六章 暁の戦姫


『お前が男であれば…』
 子供の頃から、何度聞かされた台詞だろう。
 サイラート・フォア・ハイダーは、マイカラス王国の名家に生まれ、近隣諸国にまでその名を知られた騎士であった。
 剣技、魔法技、戦術、いずれにも卓越した能力を持っていて、戦では数えきれない手柄を立てた。
 彼に悩みがあるとすれば、ただひとつ。
 結婚してから長い間、子供に恵まれなかったことだ。
 そして、ようやく授かったただ一人の子は、彼の期待に反して女児であった。
 サイラートとしてはやはり、自分の跡を継ぐ息子を望んでいた。
 ダルジィと名付けられて成長したその娘が、騎士として優れた能力を持っていたことも、さほど慰めにはならなかった。
 一人娘が有能な騎士であればなおのこと「この子が男子であれば」という思いがつのる。
 実際のところ、ダルジィの力は並の騎士をはるかに凌駕するものであるにも関わらず、である。
 女の身でこれだけの力があれば、男であればさらに…。
 考えるまいと思っても、どうしてもそんな考えが頭をよぎるのだった。
 そんな父親の思いを知っているためだろう。
 ダルジィの性格や立ち振る舞いには、年頃の娘らしいところはほとんど感じられない。
 ややきつい顔立ちながら、外見は間違いなく美人であるのだが。
 しかし彼女にとって「自分が女であること」は負担以外のなにものでもなかった。


 王都からの早馬が前線の砦に着いたのは、真夜中を過ぎた頃だった。
 当直の兵を除いて、砦の中は静まり返っている。
 知らせを受け取ったのはケイウェリだった。
 彼はそのまま、ダルジィの部屋へと向かう。
「オレだ、入るぞ」
 扉をノックしたケイウェリは、返事も待たずに中に入った。
 戦のためだけに築かれた砦のこと、さほど大きな部屋ではない。
 正面にある寝台は空だった。
 別に驚きもしない。
 いつものことだ。
 顔を左に向ける。
 いた。
 ダルジィは、床に座っていた。
 剣を抱いて毛布にくるまり、壁にもたれかかるようにして。
 目は閉じているが、眠っていないことはわかっていた。
 そもそも、戦の間にダルジィが眠ることがあるのかどうか、ケイウェリには疑問だった。
 砦に戻ったときには一応部屋で休むこともあるが、決して横になりはしない。
 部屋の中にいるのはせいぜい一〜二刻、落ち着いて眠るには短すぎる時間だ。
 その間どんな些細な異変があっても、知らせがくる前に部屋から出てくる。
 たぶん、わずかな時間うとうととすることはあっても、まともにぐっすりと眠ることはないのだろう。
 そんな毎日でよくも体がもつものだと思うが、少なくとも人前では疲れた様子など微塵も見せない。
(張りつめすぎだよな…)
 ケイウェリは思うが、いまさら忠告しても無駄なのはわかっている。
 身体のために眠った方がいい、などといくら言っても聞きはしない。
 優れた騎士であること。
 それがダルジィにとってはなによりも優先される。
 しかし問題は、そうまでして有能な騎士であり続けるのは、いったい誰のためか、ということだった。
 ケイウェリが、そんな思いをめぐらせていると、
「どうした? 早馬があったようだが」
 ダルジィが目を開ける。
 早馬のことまで知っているとは、やはり眠ってはいなかったのだろう。
 ダルジィに気づかれない程度に小さく嘆息してから、質問に答えた。
「王都からだ」
「…」
 ダルジィの眉がぴくりと動く。
「援軍を送ることが決まった。陛下自ら出陣だ」
 言い終わるより先に、ダルジィが飛び起きた。
「なんだとっ?」
 ケイウェリに掴みかからんばかりの勢いだ。
「オレに怒るなよ」
 ダルジィの怒りをそらすため、わざとのんびりした口調で応える。
「戦線は膠着している。状況を打破するには、可能な限りの戦力を投入するということだろう」
「だからといってなぜ陛下が! いや、そもそもその兵は、王都の守りに必要なものだろう。援軍など不要、と言ってやれ」
「俺は正直言うと援軍は欲しい。せめてあと千騎あれば…、と何度思ったことか。それはお前も同じだろう?」
「だからといって…陛下を危険にさらすようでは、なんのための騎士だ! 私は、陛下をお守りするためにここにいるんだ! それなのに…」
 ダルジィが唇を噛む。
「どっちにしろ、これはもう決定事項らしい。こっちからなにを言っても、もう間に合わんよ」
「ケイウェリ、貴様、なにを呑気に…」
「そもそも陛下の性格を考えれば、こうなるのは時間の問題だった。あの方は、戦を他の者にまかせて、自分だけ安全な場所にいられはしない。自ら最前線に立つことを…」
「そんなことはさせない!」
 鋭い声が、ケイウェリの言葉をさえぎる。
 ダルジィの瞳が妖しく光っていた。
「そう、陛下を危険な目に遭わせるわけにはいかん。出陣が止められないのなら…、到着前に、すべてを終わらせればいいだけのこと。すぐに出発の準備だ、敵には気付かれないようにな」
「やれやれ…」
 肩をすくめるケイウェリ。
 彼は、ダルジィの性格はよく知っている。
 ここにくる前から結果は分かっていた。
 観念したようにつぶやく。
「…やっぱり、こうなるんだな」
 しかしその表情は、どこか楽しそうでもあった。



 転移が完了して、見覚えのある男の姿が目に入った瞬間、奈子は床を蹴って高くジャンプしていた。
「なんでっ、あんたがここにいるのよっ!」
 空中で一瞬身体を丸め、全身のバネを使って後ろ回し蹴りを叩き込む。
 極闘流でもっとも破壊力があるといわれる、飛鷹脚と呼ばれる蹴りだ。
 顔面にまともに蹴りを食らって、百九十センチ近くある大男の身体が床に転がった。
「よくもっ、アタシのっ、前にっ、顔をっ、出せたっ、ものねっ!」
 怒鳴りながら、げしげしと赤毛の頭を踏みつける。
 すでに男に意識はない。
「ちょっと、ナコ・ウェル…」
「いいから、止めないでよ!」
 背後から伸びてきた手を振り払って、さらに男の背中を踏みつける。
 気付いたのはその後だ。
 いまの声、聞き覚えがある…と。
 後ろを振り返る。
 淡い金髪を長く伸ばした、美しい女性が立っていた。
 もちろん、よく知っている相手だ。
「フェイリア…どうしてここに?」
「それはどちらかというと、私の台詞ではないかしら」
 その女性、フェイリア・ルゥは笑って応える。
 フェイリア・ルゥ・ティーナは、大陸でも有数の優れた魔術師だ。
 奈子が聖跡へ向かったときに偶然知り合った。
 両親と恋人を殺した仇を追って旅を続けているのだという。
 だから、こんなところで会うとはまったく予想外だった。
「アタシは一応、この国の騎士だもの。別に、王都にいてもおかしくないっしょ?」
 左手首にはめた、騎士の証である銀の腕輪を見せながら奈子は言う。
 そう、奈子はいま、マイカラスの王都にいた。
 正確には、王宮からそれほど遠くないところにある、ソレアやファージの知り合いの魔術師の家だ。
 ここにはソレアやファージが使える、転移のための指標がある。
 なにもない場所へ転移するより、はるかに精度が上がるのだ。
 王宮内への直接の転移は結界によって妨げられているので、ソレアやファージ、そして奈子がマイカラスを訪れる際は、いつもここを利用していた。
 この家の持ち主は、ラムヘメス・サハという三十代後半の魔術師の女性。
 奈子も、マイカラスを訪れるたびに会っている。
 ソレアやファージ、あるいはフェイリアには劣るにしても、かなりの力を持つという。
「…で、フェイリアはどうして?」
「力のある魔術師は、みな顔見知りみたいなものだもの、私がここにいても不思議ではないでしょう。マイカラスで戦争が起こったと聞いて、あなたのことがちょっと気になってね。それより…」
 フェイリアは奈子の足下を指差した。
「どうしたの、それ…?」
 奈子の足の下で、エイシス・コットがつぶれたカエルのような格好でのびている。
「どうしたもこうしたもないよ! こいつってば…」
 言いかけて、奈子は口をつぐむ。
 エイシスは、フェイリアの魔法の弟子であり、恋人…ではないにしても、それに近い関係であるはずだった。
 それを考えると、言わない方がいいのかもしれない。
 一月ほど前、奈子がエイシスになにをされたのか…。
 フェイリアに告白するのは少々ためらわれた。
「いや…あの…つまり…ね」
 頬を赤くして言いよどむ。
 それだけで、フェイリアは理解したようだった。
「ふぅん…。まあ、なんとなく見当はつくけど」
 意味深に笑う。
 エイシスとの付き合いは長い彼女のこと、この男の性格はよくわかっているのだろう。
「気持ちは分からなくもないけど、そのくらいにしておいてくれない? だいたいあなた、そんなことのためにマイカラスまで来たわけではないのでしょう?」
「あ…」
 そう言われて、ようやく奈子はエイシスの背中から足をどけた。
 とりあえず、今日のところはこのくらいで勘弁してやってもいいだろう、と。
「そう、別にこのバカの相手をするために来たわけじゃないんだ。でも…」
 奈子はためらいがちに言った。
「いったいどうしたらいいのか、わからないんだ…」
 ラムヘメスがお茶を出してくれたので、奈子は席について話し始めた。
 先日の、ソレアやファージとのやりとりについて。
 奈子の話が終わるまで、フェイリアは黙って聞いていた。
「そりゃあ、ソレアやファージに頼りきっていたアタシも悪いけど、冷たいと思わない?」
 しかしフェイリアは、その意見に同意しなかった。
「でも、あの人たちの立場上、それは仕方ないんじゃないの?」
「仕方ない? ソレアやファージの立場って…? フェイリア、あの二人のことよく知ってるの?」
 考えてみれば…、
 奈子は実のところ、ファージやソレアのことはなにも知らないに等しい。
 生まれも、経歴も。
 ソレアは占い師として広く知られているが、ファージにいたってはどうやって生計をたてているのかすら知らない。
 ソレアの家にいないとき、ファージがどこでなにをしているのかも。
 訊いてみたことがないわけではない。
 しかし曖昧にごまかすだけで、答えてはくれない。
 聖跡の一件以来、それを訊くのもなんだかためらわれた。
 なにか、訊いてはいけないことがあるらしい、と。
「知ってるもなにも…あの二人は有名人だもの。ナコこそ、あの人たちと親しいんじゃないの?」
「親しいといえば親しいかもしれないけど…、知り合ってから一年とたってないし、それ以前のことはほとんどなにも知らないんだ」
「ふぅん…ナコには、隠しているのかしらね」
 フェイリアは考えるような表情になった。
 人差し指を顎に当てて、天井を見上げるそぶりをする。
「フェイリアはファージたちと親しいの? ね、知ってることを教えて?」
「意図的に隠してるとなると、私が言っていいのかしら…」
 言葉を切って、ティーカップを口に運ぶ。
 ゆっくりとカップを置くと、まっすぐに奈子を見た。
 意味ありげな笑みを浮かべて。
「私も、それほど多くを知ってるわけではないわ。あの二人とは親しいどころか、むしろ敵…だもの」
 喉の奥でくすくすと笑う。
「敵? どうして?」
「それは…、あの二人が『墓守』だから」
「墓守?」
 奈子は訊き返す。
 聞き慣れない言葉だった。
 言葉の通りに解釈すれば、墓を守る者。
 それで奈子が思い出すのは、竜騎士エモン・レーナの墓所を護る番人、クレイン・ファ・トームのこと。
「王国時代の遺跡を発掘し、失われた技と知識を得ることは、誰もが望むこと。でも、実際にそれがうまくいくことは少ないわ」
「どうして?」
「これまで発掘の手が及んでいない遺跡を見つけるのが難しい。強力な魔法で封印されていて、手を出せないことも多い。発掘してみても、役にたつものが見つかるとは限らない」
 フェイリアは指を折って、ひとつひとつ数え上げる。
「運良く、王国時代のすばらしい品を見つけたとするでしょ、竜騎士の剣とか、高位魔法について書かれた魔道書とか…」
 うなずく奈子。
「すると、どこからともなく、鮮やかな金髪と珍しい金色の瞳をもった魔術師が現れるの。そこにいる者を皆殺しにし、遺跡を封印して立ち去るわけ」
 冗談めかした言い方だったが、奈子の顔がさぁっと青ざめる。
 金髪、金瞳の魔術師とは誰のことか、もちろんすぐにわかった。
 墓守…とはそういう意味か。
「ファージが…?」
 奈子の声は震えて、かすれていた。
 フェイリアは表情だけで肯定してみせる。
「どうして、そんなことを…」
「どうして…か。それがわかればね…」
 カップに手を伸ばしかけて途中で思いとどまり、指でテーブルをコツ、コツ、と叩く。
「ここからは、伝説の範疇になるんだけど…」
 わずかにうつむいてテーブルを見つめていたフェイリアは、そう言って顔を上げた。
「いまから千年前…最後の戦争で、トリニアとストレインが滅びへの道を歩んでいた時代…」


 その時代、魔法技術の進歩は頂点に達していた。
 竜に匹敵する戦闘力を持った人造の魔物が大地を焦土と化し、竜騎士の魔法は大都市をも一瞬で廃墟に変えた。
 死者の数は生者を上まわり、戦争の余波は、この世界の気候にすら多大な影響を与えていた。
 このままでは、この星そのものが滅びてしまうのではないか…なんとか生き延びた人々の胸には、そんな思いがあった。
 すべては、人間が強力すぎる力を手にしたことから始まったのだ。
 当時の認識としては、魔法そのものは何百万年という生物の進化の歴史の中で生まれたものと考えられていた。
 しかし、竜騎士の力は違う。
 竜騎士の力は『神々』から与えられたもので、人間の分を越えた力だと。
 そう考える人たちがいた。
 大戦で大国は滅び、竜騎士も高位の魔術師も多くが命を落とした。
 このまま、『大いなる力』は歴史の中に埋もれさせてしまえばいいと、そう考えた人たちがいた。
 これは、人間の手に余る力なのだ、と。
 幸か不幸か、もう竜騎士の力とその知識を持った人間は、ほとんど生き残ってはいない。
 あとは、後世の人間が、この時代の遺跡から見つけてはいけないものを見つけださないように監視すればよい。
 未来永劫にわたって、その任につく人間が必要だった。
 そのために必要な力を持ちながら、決して、それ以外の目的には力を用いない人間が。
 ごくわずかな人間を、生まれたときからそのために教育する必要があった。
 そして、その役目を代々伝えていかなければならない。
 世界を滅ぼす力がよみがえらないために――。


「…本当にそんな人たちが存在するのかどうか、疑問視する声も多いけどね。」
 話し終わって、フェイリアはお茶を一口すする。
「でもまあ、そんな言い伝えがあるのは事実。そして、ファーリッジ・ルゥが発掘現場を襲っていることもね。別に、墓所だけに限らないんだけど、いつの頃からか『墓守』と呼ばれている訳よ」
 奈子も自分のカップに手を伸ばした。
 顔は蒼白で、その手が震えている。
「墓守は、現在では失われた力の一部を受け継いでいる。だけど、その力は自由に使えるわけではないわ。王国時代の力を封印するため…それ以外の目的に力を用いることは許されてはいない」
「だから…なの?」
「そう、たとえナコの頼みでも、マイカラスとサラートの戦には介入できないのよ」
 その言葉で奈子は、最後に会ったときのファージの表情を思い出した。
 きっとファージもソレアも、好きこのんで奈子に冷たく当たったのではあるまい。
 彼女たちの立場上、そうするしかなかったのだ。
「墓守…か…」
 まだ、少し頭が混乱していた。
 ゆっくりと、頭の中を整理する。
 確かに、それでいくつかの疑問が解決する。
 どうしてファージが、あんなにも王国時代の遺跡に執着するのか。
 どうしてソレアは、聖跡へ行った奈子を咎めたのか。
 考えてみれば、ソレアと初めて会ったとき、彼女は言っていたではないか。
『たとえ何千年経っても、ランドゥの力を利用しようとするものがいる限り、ファレイアの名を頂く私達には、それを阻止しなければならない義務があります…』
 あのときはなにを言っているのか、よくわからなかった。
 でも、いまならいくらか理解できる。
 この話を聞いたあとならば。
「それで、フェイリアにとっては、敵になるわけか…」
「そ〜ゆ〜こと」
 フェイリアが旅を続けている理由は、ひとつは仇を捜すため、もう一つは、仇を倒すための『力』を手に入れるためだった。
 力…すなわち、失われた王国時代の魔法だ。
「とにかく、ファージたちに頼るわけにはいかないことは、はっきりしたわけだ…」
 奈子はあきらめたように言った。
 実はまだ、心のどこかで期待していたのだ。
「これから、どうしたらいいのかな…」
 また、わからなくなってしまった。
 とりあえずマイカラスへ来てはみたものの、このあとどうすればいいのだろう。
 噂では、近日中にハルティ自ら兵を率いて出陣するという。
 それに同行することはできるかもしれない。
 しかしそうしたところで、たいした力にはなれないだろう。
 一対一の白兵戦にはそれなりに自信もあるが、これは、何千何万という軍勢がぶつかり合う戦争なのだ。
 いったい、高校生になったばかりの女の子が、一国の勝利のためになにができるというのだろう。
「そんなの簡単だろう?」
 背後から声がした。
 同時に、大きな手が奈子の肩に置かれる。
「そ〜ゆ〜ときは俺に言えよ。俺がいれば千人力。なにしろアルトゥル王国の精鋭軍団を相手に、一人で戦った強者だぜ?」
 相変わらず、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべてエイシスが言う。
 その顔には、真新しいあざがいくつも残っていた。
「あんたを雇うと高くつくからヤダ」
 奈子はエイシスの顔も見ずに、間髪入れず断る。
「いまさら、お前から金なんか取らね〜って」
「その代わり、身体で払えってゆ〜んでしょ?」
「わかってるなら話は早い」
 奈子は、肩に置かれたエイシスの手の小指と薬指を無言で握ると、手の甲の側へ力一杯に曲げた。
 エイシスが悲鳴を上げる。
「ねぇフェイリア、どうしてこんなバカと一緒にいるの?」
 呆れ顔でこのやりとりを見ていたフェイリアに訊く。
「まあとりあえず、腕が立つのは確かだから…。どうする? こんなバカでも連れていけば戦力にはなるわよ」
 フェイリアも、「こんなバカ」発言を否定する気はないようだった。
 きっといろいろと、苦労させられているのだろう。
「いらない、こいつに借りをつくったらあとが怖いし。それに、もうわかったからいいんだ」
「わかったって?」
「アタシにできること。アタシの力でも、マイカラスを救えるかもしれないってこと。このバカが教えてくれた」
「エイシスが…?」
 フェイリアは不思議そうに、まだ指を押さえてうずくまっているエイシスを見る。
「なるほど、そういうこと。でも、ずいぶんと大胆なこと考えるのね。かなり危険だし、難しいわよ?」
 少し考えて、ぽんと手を叩いた。
「危険なのはわかってる。安全に勝てる戦争なんてないさ。でも、フェイリアにひとつ頼みがあるんだけど…」
「なに? 私にできることなら力になるけど」
「アタシを、戦場まで連れていってくれない? フェイリアは、転移魔法が使えるんでしょ?」
 奈子が立ち上がる。
 その目には、ここ何日か失われていた、強い光が戻っていた。
「戦場…そう、あなたの戦場、ね。いいわ、手伝ってあげる」
 二人は立ち上がって、部屋から出ていく。
「おいおい、今回は俺の出番なしかよ…」
 ひとり取り残されたエイシスが、ぽつりとつぶやいた。



 今日は一日、出陣の準備のためにマイカラスの王宮は大変な騒ぎだった。
 深夜になって、ハルティはようやく自分の寝室へ戻った。
 扉を閉めて、そこではじめて、室内に自分以外の人間がいることに気付く。
 一瞬警戒の色を浮かべた顔は、相手が誰か気付いて笑顔を浮かべる。
 しかしすぐに、それは疑問の表情に変わった。
「ナコさん…? なぜここに?」
 この問いには、二つの意味があった。
 ひとつは、どうやってここまで入ってきたのかということ。
 王宮には外部からの転移を阻止する結界が張られていて、まず侵入は不可能だ。
 奈子なら城門を顔パスで通れるが、その場合はすぐにハルティのところに知らせがくる。
 そしてもうひとつ…こちらの方がより重要なのだが、いったい何をしに来たのか、ということ。
 奈子の表情を見ただけで、おおよその見当はついた。
 まっすぐにハルティを見つめている。
 普段見せることのない表情だった。
 怒っているような、そして彼を責めているような。
 それでいてなお、どこか、泣いているような。
 そんな表情だった。
「なぜ…?」
 奈子はゆっくりと言った。
「それは、アタシの台詞だと思います」
 感情を押し殺した、抑揚のない声だった。。
「なぜ、知らせてくれなかったんですか?」
 その言葉で、ハルティは自分の過ちを悟った。
 戦のことを奈子やソレアに知らせないのか、とケイウェリに訊かれたとき、彼は首を横に振ったのだ。
 知らせてはいけない、と。
 奈子のためを思って言ったつもりだった。
 しかし、それは誤りだった。
 ケイウェリが言った「裏目に出なきゃいいんですけどね」とは、このことだったのだ。
 奈子は間違いなく、ハルティに対して怒っていた。
 すぅ、と息を吸い込んで、また口を開く。
「アタシは、マイカラスの騎士ではないんですか? どうして、知らせてくれなかったんですか?」
 理由は簡単だ。
 奈子が人を殺せないから。
 戦争とは結局、人の殺し合いだ。
 奈子のためを思ってのことだった。
 一流の騎士に匹敵する力を持っていても、奈子の心は軍人のものではない。
 以前、ファージの仇を殺したときの姿を見ているハルティは、これ以上奈子を傷つけたくなかったのだ。
 しかし奈子の性格を考えれば、そんな気遣いは不本意だろう。
 少し考えればわかることだった。
 いや、わかってはいた。
 わかってはいたが、それでもやはり、奈子を巻き込みたくはなかった。
 もう、手遅れだったが…。
 ハルティはもう一度奈子の顔を見て、その目にうっすらと涙を浮かべているのに気がついた。
「ナコさん…」
「アタシは…、アタシだって、戦えます。そのために身につけた力です。大切なものを守るために…」
 大切なもの。
 ハルティやアイミィ、その他のマイカラスの知り合い。
 そして、奈子自身の誇り。
 どこにでもいるただの十五歳の娘とは違う。
 ここにいるのは、戦うための牙と爪を持った、美しき獣だった。
「だから、アタシはここに来ました。アタシが、アタシであるためには、戦うしかないんです」
「ナコさん…」
 涙を流さずに、それでも奈子は泣いていた。
 それを見て、ハルティも考えを改めた。
 奈子に向かって手を差し出す。
「出陣は、明後日の朝です。私と一緒に来ていただけますか」
 奈子は首を振った。
 驚いたことに、首を横に振ったのだ。
 ハルティは怪訝そうな顔をする。
 奈子はそのために来たのではないのか、と。
「ハルティ様は、出陣する必要はありません。明日にはすべて終わります」
「なんだって?」
 一瞬、自分の耳を疑った。
 数回、目を瞬いて、奈子の台詞の意味を考える。
「アタシは、いま、ここにいます。これが、答えです」
「あなたは…ひどく危険なことを考えてはいませんか? ファーリッジ・ルゥが一緒なのですか?」
 そうであって欲しい、と切に願った。
 奈子がなにをしようとしているか、おおよそ見当はつく。
 あまりにも無茶な企みだった。
 いま、ここにいる、それが答えだ…と奈子は言った。
 マイカラス王宮の結界は、外部から侵入することが可能だ。
 王宮の結界が破れるならば、サラートの砦の結界だって破れる。
 現実に、それを証明して見せた。
 奈子は、サラートの本隊が布陣している後方の砦に潜入し、全軍を指揮している将軍を暗殺しようとしているに違いなかった。
 後方でいきなりそんな事件が起きれば、ダルジィたちと交戦中の部隊も引き返すしかあるまい。
 双方の犠牲をもっとも少なく、戦争を終わらせる方法がこれだった。
 ただしそれは、実行する者にとってはもっとも危険な策であった。
 それでも、あの稀代の魔術師ファーリッジ・ルゥが一緒ならば最悪の事態は避けられるだろう。
 ハルティはそう考える。
 しかし、恐れていたことではあったが、奈子はそれを否定した。
 転移には他の魔術師の力を借りるが、砦に侵入するのは自分ひとりだ、と。
「冗談じゃない!」
 ハルティは叫ぶ。
「ナコさんに、そんな危険なことをさせるわけにはいきません!」
「いくら言っても、もう手遅れですよ」
 奈子は、かすかな笑みを浮かべた。
「アタシは、これから行きます。ハルティ様がどんなに出陣を急いでも、明日の午後が精一杯でしょう。前線に着くのはそれから何日後になります?」
「でも、力ずくで止めることはできます」
 ハルティは奈子の腕をつかんだ。
 そしてそのまま、奈子の身体を力一杯抱きしめる。
「あなたひとりでそんな危険なこと、やめてください。せめて、行くなら私たちと一緒に…、お願いです」
 奈子はわずかに頬を赤らめ、いくぶん緊張した面持ちでじっとしていた。
「私は、あなたを一人で行かせるわけにはいきません。あなたがうんと言わない限り、この手は放しません」
「ごめんなさい…でも、行かせてください。これは、アタシのけじめなんです」
 ハルティの腕の中で、奈子はやっと聞こえるくらいの小さな声で言った。
「心配しなくても、大丈夫ですよ。絶対に生きて帰りますから。約束します。アタシ、この約束を破ったことはいままで一度もありませんよ?」
 奈子はわざと明るく言う。
 ハルティもつられて、口元をほころばせた。
「誰だって、その約束は一生に一度しか破れませんよ」
「アタシのこと、信じてくれないんですか?」
「信じてます。信じてますけど…だけど…」
「じゃあ、吉報を待っていてください。あ、戦勝祝いの宴の用意もしておいてくださいね」
 それだけ言うと、奈子もハルティの身体に腕を回した。
 互いの鼓動を感じるほどに、身体が密着する。
 しばらく、そのまま黙っていた。
 互いの鼓動と、呼吸と、体温を感じながら。
「ナコさん…」
 ハルティはそっと、奈子と唇を重ねた。
 奈子もまったく抗うそぶりを見せず、それを受け入れる。
 しっかりと抱き合って、
 相手の存在を肌で感じて、
 二人は、長い長い口づけを交わしていた。



「人を待たせておいて、いつまでもいちゃついてないでよね」
 フェイリアは口では文句を言ったが、顔は笑っていた。
「あ〜あ、若いっていいわね〜、情熱的で」
「また、そういう年寄りくさいことを…」
 そう言いかけたところで、奈子は思いっきり髪を引っ張られる。
「なにか言った?」
「い…いたた…なにも言ってないって!」
 フェイリアは、年齢の話題にはやたらと敏感に反応する。
 外見は二十代半ばでしかないが、奈子の計算では、実年齢はそれより十歳近く上のはずだった。
 ソレアもそうだが、力のある魔術師の女性は、実際よりもずっと若く見える。
 別に魔術師がそういう体質なのではなくて、単に、魔法の力で外見的な若さを保っているというだけの話だ。
 いつまでも若く美しくありたいというのは、どこの世界でも女性に共通する願いなのだろう。
「けど、これって玉の輿よね、ナコ?」
 フェイリアは目を輝かせている。
「玉の輿って、そんな…」
「ハルティ・ウェルってなかなかいい男よ。小国とはいえ仮にも一国の王なわけだし…。これってチャンスじゃない?」
「あのね…」
 フェイリアの表情、どう見ても面白がっているようにしか見えない。
「別に、そんなんじゃないの!」
 からかわれて、奈子は頬をふくらませる。
「あ〜あ、私があと十歳若ければ、ナコなんかには負けないのにな〜」
「フェイリアが十歳若くても、ハルティ様より年上だよ?」
 当然の事ながら、そう口にしたとたん、奈子は力いっぱい叩かれた。



「着いたわ。目的地はあの砦よ」
 フェイリアが指差す先を、奈子も見た。
 まだ、夜は明けていない。
 東の空が、かすかに、白みはじめているかどうかというところ。
 しかし、少し離れたところからでも、砦の位置は一目でわかった。
「な、なに…あれ?」
 砦のあちこちで、火の手が上がっていた。
 その炎が、周囲の軍勢を照らしている。
「マイカラス軍のようね」
 しばらく様子を観察して、フェイリアは言う。
「マイカラス軍? どうして? ここは戦場からずっと後方じゃないの?」
 ここは、サラートとマイカラスの国境から、わずかにマイカラス領へ入ったところ。
 この砦はもともとマイカラスのものなのだが、ここでは守るに不利ということで、砦に駐留していた少数の兵は早々に撤退し、ダルジィたちの軍勢と合流している。
 空になった砦をサラート軍が占拠して、本陣として使用しているのだ。
 だから、実際の戦場はもっとマイカラス領に深く入ったところのはずだった。
「ナコと同じことを考える人間がいたんでしょう」
「じゃあ…まさか…」
「砦の外の軍勢は囮、サラート軍の注意を引きつけているだけよ。よく見て、右手の城壁が崩れているでしょう? あそこから少数の部隊を侵入させたのでしょう」
 フェイリアの言うとおりだった。
 外のマイカラス軍は、城壁が崩れている箇所の反対側から激しく砦を攻撃している。
「…砦って、そんな簡単に侵入できるものなの?」
「ここはもともとマイカラスの砦だからね。マイカラス軍はこんな時のために、敵には気付かれないような攻め口を用意してあるって聞いたことがあるわ」
「え…」
 奈子は言葉を失う。
 なんと周到なことだろう。
 砦そのものが罠になっているとは。
 他国に対して兵力で劣るマイカラスの、苦肉の策なのだろう。
「でも…砦の中には、かなりの軍勢がいるんでしょ?」
「少なく見積もって、六〜七千くらいかしら。マイカラス軍はせいぜい二千。砦に侵入したのは二百に満たないわね」
「そんな無茶な!」
「一人で行こうとしているナコに比べたら、ずっとましじゃない?」
 奈子は思わず大声を上げたが、フェイリアは平然としている。
「考えることはみな同じよ。兵力に圧倒的な差がある場合、まともに戦っては勝ち目はない。じゃあどうする? 少数の精鋭でもって敵の中枢を叩くのが、いちばん単純で、しかも確率の高い方法よね」
 フェイリアの言葉に、奈子はゆっくりとうなずく。
 六年前、ハシュハルドの街が大国アルトゥルに攻められたとき。
 エイシスが使った手がそれだった。
 奈子も以前、エイシスからその話は聞いていた。
 エイシスの顔を見て、そのことを思い出した。
 いま、奈子にできることもそれしかない。
 もちろん、奈子ひとりの力では無理だ。
 強力な結界を破って転移を行えるフェイリアがいてこそ可能なことだった。
「ね、この戦闘…」
 砦の周囲の戦闘の様子を見ていた奈子は、不安げにつぶやいた。
「マイカラスが勝つ可能性は、どのくらい?」
「一割もないでしょう」
 あっさりと答えるフェイリア。
 奈子が息をのむ。
「いくら屋内の戦闘とはいえ、彼我の兵数の差が十倍以上あってはね…。ダルジィ・フォアをはじめ、マイカラスの騎士が強いとはいっても、人間の体力には限界があるもの」
「じゃあ…、じゃあ、そんな勝つ見込みのない戦いをしているの?」
「それでも、いまの時点ではもっとも勝率の高い方法でしょう。ハルティ王の援軍が合流すればまた話は変わるけど、彼らはみな、自分たちの国王が戦場に立つ危険は避けたいと思っているわ。たとえ自分たちが死んでも、アイサール王家がある限りマイカラスは滅びないもの」
 奈子はじっと、砦を見つめた。
 あちこちで上がる火の手。
 激しい戦いを続けている兵士たち。
 このままでは、双方に多大な犠牲が出るだろう。
「あの人たちを止められない? 無駄死にする必要はないわ」
 これから、自分が行くのだから、他の者達が血を流す必要はない。
 そう奈子は考えた。
 しかし、フェイリアは首を横に振る。
「なにをもって無駄死にというのかしら。彼らもそれぞれ、大切なものを護るために戦っている。祖国、家族、恋人や友人のために。戦わずにすむならそれに越したことはないのかもしれないけど、戦うことでしか得られないものもあるわ」
「フェイリア…」
「戦うべきよ。本当に大切なものは、戦って勝ち取るべきだわ。何億年も昔、私たちの祖先が目に見えないくらいの微生物だった時代から、そうしてきたんだもの」
「…」
 奈子は、すぐには答えられなかった。
 どうなのだろう?
 争うこと、戦うことがイコール悪という雰囲気のある日本で育った奈子には、すぐには答えられなかった。
 そう、理性では答えられない。
 だけど…
 相応の代償を払わなければ、手に入れられないものもある。
 奈子は、ぎゅっと拳を握った。

 戦え――と。
 魂がそう叫んでいる。



 マイカラスの兵は、いくつかに分かれて砦の内部への進入を果たしていた。
 そのうちの一隊を、ダルジィが率いている。
 ここには、ケイウェリの姿はない。
 彼は、外の軍勢の指揮を執っている。
 そうさせたのはダルジィだ。
 たしかに、マイカラス最強の騎士といわれるケイウェリもいれば、この奇襲の成功率はいくらか上がるだろう。
 しかしそれでも、きわめて分の悪い賭けには違いなかった。
 だとしたら、ダルジィとケイウェリの二人ともが突入部隊に加わることはできない。
 どちらか一人でも生き残っていれば、マイカラス軍の全面敗走は避けられる。
 まだ戦は続けられるのだ。
 もちろんケイウェリも自分が行くと言いはったが、ダルジィは頑として譲らなかった。
 彼女にとって、これだけはなんとしても譲れなかったのだ。


「ちっ、新手か」
 ダルジィは小さく舌打ちする。
 前方の廊下に、敵兵の姿が見えた。
 ここに来るまでに、どれだけの敵を倒してきたか。
 もう数え切れない。
 しかしそれでも、目的地はまだ先だった。
「オカラスヌ・ウェィテ・アパニク・ネ!」
 剣をかざし、ダルジィが呪文を唱えた。
 前方の敵兵の真ん中に、明るいオレンジ色の光球が現れる。
 次の瞬間、敵兵が炎に包まれた。
 悲鳴は、爆発音にかき消される。
 爆風が廊下を駆け抜ける。
 ダルジィは立ち止まらず、廊下を覆う硝煙の中に飛び込んだ
 剣が閃く。
 対魔防御の間に合った敵が、剣の餌食となって悲鳴を上げる。
 ひとり、ふたり。
 三人目に向かったところで、魔法の矢が肩をかすめた。
 さらに新手が出現していた。
 ダルジィは身を低くして駆けだす。
 後方から、部下たちが援護の魔法を放つ。
 敵味方の魔法の炎が飛び交う中を一瞬で駆け抜け、剣を振った。
 血しぶきが顔にかかる。
 正面の敵兵を剣で貫きながら、左手で短剣を投げる。
 側面から斬りかかろうとしていた敵が、喉に短剣を受けて倒れた。
 敵の足並みが乱れたところに、後続の味方が襲いかかる。
 ダルジィにしてみれば、こんなところでいつまでも手間取っているわけにいかないのだ。
 目的はただひとつ。
 マイカラスへ侵攻したサラート軍の総大将、オルウヌ・ムカルの首だ。
 それ以外の相手は眼中にない。
 さらに先へ進もうとする。
 その背後に突然、大きな人影が現れた。
 剣がうなりを上げる。
 ダルジィは前に倒れ込むようにして床を転がる。
 背中に、灼けるような痛みが走った。
 床に倒れたまま、短剣を投げる。
 背後に現れた巨漢の敵兵は、それを自分の剣ではじき飛ばした。
 その隙にダルジィは立ち上がる。
 受けた傷の痛みなど、気にしている場合ではない。
 まだ立ち上がって、闘うことができる。
 それで十分だ。
 剣を構える。
 二人の剣が、火花を散らして激しくぶつかり合った。
 ギリ…
 刃が擦れあって、耳障りな音をたてる。
 お互い、渾身の力で剣を押す。
 びくともしない。
 二人の腕が、ぶるぶると震えている。
 互角の力比べだった。
 ダルジィは、自分よりもふたまわり以上大きな身体をした敵を相手にしているのに。
 敵は、見るからに力自慢の男。
 女相手に力で勝てないことが信じられないのか、必死の形相で、さらに力で押してくる。
 と突然、押し合っている相手が消えた。
 男の目からは、そう見えた。
 当然の結果として、男は前につんのめる。
 あれだけの力で押し合っていた状態で、いきなり横へ身をかわしたなどとは信じられない。
 そんな表情を浮かべたまま、男は倒れる。
 ダルジィの剣が、その胴を深々と切り裂いていた。



「かなり強引な転移になるから、衝撃に備えてね」
 フェイリアは言った。
 マイカラスの王宮へ転移したときは、じっくりと結界の隙を探し、抜け道をつくる余裕があった。
 時間的にも余裕があったし、マイカラスの結界の癖がわかっていたからできたことだ。
 今回はそうはいかない。
 勝負は一瞬だ。
 力ずくで結界を破り、奈子を転移させなければならない。
「わかってる、大丈夫。それより、フェイリアは手出ししないでね。これはアタシの戦いなんだから」
「わかってるわよ。私は本来、無関係なんですからね。無駄な殺生をする気はないわ」
 フェイリアの手に、オルディカの樹で作った魔術師の杖が現れる。
「ナコがやられたら、私はさっさと帰るからね」
「そんなヘマはしないよ」
 フェイリアが杖を振ると、奈子はぼんやりと光る靄のようなものに包まれた。
 聞き取れないくらい小さな声で、フェイリアが呪文を唱えている。
 光る靄は徐々に凝縮し、奈子を中心に複雑な文様を描き出していた。
 それにしたがって光は強くなり、やがて直視できないほどの眩さとなる。
「行くわよ」
 声と同時に、光の魔法陣がはじける。
 奈子は目をつぶった。
 一瞬、身体がふわりと軽くなり、重力の感覚が消失する。
 虚無。
 それはほんの一瞬のことのようでもあるし、何時間も経ったようにも思える。
 意識が希薄になってゆく。
 いち…に…さん…し…ご…
 奈子は、頭の中で数を数えている。
 何度も転移を経験するうちに、それが意識を保つ、いちばん手っ取り早い方法だと気付いた。
 もう、終わるはず…。
 そう思った瞬間、全身を叩かれたような痛みが走る。
 ちょうど、プールで飛び込むのに失敗して、水面でお腹を打ったような。
 それを何倍にも増幅したような衝撃だった。
 周囲で、ガラスが砕け散る音が聞こえたような気がする。
 そして次の瞬間には、
 奈子の足は、硬い石の床を踏みしめていた。


 やや広めの部屋だった。
 眼前には、三人の男がいた。
 いずれも、驚きの表情を浮かべている。
 一人は奈子のすぐ近くに。
 あとの二人は部屋の奥に。
 奥にいるうちの一人、四十歳くらいでいかにも武人らしい顔つきをした男が、敵将のオルウヌ・ムカルであると気付いた。
 他の二人は、おそらくまだ二十代だ。
 いずれも、正騎士らしい身なりをしている。
 奈子は、ほんの一瞬も躊躇しなかった。
 一番近くにいた若い騎士の腹に、掌底を打ち込む。
 男の身体がくの字に曲がる。
 ちょうど、顔が一番打ちやすい高さにあった。
 その顎を狙って、左右の掌打を続けてフック気味に放つ。
 脳を激しく揺すぶられ、男の目の焦点が合わなくなった。
 身体がぐらりと傾く。
 奈子は男の頭を抱え込むと、とどめに、顔の真ん中に膝蹴りを叩き込んだ。
「な、何者だ、貴様?」
 若い方の騎士が、剣を抜きながら叫ぶ。
 奈子は男の頭を抱えていた手を離した。
 ずるずると、男はその場に崩れ落ちる。
 それから、奈子はゆっくりと二人の方に向き直った。
 左腕を前に突き出す。
 手首の、銀の腕輪がきらりと光った。
 薄い笑みを浮かべて。
「味方以外で、ここに来る理由のある人間なんて、他にいないでしょ?」
「貴様、マイカラスの騎士かっ!」
 若い騎士が、剣を構えてこちらに向かってくる。
 なかなかすばやい踏み込みだった。
 剣が振り下ろされる。
 しかし奈子には、その動きがはっきりと見えていた。
 右足を引いて、半身になって剣をかわし、肩から相手に体当たりする。
 カウンター気味にそれを食らって、男がよろける。
 その隙を見逃す奈子ではない。
 鳩尾と金的への二段蹴り。
 相手の頭が下がったところへ、禁じ手である顔面への衝。
 男の意識は、一瞬で吹き飛んだ。
 奈子が転移してからここまで、三十秒と経っていない。
 呼吸もまったく乱れていない。
 なんだかんだいっても、いざ戦いとなれば身体は無意識のうちに動いてくれる。
 そんな自分が大好きで、そして少しだけ嫌いだった。
 奈子は、ただひとり残った、本来の標的をまっすぐに見つめる。
 二人目の騎士が倒れると同時に、オルウヌは剣を抜いていた。
「こんな小娘を騎士にするほどマイカラスは人材不足なのかと思ったが…。なるほど、銀環はだてではなさそうだ。名を聞いておこう」
「ナコ・ウェル…。小娘だなんて失礼だね。こう見えても、身体はちゃーんとオトナだよ」
 こんな状況下で、こんな冗談が言える自分に驚く。
 身体は、燃えるように熱い。
 しかし、心はひどく冷静だった。
 オルウヌは、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「おもしろい…」
 オルウヌの目が光る。
 緊張感が高まっていく。
 周囲の空気が、まるで帯電してでもいるかのように、ぴりぴりと肌を刺す。
 気のせいではない。
 そう気付いた瞬間、奈子は後ろに飛び退いた。
 無意識のうちの反応だった。
 同時に、左右に出現した何本もの光の矢が、いままで奈子がいた空間を貫く。
「精霊魔法かっ!」
 いくつかは、かわしきれなかった。
 先手を打たれて奈子の態勢が崩れたところで、オルウヌが斬りかかってくる。
 速い。
 さきほどの騎士よりも。
 はじめからかわすことを諦めていなければ、致命傷を負ったに違いない。
 一瞬ぶつかり合った二人が、ぱっと離れる。
 オルウヌの剣先が、赤く濡れていた。
「やるな…ナコ・ウェルとやら」
 奈子がにやっと笑う。
 彼女の左肩から胸にかけて、服がざっくりと切り裂かれていた。
 もちろん、その下の皮膚も。
 線状の傷から、左右に赤い染みが広がっていく。
「痛いなぁ…。おっさんのクセに、やるじゃん」
 奈子の右手は傷を負っていないはずなのに、血で汚れていた。
 その血を、ぺろっと舐めとる。
 自分の血ではない。
 オルウヌの右肩に、小振りな短剣が根元まで突き刺さっていた。
 奈子が普段、投げナイフとして用いているものだ。
 いつも使っている、大型の短剣では間に合わなかったから。
「しかし貴様、なぜ剣を抜かん?」
 剣を左手に持ち替えながら、オルウヌが訊いた。
「あんたを倒すのに、剣なんて必要ないんだ」
 腰に差した大型の短剣を抜き、逆手に構えて奈子は言う。
 事実、奈子はいま、短剣以外の武器を持っていなかった。
 無銘の剣は、持ってきていなかった。
 フェイリアに預けてある。
『もしもアタシが死んだら、フェイリアにあげる』
 そう言って。
 今回は、無銘の剣を使いたくはなかった。
 これは、奈子自身の戦いだった。
 あの、王国時代最強の武器には頼りたくない。
 人を殺すのは剣ではなく、自分自身の手でなければならなかった。
 人を殺すことの重みは、自分の手で受けとめなければならなかった。
 そんな事情を知らないオルウヌは、侮辱されたと思ったのだろう。
 顔に、怒りの色が浮かんだ。



 もう、満身創痍といってもいい。
 倒した敵の数に比例するように、ダルジィの傷も増えていた。
 そして、それに反比例するかのように…。
 彼女に続く味方は減っている。
 最初は、三十人以上いたはずだ。
 それがいまや、片手で数えられるほどでしかない。
 だが、目的地はもうすぐのはずだった。


 不意に、総毛立つほどの殺気を感じた。
 その正体がなんであるかを気にするより先に、ダルジィは床に伏せる。
 たなびく髪をかすめて、赤い、灼熱の光線が通路を貫いた。
 瞬時に、周囲の空気が肺を焼くほどに熱くなる。
 直撃を受けた石の壁は蒸発し、その周辺部が赤熱して熔けていた。
 凄まじい高熱だ。
 悲鳴も上がらなかった。
 かわせたのは、ダルジィだけだった。
 空気が熱せられ、廊下に陽炎が立っている。
 揺らめく空気の向こうに、人影が見えた。
 ダルジィの記憶を刺激する姿。
「お前は…」
 ダルジィは立ち上がる。
 それほど、特徴のある外見ではなかった。
 中肉中背、ありふれた体格。
 特徴的なのは、その赤い髪と、子供っぽい笑みを浮かべた顔。
 ダルジィも以前、ほんの一瞬だがその姿を目にしていた。
 アルワライェ・ヌィ。
 半年以上前、結界の張られたマイカラス王宮の地下に忍び込み、王国時代の貴重な書物を盗み出した人物。
 その際にファージに怪我を負わせ、竜騎士レイナ・ディの墓所では、奈子と戦っている。
 しかし、その正体は不明。
 こんなところで会うとは、まったく予想もしない相手だった。
 サラートの人間だったのだろうか。
 そうとは考えにくい。
『…サラートには、どこかもっと大きな国の後ろ盾があるということですな』
 王宮での会議のときの、ニウムの言葉を思い出した。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 とにかく、ひとつだけはっきりしていることがある。
 この男は、マイカラス王国の敵だ。
 いまのダルジィには、それで充分だった。
 すかさず斬りかかる。
 しかしその剣が身体を薙ぐより先に、アルワライェの身体は空気に溶けこむように消えた。
 そして、ほんの数歩分ほど離れた場所に現れる。
 アルワライェが得意とする、極短距離の転移だ。
 普通の魔術師には、こんな真似はできない。
 転移魔法は長距離の移動に用いられるものであり、こんな距離では正確に制御しきれないはずなのだ。
 ダルジィは、アルワライェのこの能力については知っていた。
 だから特に驚きもせず、すぐに転移後のアルワライェを狙う。
 数歩の距離など、瞬きひとつ分の時間もかからない。
 しかしまた、アルワライェは転移でダルジィの剣をかわす。
 何度も、同じことを繰り返した。
 どれほどの鋭い打ち込みでも、アルワライェの方が一瞬だけ早い。
 ダルジィの剣はかすりもしない。
 まるでダルジィをからかっているようなものだ。
「貴様…」
 さすがに息が上がった様子で、ダルジィは目の前の敵を睨みつける。
「なかなかの腕だけど、僕を倒すにはちょっと未熟かな」
 アルワライェはからかうように言うと、片手を上げる。
 その手の中に赤い光が生まれ、それは長く伸びて剣の形になった。
「では、今度はこちらの番ということで」
 そう言うなり、アルワライェが斬りかかってくる。
 速い。
 立て続けの打ち込みを、ダルジィですら完全には受けきれなかった。
 剣の動きが、目で追いきれない。
 急所を守るのが精一杯だ。
 腕や、肩から、鮮血が飛び散る。
 ダルジィは後ろへ飛んだ。
 下がった分だけ、アルワライェが前へ出てくる。
 そこを狙って、剣を振り下ろす。
 切ったのは、残像に過ぎなかった。
 背後に気配が現れる。
 やられる…、そう、直感した。
 しかし、死を覚悟したダルジィの耳に飛び込んできたのは、くぐもった、男のうめき声だった。
 はっと振り返る。
 はたして、アルワライェはすぐ後ろにいた。
 ダルジィの命を奪うはずだった剣を手に。
 しかし…
 彼の腹から、槍の穂先が突き出ていた。
 青白い、魔法の光でできた槍。
 アルワライェを貫いていた魔法の槍がすぅっと消えると、傷口から血が噴き出す。
「…また、貴様かっ!」
 怨みのこもった目つきでアルワライェがつぶやく。
 その目はダルジィを見ていない。
 ダルジィには、なにが起こったのかわからなかった。
 わからないが、自分がしなければならないことは理解している。
 ダルジィの剣が、目の前の男を貫こうとする。
 その剣先が心臓に達する一瞬前に、アルワライェの身体は消えていた。
 今度は、どこにも現れる気配はない。
 どうやら、本当に逃走したらしい。
 ダルジィは、茫然とした様子でその場に立っていた。
 いったい、なにがあったのだろう。
 アルワライェに深手を負わせたのは…。
 その答えには気付いていた。
 ある程度以上強力な魔法には、術者固有の波動がある。
 ダルジィも以前、感じたことのある波動だ。
 そもそも、アルワライェを傷つけることなど、そう誰にでもできることではない。
 ダルジィは視界のすみに、鮮やかな金色の髪を見たような気がした。



 相打ち、だった。
 心臓を狙った剣はぎりぎりでかわした。
 剣は、奈子の左肩を貫く。
 それでも奈子の拳は勢いを失うことなく、オルウヌの顔面、鼻と口の間の――人中と呼ばれる顔面の急所を捉えていた。
 衝、と呼ばれる極闘流の突きは、表面的な破壊力ではなく、内部への衝撃の浸透に主眼を置いている。
 正中線を狙って打てば、打撃のエネルギーは脊髄を突き抜け、全身を一時的に麻痺させる。
 オルウヌの身体は、糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。
 奈子は大きく…肺の中の空気をすべて吐き出す。
 二、三度、深呼吸を繰り返した。
 肩の傷からの出血がひどい。
 他にも出血している傷はいくつもある。
 早く終わらせて、手当をしなければならない。
 奈子は、床に落ちている短剣を拾い上げた。
 それを握って、倒れているオルウヌに近づく。
 完全に意識を失っている。
 いまなら…
 短剣を握る手に力を込める。
 その手が、小刻みに震えていた。
 じっと、床に倒れている男を見つめる。
 心を決めて、すぅっと息を吸い込み、しばらくの沈黙のあとそれを吐き出す。
 何度も、繰り返す。
 それでも、できなかった。
 この男に恨みがあるわけではない。
 この男が憎いわけではない。
 だから、殺せない。
 オルウヌが死ねば、さすがにサラートはマイカラスへの侵攻計画を見直すだろう。
 奈子にできる範囲では、マイカラスを救ういちばん確実な方法だった。
 しかも犠牲者は、たった一人だ。
(マイカラスのため、ハルティ様やアイミィのため…)
 なのに、
 ただ、短剣を持った手を振り下ろす…それだけのことができなかった。
 奈子は、自分の手を見る。
 血で、汚れている。
 自分の血、そして倒した相手の血。
 それが混じっている。
 血塗れの手…。
 突然、吐き気がこみ上げてきた。
 手で口を押さえても、胃の内容物の逆流を止められない。
 よみがえる記憶。
 忘れてしまいたい、しかし、決して忘れることのできない記憶。
 傷が痛い。
 もう、とっくに治ったはずの。
 わずかな傷跡が残っているだけの。
 胸の傷が痛んだ。
 血塗れのつぶれた顔。
 床に広がる血だまり。
 人の命を奪った自分の手。
 決して消すことのできないイメージが、次々と浮かんでくる。
「できない…アタシには、できないよ…」
 胸を押さえながら、奈子は嘔吐していた。
 胃の中が空っぽになっても、胃液の逆流は止まなかった。


 扉が開いた。
 奈子は反射的にそちらを向く。
 反射的に、戦いの態勢をとっていた。
 しかし、そこに立っていたのは敵ではない。
 全身傷だらけで、血塗れの剣を手にした女騎士。
 乱れた長い銀髪も、血で汚れていた。
 顔には、驚きの表情が張り付いている。
 もっとも、それは奈子も同じことだったろう。
 それでも多分、奈子の方が先に我に返ったはずだ。
 ダルジィがここにいることは知っていたのだから。
 それでも、やはり驚きだった。
 これだけの傷を負いながら、たった一人でついにここまでたどり着いたのだ。
 フェイリアは、勝算は一割もないと言っていたのに。
「…なぜ、お前がここにいる?」
 ようやく、目の前の人物が幻でもなんでもないと確認したのか、ダルジィがゆっくりと部屋に入ってきた。
 歩いたあとに、血の痕が残る。
 部屋の中をゆっくりと見回し、倒れている人物を確かめる。
「先を越されたか…。なぜとどめを刺さん? 貴様の、手柄だ」
 奈子はそれには答えない。
 答えられない。
 黙って、うつむいている。
 ダルジィは奈子を睨みつけた。
 短剣を握って、震えている手。
 床を汚している吐瀉物。
 そういったものに気付く。
「…できないのか。そうだろうな」
 ほんの少し軽蔑したような、しかし納得した口調で言う。
 ダルジィは剣を逆手に握り直した。
 奈子がなんの反応もできないうちに、その剣が倒れているオルウヌの頭を貫く。
「…!」
 奈子は小さく息をのんだ。
 ダルジィを見つめる。
「私はマイカラスの騎士だ」
 まったく表情も変えずに、ダルジィは言った。
「国と、陛下を守るためならどんなことだってできる。そのためにここまで来た。そのために、私はここにいるんだ」
 ダルジィはまっすぐに奈子を見て言った。
 深い色の瞳をしていた。
 殺気など、まるで感じられない。
 深い、深い、想いを秘めた瞳。
(この人…)
 奈子ははっと気付いた。
 ダルジィがどうして、これだけのことができたのか。
 どうして、奈子を目の敵にしていたのか。
(この人、ハルティ様のことが好きなんだ…)
 考えてみれば、当たり前のことだ。
 ハルティはマイカラスの国王であり、強く、そして容姿も優れている。
 マイカラスの若い娘なら誰だって、彼に惹かれるだろう。
 そしてダルジィはマイカラスの名家の長女で、超一流の騎士で、しかも美人だった。
 千五百年前、大陸南部の小部族の長だったエストーラ・ファ・ティルザーは、黄金竜の騎士エモン・レーナと出会い、共に戦ってトリニア王国を築き上げた。
 以来、美しさだけではなく強さを兼ね備えた女性が尊ばれるのが、トリニアの時代からの伝統だった。
 トリニアの文化を色濃く残しているマイカラスでは、特にその傾向が強い。
 それを考えれば…。
 ダルジィは、ハルティの妃候補の筆頭だったのではないだろうか。
 おそらく本人も、そう意識していたことだろう。
(…これから、ハルティ様に会いにくくなっちゃったな…)
 ダルジィの想いを知ってしまったから。
 強く、そして真剣な想いを。
 だからなにも言えずに、奈子は黙って立っていた。



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