四章 銀砂の戦姫


「やれやれ、なんとも殺風景な土地だな」
 男は、忌々しげにつぶやいた。
 周囲には、岩と砂ばかりの風景が広がっている。
 乾いた風が、灰色の砂を巻き上げる。
 ところどころに、乾燥に適応したわずかな植物の茂みがあるだけ。
 灰色の乾いた大地を踏みしめて、数千の軍勢が行進していた。
 サラート王国の旗印が見てとれる。
 周囲の景色に文句をつけているのは、サラート軍の先鋒を指揮する将軍、クレース・ネインだった。
 歳の頃は三十代半ば。
 マイカラスとの国境であるこの砂漠を除けば、サラートは森の多い豊かな土地だ。
 生粋のサラート人であるクレースは、こんな土地には不慣れだった。
 文句のひとつも言いたくなるというもの。
 しかし、先鋒を任されることは武人の誇りだ。
 それがどんな地であろうと、行かねばならない。
 彼が現在率いている兵は、約三千五百。
 後方の砦には、さらに一万を超える本隊が控えていた。
 クレースの任務は、第一にマイカラス領内に橋頭堡を築くこと。
 そして機会があればマイカラス軍と一戦を交え、その力量を計ること。
 もちろん彼自身は、それだけですますつもりは毛頭なかった。
 現段階でマイカラス軍が投入できる戦力は、二千前後と推測されている。
 彼の軍だけで、戦力は敵を大きく凌駕しているのだ。
 この砂漠でマイカラス軍を撃ち破れば、敵の王都まで一気に侵攻できることは間違いない。
 それほどの手柄のチャンスを逃すつもりはなかった。
「将軍…」
 隣にいた副官が声をかけてくる。
「うむ、そうだな」
 クレースは手の中の地図を見てうなずく。
 地図にはこの先、いま進んでいる道を挟むようにして、二つの小さな砦が描かれている。
 マイカラス王国の古い砦だ。
 近年は使われていなかったはずだが、この戦のために再び手入れをして、サラートの軍勢を待ち受けていたとしても不思議ではない。
 このまま無防備に進むのは危険だった。
 クレースは進行を止め、二つの砦に斥候を出すように命じる。
 しばらくして無事に戻った斥候は、両方の砦に少なくとも数百の兵が配備されていることを報告した。
 クレースは考え込む。
 砦を無視して前進すれば、左右から挟撃されるのは明らかだ。
 片方に戦力を集中して攻めれば、もう一方の軍勢に背後を衝かれるだろう。
 かといって、二つの砦を同時に攻めるには少々戦力が足りない。
 攻城戦は常に、守り手よりもはるかに多くの寄せ手を必要とする。
「やはり、片方ずつ攻めるしかないか」
「しかしそれでは、もう一方の敵に背後を衝かれるのでは?」
 副官の忠告は常識論だが、しかし的確でもあった。
「まあ、そうだろうな。マイカラスの連中がとんでもないマヌケでない限りは。だから、それを逆手に取る」
 クレースは含みのある笑いを浮かべた。



 クレース率いるサラートの軍勢は、マイカラスの砦のひとつを激しく攻めたてていた。
 砦の中の兵力は数百程度と思われるが、それにしては三千を超えるサラート軍に対してよく持ちこたえている。
「さて、そろそろだと思うが…」
 クレースのつぶやきに応えたわけではあるまいが、同時に後方からの知らせが届いた。
 砦を攻めるサラート軍の背後に、もう一つの砦から出撃したマイカラスの兵が迫っているというのだ。
 それこそ、クレースが待っていたものだった。
 すかさず全軍に対して指示を出す。
 それまで砦を攻めていた軍勢の過半が、反転して新手の敵に向かう。
 残った一部の兵は、砦の軍勢が出撃して背後を衝くのを防ぐ役目だ。
 それならば、最小限の戦力を割くだけで事足りる。
 これが、クレースの作戦だった。
 砦に立てこもっていればこそ何倍もの敵に立ち向かえるが、野戦でこれだけの戦力差となれば、勝敗の行方は見えている。
 砦のひとつを攻めるふりをして、もう一方の砦の軍勢を誘い出し、野戦で殲滅する。
 そうすれば、背後の心配なしに残った砦も攻め落とせるというものだ。
 ここまではまったく思惑どおりに進んでいた。
 クレースは、勝利の予感にほくそ笑む。
 マイカラスの新手は、最大限に見積もってもせいぜい千騎。
 対するこちらは三千近い兵力を割けるのだ。
「意外と、簡単だったな」
 隣の副官に向かって笑う。
 副官がなにか応えたが、しかしその声は、突如背後でおこった鬨の声にかき消された。
「な、なにごとだ?」
 あわてて背後を振り返る。
 砦の周囲でなにやら騒ぎが起きている様子だったが、少し距離があるのではっきりとはわからない。
「あれは…」
「将軍、あれは、マイカラスの軍勢です!」
 副官が叫ぶ。
 間違いなかった。
 砦の抑えに残していた軍勢が、マイカラスの騎馬軍団に急襲されている。
 それと呼応して、砦の兵も出撃していた。
 その兵力を合わせると、砦を包囲していたサラート軍の二倍にはなる。
 二倍の敵に、それも不意を衝かれて、サラート軍は総崩れになるところだった。
「なんだと…」
 わけがわからないといった様子でつぶやいたクレースは、
「やられたっ!」
 かっと目を見開いて叫んだ。
 敵を罠にはめたつもりで、いつの間にかこちらが敵の術中に落ちていたのだ。
 マイカラス軍は、二つの砦に兵力を分散していると思っていた。
 だから、その敵を誘い出して、各個撃破する作戦を考えた。
 作戦は成功したはずなのに、実はマイカラス軍は、兵力を三つに分けていたのだ。
 二つの砦に配置した兵は、サラート軍をおびき寄せる囮だった。
 主力を遊軍として、砦を攻めるサラート軍の背後を衝く作戦だったに違いない。
「くそっ!」
 クレースがそれに気付いたときには、あとの祭りだった。
 砦の周囲のマイカラス軍は、すでに算を乱して敗走している。
 マイカラス軍の新手に向かった主力はまだ無傷とはいえ、ちょうど前後から挟撃される形になっていた。
 そしてなにより、マイカラスの新手に主力を差し向けた現在、将軍であるクレースの周囲の護りは、ひどく手薄であった。
 砦の周囲を制圧したマイカラスの軍勢が、こちらへ向かってくる。
 クレースは馬首をめぐらせた。
 とにかく、主力部隊と合流しなければ自分の命も危ない。
 しかし馬を駆けさせようとしたとき、彼の前に一騎の騎馬が現れた。
 馬具には、マイカラス王国の紋章が刻まれている。
 馬上で長い銀髪を風になびかせたその騎士は、まだ若い女性だった。
「残念ながら、あんたの命はここで終わりだよ。クレース・ネイン」
 鋭い瞳で彼を見る。
「何者だ、貴様!」
「将軍、こいつは、ダルジィ・フォア・ハイダーです! マイカラスの戦姫との異名を持つ騎士…」
「なんだと!」
 その言葉が終わる前に、ダルジィが動いた。
 クレースと副官の間を、疾風のように駆け抜ける。
 一瞬遅れて、副官の身体は馬から落ち、砂の上に赤い染みが広がっていった。
 いつの間に抜いたのだろう、ダルジィの手には、やや細身の長い剣が握られている。
 ひとすじの赤い液体が、刃の表面を流れ落ちる。
 ダルジィは大きく剣を振って、刀身に付いた血糊を飛ばした。
 クレースの周囲にいた十騎ほどの騎士たちは、そのときになってようやく反応する。
 クレースをかばって、ダルジィの前に立ちふさがった。
 ダルジィは手綱を握りなおすと、その中に突っ込んでいく。
 信じられない速さだった。
 砂と岩であまり足場のよくないこの場所で、まるで整備された馬場にでもいるかのように、華麗に馬を操る。
 騎士たちがダルジィを狙って剣を振り下ろしたり、呪文を唱えたりしたときには既に、ダルジィはその側面や背後に回り込んでいた。
 細身のその剣が一閃するたびに、サラートの騎士の血しぶきが舞う。
 クレースは、信じられないものを見るようにして、呆然と立ちつくしていた。
 彼を護っていたのは、みなそれなりに腕の立つ者ばかりである。
 それがこんな一方的に。
 たったひとりの敵…それも女相手に。
 自分の目の前で起きていることとはいえ、にわかには信じられない。
 だが、紛れもない現実だった。
 マイカラスの戦姫――その異名が伊達ではないと、まざまざと見せつけられた。
 ひとまわり以上大きな体躯をした相手の斬撃をいとも簡単に受け流し、返す刀でその相手を両断している。
 ダルジィがなまじ美しい顔をしているだけに、体中に返り血を浴びたその姿は、人間のものとは思えなかった。
 彼女は口元に笑みすら浮かべている。
 凄惨な笑みだった。
 戦姫というより、戦鬼とでもいうべきだろう。
「さあ、邪魔者は片付いた。あんたの番だよ」
 クレースを護っていた騎士の最後の一人が、馬ごと、どうと音を立てて倒れる。
 ダルジィの剣は、騎士の身体のみならず、その馬の首まで深々と切り裂いていた。
 他の者はすべて倒れ、クレースと、ダルジィだけがそこに立っている。
 これだけの凄まじい闘いをしていながら、ダルジィも、その馬も、うっすらと汗をかいている程度に過ぎない。
 クレースは、背筋が凍るような思いがした。
 とんでもない相手と、一対一で向かい合っているのだ。
 一瞬、逃げることが頭に浮かんだ。
 しかしすぐにその考えを捨てる。
 砂漠に不慣れな自分と、逆にこの砂漠での馬の扱いを知り尽くしているダルジィとでは、どうあがいたところで逃げ切れるものではない。
 だとしたら、残された手はひとつ…。
 クレースは剣を抜いた。
 生き残るためには、目の前の相手を倒すしかない。
 彼も、サラートの騎士として恥ずかしくないだけの実力は持っていた。
 いまでこそ実戦で剣を振るう機会など少ないが、若い頃は周囲から一目置かれていたものだ。
 ならば、闘った方がよい。
 少なくとも、背を向けて逃げるよりは生き残る可能性は高そうだった。
 騎士としてのプライドもあった。
 そう、こんな小娘に負けるはずがない、と。
 クレースは、剣を握る手に力を込めた。
「一応、騎士としての誇りはあるようだな」
 薄笑いを浮かべ、ダルジィは剣を水平に構えた。
「いざ、参る!」
 一瞬で、ダルジィは間合いを詰める。
 クレースがなんの反応もできないうちに、ダルジィの剣が風を切った。
 瞬きするほどのわずかな間に、二人の馬はすれ違う。
 ギィンッ!
 剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。
 ほとんど奇蹟に近いことだが、クレースはダルジィの剣を受け止めた。
 いや、違う。
 ダルジィが、わざとクレースが構えた剣を狙って打ち込んだのだ。
 キィ…ン
 高い音を立てて、クレースの剣が根本から折れた。
 柄と、根本少しだけを残して。
 クレースの剣は、地面に落ちて突き刺さる。
「ばか…な」
 剣の柄を握りしめる手が震えていた。
 驚きと、恐怖と、そしてダルジィの斬撃を受け止めたときの衝撃のためだ。
 見ているものが、信じられなかった。
 彼の剣は、サラートでも指折りの刀匠が鍛えた業物である。
 そうやすやすと、刃こぼれすらするものではない。
 その刃を、まるでチーズでも切るかのようにやすやすと切り落としたのだ。
 とてもそんな荒技に耐えられるようには見えない、ダルジィの細身の剣が。
 冗談じゃない!
 クレースは心の中で叫んだ。
 こんな相手と、戦えるはずがない。
 折れた剣と一緒に、恥も外聞も捨てて、騎士のプライドもかなぐり捨てて、クレースは逃げ出した。
 その背後に、蹄の音が迫る。
 かすかな、風を切る音。
 背中に鋭い痛みが走った。
 しかしそれでも、深手は負わなかったようだ。
 馬から転げ落ちそうになりながらも、なんとかたてがみにしがみつき、クレースは馬を走らせた。
 後ろを振り返る余裕もない。
 しかし、その後はダルジィが追ってくる気配は感じなかった。


「腰抜けが…」
 地平線に向かって小さくなってゆくクレースの背中を見ながら、ダルジィが吐き捨てるように言った。
 剣に付いた血糊を拭って、鞘に収める。
 もう夕方だった。
 気温が下がって、風が吹きはじめている。
 ダルジィの長い髪が、風にたなびく。
 地面に落ちた長い影も揺れている。
 その地面に横たわるのは、十人ほどの騎士の骸と、四〜五頭の馬。
 運良く無傷だった馬は、どこかへ逃げてしまったようだ。
「ふん…」
 ダルジィは小さく鼻を鳴らす。
 背後から、蹄の音が近づいてきた。
 聞き覚えのある音だ。
 だから、いちいち振り向きもしない。
「そっちは、片付いたのか?」
 背を向けたまま、まるでひとりごとのように訊く。
「ああ」
 背後の人物が応えた。
 低い、男の声だ。
「いくら数が多くても、指揮官のいない軍勢など敵じゃない。地の利もこちらにあるしな。何ヶ所かに伏兵を潜ませておいた。簡単な戦いだったな。それよりダルジィ…」
 名前を呼ばれて、ようやくダルジィは振り向く。
 そこにいるのは、大きな男だった。
 その巨体にふさわしい、素晴らしい体躯の馬にまたがっている。
 身体にも、馬にも、べっとりと血が付いていた。
 しかし、怪我をしている様子はない。
 返り血なのだろう。
「どうして、とどめを刺さなかった?」
「あんたが私の立場だったら、あいつを殺したかしら、ケイウェリ?」
 逆に聞き返されて、ケイウェリは顎に手を当てる。
 答えは考えるまでもない。
「いや、殺さなかっただろうな」
「そうだろう。ああいう無能なヤツは生かしておくに限る。いつか、我が国の役に立つからな」
 ケイウェリも、同じ考えだった。
 有能な敵なら、殺すか、捕らえるかしなければならない。
 しかし、地位に見合った能力を持たない敵は、生かしておいた方がいい。
 後任が、それより無能である可能性は低いのだから。
 無能な敵は、いってみれば味方と同じだ。
 自軍の足を引っ張ることによって、こちらの助けとなってくれる。
「それに…」
 ダルジィは言葉を続ける。
「あんな無能な男だって、死ねば悲しむ人間がいるだろう。家族とか、友人とか。私はそんな連中に恨まれたくはないからな」
「怖い女だな、お前は」
 ケイウェリは苦笑した。
 ダルジィの真意は、けっして言葉どおりではない。
 それはよくわかっている。
 クレースはこの場を生き延びたが、だからといって長生きできる保証もなかった。
 今日の戦いでのサラートの損害は、軽微なものではないのだから。
 生きて国に戻ったところで、敗戦の罪を問われて処刑される可能性も高いだろう。
 ダルジィはそれを望んでいるのだ。
 彼女が自分の手でクレースを殺していれば、クレースの遺族や友人は、ダルジィと、そしてマイカラス王国を憎むことになる。
 だが、国に戻って処刑されたとなると…。
 その憎しみのベクトルは、少し違った方向を向く。
 つまり、処刑を命じた人物に。
 それはすなわち、サラートの国内に不和の種をまくことになる。
 ダルジィは、そこまで考えているのだ。
 その優れた剣技と激しい気性ばかりが目につくダルジィだが、ただそれだけの人物ではないことを、ケイウェリはよく知っていた。
 今回の作戦だって、主にダルジィが考えたものだ。
 もっとも、それはケイウェリの考えと大差ないものだったので、彼が口をはさむ必要もなかったのだが。
 猛将であり、闘将であり、そして智将である。
 なおかつ、最高の剣士でもある。
 それが、ダルジィ・フォア・ハイダーだった。
(こういうところは、父親そっくりだよな…)
 そう、ケイウェリは思う。
 ダルジィの父親、サイラート・フォアも優れた剣技の持ち主だったが、それ以上に、智将として名高かった。
 五年ほど前に戦場での怪我がもとで引退したが、ケイウェリはまだ十代の頃、サイラートについて剣技と戦術を学んでいたのだ。
 ダルジィの母親は、優しい、物静かな人だった。
 だから間違いなく、ダルジィは父親似だった。
「次は誰が来るかな…?」
「ん?」
 ダルジィの言葉はひとりごとのように小さなもので、ケイウェリは、それが自分に向けられたものとはすぐに気付かなかった。
「サラートだよ。次は誰を前線に送り込んでくると思う? まさか、これであきらめはしないだろう」
「ああ、そうだな。俺としてはあきらめて欲しいところだが…まあ、そうもいくまい」
 ケイウェリはわざと軽い調子で肩をすくめた。
 二人ともわかっている。
 戦いはまだ始まったばかりだ。
 そして、次の戦いはもっと苦しいものに違いないことを。



 サラート軍の対応は、予想以上に素早かった。
 すぐさま、新たな将と五千の兵を前線へと送り込んでくる。
 サラートの総大将は、けっして無能ではないようだった。
 ダルジィたちは囮の部隊を使って敵を誘い出し、兵力を分散させて各個撃破を試みたのだが、相手はそう簡単には乗ってこなかった。
 かくして、ケイウェリとダルジィが率いる約二千のマイカラス軍は、約二千五百のサラート軍と、正面から衝突することになったのである。
 五百の差とはいえ、マイカラス軍の方がこの砂漠に慣れていることを考えると、戦力はほぼ互角といってもいい。
 しかし、これは誤算だった。
 もっと、圧倒的に有利な状況を作りだしてから戦端を開くつもりでいたが、今度のサラート軍の指揮官は、そこまで思い通りには行動してくれなかった。
 ほとんど障害物のない、開けた地での野戦。
 これでは、伏兵による奇襲も仕掛けようがない。
 単純な消耗戦。
 それは、ケイウェリとダルジィにとってはいちばん避けたいことだった。
 サラート軍は、分散させた残り二千五百の兵の他、後方にはまだ約一万の軍勢が控えている。
 たとえ目の前の敵を倒したところで、マイカラス軍の損害が大きければ、残りの敵を抑えることができない。
 いまケイウェリとダルジィが敗れれば、マイカラスの王都を護る軍勢は、二千にも満たない。
 せめて、王都の備えがもう少し整うまでは、この砂漠でサラート軍を足止めしつづけなければならないのだ。
「やれやれ…まいったな…」
 ケイウェリは額の汗を拭いながらつぶやいた。
 今のところ、彼の軍勢は互角以上の戦いをつづけていて、大きな損害も出ていないが、しかし素直に喜べる状況ではない。
 サラート軍は、待っているのだ。
 囮の誘いに乗って分散させてしまった部隊が合流するのを。
 そうすれば戦力差は二倍以上になる。
 それまで、無理な攻めはせずに守りに徹しているのだろう。
 ケイウェリはそう判断する。
 彼としては、できればこの場は撤退したかった。
 撤退して、もう一度作戦を立て直すべきだろう、と。
 そもそも兵数では大きく劣るのだから、まずは策によって圧倒的に有利な状況を作りださない限り、勝利はおぼつかない。
 こんな、五分の状況で正面からぶつかり合うような戦いは不本意だった。
 一刻も早く、撤退した方がいい。
 これ以上損害を出さないうちに。
 この戦闘だけを考えれば、勝利を収めることは可能だろう。
 しかしサラート軍と違い、マイカラスには十分な予備兵力などないのだ。
 相手もそのことはよくわかっているようだった。
 積極的に攻めずに守りに徹しているように見えて、しかしマイカラス軍が退こうとすると、そこにつけ込むように攻勢に転じてくる。
 これでは、下手に撤退などすれば多大な損害を出すことになってしまう。
「今度の敵将はなかなか切れ者だな、ったく…」
 戦況を変えるためには、少しばかり無理をしなければならないかもしれない。
 そうケイウェリが考えたとき…。
 マイカラス軍の右翼、ダルジィが指揮している軍勢の中に、それまでとは違った動きが見られた。
 ケイウェリはすぐに、ダルジィの意図を察する。
「…あの、じゃじゃ馬が!」
 しかしその表情は、口調ほどには厳しいものではない。
 彼女がやろうとしていることは危険な戦法ではあったが、敵に最大限の損害を与え、自軍の被害を最小にして撤退するにはたしかに効果的だった。
 ダルジィがやらなければ、自分で同じことをしていたかもしれない。
 少しばかり、彼女の方が短気だったというだけのことだ。
 ダルジィの動きを見ていたケイウェリは、少し考えてから新たな指示を部下に伝える。
 ダルジィが作りだした新しい状況を最大限に利用し、その上で彼女をサポートしてやらなければならなかった。


 ダルジィは麾下の軍勢の指揮を副官に任せると、二百騎ほどを率いて本隊とは別行動をとった。
 隊形をくさび形に変え、自らその先頭に立って全速力で敵陣へと突入する。
 この捨て身の突撃で、サラート軍の陣形は大きく乱れた。
 突撃してきた軍勢を包囲しようとしたのだが、マイカラス軍の移動速度に対応しきれず、結果として自ら陣形を乱すことになっていた。
 その中を、ダルジィに率いられた二百騎の騎士たちが進む。
 一瞬たりとも、立ち止まることはない。
 速力こそが命だった。
 時折、敵が放った魔法が身体をかすめるが、そんなものは気にもとめない。
 ダルジィ自身は攻撃魔法を使うことはなく、その魔力のすべてを防御のために費やしていた。
 攻撃は剣だけで充分だった。
 前に立ちふさがる敵は、一刀のもとに切り捨てる。
 ダルジィの剣を受けられる者など、そうそういるものではない。
 敵の騎士を切り捨て、歩兵を馬で踏みつぶし、ダルジィは突き進む。
 それはまるで、銀色の疾風だった。
 風が通りすぎたあとには、赤い血の痕だけが残った。
「…恐ろしい女だな」
 サラート軍を指揮する将軍、エカルケ・ヌカルは、半ば呆れたように、そして半ば感心したようにつぶやいた。
 彼のところからでも、鬼神のごときダルジィの戦いぶりははっきりと見てとれる。
「このままでは、完全に陣を突破されるぞ。ここまでたどり着くかもしれないな」
「まさか…。いくらなんでもあの小勢で、あんな無茶な突撃がいつまでも続くわけがない」
 エカルケよりもかなり年輩の副官が苦笑する。
 まだ二十代後半のエカルケの方が、よほど深刻な表情をしていた。
「いや、笑い事ではないぞ。話には聞いていたが、マイカラスの騎士がこれほどのものとは思わなかった。そろそろくい止めないと、我が軍の陣形がずたずたにされてしまう。マイカラス軍が全面攻勢に転じたら、総崩れになるぞ」
 エカルケは眉をひそめて言う。
 もちろん、あの二百騎の過半は無事に生還することはないだろう。
 それを覚悟の上の突撃なのだ。
 嫌な相手だな、とエカルケは思う。
 単に、捨て身の突撃が嫌なわけではない。
 戦はそれだけで勝てるほど簡単なものではない。
 ただ無鉄砲な突撃をするだけの相手なら、簡単にあしらう自信がある。
 彼は前任のクレース・ネインよりもずっと若いが、知略に関しての評価ははるかに上だった。
 無駄死にをする敵は怖くない。
 しかし、死に場所を知っていて、そこで命を捨てて闘う相手は怖い。
 このマイカラス軍の嫌なところは、犠牲の出し方を知っていることだ。
 戦には犠牲はつきもの。
 これだけの規模の戦いになれば、どうやったところでまったく犠牲を出さずに済ませることはできない。
 マイカラスにとってこの戦は、どんな犠牲を払ってでも勝てばいいというものではない。
 後方にはまだサラートの大軍が控えているのだから。
 しかし、自軍に犠牲を出したくないからといって、敵が無傷でいるのも困る。
 最小限の犠牲で、最大の戦果を挙げること。
 犠牲が出るのは仕方ないが、無駄な犠牲は出さないこと。
 それが、戦の真髄だ。
 その点で、マイカラス軍のこの突撃は、いまの状況下で、最大の戦果を挙げることのできる戦法だった。
(ダルジィ・フォアは、それを計算した上で捨て身の攻撃をしているに違いない…)
 エカルケとしては、急いで対策をたてる必要があった。
 別働隊との合流を待つために、ゆっくりとしたペースの戦いをつづけていたことが裏目に出ている。
 マイカラス軍の急な動きに、兵が対応できていない。
 兵数ではこちらが圧倒的に多いのに、それぞれの小隊が連係できずに個別に戦っているため、実質ほとんど同じ兵数での戦いになってしまっている。
 それでは、イニシアチブをとっているマイカラス軍の方がはるかに有利だ。
 しかも、ダルジィ・フォアが強すぎる。
 百や二百といった小勢での戦いでは、ひとりの手練れが戦況を左右する。
 サラートの兵の多くは、既に恐怖心にかられているようだった。
「まずいな…」
 エカルケにとっては面白くない状況だった。
 このままでは、たとえ数にものをいわせてダルジィを倒したところで、兵の間にマイカラスの騎士に対する恐怖心が残るだろう。
 それでは、今後の戦に差し支えることになる。
 そうならないためには…
「一騎打ちで、勝つしかないな」
 独り言のようにつぶやいた。
 そうすれば、兵たちは勇気づく。
 自軍の騎士がマイカラスの騎士よりも強いとなれば、士気は一気に昂揚する。
 今後のために、それはぜひとも必要なことだった。
「将軍、私が行きましょう」
 エカルケの傍にいた、一人の騎士が太い声で言った。
 ケイウェリにもひけを取らないような大男だ。
「あの小娘をこのままにはしておけん。私が止めてきます」
 彼もまた、エカルケと同じことを考えていたのだろう。
 エカルケはうなずいた。
「よし。セイコルド、お前に任せる。ダルジィ・フォアさえ倒せば、敵は殲滅できるはずだ」


 全力で馬を駆けさせるダルジィの前に、突然、一人の大男が立ちふさがった。
 ダルジィの剣が閃く。
 鋭い金属音を立てて、二人はすれ違った。
 セイコルドは、体躯にふさわしいその大剣で、ダルジィの打ち込みを受け止めていた。
 そのまま、剣を振る。
 ダルジィの後に続いていたマイカラスの騎士の悲鳴が上がった。
 馬を止め、ダルジィが振り返る。
「ほぉ…やるな。貴様たしか…セイコルド・カシュといったか?」
「オレの名を知っているのか、光栄だな。では、オレと勝負してもらおう」
 言うなり、セイコルドはダルジィに突っ込んでくる。
 大きな、肉厚の刃の剣がうなりを上げた。
 ダルジィの剣が、斬撃をを受け止める。
 馬をめぐらし、今度はダルジィから斬りかかる。
 その巨体に似合わぬ素早い身のこなしで、セイコルドは剣をかわした。
 一度お互いに離れて、またぶつかり合う。
 二人の剣の間に、火花が散った。
 打ち合いが何合も続く。
 周囲の誰も、手を出さない。
 いや、手を出せずにいる。
 サラートの兵も、マイカラスの兵も。
 他人の入り込む余地のない、厳しい闘いだった。
 息をつく暇さえないような。
 二人の放つ闘気に、周囲は圧倒されていた。


 もちろん、サラート軍の将エカルケも、この闘いの行方を見守っていた。
「まいったな…」
 頭を掻いてつぶやく。
「ダルジィ・フォアがこれほどのものとは…。ちょっと誤算だぞ」
「女の身で、あのセイコルド相手に互角の闘いができるとは…」
 彼の副官も、驚いた様子だった。
 セイコルド・カシュといえば、サラートでも五指に入る剣の使い手である。
 その巨体と怪力にものをいわせた打ち込みを、まともに受け止められるものなど国内にはいない。
 それを、あの若い女騎士はやってのけているのだ。
 女性にしては背の高い方だが、それでも平均的な成人男子にも劣る。
 その剣も細身で、一見、華奢なものだ。
 それなのに、セイコルドを相手に一歩も退かずに闘い続けている。
 この目で見ても、にわかに信じられるものではなかった。
「あの剣…王国時代の作だな。でなければ、いくら腕が立つにしても、セイコルドの大剣を受けられるはずがない」
「王国時代の?」
「マイカラスのハイダー家は、トリニアの時代から続く名家だろう。剣の一振りくらい、遺っていてもおかしくはない」
 そして、王国時代から伝わっているのは、剣だけではなかった。
 ダルジィの剣技、現代のものとは少し動きが違う。
 トリニアの時代の騎士剣術だ。
 トリニア王国を最強たらしめた剣技。
 王国時代の末期に築かれ、他国との交流がそれほど多くなかったマイカラスには、まだこうした古い技術や文化が残っているのだった。
「セイコルドが勝っても負けても、すぐに兵を退かせろ」
「何故です?」
 エカルケの指示に、副官は意外そうな声を上げた。
「敗れたときはともかくとして、ダルジィ・フォアを倒せば、マイカラスの兵は浮き足立ちます。一気に叩く好機では?」
「長引きすぎだ。ダルジィ・フォアの背後には、あのケイウェリ・ライが控えている。いくらセイコルドでも、二人続けて勝てる見込みはあるまい」
 マイカラス軍の方にいくら目を凝らしても、彼らの位置からでは、最強の将ケイウェリ・ライの姿は見当たらなかった。
 ということは逆に、一番いて欲しくない場所にいるに違いないということだ。
「ダルジィ・フォアを倒したところで兵を引けば、今日の戦はこちらの勝ちだ。だが、セイコルドがケイウェリ・ライに敗れれば、引き分けということになってしまう。戦力で劣る相手に引き分けてはいかん」
 ダルジィやケイウェリにとってそうであったように、エカルケにとっても今日の戦は不本意だった。
 せっかく敵の倍以上の戦力を用意したのに、相手の策にはまって五分の兵数での戦いになってしまった。
 途中で敵の企みに気付いたから良かったようなものの、ひとつ間違えばさらに不利な状況に追い込まれるところだったのだ。
 相手に主導権を握られた戦は危険だ。
 今日のところは一度兵を退き、戦力を集結させたところで再戦を挑むべきだった。
 しかしその隙が見いだせずにいるところで、ダルジィのあの突撃である。
 セイコルドにダルジィを止めさせて、その隙に撤退するつもりであった。


 ダルジィとセイコルドの闘いは、まだ続いている。
 二人とも汗ぐっしょりで、致命傷には遠いがいくつかの傷を負っていた。
 そしてそれ以上に、馬の方が息を切らせている。
 ダルジィは馬から飛び降りた。
「そろそろ、決着をつけようじゃない?」
 笑みすら浮かべてそう言うと、汗で額に張り付いた髪をかき上げる。
 セイコルドもそれに応え、馬から下りて剣を構えなおした。
「その身体でオレと互角に戦うとは、まったく称賛に値する。しかし、これで終わりだ!」
 全体重を乗せて、セイコルドは剣を振り下ろす。
 城の門ですら一撃で破ってしまうのではないかと思われるその打ち込みを、ダルジィは剣で受けながら、身体を開いて相手の剣を受け流し、一歩前に踏み込む。
 密着した体勢から、下からすくい上げるように剣を振った
 セイコルドが大きく飛び退く。
 さらにそれをダルジィが追う。
 右から斬りつけると見せかけて、瞬時に剣を左手に持ち替える。
 セイコルドは一瞬狼狽したが、それでも辛うじてその打ち込みを受け止めた。
 ダルジィの連撃は続く。
 もう体力は限界の筈なのに、その動きはいっそう速くなるようだった。
 剣を振るたびに、汗と血が滴となって飛び散る。
 靴が地面を蹴る音、剣が風を切る音、そして硬い金属のぶつかり合う音だけが響く。
 上下左右、めまぐるしく方向を変えて打ち込んでくるダルジィに対し、セイコルドの反応が遅れはじめていた。
 自分の不利を感じたセイコルドは、最後の力を振り絞る。
 相手の攻撃の一瞬の隙を衝いて、その大剣を大上段から振り下ろした。
 しかしその剣先は、深々と地面に突き刺さっただけだ。
 ダルジィは一瞬早く相手の懐に飛び込んで、剣を突き上げる。
 狙い違わず、その剣はセイコルドの喉を貫いた。
 セイコルドの口からあふれた血が、ダルジィの身体を赤く染める。
 やがて彼の手から剣が落ち、巨体がゆっくりと崩れた。
 重い音を立てて、セイコルドは地面に倒れる。
 数瞬の沈黙の後、マイカラスの軍勢から喚声が上がり、同時に、サラート軍に撤退を指示する角笛の音が響き渡った。
 金縛りにあったようになっていた兵たちが、再び動き出す。
 撤退するサラート軍を、マイカラス軍も積極的に追撃しようとはしなかった。
 ケイウェリも、兵を退くタイミングを計っていたのだ。
 もう兵の疲労も限界に近いし、間もなく日没だ。
 今日の戦はここまでだろう。
 ケイウェリは兵に指示を与えながら、セイコルドの骸の傍らに立つダルジィに駆け寄った。
 ダルジィは、一歩も動かずにそこに立っていた。
 長い影が地面に伸びている。
 付き合いの長いケイウェリにはすぐわかった。
 もう、まともに動くこともできないくらいに疲れ切っているのだ。
 体力の限界を超えた力を、出し尽くしてしまっていた。
 本当なら、立っていることすら難しいはずだ。
 だが、ダルジィは決して他人に弱みを見せない性格であることを、彼はよく知っていた。
 兵たちの見ている前で、疲れ切って地面に座り込むなどできるはずもないのだ。
 だからケイウェリは彼女の傍に立つと、目立たぬようにそっとその身体を支えてやる。
「お疲れさん」
 小さな声でそう言うと、ようやくダルジィの身体から少し力が抜けたようだった。



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