ソレアの屋敷に着いて、奈子が居間の扉を開けると――。
なかば予想したことだったが、赤い髪と、広い背中が目に入った。
エイシス・コット・シルカーニ。
行く先は風まかせ、気ままな傭兵稼業…のはずだったが、最近はちょくちょくソレアの家に姿を見せる。
女好きのエイシスのことだから、きっとソレアが目当てなのだろう。
「いらっしゃい、ナコちゃん」
テーブルをはさんで座っているソレアがにっこりと笑うのと同時に、エイシスがこちらを振り向いた。
「久しぶりだね、エイシス。元気だった?」
「あ…? ああ…」
奈子が最上の笑顔を見せると、エイシスは思いっきり戸惑った表情になる。
どこか、奈子を見て怯えているようにも見えるが、まあそれも無理はない。
なにしろ、「久しぶり、元気だった?」などという普通の挨拶を、奈子の口から聞いたことなどこれまで一度もない。
「久しぶり」の代わりに「なんで、あんたがここにいるのよっ?」、「元気だった?」の代わりに後頭部への蹴り、というのが奈子のエイシスに対する挨拶の典型だった。
しかも、しばらく前に奈子を怒らせて半殺しの目に遭ってる彼としては、愛想のいい奈子などというものは、なにかとんでもないことを企んでいそうで、むしろ不気味でしかない。
「どうしたの? ヘンな顔して?」
「いや…お前、またどこかで頭でも打ったか?」
エイシスはすでに逃げ腰だ。
ソレアもまた、奇妙なものでも見るような表情をしている。
「ナコちゃん…?」
「実はね、お客さんを連れてきたんだ。あんたに会わせようと思って」
これ以上はないというくらい上機嫌な奈子に、エイシスは警戒心を解かない。
この笑顔には絶対なにか裏がある、と。
「入って」
奈子が後ろを振り返る。
「久しぶりね、何年ぶりかしら?」
扉を開けて入ってきた人物を見て、エイシスの動きが止まった。
絶句して立っているエイシスのそばへ行ったフェイリアは、彼の腕や肩をぽんぽんと叩く。
「大きくなったわね〜。本当に」
自分より三十センチ近く長身の傭兵を見上げて、嬉しそうに笑った。
フェイリアと初めて会った頃のエイシスはまだ十二〜三歳の少年で、いまは百九十センチ近い大男なのだから、フェイリアの言葉は文字通りの意味だ。
「フェ…フェア…なのか? 本当に…?」
いまだに自分の目が信じられないといった表情で、エイシスはぎこちなくつぶやく。
最後にフェイリアに会ったのはもう何年も前だったし、なにより、フェイリアはもう死んだと思っていたのだ。
それが、いま自分の目の前に立っている。
以前とほとんど変わらない姿で。
すぐに信じろという方が無理だろう。
「フェア…そうか…生きていたのか…」
喜びと戸惑いが微妙にブレンドされた表情を見せるエイシス。
(もっと喜ぶかと思ったけど…?)
奈子はちょっと不思議に思う。
いつも、不適なにやにや笑いを浮かべているエイシスからは想像できない顔だ。
しかし、すぐに納得する。
(これって…照れてるんだ)
まだ子供で、フェイリアに甘えていた頃の自分を思いだして、恥ずかしがっているのだ。
内心、嬉しくて嬉しくて仕方がないのに、素直になれない。
本当なら、すぐにでもフェイリアに抱きつきたいところだろうが、大人になった自分を見せたくて、なんとか冷静なふりをしようとしているのだ。
「え…と、ま、その、まずは座れよ。いまお茶でも…って、オレの家じゃないんだけど…」
奈子は吹き出しそうになった。
(こいつってば、意外と可愛いところもあるんじゃない)
あの不敵なエイシスが、こんなしどろもどろになって慌てているなんて、めったに見られる光景ではない。
これだけでも、わざわざフェイリアをここまで連れてきた甲斐があるというものだ。
ソレアはまだ、いまいち事情が飲み込めていない様子だったが、とりあえず奈子とフェイリアにお茶を淹れてくれる。
「ところで…誰?」
奈子にだけ聞こえるように、ソレアがささやく。
「エイシスの、初恋の人」
「ああ、あの。フェイリア・ルゥ?」
奈子も小声で答え、立ったままカップを受け取った。
そして、ソファに腰を下ろして話している二人の様子を眺めながらカップを口に運ぶ。
フェイリアがいろいろと、エイシスのことを訊いている。
エイシスは戸惑いがちに、曖昧な返事を繰り返している。
(もう少し、いじめてやろうかな…?)
奈子は、ひとつの悪戯を思い付いた。
なにしろこんなチャンスは滅多にない。
「そういえばさ〜、エイシス?」
奈子はティーカップを持ったまま、壁に寄りかかるようにしている。
口元に笑みが浮かんでいる。
しかしそれはどう見ても、悪意に満ちた笑いだ。
「…なんだ?」
「ハシュハルドの街で、リューリィには会えたの?」
ビクッ
エイシスの動きが凍りついたように止まる。
顔から、血の気がさぁっと引いていく。
まさか、こんなところでその名前を出されるとは…。
リューリィ・リン・セイシェルは、遠く離れたハシュハルドの街に住む、今年十六歳になったばかりの少女である
そして、エイシスとはちょっとした因縁があった。
六年前、ハシュハルドが敵国に攻められたとき、リューリィはエイシスに頼んだのだ。
この街を救って欲しい、と。
その報酬は、彼女自身。
当時はまだ十歳の女の子だったが、十六歳になったら身体で払う、という約束だった。
「きっと、綺麗になってたんでしょうね〜? ハシュハルド一の美女って評判なんでしょ?」
一瞬、背後に殺気を感じて、エイシスはゆっくりと振り返った。
フェイリアの目を見ると同時に、冷や汗が頬を流れ落ちる。
「ふぅぅぅん、そんな娘がいたんだ?」
フェイリアの目は、冷たかった。
「昔は『俺はフェイリアのためなら死ねる!』とか言ってくれたのにねぇぇ? そうよね、エイシスだって、私みたいなおばちゃんより、ぴっちぴちの若い女の子の方がいいわよね〜」
「いや、それは…その…そうじゃなくて…つまり…、ナコッ! てめえ!」
フェイリアの冷たい視線に耐えかねたエイシスは、奈子に責任転嫁しようとする。
「自業自得でしょ、ば〜か!」
突き放すように言うと、奈子は背を向けて居間から出ていってしまった。
まだ、半分くらい残っているティーカップを持ったまま。
エイシスはソレアに視線を移した。
この危機的状況から彼を救ってくれる者がいるとしたら、ソレアの他にはいない。
困ったように、エイシスと、奈子が出ていった扉を交互に見ていたソレアだったが、
「え…と、あ、そうそう! 夕食の買い物に行かなくちゃ!」
見え透いた言い訳を口にして、奈子の後を追う。
あとには、エイシスとフェイリアだけが残された。
もう、逃げ場はない。
「ねぇ、エイシス?」
ゼンマイ仕掛けの人形のようなぎこちなさで、エイシスは振り返った。
フェイリアは微笑んでいる。
「さぁ、ゆっくりと話し合いましょう。久しぶりの再会なんだし、話すことはたくさんあるわ。昔の思い出。この八年間のお互いのこと。そして…」
フェイリアは微笑んでいる。
ただし、こめかみには血管が浮いているし、口元はかすかに引きつっていた。
「そして、ハシュハルドに住む女の子のこととか…ね?」
今夜は、エイシスの人生の中でもっとも長い夜になりそうだった。
エイシスを見捨てて居間から抜け出した奈子は、二階にあるソレアの書斎にいた。
特になにをするでもなく、ぼんやりと窓の外の夕焼けを眺めている。
机の上に置かれた地球儀が、長い楕円形の影を落としている。
少し遅れて階段を上ってきた足音に奈子が振り向くと、書斎の入り口にソレアが立っていた。
「フェイリア・ルゥと何処で知り合ったの?」
ソレアには珍しく、きびしい口調だった。
奈子はそれに答えることができず、視線を逸らす。
聖跡へ近付いてはいけないと、ソレアからもファージからも固く止められていたのだ。
「聖跡へ行ったのね?」
それは、質問ではなく確認。
奈子は、小さくうなずいた。
「…ごめんなさい」
唇の間から、かすかな声が漏れる。
「なにを見たの?」
「なにって…その…いろいろと…」
ほんの一瞬だけ視線を向けると、ソレアは、真っ直ぐに奈子を見つめていた。
それはまるで、奈子の心の奥まで見透かしているような瞳。
めったに見せることのない、きびしい表情だった。
奈子が、ソレアのこんな顔を見たのは過去に一度だけだ。
初めて会ったとき、まだソレアが奈子の素性を疑っていたときのこと。
(ソレアさん…どうしてこんなに怒っているの…?)
そりゃあ、勝手に聖跡へ行ったことは悪かったけど、なんとか無事に帰ってきたんだし、もういいじゃない。
奈子はそう思う。
表向き、生きて帰ったものはいないといわれている聖跡から、こうして帰ってきたんだから、むしろ喜んでくれたっていいはずだ。
(あれ…?)
ソレアの様子は、なにかおかしい。
普通なら、伝説の聖跡へ行ってきたとなれば、その話を根掘り葉掘り聞きたがるのではないか?
先刻のソレアの台詞…「なにを見たの?」は、聖跡の中になにがあったのかを知りたがっている雰囲気ではなかった。
それはまるで…
聖跡の中で、奈子がなにか見てはいけないものを見てはいないか、確認するような…。
だとしたら…
「ソレアさんやファージって…聖跡へ入ったことがあるの?」
ソレアはその問いには答えなかった。
ただ、こう言っただけだ。
「あなた…少し深入りしすぎたわね」
一瞬、殺気を感じたように思ったのは気のせいだろうか。
しかしソレアはすぐに、いつもの優しい笑顔に戻る。
「どうしたの、そんなに怯えて。口封じに殺されるとでも思った?」
まさかその通りだと答えるわけにもいかず、奈子は黙っていた。
「私たちが、そんなことするはずないじゃない」
ソレアはふふ…と小さく笑うが、奈子にとっては笑いごとではない。
「ただ…気をつけてよね。過ぎた好奇心は危険よ。知らなくていいことまで、知ってしまう」
それだけ言うと、ソレアは書斎を出ていった。
夕食の支度があるから、と。
「もちろん、今夜はナコちゃんも食べて行くわよね?」
「…うん、そのつもり」
それから、奈子は少し考えて、階段を下りていくソレアに向かって言った。
「知らない方がいいことなんて、ないよ。なにも知らないことが、いちばん不幸なんだ」
自分の世界に戻った奈子は、家に帰らずに真っ直ぐ由維の家へ向かった。
考えてみれば、卒業式の日以来、由維には会っていない。
あの『ワサビ入り味噌汁』のあと、ちゃんと謝ってもいないのだ。
(あのあといろいろと、ごたごたしてたもんなぁ。でも…一週間もほったらかしってのは…)
非常にまずい。
今度は、ワサビくらいでは済まないだろう。
奈子は、二階にある由維の部屋を見上げた。
部屋には明かりがついている。
道端の雪を丸めて小さな雪玉を作り、窓にぶつけた。
パシャッ
小さな音を立てて、くだけた雪玉が飛び散る。
三十秒ほどたって、奈子がふたつ目の雪玉を投げようかと思いはじめたとき、窓が開いて小柄な人影が身を乗り出した。
「由維…アタシ」
由維にだけ聞こえるように、ささやくように言った。
と同時に、
「あ、危な…!」
いきなり、由維が窓から飛び降りた。
奈子は窓の下に駆け寄ろうとしたが、由維は驚くほどの身軽さで、全身のバネで衝撃をころして静かに着地する。
一見ニブそうに見える由維だが、実のところ運動神経はかなりいい。
奈子の前に立った由維は…ぷぅっとふくれていた。
それはまるで下関のフグだ。
(あ…やっぱり怒ってる…)
奈子は顔の前で両手を合わせる。
「ごめん、由維。ちょっと…向こうでまたちょっとした事件があってさ…」
「また、どこかで浮気してたんじゃないでしょうね?」
由維は疑わしげに奈子を見上げる。
「し、してないしてない!」
(今回はファージに会えなかったし…)
「ホントに?」
「ホントホント」
(フェイリアは美人だけど、アタシは年下の方が好きだし…)
まさか胸の内を見透かされてるわけではないだろうが、由維はいまいち納得していない様子だった。
口を尖らせて文句を言う。
「せっかく春休みだってのに、奈子先輩ってば向こうに行ってばっかり。ちっとも遊んでくれない」
「春休みって…一年生はまだ学校じゃん?」
「三月後半の授業なんて、誰も聞いてませんよ。期末試験も終わったし」
由維が、奈子の腕にぎゅっと抱きついてくる。
服の上から見ただけではほとんどわからないような胸のふくらみも、そうするとはっきり感じられた。
薄いセーターを通して、胸の感触が伝わる。
(ふぅん…由維も少しは成長してんだねぇ…)
その新鮮な驚きに、奈子の頬が少し赤くなる。
「えっと…じゃあ、さ…」
奈子はそっと由維の身体に腕をまわし、耳元でささやいた。
「明日、学校サボれる? デートしよっか?」
「…う〜ん」
奈子の胸元に顔をうずめるような姿勢のまま、由維は考えるような素振りを見せる。
「…どうしてもって言うんなら、付き合ってあげてもいいですよ?」
そんな由維の強がりに、奈子は小さく笑った。
片手を由維の頬に当て、上を向かせる。
二人は、鼻が触れ合うほどの距離で見つめ合った。
「…どうしても。アタシ、由維とデートしたいの」
由維を抱いた手に力を込める。
上を向いたまま、由維はまぶたを閉じた。
なんの迷いもためらいもなく、奈子は唇を重ねる。
唇と唇、舌と舌が触れ合う感触が心地よい。
と、その時、
青白い閃光が一瞬、二人を照らした。
そして…
「お二人さ〜ん、近所の人に見られないように気をつけてね〜?」
頭の上から、陽気な声が聞こえてくる。
開けたままにしていた窓から、由維の姉の美咲が二人を見おろしていた。
その手に、大きなストロボをつけたカメラがあるのを見て――
由維を抱きしめたまま、奈子は固まってしまった。
そして由維は――
奈子に抱きしめられたまま、何故か小さくVサインを出していたりする。
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