序章 北都の女王〜王国時代末期〜


 その少女の顔立ちは、母親によく似ていた。
 だから紹介されなくとも、一目見た時からその子が何者であるかはわかっていた。考えるまでもないことだ。
 まだ十歳を少し過ぎたくらいの年齢のはずだったが、落ち着いた物腰のためか、もっと年長に見える。黒く澄んだ大きな瞳からは、知性の高さがうかがえた。
 外見で母親と大きく違うのは、腰まで伸ばした長い黒髪で、これは父親ゆずりだろう。その髪故に、その少女は実の母親よりも、むしろ彼女に似ていた。
 隣に立つ女性――フェイシア・ルゥ・ティーナに促され、少女は彼女の前へと進んでくる。ほんの少し気圧されたような表情を見せたが、しかしその態度は、年齢を考えれば実に堂々としていた。
 母親の教育の賜物か、それともフェイシア・ルゥによるものだろうか。いずれにしても、並の子供ではなさそうだ。近隣諸国から怖れられる、この北の邦アンシャスの女王レイナ・ディ・デューンの前に出れば、大の大人だって萎縮して縮こまってしまうというのに。
 前へ進んできた少女は、立ち止まると真っ直ぐにレイナを見た。二人の視線が正面からぶつかる。一呼吸分の間をおいて、少女は意を決したように口を開いた。
「初めまして、叔母様。レイナ・ヴィ・ラーナ・モリトです。まだ未熟者ですが、よろしくご指導をお願いします」



 今でも思い出すことができる。
 彼女の剣が、ユウナ・ヴィ・ラーナの身体を貫いた時のことを。
 その剣は、硬い竜の鱗ですら易々と切り裂くことができる。人間の身体くらい、なんの抵抗もなく両断できるはずなのに。
 その時の手応えは、今でも手に残っていた。
 対するユウナの剣は、彼女の首に触れたところで止まっていた。ユウナ自身がそこで刃を止めたのだ。でなければ、竜の角から削り出したといわれるその魔剣は、一瞬早くレイナの命を奪っていたことだろう。
 譲られた勝利。彼女の人生の中で、ただ一度きりの。
 ユウナ・ヴィ・ラーナは静かに微笑んで、優しい瞳で彼女を見つめていた。



「どういうつもりだ? フェイシア・ルゥ・ティーナ!」
 侍女を呼んで、ユウナ・ヴィの娘レイナ・ヴィ・ラーナを下がらせた後で、レイナは一人残ったフェイシアを怒鳴りつけた。
「どういう、って?」
 静かな口調で訊き返す。美しい銀髪を長く伸ばしたこの魔術師は、レイナの前に出ても少しも臆したところがない。彼女をフルネームで呼ぶのは、本気で怒っている時だということを知っていても。
「何故、あれをここに連れてきた?」
「当然ではなくて? あの子にとって、あなたは大切な叔母ですもの。あなたにとっては姪、そしてたった一人の肉親。紹介するのが当たり前でしょう」
 微笑みすら浮かべて語るフェイシアを、レイナは黙って睨みつけている。
「できれば、ここで育ててもらいたいわね。今ではこの国が、大陸中で一番安全な場所でしょうから」
「お前の側にいれば、危険などあるまい」
 レイナは忌々しげにつぶやく。
「でも私では、竜騎士の教育はできないわ。トリニアのラーナ・モリトの血と、レイモスのダーシアの血。トリニアの王家が滅びた今、大陸に残る最高の竜騎士の血筋よ。もったいないじゃない」
「だからって!」
「大戦を生き延びた竜騎士は少ない。あなたは間違いなく、現在の大陸で最強の竜騎士よ」
 フェイシアはそこまで言うと、何か思いついたかのように小さく笑った。
「…いいえ、大戦前から最強だったわね」
「…今さら、竜騎士の力などなんの役に立つ? 大陸が滅びた後で」
「わからない。だから、血を残すのよ。絶えた血筋を甦らせることはできない。それが不要とわかるまでは、残す努力をするべきだと思わない?」
「私は竜騎士の力も、魔法も、この世界には不要だと思っている。今さら、新たな竜騎士を育てる気もない」
「でも、あなたの姪よ」
 なにげないその一言が、レイナの心には重くのしかかった。しばらく黙ったままフェイシアを睨みつける。そして、
「私は、あれの母親を殺したんだぞ!」
 一語一語、区切るように、強い口調で言った。
「知らなかったのでしょう?」
「いいや、知っていた。信じてはいなかったがな。実の姉と知りながら、この手でユウナ・ヴィを殺したんだ」
 当時からその事実を知っていたフェイシアは、今さら表情も変えなかった。
「信じていなかったのなら、知らなかったも同じよ」
 あっさりと応える。
「…あの子は知っているのか?」
「いいえ、今はまだ。急いで知らせることでもないわ」
「いずれは、知ることになる」
「その時のことを怖れているの? あの子が復讐に来るかもしれない、と」
「まさか」
 レイナは鼻で笑った。
「あのチビが私と戦えるようになるまで、何年かかる? 私は、それまで生きてはいないだろうな」
「誰が、あなたを殺せるって?」
 今度はフェイシアが笑う番だった。
 レイナ・ディ・デューンは、紛れもなく大陸最強の竜騎士だ。いったい誰が、彼女を倒せるというのだろう。
「同じ竜騎士…墓守を名乗る連中さ。竜騎士の力を否定しながら、奴らは、力を捨てようとはしない。馬鹿な連中だ」



(ここは、どこだろう?)
(アタシは…誰?)
(アタシは…アタシは…奈子。松宮奈子)
(ここは…アタシの家?)
(いいや、違う。ここはソレアさんの家だ)
(そう、アタシは昨日から、ソレアさんの家に泊まっていたんだっけ)
 目を開けて、しばらくぼんやりとしていた奈子は、ゆっくりと考えてから身体を起こした。
「ヘンな夢を見たな…」
 頭を振りながら、小さくつぶやく。
 レイナ・ディ・デューンとユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトが実の姉妹だって?
 そんな馬鹿な。
 確かに二人とも、同じ時代の人間ではある。今から約千年前…王国時代末期を代表する竜騎士だ。
 しかしレイナ・ディ・デューンはストレイン帝国の竜騎士。そしてユウナ・ヴィ・ラーナは敵対するトリニア王国の竜騎士ではないか。
 それが、姉妹?
二人ともそれぞれの国で、その力を高く評価されていた騎士だった。
 二人が初めて出会った戦場で、レイナはユウナの婚約者であったレイモス王国の王子を殺し、彼女自身にも深手を負わせた。その後も二人は、トリニアとストレインの最終戦争において、好敵手として何度も死闘を繰り広げていたはず。
 そして最後には…レイナが自らの剣で、ユウナを殺した。
(姉妹…? あの二人が…)
 そんな話、聞いたことがない。奈子が読んだことのある王国時代の歴史書には、書いていなかった。
 しかし、これまでの経験でよくわかっていた。現存する書物が、必ずしも歴史の真実を記しているわけではないということを。
 奈子は本能的に、この信じがたい話が真実であると悟っていた。
 それとは別にもうひとつ、気付いたことがある。
 夢の中でレイナと話していた銀髪の女性。フェイシア・ルゥと呼ばれていた。
 奈子の知り合いの、フェイリア・ルゥ・ティーナとよく似ていた。
 そういえばフェイリアと初めて出会った時に、話したことがある。
『フェイリア・ルゥ、フェイシア・ルゥ…一字違いだよね。ひょっとして、ご先祖様とか?』
『そうらしいわ。詳しい家系は知らないけれど』
 フェイシア・ルゥ・ティーナといえば、あの時代の高名な魔術師だったはず。ユウナ・ヴィ・ラーナとは親しく付き合っていたという。
(フェイリアなら、何か知っているかな…?)
 ベッドから降りた奈子は、頭を強く振って夢の残滓を振り払った。
 あまりにも、現実感のありすぎる夢だった。
 レイナ・ディの夢は、以前にも何度か見たことがある。その時と同じだ。
 夢があまりにもリアルな時、目覚めてしばらくの間、身体と精神とで『現実』の認識にずれが生じて、混乱してしまうことがある。
 現実感のありすぎる夢は、時として危険を伴う。どこまでが現実で、どこからが夢なのかを見失ってしまうから。
(リアルすぎる夢は…それを見ている間は、現実なんだ)
 目に見えるもの、手に触れるもの。
 それを人は『現実』と呼ぶ。
 しかし、それらはすべて脳が認識したものでしかない。
 人間の脳に、神経からもたらされるのとまったく同じ電気パルスをなんらかの手段で送り込んだとしたら、人はそれを現実と認識するだろう。人間には、その人為的な信号を真の『現実』と区別する術はない。
 人間にとって、いや、高度な神経系を持つすべての生物にとって、現実とは脳による認識でしかないのだ。
 見えるもの、聞こえるもの、手に触れるもの。それが本当にそこに存在するのか、それとも脳が造り出した幻影に過ぎないのか、確かめることはできない。
 存在とは、知覚されること。
 チェスの駒だ。すべては、赤の王の夢でしかない。
(奈子、あんたにとっての現実とは何?)
 自分に問いかけてみた。
「わかりきったことを」
 微かな笑みを浮かべる。カーテンを少し開けて、隙間から外を見た。今日はいい天気だ。昨夜の雨はいつの間にか上がって、庭の樹の葉がきらきらと光っている。
 奈子はカーテンを閉めると、傍の椅子の背に掛けておいた服を手に取った。
「由維と、そして、あの子のために闘うこと。誰がなんと言おうと、これだけはアタシにとって現実さ」



 ソレアはいつも早起きで、奈子が一階に下りると既に、朝食の仕度をしていた。奈子はこれでも、普段よりは少し早めに起きたのだが。
「おはよう。今朝は早いのね」
「…ちょっと、ね。変な夢を見て、目が覚めちゃった」
「夢?」
「うん…」
 後に続く言葉を濁して、奈子は食卓に着いた。そのまま朝食を食べ始め、思い出したように口を開いたのは、もう食事を終えようとしている頃だった。
「ね、ソレアさん?」
「なぁに?」
「レイナ・ディとユウナ・ヴィが姉妹だったって…、ホント?」
 そう訊くと、ソレアは不思議そうな表情で奈子の顔を見つめた。二、三度、ぱちぱちと瞬きをして。
「…ええ、そうよ。一般に知られた話ではないけれど」
 そう言ってから説明を始める。
 トリニア王国の全盛期、トリニアの青竜の騎士は最強の存在だった。
 当時、竜騎士の強さを計る物差しは『血統』だった。竜騎士という存在は、ストレイン王国で最初に誕生したといわれているが、トリニアの竜騎士はストレインの竜騎士よりも、より『純粋』で『優れた』血筋であると考えられていた。事実、一騎打ちではトリニアの竜騎士が勝利する例が多かったのだ。
 トリニアの竜騎士の方が優れた血を持っている以上、このままではストレインはトリニアには勝てない――後ストレイン帝国の時代、そう考えた者が存在した。
「まさか…」
「そう。そこでトリニアの優れた竜騎士の家から、幼い子供を攫っていったの。その子の名はレイナ。ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの双子の妹よ」
 では、やはりあの夢は事実だったのだ。
「レイナ・ヴィ・ラーナ・モリトというのは?」
 奈子はさらに訊く。ソレアはもちろん、その答えを知っていた。
「……ユウナ・ヴィ・ラーナの一人娘。彼女の婚約者だった、レイモスの王子リュー・ティア・ダーシアとの間に生まれた…ね。二人が結婚する前に、リューはレイナ・ディによって殺されたのだけれど、ユウナ・ヴィはその時すでに身籠もっていたのよ」
「ユウナの婚約者…リュー・ティアは、黒髪だった?」
「ええ。肖像画では、長い黒髪の美男子よ。当時、若い竜騎士の中ではトップクラスの力の持ち主といわれていた」
「…そう」
 朝食を終えて立ち上がると、奈子は何か考え込むようにしながら自室に戻った。
 ソレアはどこか暗い、思い詰めたような表情でその背中を見送っている
「…あまり、いい傾向とは言えないわね。剣は手放したのに、影響が強すぎるわ。…何故?」
 扉を閉めて奈子の姿が見えなくなると、小さな…本当に小さな声でつぶやいた。



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