マイカラスとサラートの戦争は、その後膠着状態になっていた。
砂漠の砦でにらみ合いを続け、お互い決定的な攻め手を見いだせないまま、徒に時が過ぎていく。
やがて近隣の国にも、戦の噂は広まっていった。
奈子がその噂を聞いたのは、タルコプの街で、市場へ買い物に来ていたときのこと。
他の街からやってきた行商人と客の間で交わされる会話の中に、奈子の注意を引くいくつかの単語が含まれていた。
マイカラス……戦争……ダルジィ……国王の出陣……。
ソレアに頼まれた、肉とパンの包みを抱えて歩いていた奈子の足が止まる。
顔から、さっと血の気が引いていた。
「ちょっとおじさん! その話、もっと詳しく聞かせて!」
いきなり現れた少女に襟首をつかまれた行商の男は、わけが分からずに目を白黒させていた。
「おいおい…いったいなんなんだい?」
「いいから、早く、話しなさいよ!」
奈子は、男をつかむ手に力を込める。
「なんなんだよ、いったい…」
男はぶつくさ言いながらも、話をはじめる。
話が進むにしたがって、奈子の表情は徐々に強張っていった。
奈子は、全力疾走でソレアの屋敷へ戻った。
ソレアに頼まれていた買い物はまだ残っていたのだが、いまはそれどころではない。
扉を蹴るように開けて、居間に飛び込む。
「ファージ! ソレアさん! 大変! ハルティ様が…」
そう、言いかけて、
しかし最後まで言う前に…。
気付いてしまった。
奈子の方を振り返った、ファージとソレアの表情を見て。
ほんの一瞬見せた、「しまった」という表情を見て。
それで奈子は悟った。
「……」
一度、口を開いてなにか言いかけて、また口を閉じる。
そのまま少し考えて、ようやく言葉を発した。
「…知ってたんだ、二人とも」
考えてみれば当たり前のこと。
予知や千里眼には希有な力を持つソレアと、いつも大陸中を飛び回っているファージ。
隣国で起きている戦のことなど、知らない方がおかしい。
そう、二人は知っていた。
もっと早くから。
もしかしたら、開戦以前から。
なのに、
なのに…
問いかけるような、怒っているような、硬い表情で奈子は言った。
「…二人とも、知ってたんだ。なのに、アタシは知らなかった…」
困惑したような、気まずい表情の二人。
奈子の手から、買い物の荷物が落ちる。
そんなものには一瞥もくれない。
「どうして…? なぜ、知らせてくれなかったの?」
マイカラスとサラートが開戦した直後くらいにも、奈子はソレアの許を訪れている。
そうでなくとも、ファージはその気になれば、奈子をこちらへ強制的に転移させることもできるのだ。
知らせることはできたはずなのに。
「どうして…」
奈子の問いに、二人は応えない。
「ねぇ、どうして黙ってるの? ねぇ、すぐにマイカラスへ行こうよ!」
ソレアとファージは、ちらと顔を見合わせる。
かすかに、嘆息したようにも見えた。
「ファージ! ソレアさん!」
「行って、どうするの?」
口を開いたのは、ソレアだった。
普段の優しい口調とは少し違う、いくぶん冷たさを感じさせる声。
機械的な、暖かみのない声。
「どうするって…だって…」
「ナコちゃんが行ってどうするの? マイカラスはいま、戦争をしているのよ。人を殺せない騎士が、なんの役に立つって?」
ソレアには珍しい、きつい口調だった。
奈子はごくりと唾を飲みこむ。
「…、だって…でも…。アタシは役に立たなくても、ソレアさんやファージがいれば…」
ファージを見る。
彼女は奈子と目を合わせようとしない。
手の中のティーカップを、じっと見おろしていた。
「あのねナコちゃん、私たち…私とファージが、マイカラスを助けなければならない理由はないのよ?」
「そんな…だって、前は…」
助けてくれたじゃない?
その言葉を飲み込む。
「クーデターの時も、レイナ・ディの墓所の時も、あなたを助けただけなの。今回は単なる国同士の争い、関わる気はないわ。私たちみたいに国に属さない魔術師は、できるだけ中立であるべきなのよ。サラートを敵に回す理由はないの」
それだけ一気に言うと、ソレアはティーカップを手に取った。
「それに、マイカラスからはなんの知らせも来ていないわ。つまり、私たちの助力は求めていないということでしょう?」
そう言って、カップを口に運ぶ。
「だって、戦況は芳しくなくて、ハルティ様が自ら出陣するらしいって…」
「興味ないわね」
ひどく、冷たい台詞だ。
普段のソレアからは考えられない。
「もう一度言うわね。マイカラスはいま、戦争をしているのよ。戦争というものがどんなものか、わかっているのかしら」」
「わかってる…つもり…だけど…」
奈子は口ごもる。
平和な日本で生まれ育った奈子。
本当にわかっているのかと問われれば、自信はなかった。
「戦争とは、つまり殺し合いよ。もっとも規模の大きな、ね。勝者のいない戦争はあっても、敗者のいない戦争はない。敗北とはすなわち、死。勝利とは、敵を殺すこと。
ナコちゃんは、マイカラスを助けろと言う。それはつまり、サラート王国の兵士を殺せということ。人を殺せない騎士が、私たちに人殺しをしろというの?」
痛烈な皮肉だった。
そして、それは事実だった。
それが現実だった。
奈子は、ぎゅっと唇を噛む。
握った拳が、かすかに震えている。
いつかのソレアの台詞を思い出していた。
『正直言って私は、ナコちゃんがこっちに来るのは反対なの』
マイカラスのクーデター騒ぎが終わった後で、ソレアはそう言った。
『この世界は、決して平和なところではないわ。こちらに来る以上、また、今回みたいな目に遭うかもしれないわよ?』
その通りだった。
まったく、その通りだった。
それは、覚悟の上のはずだった。
なのに、自分の覚悟とやらは、なんと半端なものだったことか。
(結局アタシ…、ソレアさんやファージがいなきゃ、ここではなんの力もないんだ…)
無意識のうちに、頼りきっていた。
ソレアとファージがいれば、マイカラスを救えると思っていた。
それがなにを意味するのかも気付かずに。
「帰りなさい」
ソレアがきっぱりと言う。
「戦争が終わるまで、こっちには来ない方がいいと思うわ」
そんなソレアの言葉に、力なくうなずく。
うなずくしかなかった。
肩を落として、部屋から出ていこうとする奈子の背中に向かって、
「ナコッ!」
いままで無言だったファージが、立ち上がって叫んだ。
奈子がゆっくりと振り返る。
「あ…いや…あの…」
急に口ごもるファージ。
視線をそらす。
奈子の目に、かすかに涙が光っているように見えた。
「仕方ないわね…」
ふぅっと息を吐き出して、ソレアがつぶやいた。
ファージと奈子を交互に見る。
「今回は特別よ。万が一の時には、ハルティ様とアイミィ様の命だけは助けてあげるわ。でも、私たちにそれ以上のことはなにひとつ期待しないでね」
奈子は顔を上げて、ソレアを見た。
かすかにうなずいて、
「ひとつ教えて。この戦争、マイカラスは勝つの? 負けるの?」
そう、問いかける。
「さぁ…」
「わかってるんでしょう?」
「言っとくけど、私の予知の力は百パーセント的中するわけではないわ。すべてを知っているわけではない。それにね…人は、必要以上の未来を知るべきでもない」
ソレアは、それ以上のことを言う気はないらしい。
奈子は、ソレアから回答を引き出すことをあきらめて部屋を出た。
一度、後ろを振り返って、二人をきっと睨みつける。
そうして、叩きつけるように扉を閉めた。
奈子が出ていってしばらくの間、ファージもソレアもただ黙っていた。
ファージは、ソレアを責めるような目つきで睨んでいる。
小さく肩をすくめて、ソレアは言った。
「ファージは、ナコちゃんのこと助けたいんでしょうね?」
「当たり前じゃない!」
「でも、駄目よ。今回はあなたが介入する理由がないもの。許しはもらえないわ」
「わかってるって、うるさいな!」
むっとした表情で怒鳴ると、ファージも部屋を出ていった。
奈子と同じように、扉を乱暴に叩きつけて。
五月初め。
北海道の山もようやく若葉が芽吹く季節。
札幌市南区のはずれ、奏珠別の街を囲む山々も、鮮やかな若々しい緑に包まれつつあった。
昔、北海道を覆っていた原生林は、明治の開拓期にその多くが切り拓かれ、現在の森林は後の時代に植林されたものだ。
しかしこの一帯は、戦前まで御料林であったために皆伐されることがなく、いまでも原生林が広がっている。
私立白岩学園は、そんな山のふもとにあった。
校舎のすぐ背後まで、森が迫っている。
緑につつまれた、気持ちのいい環境だ。
広い敷地の片隅に、高等部の格技場があった。
本校舎とは、細い渡り廊下でつながっている。
今日、格技場に人の姿はない。
ただ一人を除いて。
奈子は一人きりで稽古を続けていた。
他に誰もいない。
天井から、百キロ以上ありそうなウォーターバッグが吊り下げられている。
それが、奈子の蹴りや突きが打ち込まれるたびに、大きく揺れる。
どれほどの時間、そうしているのだろう。
したたる汗で、板張りの床が濡れていた。
(どうして…)
歯を食いしばって、渾身の突きを叩き込みながら、奈子は考えていた。
どうして、ファージもソレアも、助けてくれないのか。
ソレアの言うこともわからなくもない。
しかし、あまりにも冷たいのではないか。
たしかに、国同士の争いにはファージもソレアも無関係だろう。
だからといって、知らん顔していられるものだろうか。
ハルティやアイミィとは、ソレアやファージだって顔見知りなのに。
いいや、違う。
なにか…
なにか、理由があるのだ。
ソレアはともかく、ファージは普段から他者に対して冷たいところがある。
ときとして、ひどく残酷なところも。
そのことは知っている。
それでも、奈子に対してだけはやさしい。
だから奈子は、安心してファージを頼ることができる。
だけど…
少し前から、感じていることがある。
ファージもソレアも、なにか、奈子に隠していることがある、と。
それはきっと、とても重要なこと。
はっきりと訊いたこともない。
何故かはよくわからないが、訊くのが怖かった。
(どうしてよ…!)
右の中段回し蹴りで、ウォーターバッグは天井まではね上がった。
大きく揺れて戻ってくるところに、高さを微妙に変えた左右の貫手を連続で打ち込む。
公式戦では、禁じ手だった。
目と、喉を狙った貫手。
(ファージのバカ! いつもなら、アタシの頼みはなんでも聞いてくれるじゃない!)
それが、わがままな、自分勝手な言い分なのはわかっている。
しかし、二人の突然の冷たい態度に、奈子は戸惑っていた。
自分はどうすればいいのか、わからなかった。
どうすればいいのか、いったい何ができるのか。
現実の戦争を前にして、奈子はあまりにも無力だった。
「はぁ…あ」
ため息をつきながら、奈子は床に座り込む。
あたり一面、奈子の汗で濡れていた。
道着も、汗で重く湿っている。
(もぉ…どうすればいいの…)
膝をかかえて、もう一度ため息をついた。
「元気ないね、奈子?」
突然の声にびっくりして、奈子は振り返る。
同時に、シャッターの音がした。
一瞬、青白い光が閃く。
格技場の入口に、一眼レフのカメラを構えた小柄な女生徒が立っていた。
「亜依…、なにやってんの?」
最初の声だけでわかっていた。
よく知ってる相手だった。
クラスメイトの沢村亜依。
中学時代からの親友だ。
靴を脱いで格技場に上がり、奈子の近くへとやってくる。
「次号のネタを探しにね。奈子の写真を載せると、女性読者のウケがいいし」
笑いながら、もう一度シャッターを切る。
奈子も慣れっこだった。
亜依は新聞部で、放課後はよくカメラを手に校内を歩き回っている。
ただし、今日は休日だ。
だから誰もいない。
「ゴールデンウィークだってのにひとりで稽古なんて、ずいぶんと気合いが入ってるね?」
構えていたカメラをおろして、亜依は訊く。
「協会の大会も近いしね。今回はめ〜め先輩が中量級でエントリーしてくるっていうし」
「聖陵女子高二年の安藤先輩? どうして、あの人って中量級どころか、軽量級でもいちばん軽い選手じゃない?」
亜依は意外そうに言った。
め〜め先輩こと安藤美夢は、初めて会った相手が驚くほど小柄な少女である。
長いストレートの黒髪を伸ばした姿は、とても、高校女子軽量級で無敗を誇る選手には見えない。
身長百四十六センチ、体重三十キロ強。
奈子たちのクラスでいちばん小柄な亜依よりもさらに小さいのだ。
ちなみに奈子は百六十三センチ、五十三キロある。
「軽量級には、全国でも相手になるのがいないから、つまらないんだとさ」
「まあ、北原先輩が卒業しちゃったし、あの人とまともに闘えるのは奈子くらいか」
「アタシは迷惑だよ。この夏の全国大会は楽勝と思ってたのに」
「それで、この特訓?」
「そゆこと」
うなずく奈子を見て、亜依は意地の悪い笑みを浮かべる。
「奈子って相変わらず、嘘つくのがヘタ」
「ウソって、ど〜して!」
少しばかりギクリとした様子の奈子だったが、それでもなんとか平静をよそおって訊く。
「私だって、いつも奈子のこと取材してるんだから少しは知ってるよ。目突き、喉突き、関節蹴り、頭部への衝…試合じゃ全部禁じ手じゃない。正攻法じゃ勝てないからって、安藤先輩相手にそんな技つかうつもりじゃないでしょ?」
亜依は笑ってウィンクする。
「奈子ってば、なにか悩んでるみたい」
奈子ははっきりと動揺した。
どうやら、かなり前から稽古の様子を見られていたらしい。
それにしても、由維にも亜依にも、どうして嘘や隠し事は簡単に見抜かれてしまうのだろう。
奈子がその疑問を口にすると、亜依はあっさりと言った。
「そんなの簡単じゃない。あたしも由維ちゃんも、奈子のことが大好きだから。好きな人のことは、なんでもわかるよ」
「好きって…あのね…」
不意うちに狼狽する奈子に、亜依が必要以上に接近してくる。
最近、亜依は妙に積極的だ。
「由維ちゃん、家族旅行で明後日まで留守なんでしょ? あたしが奈子ン家に行って、由維ちゃんの代わりしてあげる」
上目づかいに、奈子を見上げる。
「か、代わりって、代わりって…なんの…?」
奈子は裏返った声で訊いた。
「炊事、洗濯、掃除。奈子ってば、家事はなにもできないもんね」
「あ…そ〜ゆ〜こと…」
「あ〜、奈子ってば、エッチなこと考えてたんだ〜」
亜依はそう言って、奈子の頬を人差し指でつつく。
「奈子のエッチ〜」
「そ、そんなんじゃ…」
奈子は真っ赤になって言い繕う。
「いいよ。夜も由維ちゃんの代わりに慰めてあげる。…で、なにを悩んでるの?」
「代わりって、あのね…アタシと由維はまだそんな関係じゃあ…」
「まだ?」
「あ…」
失言だった。
顔が、よりいっそう紅潮する。
「つまり、いずれはそ〜ゆ〜関係になる予定?」
「いや…その…」
すでに何度か迫ってはいるんです、とは口が裂けても言えない。
「ま〜ま〜、そんな照れないで。それより、よかったら話してみてよ。なにを悩んでるの?」
亜依は、大きな目をぱちぱちと瞬く。
そんな亜依を見つめ、奈子は考えながら言った。
「大切な友達がね…とても困った状況に追い込まれていて…助けてあげたいんだけど、アタシじゃなにも力になれないんだ…」
「で、こんなとこで一人でいじけてンの?」
信じらンない、といった表情で亜依が言う。
どちらかというと、奈子を責めるような口振りだ。
「行ってあげればいいじゃない。傍にいれば、なにか力になれることが見つかるかもしれないでしょ。ここでバッグ叩いてて、なにか解決になるの?」
「いじけてるって、そんな…」
「ううん、いじけてる」
言いながら、亜依は奈子の頬に口づけし、腕を身体に回す。
「元気出してよ。あたしが慰めてあ・げ・る」
「それはもういいって!」
道着はおろか、Tシャツの中にまで入り込もうとする亜依の手を押さえて、奈子は叫んだ。
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