見せたら、自分もああなってしまうのだ、と。
 クレインは、下段に剣を構える。
 動いた、と思った次の瞬間には、クレインは奈子の背後にいた。
 奈子には、風が頬をかすめていったようにしか感じなかった。
「そんな…」
 その一瞬で、喉を護っていた魔法の盾が消失していた。
 気管から頸動脈にかけて、うっすらと赤い筋が走っている。
 喉に触れた手が、血で赤く染まっていた。
 まったく見えなかったわけではない。
 優れた動体視力を持つ奈子の目は、自分の横を通り抜けていったクレインの姿を捉えてはいた。
 しかし、
 それはとても、人間が反応できる速度ではなかった。
 まるで風だ。
 一陣の、銀色の疾風。
 ――銀の風のクレイン――
 それが、彼女の生前の通り名であったことを思い出す。
 クレインは、手の中で剣を弄んでいる。
「どうした、もう諦めたか?」
「誰がっ!」
 奈子は血塗れの手を服で拭うと、剣を握りなおした。
 相手の攻撃を受けてから反撃にうつる、などという考えは捨てるしかなさそうだった。
 クレインの動きは、とても奈子が反応できるようなものではない。
 いまだって、クレインが手加減していたから生きていられるのだ。
 はじめから、奈子自身ではなく防御結界だけを狙っていた。
 力の差を見せつけるかのように。
 クレインがその気になれば、奈子なんていつでも殺せるのだ。
(だったら…)
 先に仕掛けるしかない。
 防御がまったく通用しないのなら、こちらから攻撃するしかない。
 レイナの剣の力を信じて。
 奈子は小さく息を吐き出して、一気に飛びかかった。
 剣の届くぎりぎりの間合いで、上から袈裟掛けに斬りつける。
 しかし、その時にはもう、そこにクレインの姿はなかった。
 背後に殺気を感じた奈子は、そのまま立ち止まらずに前に飛び、前まわり受け身の要領で床を転がる。
 一瞬前まで奈子が占めていた空間を、銀色に輝く刃が通り過ぎていった。
 奈子は間を置かずに立ち上がる。
 やはり、クレインは強い。
 まともに行ったのでは、奈子のスピードではまるでかなわない。
(それなら…)
 奈子は左手で、腰の短剣を抜いた。
 その短剣が、青白い光に包まれる。
 あの、サイファー・ディンが使っていた技だ。
 奈子の魔法でも、このくらいのことはできる。
 いや、むしろ、魔法だけの威力ではまだまだ一人前とはいえない奈子にとっては、この方が有効な戦法かもしれない。
 奈子は魔法の光に包まれた短剣を投げつけた。
 はたしてクレインはそれをかわすか、それとも剣で叩き落とすか…。
 それは賭けるしかない。
 奈子は後者に賭けた。
 かわすとしたら左右どちらに動くか、もう一度賭けをしなければならなくなる。
 今回、ツキは奈子にあった。
 クレインはその銀の剣で、胸元を狙って飛んでくる短剣をはじき飛ばす。
 その一瞬の隙に、奈子は剣が届く間合いまで詰め寄り、渾身の力で斬りつけた。
 クレインの右手が動く。
 キィンッ!
 硬い金属同士がぶつかり合う音が響いた。
 どんな、硬い鋼をも易々と切り裂くことができるはずの、無銘の剣。
 竜をも一撃で屠る、レイナ・ディの剣。
 しかし、クレインの剣はしっかりとその刃を受け止めていた。
 傍目には、剣同士がぶつかり合った、当たり前の光景でしかないのだが、無銘の剣の威力を知っている奈子には衝撃だった。
(そ…んな…)
 この剣だけが、頼りだった。
 剣を届かせることさえできれば、魔法だろうと剣だろうと、クレインの守りをうち破ることができる、と。
「そんなにショックか? 確かに、素材の強度だけならとてもその剣を受け止めることなどできぬが、な」
 その、クレインの言葉でようやく気が付いた。
 奈子の刃を受け止めているのは、剣そのものではない。
 剣を包んでいる、銀色の炎。
 竜騎士の強大な魔力が、無銘の剣の恐るべき刃を抑えているのだ。
(そんな…そんな…)
 これでは、まったく手も足も出ない。
 奈子がそう思った瞬間、突然、クレインの剣を包んでいた炎が無数の銀色の破片となって飛び散った。
 そのひとつひとつが鋭利な刃物と化して、奈子の身体を貫く。
 悲鳴を上げる余裕すらなく、
 奈子の身体は床に転がった。
 身体中の神経をずたずたに切り裂かれる痛み。
 それは、呻き声を上げることすら許してはくれない。
 痛みのあまりショック死してしまわないことの方が不思議だった。
 身体中から、力が抜けていく。
 指一本、動かすことができない。
 ひどく出血しているのは感じる。
 視界が、急に暗くなってゆく。
 それでも、聴覚だけはまだ働いていた。
 幻聴でないとすれば、それは笑い声だった。
(笑い声…?)
 クレインが笑っていた。
 これまでの残酷な笑みとはまったく性質の違う、可笑しくてたまらないといった笑い声。
「どうした、腕が落ちたな。レイナ・ディ?」
 それはまるで、友達に話しかけるような口調。
(…え?)
 薄れつつある意識の中で、奈子は疑問の声を上げる。
 今…なんて言った?
(レイナ…ディ? アタシをレイナと間違えているの?)
 何故…
 レイナの剣を持っているから?
 そういえば、奈子はこれまでも「レイナ・ディに似ている」と言われたことはある。
 レイナの肖像画というのを見せてもらったことがあるが、たしかに、どことなく雰囲気が似ていないこともない。
 しかし…
 決して、見間違えるほど似ているわけではない。
 レイナ・ディは、ここを訪れたことがある。
 聖跡の入り口にあった剣の傷がそれを証明していた。
 だとしたら、クレインとレイナは会ったことがあるのだろうか。
 奈子とレイナは、本人と会ったことがある者が間違えるほど似ているわけではない。
 第一、レイナ・ディ・デューンは今から千年年近くも前の人物ではないか。
(時間の感覚がないのかな…クレインも、生きた人間ではないから…?)
 遠くなってゆく意識の中で奈子はぼんやりと考える。
 不思議と、死の恐怖は感じなかった。



 秋も深まった頃、トリニアの軍勢は王都マルスティアへと凱旋してきた。
 今度の戦いで、宿敵ストレイン帝国の衰退は決定的となったといってもいい。
 長い遠征から戻った軍勢を、マルスティアの市民が出迎える。
 人々は口々に、国王エストーラを、エモン・レーナを、そしてクレインを讃えていた。
 当然、城では戦勝の宴が盛大に催されたが、そういったことに興味のないクレインは、早々にマルスティアの外れにある自分の屋敷へと戻った。
 他の将たちの屋敷がほとんど城下にある中で、クレインだけがずいぶんと外れたところに家を構えている。
 田舎育ちのクレインには、賑やかな街の中よりも畑や林に囲まれた郊外の方が暮らしやすかったのだ。
 トリニア王国の将軍という地位に比べると、クレインの屋敷はむしろ質素といってもいい。
 ストレイン帝国との戦争の中で両親を亡くし、肉親といえば今年十三歳になる弟が一人だけというクレインには、大きな屋敷など不要なものだった。
 自分と弟のアルシェイン、そして数人の使用人が住むにはこれで十分である。
 屋敷に着いたクレインは、中に入る前から屋敷の様子がおかしい事に気付いていた。
 クレインが帰ると、いつもならアルシェインが真っ先に飛び出してくる。
 しかし今日、屋敷は静まり返っていた。
 門の周りにも、庭にも、誰もいない。
 屋敷に入っても、人の気配がなかった。
「アルス! フェイミン! 誰もいないの?」
 クレインの声に応える者はいない。
 訝しみながら居間に入ったクレインは、テーブルの上に置かれた一通の手紙を見つけた。
 見覚えのない封蝋が押してある。
 湧き起こる不安を押しとどめながら封を切って手紙を開いたクレインの顔色が、さっと青くなった。
 手紙を握りしめた手が、かすかに震えている。
 しばらくの間そのまま立ち尽くしていたクレインは、やがて手紙を手の中でくしゃくしゃと丸めた。
 手紙は突然炎に包まれ、それは床に落ちる前に灰も残さずに消える。
 これでいい――
 クレインは、口の中でつぶやいた。
 これで、このことを知る者は誰もいない。


 翌朝、クレインは夜が明ける前に起きだしてきた。
 思い詰めたような表情で武具を身につけ、馬を引き出す。
 ちらりと屋敷を振り返って馬にまたがろうとしたとき、こちらに駆けてくる一頭の馬に気付いた。
 クレインにはすぐに、それが誰かわかった。
 トリニアの人間には珍しい、漆黒の髪をなびかせていたから。
 小さく舌打ちをする。
 いま一番、会いたくない相手だった。
「おはようクレイン。今朝はずいぶん早いのね?」
「…あんたもね、エモン」
 王都のはずれにあるこの屋敷にこの時刻に着くとは、いったいいつ王宮を出たのだろう。
 仮にも王妃の身分でありながら、供の者もつけずにたった一人でこんな街外れまでやってくるとははなはだ非常識なことではあるが、この相手にそんな常識は通用しないことはよくわかっている。
 第一、黄金竜の騎士エモン・レーナにどうして護衛が必要だというのだ。
「そんなものものしい格好で、狩りにでも行くの? 戦から戻ったばかりだというのに」
 武装したクレインを見て、エモン・レーナが問いかける。
 クレインが曖昧にうなずくと、エモン・レーナは笑顔を浮かべた。
「ちょうどよかったわ。クレインを誘いに来たの。久しぶりに二人きりで遠乗りにでも行かないかって」
 そのお気楽な申し出をクレインは断る。
 そんな気分ではないから、と。
 エモン・レーナはそれ以上しつこくはしなかった。
「だったら、一人で行くとするかな。ライパシル山の方にでも…」
「やめろっ!」
 エモン・レーナが口にした地名に、思わず動揺を顔に出してしまった。
 慌てて口をつぐんだクレインを、エモン・レーナはじっと見ている。
「…知って、いるのか?」
 クレインの声は震えていた。
 声だけではない、腰の剣を握りしめた手だってかすかに震えている。
「まさか、この私に隠し事ができるなんて思ってはいないでしょうね? 一緒に行こう。アルシェインを助けるために」
「駄目だっ! お前は来るな!」
 クレインは叫んだ。
 エモン・レーナを来させるわけにはいかない。
 アルシェインを誘拐した連中の真の目的は、彼女なのだ。
 トリニアとストレインのすべての竜騎士の中で、ただ一人、クレインだけがエモン・レーナを凌駕する力を持っていた。
 クレインだけが、トリニアの象徴エモン・レーナを倒すことができる。
 そこに目を付けた敵が、弟の命と引き替えに取引を持ちかけてきた。
 弟を助けたければ、エモン・レーナを殺せ――と。
 無論、そんな取引に応じられるわけがない。
 エモン・レーナはトリニアの王妃であり、クレインの従兄であるエストーラの妻であり、そしてクレインの親友である。
 考えるまでもないことだ。
 クレインにとってどれほど弟が大切であっても、エモン・レーナを犠牲にはできない。
 だからクレインは、誰にも知られずに一人だけで行くつもりだった。
 弟を救いに。
 もしそれが叶わずアルシェインが死ぬようなことがあれば、自分も生きてはいない覚悟で。
「わかってるだろう、エモン。連中の狙いはお前なんだぞ?」
「だから、私が行けば確実でしょう? 私を連中に引き渡しなさい。アルシェインはあなたにとってかけがえのないものだもの」
「ち…ちょっと待て、エモン!」
 クレインは慌ててエモン・レーナを押し止めた。
「たしかに、アルスはたった一人の弟だ。でも、だからってお前を危険な目に遭わせるわけにはいかないだろう」
 クレインの表情はいつになく真剣だった。
 両手をエモン・レーナの肩に置き、必死に説得を続ける。
「アルスがかけがえのない弟なら、エモンだって大切な親友だ。それに、お前はこの国の王妃で、私は国のために闘う竜騎士だ」
「ねえ、クレイン?」
 肩を押さえる手をそっと払いのけ、エモン・レーナは微笑んだ。
 深い、漆黒の瞳で、真っ直ぐにクレインを見つめる。

 もう、十年になるわね。
 あなたたちと出会ってから。

「ああ、そうだな。もうそんなになるか」

 私は、竜騎士の力、竜騎士の血をあなたたちに与えた。
 あなたたちはストレイン帝国と戦う力を手に入れて、十年かかってここまで来た。

「そうだ。すべては、お前のおかげだ」

 この国で、私がやるべきことはもうないわ。
 これからのトリニアには、私の力は必要ない。
 私が、あなたやエストーラのためにしてあげられることは、もうないの。

「エモン…お前、なにを言っているんだ?」

 私は、もうここにいるべきではない。
 十年前、あなた方の前に姿を見せたことが正しかったのか。
 いまでもわからない。
 だから、これからは見守るだけ。
 ずぅっと、遠い未来まで。
 また、私の力が必要となるときまで。

「エモン…?」

 アルシェインを助けてあげる。
 それが、私が一人の人間として、クレインにしてあげられる最後のこと。

「エモン、この十年間、私だけが一度も訊ねなかったことがあるよな?
 一度だけ、訊いてもいいか?
 お前は、何者なんだ?
 本当に、神の子…戦いと勝利の女神なのか?」

 ねぇクレイン? あなた、アルシェインを救うためなら自分の命を捨ててもかまわない?

「当然だ! それより、質問に答えろよ!」

 いずれ話してあげる。
 急ぐことはないわ。
 時間は、いくらでもあるもの。
 アルシェインを助けてあげる。
 その代わり――



 深い森の中で、フェイリアは巨大な魔物と闘っていた。
 全身傷だらけで、もともとは白いはずの服が赤く染まっている。
 これは…二十歳くらいのフェイリアだろうか。
 外見は現在とそれほど変わらない。
 長い金髪が、炎で赤く照らされている。
 周囲の森は、炎に包まれていた。
 フェイリアの魔法ではない。
 彼女を追って巨大な怪物の口からほとばしる炎が、森の樹々を瞬時に灰に変えていった。
 その、漆黒の鱗に覆われた魔物の姿は、まるで竜のようであった。
 無論、本物の竜のはずがない。
 竜は、いまから何百年も前にすべて滅びた。
 それに、漆黒の鱗の竜など存在しない。
 本物の竜はこれよりもさらに一回り大きいし、その目にはもっと高い知性が感じられる。
 これは、竜を真似て人が造りだした魔物――亜竜、だった。
 王国時代の魔術師が造りだした人造の魔物。
 その末裔は千年後の今もわずかながら生き残り、人間たちの脅威となっている。
 竜は、この世界において最強の存在であった。
 亜竜の力はそれには劣るとはいえ、人間がそうやすやすと立ち向かえるようなものではない。
 王国時代の強大な魔法が忘れ去られて久しいこの時代、人間がたった一人で亜竜と闘うなど、およそ無謀なことといえた。
 事実、フェイリアの魔法は亜竜にさしたるダメージを与えることはできず、しかし亜竜の攻撃は確実にフェイリアを傷つけている。
 それでも、フェイリアは一人で闘い続ける。
 一人…いや、フェイリアは一人ではなかった。
 彼女のそばに、十二〜三歳くらいの少年がいた。
 歳の割には体格のいい、赤毛の少年だ。
 少年が、血塗れの手に一本の木を握っている。
 長さ二メートルほどの、槍のような形状の木。
 その幹には小さな鋭い棘が無数に生えていて、先端はまさに槍のように鋭く切り落としてある。
 少年が、その即製の槍をフェイリアに渡す。
 フェイリアは槍を高く掲げて呪文を唱え、魔物に向かって投げつける。
 槍が深々と突き刺さるのと同時に、フェイリアはまた呪文を唱えた。
 それが、最後の力を振り絞った魔法であることは見ていてもわかる。
 無数の雷が、避雷針に落ちる落雷のように、魔物に刺さった槍に集中し、魔物の身体を体内から破壊した。
 魔物の身体はぐらりと傾き、深い谷底へと落ちていく。
 魔物の最期を確認したフェイリアもまた倒れる。
 少年が駆け寄って助け起こすと、フェイリアは小さく微笑んだ。
「やったわね、エイシス…」



(え〜とぉ…)
 目を開けて、最初に見えたのは夕暮れの空だった。
(ここ、どこだ…)
 自分が何処にいるのか、何をしていたのか、記憶が曖昧だ。
 なんだったっけ…
 思い出せない、思い出さなきゃ。
「あ、気が付いたようね」
 それは、澄んだ、美しい声。
 しかしどこか冷たい雰囲気があった。
 ゆっくりと頭を動かして、声のした方を見る。
 美しい女性だった。
 少し離れたところに腰を下ろし、無表情にこちらを見ている。
(誰だっけ…)
 知っている顔のはずだったが、すぐには名前が出てこない。
 そう、つい先刻まで、この顔を見ていた気がする…。
 ――!
「フェイリア・ルゥ!」
 思わず大声で叫んで上体を起こそうとした奈子は、身体のあちこちの痛みに声を上げた。
 その瞬間、一気に記憶が甦ってくる。
 そうだ、聖跡だ。
 聖跡の中に入って、そして、いろいろなものを見た。
 聖跡の番人、クレインに殺される兵士たち。
 聖跡を訪れたフェイリア。
 そして、遠い昔、王国時代のエモン・レーナとクレイン…。
 記憶が甦ってくる。
 聖跡の中で迷って、その間に様々な幻影を見せられた。
 聖跡の中でのすべてを憶えているわけではない。
 いくつか、記憶が飛んでいる部分もある。
 だが、気付いたときにはクレインが目の前にいて…。
 いや、その前に何かがあったような気がする。
 とても大切なこと。
 聖跡の中で目にした光景に、ひどく衝撃を受けたような気がするのだが、それが何であったのか思い出せない。
 思い過ごしかもしれない。
 あまりにもいろいろなものを目にして、記憶が混乱している。
 はっきりと思い出せるのは…そう、クレインとの闘いからだ。
(そうだ、アタシ、クレインと闘ったんだっけ…)
 そして、なすすべもなく負けた。
 負けた…はずなのに、こうして生きて、聖跡の外にいるのは何故だろう?
 意識を失って、そのあと何があったのだろう。
 目を覚ます直前まで、夢を見ていたような気がする。
 エモン・レーナとクレインの姿。
 そうだ、あれが、エモン・レーナの死にまつわる真実なのだ。
 エモン・レーナはクレインの弟を救うために犠牲となり、その代償として、クレインは聖跡――エモン・レーナの墓所の番人となった。
 聖跡を、永遠に護り続けるために。
 そして聖跡は、大陸の歴史を見守り続ける。
 エモン・レーナの力を封印したまま…。
 それが、エモン・レーナの死の真相だった。
 世間に伝えられている、「クレインはトリニアを裏切ってエモン・レーナを殺した」というのは大嘘だ。
 だけど、それを知る者はほとんどいない。
 ごくわずか、聖跡から生きて外に出ることができたわずかな人間――クレインが見逃してくれた者だけが真実を憶えている。
 いまならわかる。
 何故、クレインがフェイリアとアークスを殺さなかったのか。
 殺せるはずがない。
 クレインにとって、『弟』はなによりも大切なものなのだから。
 では、自分はなぜ生きているのだろう。
 それだけは、いくら考えてもわからなかった。

 わからないといえばもう一つ、どうしてフェイリアがここにいるのだろう。
 奈子は、素直にその疑問を口にした。
「あなたを追ってきたのよ、ナコ・ウェル。きっと、ここに来ると思っていた」
 当たり前のことのように、フェイリアは答える。
「そんなに、レイナの剣が欲しいの?」
 本当は、そんなこと訊くまでもない。
 聖跡の中で、あの光景を見てしまっていたから。
 フェイリアが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あなたも見たでしょう、あの、黒の剣を」
 奈子はうなずく。
 黒の剣といえば…フェイリアの両親を殺した女剣士が持っていた剣に違いない。
「両親の仇を討つ――ずっとそのことだけを考えてきたわ。そのためには、力が必要だった」
 聖跡には、竜騎士の力の秘密が遺されている――その伝説を信じて、ここまでやってきた。
 フェイリアも奈子と同じように、ここで様々な過去の光景を目にし、そして、仇の姿を見た。
「以来、ずっとあの女を捜し続けてきた。何年もの間…ね」
 それは、恐ろしいまでの執念だった。
 でも、奈子にもその気持ちは少しだけわかる。
 フェイリアの旅に較べればずっと短いものとはいえ、奈子もまた仇を追っていたときがあったから。
 しかし、それとレイナの剣がどうつながるのだろう。
 単に力を求めるだけなら、この剣でなくてもいいはずだった。
 フェイリアの魔力はおそらく大陸でも有数のものだし、それに、彼女が持っている剣だって…。
 奈子は、不意に思い出した。
 サイファーたちと闘ったとき、フェイリアが持っていた剣のことを。
 その剣はいまも彼女の傍らに置かれている。
 それは、特徴のある剣だった。
 見た目には金属というよりも磁器のような、白い刃。
 奈子は、聖跡の中でもそれを目にしていた。
 フェイリアが、従弟のアークスと共に聖跡を訪れたとき。
 重傷を負ったフェイリアを助けにきたアークスが持っていた剣が、たしか同じものだった。
 あれ…?
 そういえば、どうしてその剣をフェイリアが持っているのだろう。
 奈子の視線に気付いたのか、フェイリアはちらりと剣に目を落とした。
 一瞬、複雑な表情を見せる。
 奈子には、それが悲しみの顔に見えた。
「私は、仇を追い続けていた。従兄弟のディケイドやアークスも私を助けてくれた。そして、ついにあいつと闘う日が来た」
 口調は淡々としているが、間違いない、その瞳は深い悲しみをたたえている。
「だけど…ディケイドも、アークスも、もういない。二人とも殺された…あいつに」
「…!」
 奈子は、なにも言えなかった。
 なんということだろう。
 両親の仇であるばかりか、実の兄弟同然に育った二人の従兄弟の仇でもあるのだ。
 しかも、ディケイドはフェイリアの恋人ではなかったか。
 呆然としている奈子の前で、フェイリアはいきなり服の前をはだけた。
「あ…!」
 奈子の目を引きつけたのは、真っ白い肌でも、大きくてしかも形の良い乳房でもない。
 フェイリアの胸から脇腹にかけて、ざっくりと刀傷が残っていた。
 それは、致命傷となってもおかしくないほどの大きな傷だ。
「フェイリア…」
「わかる? 私がこうして生きていられるのは、ディケイドとアークスが自分の命と引き替えに私を助けてくれたからなの」
 服を直しながらフェイリアは言う。
 奈子は、なにも言えなかった。
 なにを言えばいいのかわからなかった。
「この剣…」
 フェイリアは傍らの剣を手に取る。
「竜の剣…王国時代の最高の魔剣のひとつ。かの、竜騎士ユウナ・ヴィ・ラーナの剣だったものよ」
 ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト、それはレイナ・ディと同じ時代のトリニアの竜騎士。
 剣技にかけてはトリニア一と謳われた竜騎士の剣が現存していたとは…。
 奈子は、ぽかんと口を開けていた。
 まったく、驚きのタネは尽きないものだ。
「竜の剣を持ってしても、あいつには勝てなかった。あの、黒の剣は恐ろしい力を持っている。それに対抗しうるものがあるとすれば、それはあなたが持つ、無銘の剣だけよ」
 それが答だった。
 どうしてフェイリアがレイナの剣、無銘の剣にこだわったのか。
 竜騎士の剣を持ってしても、勝てない敵がいる。
 竜の剣は、その名の通り竜に匹敵する力を持つといわれる魔剣だ。
 それを凌駕する剣は、レイナの剣しかあり得ない。
「それで…か…」
 フェイリアが、奈子を殺そうとした理由。
 両親と、弟同然の従弟と、そして恋人を殺した仇を倒せる、唯一の武器。
 それを手に入れるためなら、フェイリアはどんなことでもするだろう。
 殺されかかったことを怒っていないわけではないが、それでも、フェイリアの思いはわからなくもない。
 もしも奈子が同じ立場だったら…フェイリアと同じことをしたかもしれない。
 許してもいいかも知ンない…奈子はそう思った。
「ひとつ訊いてもいい? どうしてアタシを助けたの?」
 奈子の怪我は、魔法であらかた治療されていた。
 それをした者は、フェイリア以外に考えられない。
 何故だろう。
 本気で、奈子を殺そうとしていたフェイリアなのに。
 奈子はクレインに致命傷を負わされていたのだから、剣を奪うのは簡単なはずなのに、剣はいまも奈子が持っている。
「恩を売って、剣を譲ってもらおうと思って」
「うそつけ」
 フェイリアは笑っている。
 奈子はもちろん、そんな言葉は信じない。
「アタシを殺して剣を奪おうとしたくせに。あんたがそんな甘い性格のわけないじゃない」
 奈子の辛辣な口調にも、フェイリアは気を悪くした様子はなかった。
「あの後ね、ちょっと反省した。長年捜していた剣が目の前に現れて、少し頭に血が昇っていたのね。よくよく考えたら、無銘の剣を手に入れるために、なんの罪も恨みもない相手を殺すなんて…」
 あの女がしたことと同じだ、と。
 そんなことをしたら、ディケイドもアークスも、決して自分を許さないだろう。
「それが理由のひとつめ。もうひとつは…」
 フェイリアはちらと横を見た。
 そこには、聖跡の入り口がある。
「クレインがあなたを生かして帰したから。クレインがあなたを生かしておこうと決めたのに、その意に反することはできないわ。彼女を怒らせるようなことはしたくないもの」
 なるほど、フェイリアもクレインの恐ろしさは身にしみてわかっているはずだった。
「そういえば、何故クレインはアタシを見逃したのかな?」
 先刻から、いくら考えてもわからない疑問。
 しかし、フェイリアも首を横に振った。
 あの人の考えなんて、まるで計り知れない――と。
「ナコ・ウェル…」
 フェイリアは立ち上がると、深々と頭を下げた。
「この間は本当にごめんなさい。私、どうかしていたわ」
 奈子はちょっと赤くなった。
 こうやって正面から謝られると、かえって戸惑ってしまう。
「…言っとくけど、剣は渡さないよ。でも…」
 なんだか照れくさくて、奈子はフェイリアと視線を合わせずに、そっぽを向く。
「あんたの気持ちもわかる。アタシも、友達の仇を追って…殺したことがある」
 仇討ちなんて、考えてみれば非生産的なことだ。
 そうしたところで、死んだ者は帰ってこない。
 だけどそれは、第三者の意見でしかない。
 奈子にしろフェイリアにしろ、そうしなければ収まりのつかない、獣の心を持った人間なのだ。
「だから…さ、今度あんたが仇と闘うときは、アタシが力を貸してあげ…る」
 言い終わらないうちに、いきなりぎゅうっと抱きしめられた。
 フェイリアの豊満な胸が顔に押しつけられて、ちょっと息が苦しい。
「許して…くれるの?」
「アタシも、助けてもらった。おあいこだもの」
「私たち、友達になれるかな? 似たもの同士…さ」
「なれるよ、きっと」
 友達なんだから、力を貸すのは当たり前だ――。
 奈子がそう言うと、フェイリアは目に涙を浮かべながら微笑んだ。
「じゃあ、あなたが危ないときには、私が助けてあげる」
 しばらくお互いの顔を見つめていた二人は、どちらからともなく笑い出した。
 これで、この件は片付いたのだ。
 闘いのその日まで。


「ところで…さ」
 奈子には、もうひとつ気になっていたことがあった。
 目を覚ます直前に見ていた夢――それとも、あれも幻影だろうか――を思い出したときに気が付いた。
 フェイリアは、亜竜と闘っていた。
 その横に、鮮やかな赤毛の少年がいた。
 どうして、すぐに気付かなかったのだろう。
 フェイリア・ルゥという名に憶えがあったのも当然だ。
 知り合いの傭兵、エイシスが以前話していたではないか。
 彼の故郷の村が亜竜に襲われて多数の死者を出したとき、旅の女魔術師が村を救ってくれた、と。
 フェイリア・ルゥ・ティーナ…その魔術師の名だ。
 フェイリアはエイシスの魔法の師匠であり、初恋の相手でもあったのだ。
 そういえば、エイシスと会ったのは奈子がファージの仇を追っているときだった。
(あいつ、こんなことも言っていたっけ…)

『昔、あんたと似た女がいたよ。腕の良い魔術師でね、いい女だったな』
『小さい頃に両親を殺されて、ずっと、その仇を追っていたんだそうだ。魔術も、そのために身につけた…』
『初めて会った時は、今のあんたにそっくりだった。自分以外の全てが敵といった雰囲気で、研ぎ澄まされた抜き身の剣みたいに、触れれば切れそうだったよ』

 なるほど、たしかにあのときの奈子とは似ていたかも知れない。
(あれ? だとするとおかしいな…。いや、そういえばソレアさんも…)
 奈子はフェイリアの顔を真っ直ぐに見た。
 第一印象では二十四〜五歳、美しい顔立ちをしている。
 初めて会ったときに雰囲気が少しソレアに似ていると感じたが、それは髪型や着ているもののためで、優しげなソレアよりもずっと意志の強さを感じさせる目をしていた。
 しかし、二人には大きな共通点があったのだ。
「フェイリアってさ…実は見た目よりずっとババアでしょ?」
 パ――――ンッ!
 言うなり、思いっきり頬を張られた。
 フェイリアが、鬼の形相をしている。
 奈子は頬を押さえながら、しかし笑って言った。
「力のある魔術師は、見た目の歳なんていくらでも誤魔化せるんだってね? エイシスより年上なんだから、どう考えても三十ン歳…」
「なによ、いきなり失礼な子ねっ! いいこと? 女の本当の魅力は三十をすぎてから…、え? エイシス…?」
 このときのフェイリアの、ぽかんとした表情は傑作だった…と、後に奈子はフェイリアと会うたびに思い出して笑い、そしてそのたびにフェイリアを怒らせていた。



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